鶴見俊輔

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日本哲学者
名前: 鶴見俊輔
生年月日: 1922年6月25日
学派:
研究分野: 思想史
特記すべき概念: アメリカのプラグマティズムを日本に紹介

鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年6月25日 - )は、評論家哲学者大衆文化研究者政治運動家

目次

[編集] 人物

東京市(現・東京都)生まれ。俊輔という名は父親の命名で、伊藤博文の幼名による[1]。厳格な母親に反撥し、東京高等師範学校附属小学校3年生のとき近所の中学生と組んで万引集団を結成。本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返す[2]。このためクラスでは除け者にされていたが[2]、このときただ一人鶴見を庇っていた同級生が永井道雄だった[3]。しかし鶴見の側では永井をいじめる態度に出て、大塚駅の前でこうもり傘の柄で永井の足を引っ掛けて水溜りの中に倒し、その後で再びクラスから村八分にされることを恐れて翌日は早くから登校し、クラスの世論を鶴見側に有利に傾けるため事実の捏造をした[3]。肉体的に早熟だったため、10歳をいくつも出ない年齢で歓楽街に出入りし、女給やダンサーと肉体関係を持った他[4]、自殺未遂を5回繰り返して精神病院に3回入院させられた[5]。当時、同校の生徒800人のうちただ一人の不良少年であることが誇りだったという。

「平常点はいつもビリに近いところにいた」ため[6]東京高等師範学校附属中学校に推薦されず、府立高等学校尋常科に入学するも、武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため[7]入学後1年1学期で同校を退学になり、東京府立第五中学校に編入学するもやはり中退。俊輔の将来を心配した父から「土地を買ってやるからそこで養蜂場を経営して女と暮らせ」と言われたこともあるが、最終的には父の計らいで1938年に単身渡米し、同年9月、マサチューセッツ州コンコードミドルセックス・スクールに入学。全寮制の寄宿舎で9ヶ月間の勉強を経て大学共通入学試験に合格。16歳のとき身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニアの勧めでハーヴァード大学に進学、哲学を専攻。18歳の時には、当時働いていたニューヨーク図書館ヘレン・ケラーと一度会い、言葉を交わしている。この頃、ハーヴァードの経済学講師の都留重人と出会い、プラグマティズムを学ぶことを勧められる。都留は生涯の師となった。

1941年12月8日に日米開戦。1942年3月末、無政府主義者としてFBI逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。この間、拘置所から提出した卒論が受理され、19歳でハーヴァードを卒業。1942年6月、日米交換船グリップスホルム号と浅間丸に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国。ただしこれは強制退去ではなく、送還か収容所送りかの選択を迫られて鶴見自身が決めたことであった。収容所にとどまれば食事の心配がないのに敢えて帰国を選んだ理由について鶴見は「敗戦後の日本に帰るとき大変に後ろめたい思いをしなければいけない」「私にとって(収容所の)飯は旨かった。だけどそれを戦争の終りまで─負けることは判ってる─食い続けるのは悪いなという気がした」と説明している[8]

第二次世界大戦時には結核持ちであるにも関わらず徴兵検査に合格したため、徴兵を避けるために海軍軍属に志願し、1943年インドネシアジャワ島に赴任。主に敵国の英語放送の翻訳に従事。1944年12月、胸部カリエスの悪化により帰国。敗戦を日本で迎えた。

戦後、海軍を除隊後に『思想の科学』を創刊し、『共同研究 転向』など思想史研究を行う。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人丸山眞男らとともに戦後言論界の中心的人物とされる。京大助教授時代にはスタンフォード大学から助教授として招聘されたが、原水爆反対運動に関与したことが米国の駐日総領事館から問題視されて米国への入国を拒否され、その後一度も渡米していない。

ベトナム戦争期は「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の中心的な人物として活躍した。反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している[9]が、これに対しては、多くの若者が徴兵され戦地へ向かう中で、自らの学歴や語学力、家柄を盾に「徴兵逃れ」をし、安全な内地にとどまったことを批判する者もいる[要出典]。 

肩書きや職業、学歴家柄にこだわる権威主義的な面がある[10]一方、大衆文化へ着目しており、趣味は漫画を読むことで、漫画評論の先駆けの一人である。漫画の中では山上たつひこの『がきデカ』を高く評価し、「あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだなという自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているんですよ。「正義のために戦え」とか、「聖戦」とかいうふうにして戦争の態勢をつくるところまでにはまだ一歩あるなという感じがするのです」[11]「こういうふうに金とセックスだけを追い求める人間が活躍するわけでしょう。ああ、日本人はこうなんだな、こういう人間がたくさんいるんだなと思って大人になることがいいんです。日本人は神の子で、万邦無比の国体なんだと思って海外に出ていったら困るんですよ。『がきデカ』を読んでいれば、ちがった人間になるんじゃないかという希望をもっています」[12]と述べている。

なお、九条の会の呼びかけ人の1人である。テレビ番組ハケンの品格』がお気に入りで、軍属時代に翻訳新聞発行を一手に引き受けていた自分と、同番組で描かれていた派遣社員とが重なって見えると語っている。[13]

[編集] 略歴

[編集] 著書

[編集] 単著

  • 『哲学の反省』先駆社 1946
  • 『アメリカ哲学』世界評論社、1950 のち講談社学術文庫
  • 『哲学論』創文社 1953
  • 『大衆芸術』河出新書 1954
  • 『プラグマティズム』河出書房 1955.
  • 『アメリカ思想から何を学ぶか』中央公論文庫 1958
  • 『誤解する権利 日本映画を見る』筑摩書房 1959
  • 『折衷主義の立場』筑摩書房 1961
  • 『日常的思想の可能性』筑摩書房 1967
  • 『限界芸術論』勁草書房、1967 のち講談社学術文庫、ちくま学芸文庫
  • 『不定形の思想』文芸春秋 1968
  • 『同時代 鶴見俊輔対話集』 合同出版社 1971
  • 『北米体験再考』岩波新書 1971
  • 『ひとが生まれる 五人の日本人の肖像』ちくま少年図書館 1972 のちちくま文庫
  • 『漫画の戦後思想』文芸春秋 1973
  • 鶴見俊輔著作集』全5巻 筑摩書房 1975-76
  • 『私の地平線の上に』潮出版社、1975
  • 高野長英』朝日新聞社・朝日評伝選、1975 のち選書 のち『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店
  • 『転向研究』筑摩叢書 1976
  • 『いくつもの鏡 論壇時評1974-1975 』朝日新聞社 1976
  • 『グアダルーペの聖母』筑摩書房 1976
  • 柳宗悦』平凡社選書、1976 のち平凡社ライブラリー
  • 『読書のすすめ』潮出版社 1979
  • 『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』平凡社選書 1979 のちライブラリー
  • 『本と人と』西田書店 1979
  • 『文章心得帖』潮出版社 1980
  • 『戦争体験 戦後の意味するもの 鶴見俊輔対話集』ミネルヴァ書房 1980
  • 『戦後を生きる意味』筑摩書房 1981
  • 『戦後思想三話』ミネルヴァ書房 1981
  • 『戦時期日本の精神史 1931~1945年』岩波書店 1982 のち現代文庫 ISBN 4006000502
  • 『家の中の広場』編集工房ノア 1982
  • 『戦後日本の大衆文化史 1945~1980年』岩波書店、1984 のち現代文庫ISBN 4006000510
  • 『絵葉書の余白に 文化のすきまを旅する』東京書籍 1984
  • 『ことばを求めて』太郎次郎社 1984
  • 『人類の知的遺産 60 デューイ』講談社 1984
  • 『読書日録』潮出版社、1985
  • 『大衆文学論』六興出版社、1985
  • 『テレビのある風景』マドラ出版 1985
  • 『老いの生きかた』筑摩書房 1988 のち文庫
  • 『思想の落とし穴』岩波書店、1988
  • 夢野久作』リブロポート(シリーズ民間日本学者)1989 のち『夢野久作迷宮の住人』双葉文庫
  • 『らんだむ・りぃだぁ』潮出版社、1991
  • アメノウズメ伝-神話からのびてくる道』平凡社、1991 のちライブラリー
  • 鶴見俊輔集』12巻補巻5巻-全17巻 筑摩書房、1991-2001
  • 『書評10年』潮出版社、1992
  • 竹内好 ある方法の伝記』リブロポート 1995
  • 『民主主義とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『思想とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『学ぶとは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『社会とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『近代とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『文化とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『家族とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『国境とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『日本人とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『戦争とは何だろうか 鶴見俊輔座談』晶文社 1996
  • 『期待と回想 上・下』晶文社、1997 のち『期待と回想 語りおろし伝』朝日文庫
  • 『隣人記』晶文社 1998
  • 『教育再定義への試み』岩波書店 1999
  • 『夢野久作と埴谷雄高』深夜叢書社 2001
  • 『未来におきたいものは 鶴見俊輔対談集』晶文社 2002
  • 『大人になるって何? 鶴見俊輔と中学生たち』晶文社 2002
  • 『回想の人びと』潮出版社、2002 のちちくま文庫
  • 『大切にしたいものは何? 鶴見俊輔と中学生たち』晶文社 2002
  • 『きまりって何? 鶴見俊輔と中学生たち』晶文社 2002
  • 『本と私』岩波新書 2003
  • 『風韻 日本人として』フィルムアート社 2005
  • 『埴谷雄高』講談社、2005
  • 『詩と自由 恋と革命』思潮社 2006
  • 『鶴見俊輔書評集成』1-3 みすず書房 2007
  • 『たまたま、この世界に生まれて ——半世紀後の『アメリカ哲学』講義——』(編集グループSURE)2007
  • 『悼詩』(編集グループSURE)2008,10

[編集] 共著

[編集] 翻訳

[編集] 受賞歴

[編集] 家族

父は前述の通り鶴見祐輔であり、政治家後藤新平は母方の祖父にあたる。社会学者である上智大学名誉教授の鶴見和子は姉。鶴見直輔は弟。英文学者翻訳家横山貞子は妻。息子の鶴見太郎早稲田大学文学部准教授。

『ナマコの眼』等で知られる人類学者鶴見良行は父方の従兄弟。演出家の佐野碩は母方の従兄弟。

[編集] エピソード

多くの仕事を鶴見とした、筑摩書房の編集者松田哲夫によると、鶴見の読書量と記憶力はすさまじく、『ちくま日本文学全集』の編集作業の際に、幼少期からの膨大な既読書の内容をすべて覚えており、それが「赤川次郎作品すべて」にまで及んでいることが判明。他の編者たち(安野光雅森毅井上ひさし池内紀)らも唖然としたという(松田著『編集狂時代』より)。

[編集] 脚注

  1. ^ 新藤謙『ぼくは悪人』p.12
  2. ^ a b 新藤謙『ぼくは悪人』p.44
  3. ^ a b 鶴見俊輔「恩人」
  4. ^ 新藤謙『ぼくは悪人』p.52
  5. ^ 新藤謙『ぼくは悪人』p.58
  6. ^ 新藤謙『ぼくは悪人』p.53
  7. ^ 新藤謙『ぼくは悪人』p.75
  8. ^ ETV特集『鶴見俊輔~戦後日本 人民の記憶~』(NHK教育テレビ2009年4月12日)での発言。
  9. ^ 鶴見俊輔・上野千鶴子小熊英二『戦争が遺したもの』(新曜社、2004年3月)p42-p135
  10. ^ 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』(新潮社、2006年3月)p19-p248
  11. ^ 鶴見俊輔「マンガの歴史から」
  12. ^ 鶴見俊輔「日本のマンガの指さすもの」
  13. ^ 『論座』2007年4月号(朝日新聞社)。

[編集] 参考文献

  • 新藤謙『ぼくは悪人 少年鶴見俊輔』東方出版
  • 原田達『鶴見俊輔と希望の社会学』世界思想社
  • KAWADE道の手帖 鶴見俊輔 いつも新しい思想家』河出書房新社

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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