ロディ・パイパー

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"ラウディ" ロディ・パイパー
"ラウディ" ロディ・パイパーの画像
プロフィール
リングネーム "ラウディ" ロディ・パイパー
マスクド・カナディアン
本名 ロドリック・ジョージ・トゥームス
ニックネーム ホット・ロッド
狂乱のスコッチ
身長 183cm
体重 103kg
誕生日 1954年4月17日(60歳)
出身地 カナダの旗サスカチュワン州
サスカトゥーン
スポーツ歴 ボクシング
トレーナー

スチュ・ハート

ジョージ・ゴーディエンコ
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"ラウディ" ロディ・パイパー"Rowdy" Roddy Piper1954年4月17日 - )(1950年1952年説も有る)はカナダサスカチュワン州サスカトゥーン出身、オレゴン州ヒルズボロ在住のプロレスラー俳優。本名はロドリック・ジョージ・トゥームスRoderick George Toombs)。またの名をホット・ロッドHot Rod)、日本での異名は「狂乱のスコッチ」。

ギミック上はスコットランドグラスゴー出身とされる。実際にはスコットランド系カナダ人で入場曲はバグパイプで演奏され、試合以外の場面では常にキルトスカートを纏っている。体格的には決して恵まれてはいないが、卓越した試合センスとマイクパフォーマンスの巧みさで1980年代のアメリカンプロレスを代表するトップスターとなった。

来歴[編集]

NWA時代[編集]

少年時代スコットランドに移住した経験があり、バグパイプの演奏法もその際に学んだという。その後カナダに戻り、中学時代にボクシングの全カナダ王者となったが、拳を負傷しボクシングを断念。本人によれば15歳でプロレスラーとしてのキャリアをスタート、デビュー戦の相手だったラリー・ヘニングには秒殺されたという。その後NWAロサンゼルス地区に渡り、ラフファイトを主体とする現在のスコッチギミックを確立。アメリカス・ヘビー級王座を巡るチャボ・ゲレロとの抗争で注目を浴びる。

1977年8月に新日本プロレスに初来日。外国人エース格のスタン・ハンセンブラックジャック・マリガンのパートナーに起用されてメインイベントにも出場し、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦している。また、バグパイプを吹きながらの入場シーンも話題を呼んだ。1978年3月には覆面を被りマスクド・カナディアンThe Masked Canadian)として再来日。藤波辰巳の凱旋帰国試合の相手を務めた。

その後オレゴン地区のPNWに進出、リック・マーテルとのコンビでザ・シープハーダーズとNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を争い、シングルではバディ・ローズスタン・ステイジャックと抗争した。1980年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナミッドアトランティック地区へと転戦し、リック・フレアーグレッグ・バレンタインとNWA・US王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を争うライバルとして活躍。特にフレアーとは生涯の宿敵・親友となった。以降も同地区を主戦場に、リッキー・スティムボートジャック・ブリスコワフー・マクダニエルらトップスターと抗争。1983年5月には全日本プロレスに来日し、ディック・スレーターとのコンビでジャイアント馬場ジャンボ鶴田インターナショナル・タッグ王座にも挑戦している。

1980年代初頭にはジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにてカラー・コメンテーターやインタビュアーも兼任、トークの才能を発揮した。

WWF時代[編集]

1984年ポール・オーンドーフデビッド・シュルツマネージャーとしてWWFにスカウトされるが、間もなくレスラーとして試合にも出場するようになる。パイパーズ・ピットPiper's Pit)なるインタビューコーナーを開始し、ジミー・スヌーカとの抗争で一気にブレイク。ポール・オーンドーフ&カウボーイ・ボブ・オートンと悪のユニットを結成し、ハルク・ホーガンらスーパースターを敵に回してトップ・ヒールとしての地位を築き上げた。全盛期のホーガンを相手にただの一度としてフォール負けを許さなかった唯一の選手でもある。

1985年に行われたレッスルマニアの記念すべき第1回大会ではメインイベントにヒール側のチームとして出場。1986年レッスルマニア2では、映画『ロッキー3』に出演したアクション俳優ミスター・Tとボクシングマッチを行なう。やがて悪党人気が観客の支持へと変わり、1987年ベビーフェイスに転向。旧敵のホーガンともタッグを組み、アドリアン・アドニスとの抗争も開始する。前後して映画俳優としての活動も行なうようになり1988年公開の『ゼイリブ』では主演を果たした。

その後、しばらく現役を離れ実況席でカラー・コメンテーターとして活躍していたが、1991年にNWA時代のライバルだったリック・フレアーがWWFに移籍してくるとリングに復帰。フレアーとの抗争を各地で展開した。1992年1月19日にはザ・マウンティーを破ってインターコンチネンタル王座を獲得。同年のレッスルマニアVIIIでは王座をブレット・ハートに奪われたものの名勝負を繰り広げた。

WCW時代[編集]

その後も単発的にWWFに出場していたが、1996年WCWに移籍。1999年2月にはNWAミッドアトランティック時代から数えて16年ぶりにWCW・USヘビー級王座(現在のWWE・US王座)を奪取するが、2000年に離脱。その後、WCWは消滅し、パイパーは元WCW勢が主宰していたXWFに参加。この頃からレスラーとしてはセミリタイア状態となる。

WWE復帰[編集]

2003年にWWEでホーガンとビンス・マクマホンが抗争を開始すると、双方に遺恨を持つ人物としてインタビューに登場、レッスルマニア19のホーガンvsマクマホン戦に乱入しWWEに復帰。パイパーズ・ピットを再開しショーン・オヘアのマネージャーを務めたが間もなく薬物使用で解雇される。

2005年に行われたレッスルマニア21ではパイパーズ・ピットが催されゲストとしてストーンコールド・スティーブ・オースチンを招待、WWEを代表する饒舌家同士の舌戦を繰り広げるも途中カリートが登場し両者を非難、しかしパイパーとオースチンに迎撃され退散した。その後両者は祝杯をあげるが最後はお約束としてパイパーがオースチンのスタナーをもらい受けた。

(左から)レッスルマニア25でのパイパー、スヌーカスティムボート

その後TNA参戦を経て、2005年WWE殿堂(プレゼンターはリック・フレアー)に迎えられてからはレジェンドとしてWWEに度々ゲスト参戦し、パイパーズ・ピットを開催している。2006年11月5日のサイバー・サンデーでは、インターネット投票によりフレアーのパートナーに選出され世界タッグ王座を獲得。意外にもこれが生涯初の「世界」王座の獲得となった。

その直後に行われた選手活動のための健康診断でホジキンリンパ腫が発見され、11月27日のWWE.com上でファンにも報告されたが、順調に体調を回復。翌2007年2月12日のRAWにて久々にファンの前に登場し、ウマガの急襲を受けるというアングルも見られた。

以降もWWEへのスポット出場を続け、2008年10月26日のサイバー・サンデーでは、サンティーノ・マレラIC王座に挑戦したホンキー・トンク・マンゴールダストと共に援護射撃。2009年にはクリス・ジェリコとの遺恨が勃発、旧友リッキー・スティムボート&ジミー・スヌーカとレジェンド軍を結成し、4月5日のレッスルマニア25にてジェリコとの1対3のハンディキャップ・エリミネーション・マッチが行われた。

11月16日にマディソン・スクウェア・ガーデンにて行われたRAWにゲストホストとして登場、7年ぶりにミスター・マクマホンと絡み、全盛期に劣らぬ舌戦をみせた。その後、ランディ・オートンとのストリートファイトマッチが組まれるも年齢の差から苦しい展開をみせ、オートンの必殺であるパントキックを受けそうになるも間一髪のところでコフィ・キングストンが乱入、オートンに場外レッグドロップを決めてパイパーを救出した。

2010年3月27日には、レッスルマニア第1回大会の成功に共に貢献したウェンディ・リヒターのWWE殿堂入りのプレゼンターを務めた。同年11月15日に行われたRAWの "Old School Edition" にもレジェンドの一人として出演し、ジョン・シナにWWE王座を獲得できなかった自身の想いや、過去にWWE王者となったレジェンド達の権威を説いた。

パイパーズ・ピット[編集]

パイパーがホストを務めるインタビューコーナー。1984年に開始。絨毯の敷かれたリング上またはスコットランド風の装飾が施されたバックステージのセット内で行われる。大抵が対象となるレスラーに何かと因縁を吹っ掛け、乱闘になった挙句、抗争に発展するパターンである。特に第1回レッスルマニアへのプロローグとなった、ジミー・スヌーカの頭でココナッツを叩き割ったシーンは有名。このコーナーがパイパーのヒールとしての人気を決定付け、レスラーとしては体格に恵まれなかったパイパーを一躍スーパースターの仲間入りさせた(パイパーはNWAミッドアトランティック時代から、本やラジオなどをチェックしてインタビューに使えそうなフレーズを書き留めていたという[1])。

以降、パイパーと同じくマイクパフォーマンスに優れたレスラーがスターダムに上がるようになり、その後のアメリカンプロレスに与えた影響は非常に大きい。ザ・ロックも「ハルク・ホーガンよりもそれに唾を吐くロディ・パイパーになりたかった」と、尊敬するレスラーの一人として名前を挙げている。パイパーズ・ピット以降、WWEではジェリー・ローラー(キングス・コート)、ショーン・マイケルズ(ハートブレイク・ホテル)、クリス・ジェリコ(ハイライト・リール)、カリート(カリートス・カバナ)、レネ・デュプリー(カフェ・ド・レネ)、エッジ(カッティング・エッジ)、MVP(VIPラウンジ)などが同様のインタビューコーナーを行なっている。

日本での評価[編集]

パイパーと同世代の選手では、たとえばラリー・ズビスコドン・ムラコなど、マイクアピールによる観客との駆け引きを得意とするレスラーは英語の通じない日本では真価を発揮することが難しかった。しかしパイパーはマイクを通さずとも、彼のもう一つの持ち味である「向こうっ気の強さ」を全面に出したイキのいいラフファイトと抜群のレスリングセンスで、日本でも若手時代から高い評価を獲得している。アメリカマットで超売れっ子だったため、来日回数は1977年から1983年まで通算3回と少なく日本では大きな実績を残せなかったものの、当時のファンや関係者の間では来日を望む声が多く聞かれた。[2]

なお、日本には1977年に新日本プロレスへ初来日しているが、前年にモハメド・アリとの異種格闘技戦のプロモーションでロサンゼルスを訪れたアントニオ猪木がテレビのインタビューに応えた際、同地区を主戦場としていたパイパーが乱入して猪木に喧嘩を売るというアングルが組まれたこともある。[2]

得意技[編集]

パンチの連打。最後は溜めて額に一撃を与える。

獲得タイトル[編集]

ロサンゼルス地区
サンフランシスコ地区
PNW
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:2回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:5回(w / キラー・ブルックスリック・マーテル×3、マイク・ポポビッチ)
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / リック・マーテル)
ミッドアトランティック地区
WCCW
WWF / WWE
WCW

入場曲[編集]

  • For Everybody
  • Scotland The Brave

出演[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P131-132(2004年、エンターブレインISBN 4757721536
  2. ^ a b 『THE HEEL(プロレスアルバム16)』P56(1981年、ベースボール・マガジン社

外部リンク[編集]