夕やけニャンニャン

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夕やけニャンニャン
ジャンル バラエティ
放送時間 月曜日 - 金曜日17時~18時(60分)
放送期間 1985年4月1日~1987年8月31日
放送国 日本の旗 日本
制作局 フジテレビ
企画 秋元康
演出 港浩一笠井一二
プロデューサー 石田弘
出演者 おニャン子クラブ
片岡鶴太郎
松本小雪
吉田照美
とんねるず
田代まさし
逸見政孝
伊藤政則
ちびっこギャング
所ジョージ
桑野信義
三宅裕司
上柳昌彦
浜村淳
ABブラザーズ
シブがき隊
大竹まこと
ウッチャンナンチャン
稲川淳二
松本伊代
ほか
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夕やけニャンニャン』(ゆうやけニャンニャン)は、フジテレビ系列で放送していたバラエティ番組である。通称は『夕ニャン』。

目次

[編集] 番組概要

1985年4月1日から1987年8月31日の平日17:00~17:55(末期は~18:00。最終回は16:00からの2時間スペシャル)に放送された。当初の司会進行役は片岡鶴太郎松本小雪だった。

元々は、女子大生をメインとした深夜番組オールナイトフジ』の延長線上で企画・放送された「オールナイトフジ女子高生スペシャル」から派生したもの。 「女子高生スペシャル」は関東ローカルで2回放送され(土曜午後4時から90分の単発枠)、2回目を放送する時点では「夕やけニャンニャン」スタートを前提においた「初期おニャン子決定」という意図も持たせていた。

番組名は当初『夕暮れニャンニャン』を予定していたが、当時「夕暮れ族」が問題になっており、それでは危なすぎるということで『夕やけニャンニャン』になったが、当時のスタッフは「『夕やけロンちゃん』(TBS)みたいだが、ま、いいか」ということで『夕やけニャンニャン』に落ち着いたという[1]

[編集] 放送時間帯についての考察

平日夕方の若者向けワイド番組は、『夕ニャン』以前にもTBSが『ぎんざNOW!』『アップルシティ500』、テレビ東京が『ヤングTOUCH』、中部日本放送(CBC)が『ぱろぱろエブリデイ』を手掛けており、先駆けとは言いがたい。また少々毛色は異とするが日本テレビでも『タウン5』という情報生番組を放送していた時期がある。

[編集] 視聴率について

番組の全盛期は1985年夏から1986年初頭にかけてで、この時期の視聴率は平日夕方5時台の視聴率としては異例とも言える13%前後で推移した。

[編集] おニャン子クラブについて

当番組の『アイドルを探せ』というコーナー名のオーディションに合格した女子高校生など(後述)はおニャン子クラブとしてデビュー。会員番号12番以降のおニャン子クラブメンバーはこのオーディションの通過者である。うしろゆびさされ組ニャンギラスうしろ髪ひかれ隊などの個別ユニットや、各個人としてもレコードを出してオリコンウィークリーランキングの上位常連となり、新田恵利国生さゆり城之内早苗渡辺美奈代渡辺満里奈工藤静香生稲晃子などのメンバーは、現在も芸能界で活躍している。

[編集] 『アイドルを探せ』

毎週5人出場して5日間を通してオーディションを実施し、会場の審査員の最終審査=金曜日に100点以上を獲得した出場者が合格し、おニャン子クラブの一員となる。この時にくす玉が割られ紙吹雪風船が舞い「アイドル誕生!!」と書かれた垂れ幕で祝福を受ける。

[編集] レギュラー出演者について

レギュラー出演者であったとんねるず田代まさしデーモン小暮閣下逸見政孝らをスターダムに押し上げた。また進行役には吉田照美文化放送をフリーになったばかり)、上柳昌彦ニッポン放送アナウンサー)のラジオ畑の出演者が起用された。特に吉田は、ひたすら軌道を逸らそうとする田代やとんねるずを無視して淡々と進行を勤め、番組のまとまりを維持するのに腐心していた。

[編集] 片岡鶴太郎vsダンプ松本

番組初期のエピソードとして、初代メイン司会の片岡鶴太郎が当時全日本女子プロレス所属レスラーだったダンプ松本に相当いじめられていた時期がある。
その当時のある日、本番中に「電話が入っている」とスタッフから告げられ、鶴太郎はスタッフに対し「電話がダンプからのものではない」ことを何度も念を押して確認し、その上で電話を取ったところ、電話の相手はダンプ本人であった(鶴太郎のみならず、とんねるずも多少調子付いてダンプを挑発する言動をとっていた)。
その際、電話口でダンプが威圧や挑発の言葉を並べたやりとりの後、「そっちにこれから行くぞ!!」と凄んだことに対し、鶴太郎は「お前なんか来なくていいんだよ、このバーカ!!」と発言したところ、実はスタジオ内のセット裏から電話していたダンプ本人がブル中野と共にチェーンを振り回しセットをけり倒しながら登場。
ダンプらがスタジオにいることを一切知らされていなかった鶴太郎はその直後、生放送中ということを一瞬忘れたかのように「ダッ、ダンプさん!!すいません」と大泣きしながらスタジオ中を逃げ回ったという、笑うに笑えない場面があった。この「ハプニング」の際、スタジオに居合わせたおニャン子はほとんどが号泣し、身を寄せ合って怯えていたほか、一部観客にも泣き出す者や怯えるものもいたとされる。

ちなみにこの一件に関連しては、当時鶴太郎がレギュラー出演していたオールナイトフジでも同様のハプニングが起きていた。どちらについても、ダンプに対して過剰に怖がっていた鶴太郎に対して番組スタッフとダンプらが仕組んだ、いわゆる「ドッキリ」的な要素も併せ持っていた。ダンプも鶴太郎を本気で嫌っていたわけではなかったことから、この騒動が落ち着いた後の関係は良好であったとされる。

[編集] 主なコーナー・企画

ザ・スカウト アイドルを探せ(毎日)
次期おニャン子を発掘するコーナーで毎週5人ずつ公募の(自・他薦問わず)素人高校生がオーディションを行なう。週代わりで5日間連続で出場し、歌・水着審査・かくし芸等を披露し、金曜日に得点制(合格基準点は100点以上)で合格者を決定する。(優勝者無しや複数合格も有り)進行役やとんねるずのノリ次第で合格させる様な風潮が多く見られ、山本スーザン久美子はその変わった名前からとんねるずがうまく乗せてしまい合格したという例もあった。
金曜日の総合審査の審査員は、田谷力三小池聡行保沢紀秋元康佐藤準らが担当した。
甲子園に行かなくても校歌が歌えるコーナー(月曜日)
いわゆる「学校自慢」、2チームによる対抗戦。同じ高校に通う3人組がチームとなり、自分の学校の自慢を互いに言い合い、判定の末勝った学校が校歌を歌える。火曜ワイドスペシャルでもSP版が放送された。尚、得点表示は「ザ・スカウト アイドルを探せ」の金曜日の総合審査で使われている表示器だった。とんねるずの帝京高校と逸見政孝の早稲田大学の対決では逸見が勝利した。
抱いておニャン子(月曜日)
「つるんでニャンニャン」→「とんでニャンニャン」→「ちびってニャンニャン」とコーナー名は変わった
公募の3~4人の男子が毎週1人のおニャン子を”花嫁抱っこ”を実現させる為にかくし芸やゲームを行ないアピールする。最後にそのおニャン子が「抱いて」といって1人を選ぶ。抱っこのシーンを写真に撮って貰える特典付き。
ツッチーホラーショー(月曜日)
「すみれSEPTEMBER LOVE」で知られる一風堂土屋昌巳が出演し、ホラー映画のワンシーンを見せ、次のシーンでどうなるか、というのが問題で、とんねるずや複数のおニャン子が回答する。
君の名は(火曜日)
毎回ゲストを呼び、この人は何をしていた人か?(あの子供は私、CMに出ていた、あの声の主は私など)をクイズ形式で当てていた。タイトルコールには同名のNHKラジオドラマの主題歌が使われ、実際に歌っていた織井茂子が声の主としてゲストに登場したこともあった。
ゴジテレビ(火曜日)
とんねるずが昔のアニメやドラマなどをモチーフとして、生でコントを見せるコーナー。この企画からとんねるずの方向性が垣間見え、その後の「とんねるずのみなさんのおかげです」へと派生していく。ちなみに、タイトルコールは当時、フジテレビの放送開始・終了時に流れていた「I・愛・eye」の曲の最後のサビの部分(フジテレビ)にあわせている。
ボブに挑戦・ニャンニャン腕相撲(水曜日)
水曜オープニングの“つかみ”コーナー。腕相撲が無類の強さだと自他共に認めるとんねるずのマネージャーボブ市川が、公募の挑戦者と腕相撲を行なう。確かにその強さは筋金入りであるが、たまに負けるとキャラクターを変更して「ボベ」「ボバ」「ボポ」等と改名をしてくる。石橋がマネージャー役でチャンピオンベルトを携え「ベルトが欲しかったらテキサスまで捕りに来い」が口癖。その後負けるたびに、「ボッボ」「ザブ」「ボボボ」「ボッキー」「busy★ウィッキー」「ラッキーチャ・チャ・チャ・ウ」「ロッキーバルボア」「ロッキー2」「ロッキー3」「ロッキー4」「ベティ」「スーパーベティJr」「スーパーベティJrスペシャル」などチャンピオンを入れ替え(素人を採用?同一人物が名前を変えただけの場合や、一週のみで敗退し降板する場合もあり)つつ、ほぼ番組黎明期から終焉期まで形態を変えずにコーナーを維持した。また勝者判定時の木梨の「ロッキーッ」などの一声で観客が意味も無く暴れ出すのも特徴だった。ちなみに水曜日に石橋が「ロッキーッ」のお約束をやって水曜担当ディレクターに窘められたこともあった。
(新)えばってんじゃねぇよ(水曜日)
おニャン子同士が各々石橋と木梨とを従え互いの悪口をフィリップで言い合うもの。
お習字の時間(水曜日)
墨汁で半紙に書いたネタを視聴者が投稿し、貼り出してとんねるずが採点していくコーナー。次第に、とんねるずのオールナイトニッポンのリスナーによるマニアックなネタが増えていった。その後、投稿ネタを写真に変更し、「石橋貴明の女は顔だ」と「木梨憲武のぶっこき写真」のコーナーに分割したが、短命に終わった。
私、里歌ちゃんコーナー(水曜日)
伊藤政則(ロック評論家。国内外の、主にヘヴィメタルロック解説の第一人者で外国アーティストからも”マサ・イトウ”の名で有名)が司会をする(アシスタントは福永恵規)、現役の東海大学生の立見里歌の頭の中身は如何程かという発想から始まった教養のコーナーで、毎週立見と、それに対抗する挑戦者のおニャン子が日替わりで、視聴者から出題される学校で学習する類の問題に答えるというコーナー。立見の珍回答に抱腹絶倒であった。ただし対抗するおニャン子の回答が立見のボケを上回る事もしばしばであった。ある意味クイズ!ヘキサゴンIIの前身とも言えるコーナー。
タイマンテレフォン(木曜日→火曜日へ移動)
番組の黎明期にスタートし、途中木曜日から火曜日へ移動しながらも比較的長く続いたコーナー。公募の視聴者ととんねるずが電話を使いお互いを罵った後、頭に来たとんねるずが電話を切ろうと受話器を電話本体の上に乗せ、切ろうと徐々にスライドする時に「切らないで切らないで」と相手が絶叫するのが見もの。特に男子中高生が石橋に激しく突っかかるシーンが多く見られた。小樽在住のヒサエちゃん(オバサン)が石橋とUFOに乗ったという事で話題になった。尚、ヒサエちゃんがファンである木梨に送った御土産を石橋がこっそり食べてしまったということもあった。ゲスト出演していた明石家さんまが飛び入りで出演した事があった。腹を立てたとんねるずが一般視聴者の住所を公開し、「こいつの家に嫌がらせをしろ!」と煽ることもあった。
笑ってたまるか一本勝負!(木曜日)
牛乳(番組内では「飲み物」と表現)を口に含んだ一般参加者を1対1で向かい合わせ、田代まさしが視聴者投稿による一言ギャグを読み、牛乳を吐き出した方が敗退というルールのコーナー。「おしっこだにょー」など、実にくだらないネタが多かった。また、段田男の兄弟姉等紹介ネタ(「ずんずずん」「ぎんぎぎん」「まんままん」等)もシリーズ化し、後の同氏のレギュラー化につながった。
ニャンニャンフォーカス(木曜日、一部金曜日にも)
視聴者からの投稿写真UFOの写真や心霊写真。そして有名人のショットが番組出演者やおニャン子メンバーに似ているといった事を指摘するコーナー。
オリコン速報(金曜日)
最新のオリコンベスト5をいち早く紹介。当初は当時ニッポン放送アナウンサーだった湯浅明(国際弁護士・湯浅卓の実兄)とおニャン子メンバーが担当していたが、末期はおニャン子メンバーだけでやっていた。おニャン子系の曲がランク入りするとお祝いもしていた。
おニャン子向上企画シリーズ(金曜日)
番組末期のコーナーでおニャン子の代表者達が料理やダンスなどに挑戦するコーナーであった。特に料理の回では大竹まことが美味しいチャーハンを調理して総合司会である田代まさし・松本伊代に絶賛されたが、一方おニャン子は不味いチャーハンを調理して田代・大竹を呆れさせてしまったのである。
今週の5秒(金曜日)
MCのおニャン子が放送終了前に一瞬芸を見せるコーナーである。
あ、不幸だな
視聴者が送ったはがきに書かれた不幸話を読み上げ、不幸かどうかを判定するコーナー。一時期田代まさしが読み上げ、おニャン子がそれを判定していた。
部分美人コンテスト
おにゃん子が原宿等に繰り出し、無作為に選んだ通行人に、おにゃん子の写真が書かれているボードから目、耳、鼻、口を組み合わせ、出来上がった写真を番組内で披露するもの。
うちの子に小切手
コーナー名は当時TBSで放映されていたドラマうちの子にかぎって…」の番組タイトルを文字ったもの。視聴者が送った葉書の入った箱から無造作にはがきを選び、それに書いてある電話番号を元に電話をかけ、電話越しで出された問題に答えるというもの。
6時のニュース告知(報道センターから)
当番組のすぐ後、6時からのニュースの予告。逸見政孝(当時フジテレビアナウンサー)がその日の司会者やMCのおニャン子と世間話めいた事を喋るが、その時に逸見が「私に手紙を下されば写真を差し上げますよ」と言った言葉に端を発して、ブロマイドの老舗「マルベル堂」から逸見のブロマイドが発行される事になり大変な人気になった。その後「マジメまして逸見です Majime it's Me」という逸見が上梓した本も発行された他、「眼鏡をはずした恋」でレコードデビューも果たした。後に逸見自身がフリーアナウンサーになるきっかけとなった。
なお、この当時の6時からのニュースは、ネット局内で番組タイトルの統一がされておらず、関東・静岡・愛媛・福岡・鹿児島では「スーパータイム」という番組タイトルであったが、東海や関西・長野などかなりの地域では別タイトル(元々のローカルニュースタイトルをそのまま使用する局が多かった)を使用していたため、「ニュースのお知らせ」もしくは「6時のニュース」という曖昧な表現をせざるを得なかった(関東では“ローカルスーパー”にて「このあと6時から スーパータイム」と5秒間表示していた)。

[編集] 番組をめぐるエピソード

  • おニャン子クラブの初期メンバーは『オールナイトフジ女子高生スペシャル』の出演者を中心に編成された。「高校生」と銘打っていたものの、実態としては元オールナイターズ立見里歌内海和子のような女子大生やタレント志望として既に芸能事務所に所属している者も多く含まれていた。
  • 番組放送開始からわずか2週間後に、一部のメンバーが週刊文春に喫煙現場を写された写真が掲載されるという不祥事が発生し、ここで写真に写っていた「喫煙組」は即時出演差し止めとなり降板させられた。これがいわゆる「週刊文春喫煙事件」である。
    • ただし、まだ番組はローカル枠でおニャン子クラブとそのメンバーもまだ知名度がほとんど無い段階であり、フジテレビ側の素早い対処もあって番組にとっては深傷にならずに済ませることができた。
    • この事件の後、番組における「喫煙組」メンバーの存在は、事実上「最初から番組にはいなかった」という絶対的なタブー扱いがなされ、これは番組終了とおニャン子クラブの解散まで番組内外や関連書籍でも厳しく徹底される事になった。
  • 番組が高い人気を得るにつれて、アイドル志望の素人の少女たちからは、憧れの芸能界へ、テレビの世界への最も近く速いステップとして認知される様になっていった。ゆえに芸能事務所に既に所属しているものから全くの素人まで、実に数多くの少女がオーディションである『アイドルを探せ』に参加し、このコーナーは番組絶頂期の一時はかなりの倍率を誇る狭き門となった。
    • 当時の少女達への影響力の証左としては、長嶋茂雄の長女も応募しようとしていた事からもわかる。(夫人からその話を聞いた長嶋が必死に止めたため、参加は実現しなかった。)
    • その一方で、「現役女子学生アイドルによる番組」という事を最大の売り要素とした為、おニャン子クラブのメンバーは高校や大学などの学業と芸能活動を両立させ続けることが番組の規定として契約内容に盛り込まれており、また義務づけられているという、それまでの他のオーディション番組とは一線を画する面も持ち合わせていた。この為、芸能活動が出来ない学校に通っていたメンバーや『アイドルを探せ』に挑戦していた者が、番組規定に反して通っていた学校を中退したことが明らかになったり、または中退せず学業に専念・芸能活動を断念するためと言う理由で、合格直後にメンバーを中途脱退したり、『アイドルを探せ』の挑戦権を喪失・辞退する事態が番組の放映期間中には何度も相次いだ。また、芸能タレントやそれに類する活動を禁止している学校に通学しながら、無断で芸能活動をしていたりオーディションに参加していた事がこの番組をきっかけに学校側に露呈し、退学・放校といった処分を受け、同様のケースに陥った者も少なからず存在する。特に『アイドルを探せ』コーナーにおいて時折見られた、「風邪のため辞退」と説明されたケースの多くはこれら状況のいずれかに該当しており、この言葉はいわば符牒として用いられていた。
  • 芸能人が「手の届かないスター」から「隣のお姉さん的アイドル」へとイメージを変貌してきた流れを作り出し、自らそのひとつの頂点を極めた番組という見方がある。毎日夕方フジテレビで生放送ということは、つまりその時間帯にフジテレビに行けば出演者に会えるわけで、いわゆる出待ちをするファンが当時フジテレビがあった新宿区河田町界隈に殺到するという現象が起きた。1985年初夏から秋にかけて、全国の男子高校生を中心に部活の退部が続出したという説もある(真偽は不明で、具体的数値等の正式調査はされてない、いわゆる「時事ネタ」的な話)。『テレビで「夕ニャン」を観たい、スタジオ観覧をしたい』と言った理由であり、一時的な社会現象として逸話を残している。
    • しかし、番組の人気が上がるにつれ、この「隣のお姉さん的アイドル」という路線と、その為に取った学業と芸能の両立という方針は弊害も生み出した。メンバーやオーディション参加者の在籍する学校では、熱狂的なアイドルマニアが不法侵入する、登下校中の姿(本来通っている高校の制服姿等)や体育科の授業時の盗撮行為が行われるなどといった騒動が発生した。
    • 教育関係者、PTAからの番組に対する批判や問題視も少なくなく、この番組が放映されていた時期、フジテレビの放映エリアである首都圏はもとより全国の数多くの中学校・高校(公立・私立を問わず)で、「芸能活動の禁止」「バラエティ番組への出演禁止」が校則に追加されることとなった。バラエティ番組出演のみならず、テレビ・ラジオそのものへの出演も全面的に禁止した所も少なくない。
    • このことは、番組後半になると番組の重要な要素であった新人発掘においても、『アイドルを探せ』コーナーへの参加希望者の質量面の確保などで様々な支障を来す一因になっていった。
    • この学校・校則の問題が壁になって落選・辞退を余儀なくされる事態は、後年のアイドルユニットにおけるオーディション形式でメンバーを選抜する企画においても度々見られており、これを放映するテレビ番組でも製作・編集で苦慮する事態が繰り返されている(有力候補扱いだったオーディション参加者について、ある放映回から突如として映像を徹底的にカットし、『最初から存在しない』という扱いにするなど)。また、現在では素人が出演するバラエティ番組やオーディション番組は、ほぼ全てが未成年者の出演に際して保護者の承諾の他にも、学校から退学などの処分にされても自己責任として、番組製作会社やテレビ局に対して一切不服を言わない旨の誓約書の提出を義務づけている。
  • 1970年代から続いてきた「毎年春に新人アイドル歌手がデビューし年末の各種音楽賞に向けて人気を競い合う」という芸能界の図式に、大きな変化をもたらしたきっかけという見方がある。「夕ニャン」出身アイドル(おニャン子クラブメンバー)は、それまでのアイドルのように芸能事務所レコード会社が主導でプロモーションを行うのではなく、「夕ニャン」という自身の番組とフジテレビの手によってプロモーションの大半を担う格好になっていた。そのためフジテレビ・夕ニャン・おニャン子クラブは三位一体の存在といえ、おニャン子メンバーも“フジテレビ系タレント”というイメージが根強く、他局が主催する音楽賞(ちなみに、FNS歌謡祭では異例の2年連続特別賞を受賞している)や音楽番組への出演が少ない(あるいは皆無)という状況が生じた。特にTBSの「ザ・ベストテン」との確執は有名。
  • その一方で、おニャン子クラブのメンバーがレコードデビューすると、番組内で「オリコンで初登場1位の大ヒット」という情報がしきりに喧伝され、番組内での大々的なプロモーションの他、フジテレビ関係の様々なコンテンツやイベントでも連動の販売促進活動が展開された。
    • この番組がランキングの基準としてオリコン提供のデータに依拠したことについては、当時のオリコン社長であった小池聰行が「夕ニャン」にレギュラー出演するなど、番組とオリコンの間に事実上のタイアップの関係があって諸データの提供を受けるなど密接な関係にあったことが背景となっている。また、フジテレビが自前の音楽ランキング番組を持っていなかったこと、当時ランキングの基準として音楽業界やレコード店に大きな影響力を持っていた「歌のトップテン」「ザ・ベストテン」は競合他局の番組であるため、そのデータを「夕ニャン」で取り扱うのはフジテレビにとって不都合甚だしかったなどの要因もある。また、初動売上に特化した強みを持っていたおニャン子クラブにとっては、CD売上の週間ランキングを基準に据えるオリコンのシステムの方が、CD・レコード売上にリスナーのリクエスト等を加味して総合順位として算出する歌番組のランキングよりも有利に働く要素が多く、結果的にも好都合なものであった。
  • また番組名に性行為を連想させる「ニャンニャン」という言葉が使用されている点や、おニャン子の楽曲の歌詞に「早く性行為を体験したい」という意味の一節がある点などを捉え、それまでの「アイドル=清純」「アイドル=処女」といったファンのイメージ(幻想)と、従来型のアイドルの販売戦略を決定的に破壊した番組という見方もある。
    • だが、上記のような状況が複合して生まれた為、「夕ニャン」とおニャン子の人気が沸騰して以降、旧来の清純派アイドル歌手(あるいはアイドル歌謡曲)の市場は急激に衰退し、バンドブームイカ天ブームなどに代表されるロックや、その後もトランスハウスや、J-POPと総称される楽曲群が順次台頭することになった。そのため、「夕ニャン」の番組戦略は1980年代のアイドル歌謡の黄金時代の終焉を招いた原因ともされる。おニャン子解散後にあった、工藤や南野が数えられた「アイドル四天王」の時代も長くは続かず、芸能界に残ったおニャン子の元メンバーの多くも芸能界でのポジションの再確立に大変な苦労をすることとなった。
    • おニャン子の仕掛け人であった秋元康自身も、「おニャン子を応援していたようなファンが反動で、強いメッセージのあるものを求めていた」と、夕ニャン・おニャン子の終焉と共にアイドル歌謡が衰退していった状況を後に回顧している[2]
  • 「夕ニャン」好評を受けて1986年5月から9月まで金曜日19:00からの姉妹番組『夕食ニャンニャン』も作られが、裏番組に当時かなり高い視聴率を誇る強力なコンテンツであった人気アニメ『ドラえもん』があったため短命に終わった。また、あくまでこれはローカルセールス扱いの番組で、とくに関西テレビでは同時間帯に「阪急ドラマ」を、テレビ新広島中国電力一社提供番組「クイズクロス5」を放送していたため、ほとんど放送されなかった。
  • バラエティ番組で当時のメンバーが語るには、「ギャラは1日5000円」(途中から10000円にアップ)だったとされる。事務所に所属していないメンバーはフジテレビから「日当」という形で毎日5000円が現物支給されていた。
  • 「おニャン子クラブ」としてアイドルを発掘する企画がメインという番組の性格上、歌のコーナーも比較的多く設けられていたが(1時間のうち平均3曲)、音楽番組としての扱いはされておらず、音声モードは最後までモノラル放送であった。このあたりの考え方は“親番組”であった「オールナイトフジ」と共通している[3]。「夕やけニャンニャン」終了からわずか約1年後に同じスタッフが中心となってスタートした、コントメインのバラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげです」はステレオ制作されていた。
  • 番組内のコーナー「夕ニャン大相撲」(生放送)において、裸体に自作の大リーグボール養成ギプスを装着して登場して来た男性出場者の装具が外れ、男性の全裸の股間が映し出されてしまうハプニングが発生した。本来、こういったケースに備えて危険と判断された場合、瞬時に「ちょっと待ってね」と書かれたフリップボードの映像に切り替えられるように準備されていたが、このケースでは措置が間に合わず放送事故になってしまった。
  • 「手のつけられない暴れん坊」というキャラクターで当初は番組内に君臨していた常滑川まことも、次第に番組でのスタンスが確立されていった。「夕ニャン」最終回ではMCの一人として参加。番組から旅立っていくおニャン子へ、中原中也の詩『別離』を、彼独自の渋みある低音の声で読み語り、餞の言葉とした。

[編集] 番組の終焉と番組枠のその後

番組、そしておニャン子クラブの終焉の兆しは、放送開始から2年を経た1987年4月頃から見られる様になった。

この時期、番組内容がマンネリ化の傾向を見せており、さらにはレコードセールスの失速や、上述した様な事情などからおニャン子クラブの新規メンバーの発掘も困難となり、『アイドルを探せ』も最後のメンバーとなった鈴木和佳子の合格後程なく終了となり、番組内容と番組を基盤としたタイアップ戦略や人材発掘もまた行き詰まりの様相を呈しつつあった。

最終的には、同年6月15日に番組終了とおニャン子クラブの解散が正式に予告発表され、番組は改編期でもない8月31日に最終回を放送して終了した。おニャン子クラブもまた9月20日国立代々木競技場第一体育館での大規模な解散コンサートを以て活動を終了した。番組の最終回の前日がこの番組も大々的に連動を行っていたフジサンケイグループ主催の大型イベントコミュニケーションカーニバル 夢工場'87」の最終日だったこと、更に最終回放送日は夏休み最終日でもあり、番組終了日についてはそれらに合わせた事は否定出来ない。また、番組末期に生放送の番組進行がいわゆるグダグダな状態に陥った時、とんねるずが「夢工場までは頑張るんだろ!」と叫ぶ一幕もあった。

最終回は、放送開始以来初の2時間スペシャルとして放送し、これまでの秘蔵VTRやレギュラー陣総出演で幕を下ろした。『ボブに挑戦』、『ニャンニャン腕相撲』、『笑ってたまるか一本勝負!』、『Let'sリンボー!』、『ゴジテレビ』などのコーナーが1日限定で復活したほか、おニャン子クラブ最終メンバーの卒業式も番組内で行われたが[4]、彼女たちが最後に歌った曲は定番の『じゃあね』ではなく、『瞳の扉』だった。[5]

その後のフジテレビ平日17時台はドラマ再放送枠や『桃色学園都市宣言!!』など二転三転した後、『夕ニャン』終了から1年半後の1989年4月にはプロデューサーの石田弘など主なスタッフがこの時間帯に再登板し、『夕ニャン』とおニャン子の再来を期してアイドルバラエティ番組『パラダイスGoGo!!』を放送し乙女塾を展開する。しかし時勢は“アイドル冬の時代”であり、『夕ニャン』ほどの視聴率や人気が確保できず11ヶ月で終了。その後のフジテレビ平日夕方5時枠はドラマ再放送枠やテレビアニメ枠となるなど10年近い間迷走続きだったが、2000年4月3日に平日は18時台のニュース番組『FNNスーパーニュース』を前倒しに枠拡大してからは安定した視聴率を獲得し、現在に至っている。

[編集] 出演者

[編集] 総合司会(全曜日担当)

期間 男性 女性
1985.4.1 1985.9.27 片岡鶴太郎 松本小雪
1985.9.30 1986.3.28 とんねるず
1986.3.31 1986.9.26 (不在)
1986.9.29 1987.2.27 (不在)
1987.3.2 1987.8.31 田代まさし 松本伊代

[編集] 特別司会(各曜日担当)

期間 月曜日 火曜日 水曜日 木曜日 金曜日
1985.4 1985.9 とんねるず (不在)
1985.10 1986.1 吉田照美 稲川淳二 吉田照美 田代まさし (不在)
1986.2 1986.3 田代まさし
1986.4 1986.9 上柳昌彦 吉田照美 田代まさし
1986.10 1987.2 吉田照美
とんねるず
田代まさし ちびっこギャング
1987.3 1987.8 桑野信義
所ジョージ
(不在) 大竹まこと

[編集] コーナー司会

[編集] レギュラー

ほか

補足
  • 逸見は『FNNスーパータイム』を兼務。
  • 露木・野間はそれぞれ逸見の代役で数回出演。
  • 総合司会者不在時代は特別司会者が兼任で担当。

[編集] 主題歌

※番組のオープニングとエンディングは、おニャン子(ソロ含む)が歌手デビュー以降シングルやアルバム曲などを各々一定期間直接歌うものになった。

[編集] スタッフ

※スタッフロールはオープニングで出演者、構成から衣装協力まで、エンディングでプロデューサー、ディレクター名と「制作著作:フジテレビ」に分かれて表記されていた。

[編集] ネットしていた局

※ネット局は番組開始当時7局(★印)、その後、徐々に放送開始する地方局が増え、最終的には23局ネットまでに拡大し、おニャン子クラブの人気上昇の掟を作った。だがオンエア当時、フジテレビテレビ朝日のクロスネットだった秋田テレビやフジテレビとTBSとのクロスネットだったテレビ山口やフジテレビ系単独系列局の石川テレビでは時差ネット(または番販購入)でアニメ番組を、フジテレビと日本テレビのクロスネットだったテレビ長崎では時差ネットで「森田一義アワー 笑っていいとも!」を、それぞれ放送していた関係で、最初から最後まで放送されることはなかった(番組を視聴する事自体は不可能だったわけではないが、県内一部地域で他県のネット局を越境受信する条件等が必要だった)。

[編集] 脚注

  1. ^ 「こニャン子クラブ編 あぶな~いおニャン子」 扶桑社 146項 ISBN 4-89353-097-6
  2. ^ オリコンウィーク「The Ichiban」1997 Vol.19号、P.23インタビューより。
  3. ^ 1993~94年にかけて放送された「殿様のフェロモン」も、「オールナイトフジ」をモチーフにした構成と同じ時間帯の放送でありながらステレオ放送で制作された。ただしこちらについては制作班が異なる(吉田正樹班が担当)等の事情もあり、番組に対する考え方についても違っていたためと考えられる。
  4. ^ 番組内でのおニャン子クラブの卒業式は最終回を含めて6回行われているが、このうち第1回(1986年3月31日)、第2回(1986年9月26日)、第5回(1987年3月30日)は放送当日にコンサート(第1回、第2回とも放送当日は日本武道館でのコンサートだった(ただし、中島美春と河合その子は翌日のコンサートを持って正式におニャン子クラブを卒業した)。第5回が放送されていた1987年3月30日は大阪城ホールから福岡国際センターへの移動日に充てられていた)が行われていたため、VTR収録によるものだった。生放送で卒業式が挙行されたのは第3回(1986年12月25日)、第4回(1987年3月20日)、第6回の3回のみである。
  5. ^ 『じゃあね』は『瞳の扉』のひとつ前で歌っている。前述の2曲以外で最終回でおニャン子クラブが歌った楽曲は、『セーラー服を脱がさないで』、『真赤な自転車』、『夏休みは終わらない』。なお、後藤次利が手がけたおニャン子クラブの楽曲(おニャン子クラブ以外の後藤が手がけた楽曲で最終回で披露されたのはとんねるずの『おらおら』のみ)およびラストシングルの『ウェディングドレス』は歌わなかった(作詞はすべて秋元康だが、『セーラー服を脱がさないで』の作曲は佐藤準、それ以外の作曲は高橋研。『ウェディングドレス』は、卒業式終盤の永田ルリ子による最後の挨拶時にインストゥルメンタルとして使われた)。
  6. ^ 系列局で唯一時刻表示を実施(当時は右上に表示されていた)

[編集] 関連項目・番組


フジテレビ 毎週月曜日金曜日 17:00 - 18:00 枠
(1985年4月1日~1987年8月31日)
前番組 番組名 次番組
17:00-今夜の番組から
17:05-翔んだパープリン(再)
【以上 月~木】
17:00-ふたり鷹(再)
17:30-森のトントたち
【金のみ】
夕やけニャンニャン
再放送枠【つなぎ番組
(1987年9月内)

桃色学園都市宣言!!
(1987年10月1日-1988年3月18日)
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