料理の鉄人

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料理の鉄人
ジャンル 料理番組 / バラエティ番組
放送国 日本の旗 日本
制作局 フジテレビ
企画 金光修(P兼務)、石原隆
演出 田中経一
プロデューサー 古賀憲一、松尾利彦
出演者 美食アカデミー主宰
鹿賀丈史(初代)
本木雅弘(1回のみ)
実況席
福井謙二(実況)
服部幸應(解説)
太田真一郎(冷蔵庫前レポート)
審査員
岸朝子 ほか
鉄人
当該項を参照
放送開始から1994年3月まで
放送時間 毎週日曜 22:30 - 23:00(30分)
放送期間 1993年10月10日 - 1994年3月27日
1994年4月から放送終了まで
放送時間 毎週金曜 23:00 - 23:45(45分)
放送期間 1994年4月8日 - 1999年9月24日

特記事項:
ATP賞グランプリ受賞(1995年
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料理の鉄人』(りょうりのてつじん)は、1993年10月10日から1999年9月24日までフジテレビで放送されていた料理をテーマとしたバラエティ番組。2012年10月よりタイトルを海外で使われている『Iron Chefアイアンシェフ)』に改め、13年ぶりにレギュラーで復活した[1]

番組概要[編集]

内容[編集]

料理講座ではなく料理人同士の対決を前面に打ち出したのが特徴。架空の団体「美食アカデミー」の主宰(鹿賀丈史、2002年の特番1回のみ本木雅弘)が美味しい料理を食べるため、美食アカデミー所属の料理人と挑戦者を対決させると言う設定で番組は構成されている。

対戦シナリオ[編集]

「鉄人」と呼ばれるレギュラー出演者のシェフ達と「挑戦者」として登場する毎回異なるゲストシェフが、特別キッチン・スタジオ内の器具や食材を使い調理した料理を、ゲストおよびレギュラーの審査員に試食して審査判定してもらい競う。撮影中、調理実況中継があり様々なコメントが流れる。なお、レギュラー・コメンテーターは、判定には加わらない。

  • 「挑戦者」は「鉄人」の中から一人を対戦相手に選んで挑戦する。
  • テーマ食材は、主宰がテーブルに掛けられた布を取り、食材がで上げられて登場、発表する。
  • その食材を使い、最もその魅力を引き出した料理を制限時間(通常は60分間)内に調理する。[2]
  • 主宰が「アレ・キュイジーヌ!」(フランス語Allez cuisine!=「行け!料理!」→「料理始め!」の意)」と、高らかに試合開始を宣言する。残り時間がアナウンスされ、すべての調理が、盛付けを含めて制限時間内に終わらせなければならない。
  • 助手が2人付く(助手は美食アカデミーから選ばれる)。
  • 食材は出汁またはスープ1点のみ持ち込める。調理器具(包丁・まな板等)や皿などは(番組初期を除き)原則として自由に持ち込み可。
    • 実際には自ら持ち込むのでなければ、テーマ食材の候補を見た上で「こういった材料を用意して欲しい」などといった食材に関するリクエストを事前に出すことが可能であり、番組側のフードコーディネーターはそのリクエストの食材の手配に追われたことが「料理の鉄人大全」に記載されている。

テーマ食材[編集]

審査基準となるテーマ食材は調理開始の直前まで秘密になっている。

  • 番組後期には事前にテーマ食材候補として5つの食材のリストが鉄人・挑戦者の双方に渡されるようになった。
  • テーマ食材は旬なものだけでなく、挑戦者に有利なもの(例:挑戦者が「和食」でテーマが「松茸」や「カツオ」)も多かった。これは挑戦者の良さを引き出すための演出とも考えられるし、場数を踏んでいる鉄人に対するハンディキャップとも取れたが、坂井宏行に対してタコ、ハモ、餅、うどん、中村孝明に対しダチョウ、子羊といった、いくら鉄人といえども無茶と思えるようなテーマ食材が出されたこともあった。これは道場六三郎がフォアグラ・チーズ対決で見事な勝利を飾ったためと見られるが、その度合いが行き過ぎた面もあった。
  • 食の禁忌」のある挑戦者に対しては、禁忌食材がテーマとなる事はない。精進料理を専門とする僧侶の挑戦者に対しては、とろろ芋ナスといった野菜類がテーマ食材となっていた。

審査[編集]

調理が終わると審査員(当初3人、1995年10月より4人)による採点が行われる。また、主宰の鹿賀は試食には参加するが、採点は行わない。

  • 試食の順番は、挑戦者が先、鉄人が後となる。このため「うどん」など、時間が経つと麺がのびる等の理由で鉄人が不利になるテーマ食材の場合は、鉄人は50分経過時点で一度調理を中断し、挑戦者の試食終了後に調理を再開するという手順が執られる。
  • 採点は20点満点で、どちらかに1点差以上をつけなければならず、点数の高い方に1票を投じる形となる。審査は票数優先で同票だった場合は合計点が高かったほうが勝者となる。
審査例1
出場者 審査員1 審査員2 審査員3 審査員4 合計 得票
挑戦者 19 19 19 20 77 1
鉄人 20 20 20 15 75 3
  • 審査例1の場合合計点では挑戦者77点、鉄人75点で挑戦者の方が多く点を獲得しているが、得票では挑戦者1票、鉄人3票となり票数優先のため鉄人の勝ちになる。
審査例2
出場者 審査員1 審査員2 審査員3 審査員4 合計 得票
挑戦者 18 19 19 20 76 2
鉄人 20 16 20 15 71 2
  • 審査例2の場合票数では鉄人、挑戦者共に2票だが合計点は挑戦者76点、鉄人71点で挑戦者の勝ちとなる。
  • 同点かつ同票だった場合は延長戦を行う(延長戦は審査員4人制開始に伴い導入。レギュラー放送のみ適用され、特番での引き分けは両者勝利となる。)。引き分け、再試合による延長戦は過去6回あり、延長戦での鉄人の成績は3勝2敗1分となっている。
  • 延長戦は新しいテーマ食材で行われる。最初の食材に関連があるものが選ばれることが多い(ジャガイモ→サツマイモ)。制限時間は30分。出演者には延長戦は嫌われており、鉄人の一人である陳建一は「もちろん勝つことが最高。その次は負けること。最悪は延長戦になること」と言ったことがある。
  • 延長戦でも決着がつかない場合、その試合は完全に引き分け、両者勝利となる。両者勝利は過去に2度(レギュラー放送と特番で各1回ずつ)あった。
  • なお、一度だけ鉄人(中村孝明)、挑戦者双方の料理の出来が悪く「評価に値せず。再試合」とされたことがあった。再試合(制限時間60分)では中村の勝利。

鉄人[編集]

主宰が立つステージの後方に、鉄人が登場する、迫の後方に鉄人の胸部の写真が飾られている。主宰の「甦るがいい、アイアンシェフ!!」の掛け声で迫から鉄人が登場するが、最初から戦う鉄人を決めている、挑戦者が菓子職人で対戦する鉄人が必然的に坂井になる場合は「一人だけ蘇るがいい、アイアンシェフ!!」の掛け声で、指定された鉄人のみ登場する。

フレンチの鉄人[編集]

初代:石鍋裕(いしなべ ゆたか)
出演期間…1993年10月-12月
対戦成績…8戦7勝1敗 連勝記録4 通算勝率87.5%(現役時代の勝率は80.0%)
西麻布「クイーンアリス迎賓館」オーナーシェフ。1970年代に日本におけるフランス料理界の発展を図ることを目的に当時の新進気鋭の料理人達の手で結成された「クラブ・デトラント」のメンバーである。番組では「フランス料理界のヴィスコンティ」と称されている。
コスチューム(コックコート)カラーは緑、登場時は手にパプリカを持つ。
記念すべき第1回の対決に登場した鉄人でもあるが、経営者としても多忙を極めていた(皇室御用達になった)ため出演の時間に事欠き、結局は「店の経営と両立出来ない」さらに「1回負けてしまった」という理由で、実戦わずか5回で引退した。対戦回数が少な過ぎるため、他の鉄人との単純な比較はできないが、通算勝率87.5%は鉄人中最高となっている(ただし引退後の1戦はチーム戦であり、しかも判定は同点であったが鹿賀の独断で勝利とされたもので、実質的な対戦成績は8戦6勝1敗1分、通算勝率は75.0%になる)。
引退後は番組初の「名誉鉄人」の座についた。選出当初から多忙であったため、一度は鉄人起用を断ったが、「3か月だけでも」という番組スタッフの説得に応じて鉄人として番組に出演し、本当に3か月でさっさと辞めてしまったというエピソードが残っている。引退後2度、挑戦者からの指名で復帰し、いずれも勝利している。
二代目: 坂井宏行(さかい ひろゆき)
出演期間…1994年2月-2001年1月
対戦成績…87戦70勝16敗1分 連勝記録9 勝率80.4%
渋谷「ラ・ロシェル」オーナーシェフ。石鍋とは旧知の間柄で、石鍋と同じく「クラブ・デトラント」のメンバー。番組では「フランス料理界のドラクロワ」と称されている。
コスチューム(コックコート)カラーは赤、登場時は手に洋梨を持つ。
鉄人デビューは1994年2月。KIHACHIの熊谷喜八シェフの推薦によって出演することになる。当初は4月で番組が終わると聞いていて、2~3回の出演だろうと思っていたという[3]。 後述の道場・陳とともに番組を長く支えた鉄人のひとりでもある。番組の全期間を通して安定した成績を残した。
テーマ食材にフランス料理によく使われるオマールがくると3連敗を喫したこともあったために、スタッフからは「負け犬オマール」や「そんなにオマールに弱いの?」と言われ悔しかった時期があったという。しかし、オマール以外の魚介類の対決では圧倒的な強さを見せ、「フィッシュ坂井」の異名もあった。
番組初期では「1時間という時間ではちゃんとした料理を作ろうとすれば3品が限界」と語り、3品しか作っていなかったが、後期では考え方を改め、4~5品作るようになっていった。
デザートによくテーマ食材に因んだシャーベットやアイスを作っていたが失敗する事の方が多かった。
番組出演中でも常に勉強の姿勢を忘れず、挑戦者サイドの試食後の皿を味見したり、相手方の助手に味付けを尋ねたりすることもあったという。[4]
石鍋の後任として鉄人に起用された坂井だが、年齢は前任の石鍋よりも6歳年上である。

中華の鉄人[編集]

陳建一(ちん けんいち)
出演期間…1993年10月-2002年1月
対戦成績…94戦68勝23敗3分 連勝記録17 勝率72.3%
赤坂四川飯店」総料理長。コスチュームカラーは黄色、登場時は手に中華包丁を持つ。
四川料理の神様・陳建民の息子である。
出演は、審査員も務めた岸朝子の推薦によるもの。番組開始時から最終回まで鉄人を務めた唯一の鉄人であり、全鉄人中最多出場回数を持つ。最終回では全鉄人を代表してスピーチを担当した。
最年少だった番組最初期は不安定で、番組で初めて黒星(対戦相手は程一彦)を喫したのを始め、負け数が他の鉄人よりもかなり多く、挑戦者間では「確実に勝つなら陳」とまで言われたこともあった(毎回鉄人が勝つのは面白くないという事で、負け役の鉄人としてあえて選ばれたとも言われている)。特に女性挑戦者に弱い傾向があり、挑戦当時22歳だった女性挑戦者の五十嵐美幸に対し、2対2のタイスコアに持ち込まれ、辛うじて得点差1点で勝利をあげたこともある(このとき、陳は「危ねえ、危ねえ」と薄氷の思いを連呼する一方で、挑戦者は「勝利にも等しい」と飛び上がって喜んでいた)。しかし経年の度に飛躍的に勝率を上げ、1996年には全鉄人中最長連勝記録の17連勝を記録するなど「強い鉄人」の象徴となった。
初期で弱かったのは、当時の彼の非常にやさしい性格と、テーマ食材が野菜の場合、無理やりデザートを作っていた点による(無理やりデザートを作るのは後述の中村孝明にもよく見られた)。初の女性挑戦者であった加賀田京子に負けたときも「かわいい人だなあ」と思いながら漫然と料理をしてしまった[5]。また、神田川俊郎戦では1日3本収録の最後というのもあり、審査員のことを考えてさっぱりしたお粥を作ったが、全体としては希薄な印象になってしまった[6]。だがデザートを作るのをやめるなど、研鑽を重ね、成績も向上した。
番組終了後、彼も相当疲れたらしく、回顧のインタビューでは番組への苦い思いを吐露したことがある。実際番組開始3年目の頃には、店が多忙なことに加え実母が亡くなったことなどから本気で番組を降板することを考えたというが、坂井の説得で思いとどまったという[7]

和の鉄人[編集]

初代:道場六三郎(みちば ろくさぶろう)
出演期間…1993年10月-1996年1月
対戦成績…39戦33勝5敗1分 連勝記録11 通算勝率84.6%(現役時代の勝率は87.1%)[8]
番組開始当時は銀座「ろくさん亭」主人。コスチュームカラーは青。
後に二代目鉄人となる中村孝明や福井幸雄(岡山市「味塾 時の流れ」主人で平成4年度・卓越技能表彰者)らにスケジュールが合わないと断られたため、「1年のみ」の条件を呑む形で第2候補だった道場に鉄人起用の打診が来た。ただし、この条件はちょうど1年目でアルトア・ルターに敗れた結果、道場の考え方が変わり、消滅した(スタッフもまったく代役を考えていなかったようである)。
現役時代の対戦成績は27勝3敗1分と勝率9割に迫り、圧倒的な強さを誇った。番組内の公式見解をはじめ、誰もが認める全鉄人の中の最強鉄人であった。
和食の料理人でありながらジャンルにとらわれない料理を生み出し、「日本料理界の異端児」と称された(鉄人晩期には「地球料理」を標榜)。「無国籍料理」と称される回もあった。
対決中に必ず筆で「お品書き」を書くシーンがお馴染みでもあった。料理・作業の方向性をアシスタントらに伝えるほか、対戦相手を呑み込もうという意図もあったという。フォアグラを平仮名で「ほあぐら」と書く事などが特徴的であった。
また、「出汁(だし)は1品だけなら持込可」というルールがあったにもかかわらず、常に対決開始時に作っていた。この鰹節、昆布をふんだんに使った出汁は福井アナに『命の出汁』と名づけられ、その作成シーンがお品書きを書くシーンと並んで道場出演時の序盤で必ず流されていた。
高齢であるが故に病のため番組に登場できない時期もあったほか、後半は一時期精彩を欠く戦いを見せることがあった。
「素材に国境はない」「素材を成仏させる」などの名言を残しつつ、後継の鉄人に後述の中村を指名し引退。後に「(高齢のために体力が衰えて)の頭を包丁で割れなくなった時、引退を決意した」と語っている。石鍋に続いて「名誉鉄人」の座についた。
初期のレギュラー審査員であった高田万由子とはそりが合わず、「あんな小娘にああだこうだ言われたくないね」と当番組以外では語っていた。高齢で味付けが濃い目だったせいか、高田だけではなく、鈴木杏樹広末涼子といった若い女優には厳しい評価をうける場面もあった。
番組出演の傍ら港区赤坂に「ブラッセリー六三郎」(現「ポワソン六三郎」)を開店したほか、2001年には銀座にもう一軒の店「懐食みちば」をオープンしている。
二代目:中村孝明(なかむら こうめい)
出演期間…1996年3月-1998年2月(1999年3月には挑戦者として出演)
対戦成績…37戦24勝11敗1分1無効試合 連勝記録7 勝率64.8%
番組登場時は「なだ万」理事・料理本部長(総料理長)。後に独立し、1999年10月に「孝明 ARIAKE」オーナーシェフとなる。コスチュームカラーは紫。
番組では「料理界の諸葛孔明」と称されている。鉄人デビューは1996年3月。番組放映当時は鉄人の中で唯一、オーナーシェフの立場ではなかった。
企画時点での鉄人第1候補だったが、当時は「わけのわからない番組」であり、「なだ万」の看板のこともあって辞退。しかし番組がメジャーになったことから、「なだ万」の会長が道場の後釜に中村を推薦して出演が決定した。番組上では、番組を支え続けた道場が引退に伴って指名したことになっている(実際道場と中村はゴルフ友達で、当時ゴルフ場で会うたびに「2代目をやらないか」と勧められていたという)[9]
道場とは違った意味で独創的な料理を見せつけた。しかし、やはり先代の道場が持つ圧倒的な強さと独創性とを比較されることも多く[10]、また金粉を料理にばら撒く等の独創性がかえって災いし、審査員から「下品だ」と批判されるなど厳しい評価を受ける場面も多かった。またテーマ食材をなんでも寿司にしてしまう傾向があり、審査員の岸朝子からは「困ったときの寿司頼み」と皮肉られたこともあったという。
こうした不安定な傾向のせいか全鉄人の中でも連敗が多く、2連敗後の1997年12月26日放送分の神田川俊郎とのアラ対決[11]の前に「もしこの勝負で負けたら引退する」と宣言、背水の陣で臨んだが敗れ、唯一の不名誉な3連敗を喫し、1998年2月20日放送分の服部幸應との引退試合を最後に「名誉鉄人」として番組を卒業した。
全鉄人の中で唯一、迫の後方の写真が変更された鉄人である。初期の写真は顔を曲げ、相手を睨み付ける良くない印象であったため、登場第4回目から柔和な表情の写真にに変更されている。
上記のように常に道場と比較され、「料理の鉄人大全」でも、中村は「当時「なだ万」では『料理の鉄人』のための社内料理会議があり、テーマ食材のヒントが来ると試作品を作って会長に意見を聞いていた」ことを明らかにしているほか、道場とのおせち対決について「道場六三郎対中村孝明の戦いじゃなかった。道場六三郎対「なだ万」の戦いだった」と語っている。
鉄人引退後、1999年3月12日放送分で挑戦者として登場、後述の三代目和の鉄人森本と卵勝負で対戦し勝利している。名誉鉄人が挑戦者として登場したのはこの時が唯一である。
三代目:森本正治(もりもと まさはる)
出演期間…1998年2月-2001年1月
対戦成績…26戦17勝8敗1分 連勝記録4 勝率65.3%
先代の中村の引退直後、1998年2月に「ニューヨークからやって来た鉄人」の触れ込みで番組に登場。
コスチュームカラーはシルバーに赤線、背中には日米の国旗を結わえた刺繍が入っていた。また、全鉄人の中で唯一可変式のコスチュームであり、試合中にはエポーレット(肩章)と袖口裏部分とを留め合わせ、袖をたくし上げ固定するという機能的なデザインが採用されていた。
番組では「料理界の織田信長」と称されている。
かつては寿司職人だったが、ニューヨークへ渡り、「ソニークラブ」総料理長を経て、鉄人起用時は「NOBU」総料理長を務めていた。
道場、中村とはまた違った「ニューヨーク仕込みの和食」「地球料理」を見せつけ異彩を放った。ただし、道場の頃とは違い、審査員も多様化、また評価を厳しくしており、とくにこの時期、準レギュラー的に審査員を務めていた加納典明とは審査中もしばしば料理への考え方の違いで衝突するなど、苦労させられたようである。
坂井や石鍋が、若手フレンチ集団「クラブ・ミストラル」と対立したように、かつて坂井をタコ対決で倒した関西料理界の重鎮、大田忠道は森本の創作和食を激しく非難し、自身が主催する「太田天地(あめつち)の会」から次々と会員を挑戦者として送り込むなど、因縁の戦いを繰り返した。
2001年11月、フィラデルフィアに「MORIMOTO」を開店、オーナーシェフを務めている。
2005年からアメリカ合衆国で放送されている"Iron Chef America"でも鉄人を務めており、日本版にも挑戦者として出演して森本と2度にわたり対戦(対戦結果は1勝1敗)したことがあるボビー・フレイと共演している。

イタリアンの鉄人[編集]

神戸勝彦(こうべ まさひこ)
出演期間…1997年6月-1999年9月
対戦成績…23戦15勝7敗1分 連勝記録5 勝率65.2%
番組後期の1997年6月に、新たなジャンルのイタリアンの鉄人として登場した。番組のストーリー上では、キッチンスタジアムを開設した当時、遊び好きであった神戸を破門同然でイタリアへ修業に出し、4年後にようやく改心したという事で呼び戻したという設定。襲名時は特定の店舗に属さないフリーのシェフという異例の経歴での起用だった。コスチュームはイタリア国旗の赤・白・緑がモチーフになっている。
番組では「パスタのプリンス」と称されている。全鉄人中最年少で起用当初は唯一の20代の鉄人だった。
登場する際は通常の鉄人の登場するからステージ後方の迫からではなく、指名された際にステージに向かって右横にある絵画の壁が動き、迫と後方に神戸の胸部の写真が出され、管弦楽の生演奏で手にトマトを持って登場する。
当初本人は番組出演のオファーを受けたとき、てっきり挑戦者として出演するものだと思っていたところ、初回の収録直前になって実は鉄人として出演することが判明し慌てふためいたというエピソードも残っている[12]
デビュー戦は萩原雅彦シェフとのショートパスタ対決であったが黒星。唯一デビュー戦が黒星となった鉄人である[13]。そのためか加納典明からは手厳しい評価を受けていたことがあった。
開始と共に食材のある主宰席に猛ダッシュするため、挑戦者も慌てて走る光景が毎度繰り返されていた[14](高校では陸上部だったので足には自信があるらしい)。

出演者[編集]

美食アカデミー主宰[編集]

初代美食アカデミーの主宰で、鹿賀の大袈裟な演技や振る舞いが、番組の人気に一役買っていた。特に「私の記憶が確かならば…((Jadis) si je me souviens bien...) 」で始まる言い回し(アルチュール・ランボオの詩地獄の季節の冒頭部分)が有名。
2002年1月の特番で「主宰である鹿賀がフグの毒に当たって亡くなったため[15]、その甥が後を引き継いだ」という設定で、2代目美食アカデミー主宰として登場した。

実況席[編集]

「F1調実況」を心がけていた。自身ができる料理は「カップめんを作るくらい」。一度だけ試食をした回があった。
特番時は太田が鉄人側を担当し、挑戦者側のレポートはフジテレビアナウンサー阿部知代が務めた(なお阿部のほか近藤サト西山喜久恵藤村さおりも担当)

審査員[編集]

  • 岸朝子 - 番組アドバイザー。鉄人や挑戦者の紹介を数多く行っている功労者。平野の出演が減ってから(中期-)は末席での審査員としてほとんど出演。出演の際の「おいしゅうございました」が有名になった。後期には細木数子や石井好子らがその座に着くことが増え、出演は少なくなった。基本的には鉄人寄りの判定が多かった(特に道場とはお互い懇意にしていることもあり、非常に甘かった。)一方、中村孝明には厳しく、鉄人ワールドカップ決勝では、17-16でアラン・パッサールの勝ちと判定した。
  • 浅野ゆう子 - スペシャルになると必ずこの人が登場する事から「ビッグマッチのレギュラー」と言われた。
  • 平野雅章 - 岸朝子に請われて審査員に。初期では最も多く審査員を務める。頭に「かの(北大路)魯山人、最後の愛弟子」と紹介。後に「最後の愛」の表現は削除された。入れ歯らしく、「硬くてかめない」といったコメントも。
  • 石井苗子 - 景山民夫、平野雅章と共に初回の審査員。
  • 高田万由子 - 初期~中期ではほとんど毎回、審査員。「おいしい」「この味、私好きです」が多かったので、視聴者だったタレントなどからネタにされた。留学先からわざわざ帰国して出演したり、毎回審査に際しては悩むが、ルール上禁止されている「両者同点」を付けたこともある。道場とはそりがあわず、コメントもほとんど相手にされず、「(梅の味をそんなに効かせたいなら)あそこの梅干を取ってきて食べればいい」などと突き放されることもあった。
  • 栗本慎一郎 - 番組全期間を通じて1枠の審査員を務めた。ほぼ月1~2回のペースで出演していた。1回だけ3枠の審査員を務めた。
  • 景山民夫 - 1998年1月に逝去するまで、栗本と並んで出演頻度が高かった。逝去直前に収録されていた回があり、追悼のテロップが流された。
  • 秋元康 - 番組全期間を通して、不定期に年1~2回程度審査員を務めた。
  • 蔡瀾(チャイ・ラン) - 香港ゴールデンハーベスト社副社長(当時)。ほとんどの作品に否定的で、「まずい」「おいしくない」も平気で言う。香港特番で初登場し、その強烈なキャラクター性から特番審査員の常連となった。激辛の審査で、特に坂井や陳には厳しかった。その一方では道場には「素晴らしい、悪く言いたくても言えない」と高い評価を与え、アラン・パッサールに対して審査した3回とも20点満点の評価を与えるなど、辛口一辺倒の審査とは限らなかった。
  • 加納典明 - 後期の準レギュラー審査員。辛辣なコメントが多く、特に鉄人には厳しかった。彼推薦の挑戦者を送り込んだこともある。
  • 梅宮辰夫 - 挑戦経験あり。審査員を務めたレギュラー放送最終回での最強鉄人決定戦・決勝では、(辛口批評のチャイ・ランを含む)他の4人の審査員が20-19としたが一人だけ17-16としたこと、続いて行われた世界最強シェフ決定戦でも、唯一アラン・パッサールの勝ちと判定した点については、一部視聴者から非難の声があがった。
  • 細木数子 - 「テレビはコミュニケーションの場」と言ってノーギャラで出演していた。また、「まずい」といった発言も多く見られた。基本的にはチャイ・ランと同様辛口の審査であった。ちなみに細木本人も料理の腕は玄人はだしで、後の愛のエプロンなどでその腕を披露している。

主な挑戦者[編集]

太字は鉄人に勝った挑戦者

  • 神田川俊郎 - 総勢約400名もの料理人を束ねる「関西料理界のドン」として、複数回挑戦者として出場、道場や他の鉄人と数々の名勝負を繰り広げた(対戦成績は道場に1敗、坂井とは1勝1敗、陳と中村に1勝)。自身の門下生を中心としたグループ「神田川軍団」を毎週のように送り込んだ時期もある。これは、門下生たちに対して「進んで表に出てみなさい」という教育の一環であったという。常に料理をしながら片付けており、制限時間が終了した時には厨房が片付き終わっていて番組スタッフは毎回うならされていたという。道場のお品書きに対抗して、仕上がり間近に半紙に書をしたため、「○○君、味は心や!」と絶叫するパフォーマンスをする。これを受けて道場は「このおっさん、おもろいやろ!」と切り返したが、坂井は「この人何言ってるか、わかんないよ!」と切り捨てたように、慣れない対戦相手は対処に困っていた。番組での通算成績は5戦3勝2敗で、複数の鉄人に勝った唯一の挑戦者である。
  • 周富輝
  • 周富徳 - 番組初期に弟・富輝の敗戦の仇を討つという名目で出演。プライベートで親友である道場との熾烈な対決を繰り広げるが、やはり互いに気は進まなかったようである。道場が勝利したが、まもなくリターンマッチが組まれ、周が勝利した。このシチュエーションは後にフィクション化され、小説として出版された。道場は本来、この黒星だけで番組を去る(1年間)予定だった。
  • 島田紳助 - 「勝てそう」と言う理由で陳を指名。だが、実力差はいかんともしがたく、あえなく返り討ち。ただ、これは挫折した板前への夢をかなえるもので、勝敗はもともと関係ない挑戦。対戦途中で、タバコを片手に競馬新聞を読む、という「板前のイメージ」をパフォーマンスした。
  • 中嶋貞治 - 北大路魯山人の弟子、中嶋貞治郎の孫。
  • 梅宮辰夫 - 審査員として何度か出演があったが、満を持して挑戦。ただし、相当な苦戦を強いられ、飾り付けの際、うまく箸が使えなかったために大声を上げる場面も。対戦した道場とは相互に敬意を持っているが、このときの道場は厳しいコメントを多々上げていた。こちらもあえなく返り討ち。
  • 小林カツ代 - 「家庭料理」の雄として登場。鉄人指名の際には「どなたでも結構です」(鉄人を相手にするのだから誰とやっても同じという理由で)と答えた。驚いた鹿賀主宰だが、鹿賀は「女性に弱い」とレッテルを貼られていた陳を指名。終始、小林の独特のペース(テーマは「ジャガイモ」。「肉じゃが」を期待され、それに応える)で進んだ、異色の回であった。小林の勝利。のちに息子のケンタロウも陳と対戦するものの敗北している。
  • 田崎真也 - 1995年に日本人として初めて『世界最優秀ソムリエコンクール』で優勝したソムリエ界のカリスマ的存在。ソムリエとして料理に合ったワインを選び出すだけでなく、その反対にワインに合った料理を創作することも得意であり、「中トロ対決」で神戸と対戦して勝利を収めた。田崎が作った各種料理には、それぞれ田崎自身が料理に合わせて選び出したワインが添えられていた。
  • アルトア・ルター - 日本在住のドイツ人のフレンチシェフ。道場の2敗目の相手。道場が「1年も経過したし、やめよう」と思っていた時期に対戦。道場はテーマ食材の「ピーマン」の本質が理解できず、ルターに負けてしまう。道場に「1年のみ」の条件を捨てさせ、結果、番組躍進のきっかけとなった、隠れた名勝負。勝者発表時にルターは「道場さん、ごめんなさい」としばらく抱擁、感動的な場面だったが、実はルター自身も作品に満足がいっておらず、そんな作品で勝ってしまったことに半分自省のつもりで謝罪したのだという。道場は後日談として、「日本料理の技法にこだわって小手先の仕事に走ってしまった。ルターさんの心にドーンと落ちるような豪快さがなかった」と回顧している。ちなみに彼の妻は日本人である。
  • 程一彦 - 陳に勝った、番組史上初の勝利挑戦者。十八番の「よそ見包丁(食材を見ず、周りに気を配りながら手元では包丁を振るう)」を当番組でも披露。実は企画当初は陳とともに、鉄人候補の一人であったが辞退している。
  • 清水忠明 (しみず ただあき)- かつてフランス最古の歴史を誇る名店「ラ・トゥール・ダルジャン」で副料理長を務めていたという経歴を持つ料理人で、「オマール対決」で坂井を初めて破った。その後、清水が副料理長を務めていた「ラ・トゥール・ダルジャン」の当時の料理長であったドミニク・ブシェも2000年正月の特別編に出場し、「神戸牛対決」で名誉鉄人の道場と名勝負を繰り広げた。
  • 服部幸應 - 上述の通り番組のメイン解説者であるが、2度挑戦者として出演している。1度目は当初予定の挑戦者が急遽出場を取りやめたため、やむを得ず引き受けたものだが(対道場。敗戦)番組演出上は新鉄人の座を狙って挑戦した事となっている。2度目は1998年2月に行われた中村の引退試合で敗戦。実は「なだ万」と服部家とは古くからの因縁があり、それを理由にして挑戦する形をとった。
  • 城悦男(じょう えつお) - かつて石鍋や坂井と共に「クラブ・デトラント」を結成した、日本におけるフランス料理界の第一人者。「ソースの城(じょう)」の異名を取るほどの凄腕という触れ込みだった。初登場時には道場との「ブロッコリー対決」で敗れたが、後に坂井との「ワイン対決」で勝利を収めた。その後、鹿賀主宰2000皿試食記念対決(後述)では、石鍋・坂井と共にチームを組んで出場した。ちなみに彼は、前衛的な作風の料理を得意とする石鍋・坂井とは対照的に、伝統を重視する保守的な作風の料理を得意としていた。
  • アラン・パッサール - 番組内では「料理会のドビュッシー」と紹介される。中村、坂井と対戦。中村とは引き分け。坂井には負けたが、石鍋はこの試合を番組史上のベストバウトとし、パッサールの技法を「素人にはわからない素晴らしさ」と絶賛している。[17]
  • 大田忠道 - 日本調理師協会副会長(当時)の肩書を持つ関西料理界の重鎮として出場、坂井との「タコ対決」で勝利を収めた。番組後期には、神田川俊郎の後を継ぐ形で、全国5000名の門下生の中から厳選した精鋭70名で構成された「大田天地(あめつち)の会」(通称・大田軍団)をたびたび番組に送り込み、第3代の和食の鉄人である森本と何回も名勝負を繰り広げた。
  • 脇屋友詞 - 中国料理にフランス料理の要素を取り入れた「ヌーベルシノワ」の先駆者として知られ、過去2回出演し1勝1敗の成績を残す(坂井に敗北、陳に勝利)。その後2代目中華の鉄人に内定していたが、起用される前に番組が終了。それから13年後、後継番組『アイアンシェフ』で改めて中華のアイアンシェフに起用され、同番組のアイアンシェフデビュー戦ではかつて脇屋に敗れた前中華の鉄人陳の息子陳建太郎を挑戦者に迎えての中華対決を制した。

番組の開始から終了に至るまで[編集]

元々はフジテレビ局内で「プライムタイム枠で、従来の料理番組(レシピ紹介)のスタイルとは全く異なる新しい料理番組を作ろう」というアイデアが持ち上がり、同時期に田中経一から本番組の企画が持ち込まれたことが番組誕生のきっかけとされている。当初はキッチンスタジアムのセットや鹿賀丈史の大袈裟な衣装[18]など、ミシュランガイドなど既存の料理界の権威に対するパロディとしての要素を多分に含んだ企画となっていた[19]

1993年10月放送開始。この当時は日曜日22時30分からの放送であった。その後、1994年4月、金曜23時放送の『ワーズワースの庭で』(後に『ワーズワースの冒険』として改題リニューアル)と放送枠を交換する形となった。

1995年には23時台の放送でありながら20%弱の平均視聴率を稼ぎゴールデンタイムの番組にも勝る結果になった。最高視聴率は、1995年3月31日に放送されたスペシャル「完全なる料理の鉄人 香港決戦」で23.2%。同年にはATP賞グランプリを獲得したほか、海外での放映もスタートしエミー賞にもノミネートされるなど番組は絶頂期を迎える。当初「既存の権威のパロディ」として始まったはずの番組が、人気の高まりにつれ番組自体が権威と化し、多くの料理人が出演を希望するようになるという、番組スタッフにとっては皮肉な現象も起きた[19]

しかし1996年の年明け早々、番組の看板の一人である和の鉄人・道場六三郎が降板。1999年にスポンサーの日産自動車一社提供を降板(その後は筆頭提供)し、番組の制作費がシビアとなったことや出演者のスケジュール調整の問題もあり、番組継続に頭を抱えるようになった。

視聴率的には以前と比較し落ち込んではいたものの二桁をキープしてきたが、1999年9月に6年にわたるレギュラー放送の終止符を打った。その後は特番という形で不定期放送することになった(後述)。

そして2012年秋改編より金曜20時にて『奥の深道〜同類くんの旅〜』の後枠としてレギュラー番組としては13年ぶりに復活することとなった。番組名は『アイアンシェフ』で、解説の服部以外のメンバーは総入れ替えで行った[20]

エピソード[編集]

  • 番組開始当初(~1993年11月)は挑戦者を決定するための予選が存在した。本戦とは別のテーマ食材が与えられ、勝ち抜くことで鉄人への挑戦権が得られるという、候補者にとっては厳しいルールであったが、戦いが2つに分散するため本戦の印象が弱くなるなどの事象を考慮し、わずか5回で廃止された。予選を勝ち抜いた挑戦者で鉄人に勝利した者はいなかった。
  • 番組初期の頃は挑戦者も慣れていないせいか、制限時間に間に合わず、納得いく料理を作れなかった挑戦者も見られた。当時はまだ番組のルール自体も不安定で、当初は皿・包丁・まな板といった料理器具の持込すら許されていなかったことも影響していたと言われる[21]。しかし、後には番組のルールが確立し、挑戦者のレベルも飛躍的に向上したため、そうしたことは見られなくなった。
  • 番組本などの回想を確認する限り、どの鉄人と戦うかは、特に挑戦者からの希望がない限りはオファーの段階から基本的に事前に決まっていた。主宰の呼びかけによって3人の鉄人が勢揃いする映像が有名だが、番組収録時には対戦のある鉄人のみがスタジオに来ており、登場シーンは使い回しの勢揃い映像と、実際に収録する1人だけ立っている鉄人の映像を巧みに編集していた。挑戦者によっては勢揃いの場合もあり、指名されなかった鉄人の帰り間際のコメントが番組内で紹介されたこともある。陳や坂井は自らが負け続けた時など、「自分だったらどうするか」とシミュレーションするため他の鉄人の対戦によく立ち会っていたという[22]
  • 一方で番組初期の頃は、番組自体の知名度が低かった上に「料理人同士が対決する」というコンセプトが必要以上に警戒されたため、予定していた挑戦者が収録直前になって番組出演を辞退したり、収録自体をすっぽかしたりするケースも多かったという[23]。しかし番組がメジャーになると逆に「挑戦者に選ばれるだけでステータス」となったため、前述の通り出演希望者が多数現れる状態となった[19]
  • 番組の冒頭においては司会の鹿賀が挑戦者の名前や経歴などを紹介し、この時に挑戦者の年齢も紹介するのが基本であったが、挑戦者が女性である場合は、(全員ではないが)挑戦者の年齢を言わないことが多かった。ある回では、女性挑戦者の年齢をふざけたように「ン~歳」と言ったこともあった。
  • 道場は神田川の弟子との甘鯛対決の際に番組最多の8品を作ると宣言していたが、結局間に合わずタイムアップ後も作業を行っていた。当然神田川サイドからの抗議をうけ、話し合いの結果(オンエア上はカット)間に合わなかった料理をカットすることとなった。だが、残りの料理の出来は大きく評価され(豆腐にフォアグラ、トリュフを混ぜ、それを甘鯛で包んで蒸すという道場らしい独創性がさえわたっていた)勝利をおさめた。
  • 中村はキャビア対決の時に「キャビアをおいしく食べるのはこの方法しかない」として、キャビアに合う食材、料理を用意してその上にキャビアをのせて食べるという料理を(実質この1品のみ)作って勝利したことがある。
  • 平野寿将は陳とのウニ対決の際に「8品作る」と宣言していたが、これは単なるリップサービスで結局作ったのは4品、試合も完敗であった。
  • ちゃんこ鍋を得意とする挑戦者が登場したが、時間が間に合わないという理由で鍋を作らず、何のために登場したのがわからないこともあった。
  • 料理対決では高級食材がふんだんに使用され、6年間で使われた食材の総額は実に8億4335万4407円にも及んだ。これには最終回に出演した元総理大臣・橋本龍太郎も「こんなにお金が出ているんだったらもっと食べたかったのに」と驚嘆の意を示した。ちなみに番組中、最も値段の高かったテーマ食材は燕の巣で、この回では1グラム1000円とも言われる燕の巣が約2.8kg(280万円分)用意された。
  • 料理は主宰の鹿賀、審査員の人数分に加え、ディスプレイ用(試合終了後に各々の料理を紹介する場面)を作る。とんねるずのハンマープライスでディスプレイ用料理を食べることができる権利(正式名称は料理の鉄人スタジオ残飯処理権)が出品されたこともあった。なお、ディスプレイ用料理は撮影後に廃棄される。
  • 主宰役の鹿賀丈史にとって、見事なまでの当たり役だったため、本当に主宰者、または相当な美食家と思われることが多かったそうである。番組の人気と共に行き付けのレストラン等やロケ先のレストラン等の店員に鹿賀が注文したメニューの判定をして欲しいと言われ、鹿賀本人が恥ずかしい思いをしたという。本人は「鹿賀にはこれしかないと思われると困る」と嘆いていた。好き嫌いがないことが重要なのではあるが、「うどん対決」において「うどんが嫌いですよ」と漏らしている。
  • また、鹿賀は2009年11月7日に『チューボーですよ!』(TBS)に出演し、栗ご飯を堺正章らと作るも仕上げで焦げてしまい「無星」の評価を付けた。
  • 番組中で鹿賀が身に付けた衣装は主に「ルナ・マティーノ」のものである。最初はタキシードの予定だった。衣装のイメージからあの独特のキャラクターを生み出したという。[24]
  • 当初、番組名は『竈(かまど)の達人』の予定であったが、『竈』という文字が読みづらいこと、また『竈』が常用漢字でないため新聞に掲載できなかったこともあり、最終的には『料理の鉄人』という番組名に変更された。
  • 当初は採点の詳細は未発表であったが、視聴者からの強い要望で、後に審査員個々の採点結果が開示されるようになった(1995年10月以降)。
  • 食材(しょくざい)という言葉はこの番組によって一般化し、1998年の『広辞苑』(第五版)に収められた(中国語にはこの語はない)。
  • 番組初期の頃、調理業界では番組に対して「プロを愚弄するような番組だ」「業界をダメにする」などの批判があり、鉄人達に対する風当たりも強かった。しかし番組の人気が上がったことや、周囲に「本当にたった1時間でその場で知らされた素材を調理している」ことが認知されたりすると、周りの見る目も変わったという。
  • 他の料理番組や雑誌にまでブームが及び『SMAP×SMAP』『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』など、他のバラエティー番組でもタレントが料理に挑戦するコーナーが登場した。なお、演出を手がけた田中経一はその後テレビ朝日にて、この番組と同じく料理をテーマにした『愛のエプロン』や、ほぼ同じ趣向の番組『魂のワンスプーン』(TBS)の演出も手がけている。
  • スタジオのセットはロンドンのハロッズの食品売り場をイメージしたものである。
  • かつてイタリア料理店「ヴィノッキオ」のオーナーであったが、同乗者が死亡した交通事故をきっかけに消息を絶った山田宏巳が挑戦者として登場。陳との「キャベツ対決」で勝利の後メディアからの注目を浴び、「リストランテ・ヒロ」をオープンさせて料理界に復帰し、どん底からの復活として大きな話題となったが、2006年4月大麻所持で逮捕された。その後、彼は再び料理界への再復帰を果たし、2013年2月15日放送の『アイアンシェフ』ではノミニーとして登場し、中華のアイアンシェフ・脇屋友詞との「キャベツ対決」を制した。
  • かつてイタリア料理界の巨匠ジャンフランコ・ヴィッサーニの下で料理長を務めながらも日本では自分の腕を発揮できる店がないという理由でトラックの運転手をしていた小林幸司も、同じく挑戦者として陳との「カボチャ対決」で勝利し、後に「リストランテ・マリーエ」の料理長として料理界に復帰した。その後、小林の師であるヴィッサーニも『鉄人ワールドカップ』(後述)に出場し、道場との「カモ対決」で名勝負を展開した。
  • 大阪在住の追立久夫が挑戦者として出演した回は、1995年1月20日に放送された。ところが、放送日の3日前に阪神・淡路大震災が発生したため、この回は追立本人の地元である大阪では放送されず、追立は無念の思いを隠せなかったという。
  • 2006年秋には東京電力のオール電化キッチンの宣伝に陳(同年春から出演)・坂井・道場が出演し、1人ずつでIHクッキングヒーターの使い心地を試すバージョンが製作された。印刷物や看板では3人が鉄人シェフを模したコスチュームで登場している。
  • 番組で使用されたBGMは、テーマ曲がハンス・ジマースコアを手掛けた映画『バックドラフト』のサウンドトラックから抜粋された。その他のほとんどはマイケル・ナイマン作曲の『英国式庭園殺人事件』『ZOO』『数に溺れて』『コックと泥棒、その妻と愛人』のサウンドトラックから抜粋。他に『グローリー』『エアフォース・ワン』『アルマゲドン』『∀ガンダム』『信長の野望シリーズ』『三國志シリーズ』などの曲も使われた。

特別番組[編集]

正月などには特番として「完全なる料理の鉄人」が放送された。その舞台は日本国内に留まらず、香港フランス北京ニューヨークなど世界各地で開催された。

「鹿賀主宰試食2000皿記念対決」では、対決一週間前にテーマ食材が発表された。

「フランス決戦」第2試合では、調味料を含めた食材を全て自分で購入してから開始。

「北京決戦」では陳と坂井の2人で陳の祖先の墓参りに向かうシーンも。四川省成都から奥地へバスで2~3時間、さらに30度を超す暑さの中、2時間歩くシーンが放映された。

1996年12月31日から1997年1月1日にかけて放送された「大晦日お節決戦」(道場六三郎vs中村孝明)では、100人前を1時間40分で進行[25]。助手は道場、中村双方の店より10名を選出。なおこの時は通常の審査員の他に、これまでの歴代の挑戦者も審査員として参加するなど、番組史上最大のスケールで行われた。坂井、陳は審査には参加せず、ゲスト解説者扱いとなる。ただ、試食時に箸が足りなかったのか、ゲスト審査員だった羽田孜は手で食べていたなど、ハプニングが絶えなかったようである。道場有利と言われていたが、結果は55-45で中村の勝利であった。テーマ素材はお台場フジテレビ前に設営されたやぶさめ会場にて決定。「肉」「魚介」「野菜」の三つの的にそれぞれ四つの食材が割り当てられていた。この放送自体はまだ正式な移転前のお台場のスタジオからの放送であり、(同年4月からお台場に移転)移転前の試験放送的な意味合いもあった。

なお、ここに記載する記録はレギュラー放送時代のものに限定する。

海外決戦[編集]

1995年から始まった海外ロケ特番企画。

1995年香港決戦[編集]

ワンマッチ形式

1995年3月31日放送

出場者…梁偉基(中)、周中(中)、道場六三郎(和)、陳建一(中)

  • 第1試合…梁(先攻)VS陳(後攻) テーマ食材…豚
    • 審査員…浅野ゆう子、岸朝子、呉家麗、蔡瀾

ジャッジ表

出場者 浅野 合計 得票
16 16 20 20 72 2
17 18 15 10 60 2
  • 第2試合…周(先攻)VS道場(後攻) テーマ食材…大伊勢海老
    • 審査員…浅野ゆう子、岸朝子、ジャッキー・チェン、蔡瀾

ジャッジ表

出場者 浅野 ジャッキー 合計 得票
18 16 13 16 63 1
道場 20 20 19 16 75 4

1996年フランス決戦[編集]

ワンマッチ形式

1996年4月12日放送

出場者…ベルナール・ルプランス(仏)、ピエール・ガニエール(仏)、坂井宏之(仏)、中村孝明(和)
審査員…島田陽子、岸朝子、ジョエル・ロブション、ピエール・トロワグロ

  • 第1試合…ルプランス(先攻)VS中村(後攻) テーマ食材…鮭

ジャッジ表

出場者 島田 ロブション トロワグロ 合計 得票
ルプランス 15 17 15 15 62 2
中村 17 18 13 13 61 2
  • 第2試合…ガニエール(先攻)VS坂井(後攻) テーマ食材…オマール

ジャッジ表

出場者 島田 ロブション トロワグロ 合計 得票
ガニエール 16 19 16 18 69 2
坂井 17 20 12 13 62 2

1996年北京決戦中国四大料理対決[編集]

この大会では予選は1対1の対決ではなく4人対戦形式で行われた(決勝は従来通り1対1の対戦)。予選上位2名が決勝進出。

1996年10月11日放送

出場者…孫利平(北京)、蘇徳興(上海)、庄偉佳(広東)、陳建一(四川)
審査員…谷村新司、斉藤由貴、蔡瀾、コン・リー、岸朝子

  • 予選 テーマ食材…鶏

ジャッジ表

出場者 試食順 谷村 斉藤 コン 合計 順位
1番 17 18 18 13 19 85 1位
2番 17 16 16 17 17 83 3位
3番 15 15 13 13 16 72 4位
4番 17 18 14 16 19 84 2位
  • 決勝 孫(先攻)VS陳(後攻) テーマ食材…フカヒレ

ジャッジ表

出場者 谷村 斉藤 コン 合計 得票
17 18 17 18 17 87 1
18 19 18 17 18 90 4
優勝…陳建一

Mr.IRON CHEF決定戦[編集]

1994年と1995年の2度にわたり開催された特番企画で、

1994年は過去の勝利挑戦者から選抜で4名が出場し、優勝者が道場と対戦。

1995年は道場引退試合を兼ねて当時の鉄人坂井と陳が道場への挑戦権をかけて対戦した。

1994 Mr.IRON CHEF決定戦[編集]

1994年12月23日・1995年1月2日放送 出場者…程一彦(中)、山田宏巳(伊)清水忠明(仏)、神田川俊郎(和)、道場六三郎(和・シード選手)

  • 予選第1試合(1994年12月23日放送) 山田(先攻)VS神田川(後攻) テーマ食材…伊勢海老
    • 審査員…景山民夫、高田万由子、岸朝子
    • 勝者…神田川
  • 予選第2試合(1994年12月23日放送) 清水(先攻)VS程(後攻) テーマ食材…牛肉
    • 審査員…第1試合と同じ
    • 勝者…清水
  • 予選決勝(1995年1月2日放送) 清水(先攻)VS神田川(後攻) テーマ食材…アワビ
    • 審査員…第1・2試合と同じ
    • 勝者…神田川
  • 1994 Mr.IRON CHEF決定戦(1995年1月2日放送) 神田川(先攻)VS道場(後攻) テーマ食材…ブリ
    • 審査員…石坂浩二、高田万由子、橋本龍太郎、岸朝子
    • 1994 Mr.IRON CHEF…道場六三郎

番組本によると、フレンチの出場者は、当初、ジャック・ボリーが選ばれたが、ボリーは辞退している。そして、アルトア・ルターが選ばれて参戦することになったが、「クリスマスで店の予約がいっぱい」との理由でドタキャンしたと、制作スタッフは、怒りを露わにしている。そして、清水忠明が急遽選ばれ、常連客の了承を得て、出場したという。

1995 Mr.IRON CHEF決定戦[編集]

1995年12月22日・1996年1月3日放送

出場者…坂井宏之(仏)、陳建一(中)、道場六三郎(和・シード選手)

  • 対道場挑戦者決定戦(1995年12月22日放送) 陳(先攻)VS坂井(後攻) テーマ食材…鶏
    • 審査員…栗本慎一郎、景山民夫、水野真紀、蔡瀾、岸朝子
    • 対道場挑戦権獲得者…陳
  • 1995 Mr.IRON CHEF決定戦兼道場引退試合(1996年1月3日放送) 陳(先攻)VS道場(後攻) テーマ食材…牛肉 
    • 審査員…野村克也、浅野ゆう子、大島渚、蔡瀾、岸朝子

ジャッジ表

出場者 野村 浅野 大島 合計 得票
17 19 19 12 17 84 0
道場 19 20 20 17 19 95 5
1995Mr.IRON CHEF…道場六三郎

鉄人ワールドカップ[編集]

チャンピオンシップ大会とも言える特別企画。イタリアのジャンフランコ・ヴィッサーニ、フランスのピエール・ガニエール、アラン・パッサール、中国の許成ら、世界的にも著名なシェフが参戦し、鉄人と激闘を演じた。

第1回大会 東京都有明(1995年)[編集]

1995年10月6日放送

出場者…ピエール・ガニエール(仏)、ジャンフランコ・ヴィッサーニ(伊)、許成(中)、道場六三郎(和)

  • 第1試合(ヨーロッパ予選) ヴィッサーニ(先攻)VSガニエール(後攻) テーマ食材…マグロ
    • 審査員…木村太郎、岸朝子、蔡瀾、ジュリー・ドレフィス、ジョルジオ・リンドー

ジャッジ表

出場者 木村 ドレフィス リンドー 合計 得票
ヴィッサーニ 19 16 16 19 18 88 4
ガニエール 17 15 18 18 17 85 1
  • 第2試合(アジア予選) 許(先攻)VS道場(後攻) テーマ食材…イカ
    • 審査員…第1試合と同じ

ジャッジ表

出場者 木村 ドレフィス リンドー 合計 得票
10 14 14 13 13 64 0
道場 16 19 16 19 15 85 5
  • 決勝戦 ヴィッサーニ(先攻)VS道場(後攻) テーマ食材…鴨
    • 審査員…石坂浩二、鈴木杏樹、海部俊樹、蔡瀾、ジュリー・ドレフィス、ジョルジオ・リンドー

ジャッジ表

出場者 石坂 鈴木 海部 ドレフィス リンドー 合計 得票
ヴィッサーニ 16 17 17 10 19 19 98 3
道場 18 15 19 15 18 17 102 3
優勝…道場六三郎
トリビア

放送中にオウム真理教幹部上祐史浩が逮捕されたため、一時その中継に差し替えられた。

第2回大会 京都府[嵐山(1997年)[編集]

1997年10月10日放送

出場者…アラン・パッサール(仏)、パトリック・クラーク(米)、劉錫坤(中)、中村孝明(和)
審査員…北大路欣也、一色紗英、蔡瀾、岸朝子、ダニエル・バーマン、クリスチャン・ブサランク

  • 第1試合(アジア予選) 劉(先攻)VS中村(後攻) テーマ食材…牛肉

ジャッジ表

出場者 北大路 一色 バーマン ブサランク 合計 得票
19 15 12 16 14 14 90 0
中村 20 17 14 18 17 18 104 6
  • 第2試合(欧米予選) パッサール(先攻)VSクラーク(後攻) テーマ食材…オマール

ジャッジ表

出場者 北大路 一色 バーマン ブサランク 合計 得票
パッサール 19 20 20 19 15 18 111 5
クラーク 17 18 10 17 17 16 95 1
  • 決勝戦 パッサール(先攻)VS中村(後攻) テーマ食材…フォアグラ

ジャッジ表

出場者 北大路 一色 バーマン ブサランク 合計 得票
パッサール 19 17 20 17 14 18 105 3
中村 20 19 17 16 17 16 105 3

優勝者…中村孝明、アラン・パッサール(両者同点の為パッサールと中村の両者優勝)

第3回大会 東京・お台場(1999年)[編集]

1999年9月10日から3週連続放送(レギュラー放送最終シリーズ)

レギュラー放送最終回となった「最強鉄人決定戦」「世界最強シェフ決定戦」(共に1999年9月24日放送)には

現役、名誉鉄人7人全員が一堂に会し(レギュラー放送では最初で最後)、

更にキッチンスタジアム最終戦「世界最強シェフ決定戦」開始前には

6年間の歴代挑戦者200人(全員ではない)が入場するなど、番組史上最大のスケールとなった。

出場者…神戸勝彦(伊)、陳建一(中)、森本正治(和)、坂井宏行(仏)、アラン・パッサール(仏・シード選手)

  • 最強鉄人決定戦 予選第1試合(1999年9月10日放送) 神戸(先攻)VS陳(後攻) テーマ食材…東京X(豚)
    • 審査員…加納典明、菊池桃子、曙、岸朝子、石鍋裕

ジャッジ表

出場者 加納 菊地 石鍋 合計 得票
神戸 19 19 19 16 16 89 0
20 20 20 19 17 96 5
  • 最強鉄人決定戦 予選第2試合(1999年9月17日放送) 森本(先攻)VS坂井(後攻) テーマ食材…ピーマン
    • 審査員…栗本慎一郎、真野響子、北大路欣也、細木数子、道場六三郎

ジャッジ表

出場者 栗本 真野 北大路 細木 道場 合計 得票
森本 19 19 19 19 18 94 0
坂井 20 20 20 20 20 100 5
  • 最強鉄人決定戦 決勝戦(1999年9月24日放送・レギュラー放送最終回) 陳(先攻)VS坂井(後攻) テーマ食材…オマール
    • 審査員…梅宮辰夫、浅野ゆう子、蔡瀾、細木数子、道場六三郎

ジャッジ表

出場者 梅宮 浅野 細木 道場 合計 得票
16 20 19 20 19 94 2
坂井 17 19 20 19 20 95 3
最強鉄人…坂井宏行
  • 世界最強シェフ決定戦(1999年9月24日放送・レギュラー放送最終回/1997京都嵐山の事を考えての完全決着戦) パッサール(先攻)VS坂井(後攻) テーマ食材…龍崗鶏(ロンコンカイ)
    • 審査員…梅宮辰夫、三田佳子、蔡瀾、岸朝子、橋本龍太郎

ジャッジ表

出場者 梅宮 三田 橋本 合計 得票
パッサール 18 16 20 16 19 89 2
坂井 17 17 19 18 20 91 3
世界最強シェフ…坂井宏行

その他の特番[編集]

大晦日お節対決[編集]

1996年12月31日放送(放送は翌年1月1日までまたいだ)

出場者…中村孝明(和)、道場六三郎(和) テーマ素材…豚、サツマイモ、タコ

  • 審査員…羽田孜・綏子夫妻、浅野ゆう子、景山民夫、落合博満・信子夫妻、梅宮辰夫・ヴィクトリアクラウディア梅宮夫妻、岸朝子、松本幸四郎・藤間紀子夫妻ほか歴代挑戦者計100名
  • 対戦結果…中村55票、道場45票で中村の勝利

鹿賀主宰2000皿試食記念対決[編集]

今大会は中華、フレンチから各ジャンル3名の料理人がチームを組んでの団体戦となった。

1998年8月28日、9月4日放送

出場者(太字は各チームリーダー)…オールフレンチチーム(坂井宏之、石鍋裕、城悦男)、オールチャイニーズチーム(陳建一、脇屋友詞、宮本荘三)

テーマ素材…豚肉、すっぽん、バナナ(いずれも鹿賀の好物である)

  • 審査員…栗本慎一郎、石井苗子、福井謙二、岸朝子

ジャッジ表

チーム 栗本 石井 福井 合計 得票
全仏 19 19 20 19 77 2
全中 20 20 19 18 77 2

両チーム同点だが鹿賀の独断でオールフレンチチームの勝利。

インドネシア出張料理[編集]

1999年5月28日・6月4日放送

「主宰の古くからの友人、インドネシア国王、ハメンクブウォノ10世から「鉄人の料理を披露してもらいたい」という手紙が届いた。主宰はすぐさま2人の鉄人を手配した」という設定の元、実際にハメンクブウォノ10世を初めとした、イントネシア王室の方々に晩餐会にて、和の鉄人、道場六三郎森本正治がその腕を披露した[26]

2002年1月の特別番組[編集]

本格的なレギュラー復活を視野に入れた演出で制作された。

  • 主宰は鹿賀から本木雅弘に交代。鹿賀は美食家らしくフグ中毒で死んだという設定で退場することになった。
  • 過去の鉄人は「名誉鉄人」に。新たに鉄人を据えるが、この時点では「候補」とし、美食アカデミーが挑戦者を当てて、査定する[27]

本木の登場に際し、番組の冒頭でブラックジョークさながらに鹿賀を偲ぶ追悼シーンが放送されたことが(全員起立で黙祷など)、後に一部視聴者からの批判を受け、物議をかもした。

再放送[編集]

放送終了後もCS放送・フジテレビ739BSフジにて幾度か再放送された(2008年より休止していたが、2012年11月よりフジテレビONEで再開)。BSフジでは放送時間を1時間半に拡大し、従来の放送では放送されなかった未公開シーンも含めた『料理の鉄人 完全版』として放送された。

海外における料理の鉄人[編集]

下記の通り、多くの国で放送され話題を呼び、1995年にはエミー賞ポピュラーアーツ部門にノミネートされた。

北米でも本番組のフォーマットを使用した“USA版”が制作されており、その内のひとつである『Iron Chef America』が2006年初頭よりフジテレビ739・BSフジにて放送中。

詳細[編集]

料理の鉄人は、アメリカでもケーブルTV専門局FOOD NETWORKで放送され大好評となった[28]。吹替えで放送されたが、主宰の鹿賀丈史が喋る部分のみ字幕となっていた。また、レポーターの太田真一郎福井謙二に呼びかける際の「福井さん!」という部分はそのまま "Fukui-san!" とされた。陳建一の苗字は、中国語読みが採用され "Chen Kenichi" となった。

その後、フジテレビより版権を購入した他局(UPN)が、アメリカ版 "Iron Chef USA" を制作・放送したが、再放送されていた本家『料理の鉄人』とのあまりの違いのため不評で、わずか1クールで終了の憂き目をみた。

2005年2月より、吹替版を放送していたFOOD NETWORKが "Iron Chef America"(アイアン・シェフ・アメリカ) の放送を開始。これは同局が、フジテレビ版の制作プロダクションである日本テレワークよりスタッフの派遣を受け、日本側の綿密な監修のもとに製作した、正真正銘のアメリカ版料理の鉄人である。正規の米国版の証拠として「Original Format Produced by 」の字幕と共に、フジテレビのロゴが番組最後に大きく表示される。

同番組には、Iron Chef Japaneseとして本家の3代目「和の鉄人」森本正治がレギュラー出演、スポット参戦的に本家の2代目「フレンチの鉄人」坂井宏行も出演している。司会者は「本家・初代主宰(鹿賀丈史)の甥」という設定になっているが、なぜか第1クールの番組オープニングでカンフーを披露していた[29]。また、オープニングでは鹿賀と同じく左手にパプリカを持っているが、それを放り投げ右手に持っている青リンゴをかじるという本家へのオマージュも。独立した解説者は、Food Networkで個人のショーを持っているAlton Brownが、実況兼解説者という立場で試合中の放送を進行する。放送開始当初は、冷蔵庫前レポーターがおらず、フロアスタッフのメモをMCが読み上げていたが、途中から本家と同じ形でケビンという冷蔵庫前レポーター(米国版ではフロアレポーターと呼ぶ)が登場している。

同番組のキッチンスタジアムは2005年製と言うこともあり、ディープフライヤーやスモーカーの設置など、本家のものよりハイテク化・高機能化している。また、本家が宮殿の中をイメージしたセットになのに対し、アメリカ版は近未来を意識したセットになっている。

この「アメリカ版」は、日本でもフジテレビワンツーネクストスカパー!SD/HD、スカパー!e2IP放送ケーブルテレビ向け放送)でも日本語字幕入りで随時放映されている。

「料理の鉄人」はオーストラリアでも、SBSで放送されている。SBSはオーストラリアの多民族・多文化主義にのっとり、海外のテレビ番組を主に放送するテレビ局で、アメリカで放送されたものをSBSが輸入した形となっている。放送時間は毎週土曜日20:30 - 21:15。CMをカットしているためノンストップで45分間放送される。オーストラリアでも「料理の鉄人」の知名度は高く、Iron Chef公式ブックも発売されている。

2010年10月19日から、毎週火曜日 チャンネル7にてIron Chef Australiaを放映開始。

タイでは2012年1月25日からBBTV CH7にて"Iron Chef Thailand"が、ベトナムでは2012年6月6日からベトナムテレビジョン VTV4にて"Iron Chef Vietnam"が、イギリスでは2010年4月26日からチャンネル4で"Iron Chef UK"として現地製作されている。

パロディ[編集]

  • 1994年10月以降の『北野ファンクラブ』にて、ビートたけしがバイク事故により出演休止中のつなぎ企画としてたけし軍団が一般素人の女性をスカウトして料理を作らせる「料理の凡人」というコーナーが有り、ご意見番として当番組の出演者の服部幸應も出演していた。キッチンは服部栄養専門学校を使用。
  • 朝日放送の『ざこば・鶴瓶らくごのご』で、「らくごの鉄ビン」というパロディ特番が企画された。
  • 1996年衆議院議員総選挙では、自由民主党静岡県選出の候補者をまとめて紹介する政見放送が当番組のパロディーになっており、「政治の鉄人」として候補者が舞台にせり上がった。[30]
  • 1999年12月27日に放送された『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』の特番で、本物のキッチンスタジアムを使った料理対決を行っている。主宰を浜田雅功が務め、松本人志(陳に代わる中華の鉄人として、道場・坂井と共に登場)と福山雅治タコをテーマ食材として対決。解説に服部、審査員に加納・岸(他に加賀まりこ北大路欣也)も参加する等本家さながらに行われた。結果は4-0で福山が圧勝。
  • 2008年~2009年にかけて、『ジャンクSPORTS』で不定期に「アスリート料理の鉄人」が行われた。なお、ロゴこそ本家そのままであるが、料理の舞台は普通のキッチンである。

主なスタッフ[編集]

※小山は番組開始当初、裏番組の構成も担当していたため「うどん熊奴」名義(「こやまくんどう」のアナグラム)での参加。以降、この番組以外でも「うどん熊奴」名称を使っている。

スポンサー[編集]

この番組の放送枠は、金曜夜11時枠に移行してからは長きに渡り日産自動車の一社提供枠であった。そのため、番組中に放映される日産自動車のCMでは鹿賀主宰や鉄人達が出演していた。

1999年4月以降からは日産自動車を含む複数スポンサーとなり、一社提供時代のオープニングでは「私の記憶が確かならば、この番組は日産自動車の提供でお送りします」という鹿賀主宰の提供読みが流れていた時期もあった。また、放映される日産自動車のCMにも、鹿賀が主演する同番組専用版がいくつか存在し(例えば、BCNR33系スカイラインGT-RC34系ローレル等)、やはり「私の記憶が確かならば~」のくだりを使用している。

ただし、最後のCMパートでは日清製粉(当番組では粉類は同社のものを使用していた)や花王のCMを放送していたこともある。[31]

また、『世界の恋人』も一社提供時代に流れていた。なお、放送枠が拡大された場合は一社提供のオープニングが「ここからの番組は~」と提供読みが異なったこともあった。(金曜夜9時、夜10時枠は当時の『金曜エンタテイメント』のスポンサー各社が提供していた。)

メディア展開[編集]

書籍[編集]

番組内で作られた料理を解説したレシピ集。
  • 料理の鉄人 完全レシピ集 Part2(幻冬舎) 1995年3月発行 ISBN 4-87728-045-6
  • 小説・料理の鉄人 (扶桑社文庫、全5巻)
美食アカデミーが実在するという設定で書かれたフィクション。鉄人や挑戦者たちが実名で登場しており、番組開始直後から1995年ごろまでに実際に行われた対決を題材としている(「実話に基づいたフィクション」という形であるといえる)。小山薫堂が執筆。
  • 1巻「道場六三郎 対 周富徳・富輝の戦い」 1994年8月発行 ISBN 4-59401-504-2
  • 2巻「陳建一 対 フレンチの刺客」 1994年10月発行 ISBN 4-59401-557-3
  • 3巻「坂井宏行 対 フレンチの刺客清水忠明 和の刺客小山裕久」 1994年12月発行 ISBN 4-59401-608-1
  • 4巻「道場六三郎 対 神田川一門」 1995年1月発行 ISBN 4-59401-650-2
  • 5巻「さらばキッチンスタジアム! そして世界へ」 1995年4月発行 ISBN 4-59401-720-7
番組開始からレギュラー放送終了までの全対戦表や様々なエピソードをまとめた一冊。

ビデオゲーム[編集]

1996年2月23日発売。内容はこれまで放送した番組のデータベースソフトである。

パチンコ[編集]

2009年10月発売・導入。
鹿賀・陳・道場・坂井・服部・岸などといったお馴染みの出演者の他、番組で名勝負を繰り広げた周富徳神田川俊郎も出演する。冷蔵庫前レポーターの太田真一郎実況(オリジナルで言う福井アナのポジション)として登場している。

ケータイゲーム[編集]

  • 料理の鉄人forGREE 新たな挑戦者達 (enish
GREEアプリとして2011年6月15日事前登録開始、同年7月26日正式リリース。2013年11月22日Mobageアプリ、12月26日dゲームアプリに対応。
ユーザーは数百種類に及ぶ多彩なレシピをマスターして料理の腕を磨いていく。和の鉄人・道場六三郎、フレンチの鉄人・坂井宏行、中華の鉄人・陳建一たちとキッチンスタジアムで料理対決ができるソーシャルゲームである。ゲームオリジナルキャラクターとして美食アカデミー初代主宰の・サキが登場し、ゲームのナビゲーター役を務める。

補足[編集]

  • ネット局の鹿児島テレビでは、当番組の放送当時、1993年10月10日~1994年3月27日の日曜22:30~23:00の放送枠が日本テレビ系時差ネット枠のため、30分遅れの23:00~23:30に放送。提供スポンサーのCMもキー局と同じモノをそのまま流していた。なお、フジテレビシングルネット化完了後の1994年4月8日からは、金曜23:00~23:45の同時ネットへと移行した。
  • 日本テレビ系列の山梨放送も一時期放送していたが、45分の番組を1時間枠で放送しており、15分の空き時間は全てCMでつないでいた。そのため、CM時間が非常に長く、非常に間延びした放送となっていた。CM時間の長さが不評だったのか、短期で打ち切られた。

脚注[編集]

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  1. ^ 料理の鉄人 : 13年ぶり“復活” 10月からレギュラー放送”. 毎日新聞 (2012年9月7日). 2012年9月7日閲覧。
  2. ^ なお、1993年10月10日放送の第1回(対決)の制限時間は90分間だった。翌週10月17日放送の第2回(フォアグラ対決)より60分間に変わった。
  3. ^ 「料理の鉄人大全」 p161
  4. ^ 「料理の鉄人大全」 p163
  5. ^ 『料理の鉄人』 フジテレビ「料理の鉄人」、フジテレビ出版、1994年8月10日、初版第1刷、58、64ページ。ISBN 4-594-01495-X加賀田にはその後逆リターンマッチを挑み勝利した。
  6. ^ 『料理の鉄人』 フジテレビ「料理の鉄人」、フジテレビ出版、1994年8月10日、初版第1刷、116、121ページ。ISBN 4-594-01495-X
  7. ^ 「料理の鉄人大全」p.87、p.165によれば、この時に坂井は陳に「陳さんが辞めるなら俺も辞める」「やるんだったら二人で一生懸命やろう」と語ったという。
  8. ^ 2012年12月31日放送分「アイアンシェフ」の成績を加えると、40戦34勝5敗1分 通算勝率85.0%となる。
  9. ^ 「料理の鉄人大全」 p.103
  10. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.102 - 107の本人へのインタビューでは、「いかにも「なだ万」らしい料理を作っても『料理の鉄人』では勝てない」「あの番組では伝統的な和食は喜ばれない」として、それに気づくまでは苦労したことを吐露している。
  11. ^ 神田川も中村と同じく「なだ万」の出身であり、奇しくも「なだ万」出身者同士の対戦となった。
  12. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.120 - 125
  13. ^ ただし、復活版アイアンシェフにて、和のアイアンシェフ黒木純も初戦黒星となっている
  14. ^ 「料理の鉄人 大全」 p.123
  15. ^ 後身の『アイアンシェフ』でも「鹿賀主宰は亡くなった」という設定になっており、2012年10月26日放送の初回2時間SPでは、冒頭で主宰の玉木宏が、初代主宰の鹿賀の墓を訪れていたシーンが存在した。
  16. ^ 初期は石鍋裕が担当した
  17. ^ 「料理の鉄人大全」 P52
  18. ^ 基本的にイタリアのルナ・マティーノの衣装が使われていた。
  19. ^ a b c 「料理の鉄人大全」 pp.76 - 79
  20. ^ 『料理の鉄人』が13年ぶり復活 『アイアンシェフ』としてフジに凱旋
  21. ^ 「料理の鉄人大全」 p.50
  22. ^ 「料理の鉄人大全」 p.151
  23. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.55 - 58
  24. ^ 1996年いつみても波瀾万丈』(日本テレビ
  25. ^ この時は生放送であったため、タイムアップ=新年突入という演出でもあった。
  26. ^ インドネシア出張料理
  27. ^ 評判はよくなかったとされ、この演出では結局、1度きりである。
  28. ^ http://www.fujitv.co.jp/cs/program/7215_058.html
  29. ^ このシーンはもう使用されていない
  30. ^ なお、政見放送という性質上、これはこの番組のネット局であったテレビ静岡以外の在静民放3局とNHK総合テレビでも放送された。
  31. ^ その前はJT(一度だけセコム)のCMを放送していた

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

フジテレビ 日曜日22時台後半枠(1993.10 - 1994.03)
前番組 番組名 次番組
料理の鉄人
フジテレビ系 金曜日23:00 - 23:45枠(1994.04 - 1999.09)
ワーズワースの庭で
料理の鉄人