松尾雄治

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松尾 雄治(まつお ゆうじ、1954年1月20日 - )は東京都出身の元ラグビー選手、スポーツキャスターオフィス北野所属。立教大学ラグビー部OBの父親の影響もあり、成城学園中学校高等学校から、ラグビー強豪の私立目黒高校に転校。

ともに実弟である元 三菱自動車工業京都の雄吾、元 新日本製鐵釜石の雄介も元ラグビー選手である。

来歴・人物[編集]

東京都渋谷区恵比寿生まれ、世田谷区成城育ち[1]目黒高校から明治大学新日本製鐵釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)で活躍。

高校時代は全国高校ラグビーで決勝まで進んだが、自軍インゴールに相手が蹴り込んだボールをタッチダウンせず、蹴り出そうとした。ところが空振り、直後に相手選手がそのボールを押さえ、決勝トライを奪われる。

大学2年までスクラムハーフで日本代表にも選出された。1年時の大学選手権では劇的な逆転トライを導くパスを通し、早稲田の公式戦連勝を36で止めた。が、3年時に北島忠治監督の指示でスタンドオフに転向。本人はこれに一時くさったが、後に奮起。4年時に大学選手権優勝、そして明治史上初の日本選手権優勝を果たす。

新日鐵釜石入社後もスタンドオフとして、日本選手権7連覇を達成する主力選手として活躍。また日本代表の不動の司令塔としてキャップ24を獲得、1983年にはウェールズを相手に24-29の大接戦を演じた。

パント・ロングキックともに精確、敵を幻惑する華麗なステップと戦局を見極めいかなる難局も切り開く卓越した戦術眼を持っていた。キャプテンシーにも優れていた。

スクラムから出たSO若狭からのパスをインターセプトし約40mを走りきった明大戦(明治のメンバーがスクラム前に“33”というサインを皆で確認しあっていた、その“33”は松尾自身が明治在学中に作ったサインであったのでインターセプトできたと、また試合後北島監督から“またお前にやられたか”と愚痴られ恐縮したと後のインタビューで答えている)鮮やかなステップで敵ディフェンスを切り裂いてトライを挙げた同大戦、13人つなぎのトライを完成させた神戸製鋼戦など、ラグビー史上に残る数々の名場面を演出、今日でも日本ラグビー史上屈指のスタンドオフ、そして最大のスターと言われている。

7連覇達成後の1985年に現役を引退し、スポーツキャスターとして活動を開始。「独占!!スポーツ情報」「スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜」にメイン司会者として出演。

その後1992年ポーカー賭博事件により警察に逮捕された(同席していた元読売ジャイアンツ柴田勲も逮捕されている)が、すぐに復帰(この直後に、松尾が明治大学の先輩と慕い、親交があるビートたけしが『北野ファンクラブ』で逮捕された松尾を辛辣に批判するコメントをしている。また明大ラグビー部OB会を除名された。)。1998年日本ラグビー協会の普及育成委員に就任。ラグビーの指導・普及をはじめ、ラジオパーソナリティー、コメンテーター等でも幅広く活躍している。

2004年から2012年まで、成城大学ラグビー部監督を務めた。 2011年東日本大震災で甚大な被害をうけた釜石市の復興のために、NPO法人スクラム釜石を発足させ、新日鉄関係有志、釜石シーウェイブス関係者有志らと復興活動を始めた。

西武ライオンズで活躍した新谷博は彼の従妹の夫にあたり、タレントの長谷川理恵は従兄妹にあたる。

出演番組[編集]

著書[編集]

  • 勝つために何をすべきか―新日鉄釜石の「やる気」ラグビー(講談社)
  • 常勝集団(講談社)
  • 人はなぜ強くなければならないか(講談社)

脚注[編集]

  1. ^ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 現代書林、1982年、112頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]