三谷八郎

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三谷 八郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1905-03-27) 1905年3月27日
没年月日 不明
選手情報
ポジション 三塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

三谷 八郎(みたに はちろう、1905年3月27日 - 没年不明)は日本野球選手、野球監督、プロ野球審判員1941年から1942年途中まで、南海軍(現・福岡ソフトバンクホークス)の監督を務めた[1]

経歴[編集]

神戸市立第一神港商業学校(現・神戸市立神港橘高等学校)、慶應義塾大学出身。慶應義塾大学の野球部では、三塁手として活躍した。大学卒業後の1936年から1939年まで甲子園大会の審判員を務め、1941年に南海の監督に就任。1942年途中に監督をやめ、1948年から審判員となった。1950年よりセ・リーグに所属し1953年まで務めた。通算の審判出場試合数は485試合。後年はサンケイスポーツの評論家として活動した[1]

監督成績[編集]

1942年はシーズン途中の7月20日に退任。表はシーズン通算のものであることに留意。

年度 球団

勝利 敗戦 引分 勝率 ゲ|ム差
1941 南海 4位 84 43 41 0 .512 19.0
1942 6位 105 49 56 0 .467 26.5
通算:2年 189 92 97 0 .487

関連項目[編集]

脚注[編集]