ポール・オーンドーフ
| ポール・オーンドーフ | |
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Paul Orndorff in 2009
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| プロフィール | |
| リングネーム | ポール・オーンドーフ |
| 本名 | ポール・パーレット・オーンドーフ Jr. |
| ニックネーム | ミスター・ワンダフル ザ・ブランドン・ブル 鋼鉄男 |
| 身長 | 185cm |
| 体重 | 115kg(全盛時) |
| 誕生日 | 1949年10月29日(63歳) |
| 出身地 | フロリダ州ブランドン |
| スポーツ歴 | アメリカンフットボール |
| トレーナー | ヒロ・マツダ ジャック・ブリスコ エディ・グラハム |
| デビュー | 1976年 |
| 引退 | 1995年 |
ポール・オーンドーフ(Paul Orndorff、1949年10月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州ブランドン出身。本名はポール・パーレット・オーンドーフ・ジュニア(Paul Parlette Orndorff Jr.)。
ボディビルダー顔負けの鍛え抜かれた肉体を武器に、NWA、WWE、WCWなど各団体でトップスターとして活躍した。"ミスター・ワンダフル" (Mr. Wonderful)のニックネームでも知られる。日本では、その鋼のような肉体から "鋼鉄男" の異名を付けられた。
目次 |
来歴 [編集]
タンパ大学時代はアメリカンフットボールで大活躍した名プレイヤーであり、卒業後はNFLでカンザスシティ・チーフス、ニューオーリンズ・セインツにも在籍している。その後ヒロ・マツダの門下生になり、1976年にプロレスラーとしてデビュー。デビュー後は南部エリアを中心に活動し、1977年にテネシー州メンフィスでジェリー・ローラーからNWA南部ヘビー級王座を[1]、1978年にはトライステート地区でアーニー・ラッドからNWA北米ヘビー級王座を奪取している[2]。
その後はジム・クロケット・ジュニアの管理するNWAミッドアトランティック地区に参戦。1978年12月26日、ジミー・スヌーカとのコンビでバロン・フォン・ラシク&グレッグ・バレンタインを破り、同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得した[3]。1979年10月にはアラバマのSECWにて、タンパ大学時代の盟友ディック・スレーターと組みNWAサウスイースタン・タッグ王者にもなっている[4]。
1980年代に入るとビル・ワットのMSWAを主戦場に、1981年7月にジェイク・ロバーツを破りミッドサウス北米ヘビー級王座を獲得[2]。以降も同王座を巡り、テッド・デビアス、ディック・マードック、マイク・ジョージら強豪と対戦した。1982年からはジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに進出。バズ・ソイヤー、スーパー・デストロイヤー、マスクド・スーパースター、トミー・リッチから同地区認定のナショナルヘビー級王座を4回に渡って奪取し[5]、次期NWA世界ヘビー級王者の有力候補に挙げられた(同時期、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している)。
1983年末にWWF(現・WWE)へ引き抜かれ、ミスター・ワンダフルのニックネームでヒールとして活躍。1984年よりスタートしたWWFの全米侵攻の重要メンバーとなり、ロディ・パイパー、カウボーイ・ボブ・オートンと悪役トリオを結成する。1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会のメインイベントでは、パイパーとのコンビでハルク・ホーガン&ミスター・Tと対戦した。その後、この試合の結果(セコンドのオートンとの同士討ちによる敗北)がもとでパイパーと仲間割れしてベビーフェイスに転向、旧敵ホーガンのタッグパートナーとなる。その抜群のルックスで女性ファンからの絶大な支持を獲得し[6]、WWFナンバー2のポジションに就いた。
しかし、ホーガン人気への嫉妬心からの裏切りというストーリーのもと再びヒールに戻り、ボビー "ザ・ブレイン" ヒーナンを新しいマネージャーにホーガンとの熾烈な抗争を再開する。特に、1986年8月28日にカナダ・オンタリオ州トロントのエキシビション・スタジアムにて7万4000人の大観衆を集めて開催されたザ・ビッグ・イベントのメイン戦や、1987年1月3日のサタデー・ナイト・メイン・イベントで行われたスチール・ケージ・マッチは、WWE史に残る試合として知られている。その後、再度ベビーフェイスとなってリック・ルードらと抗争するが、過酷な全米サーキットを通して首を痛めたこともあり、徐々にフェードアウト。WWF離脱後は1988年のセミリタイアを経て1990年にWCWに登場するも、程なく退団。その後は散発的にジム・コルネットのSMWなどのインディー団体に上がった。
1993年からはWCWに復帰、空位となっていたWCW世界TV王座を獲得した他、WWF時代の後輩 "プリティ" ポール・ローマとのタッグチーム「プリティ・ワンダフル」でも活躍。1994年7月17日にカクタス・ジャック&ケビン・サリバン、同年10月23日にザ・パトリオット&マーカス・バグウェルを破り、WCW世界タッグ王座を2回奪取している[7]。首の怪我の悪化により1995年に引退してからは若手育成機関WCWパワープラントの教官を務める一方、ロード・エージェントとしても活躍し、極東担当を任されていたこともある。
日本には1980年代、WWF入りする以前に新日本プロレスに数回来日した。1980年の初来日時は長州力、藤波辰巳に勝利し、アントニオ猪木とのシングルマッチでも善戦。新間寿は全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンの後釜候補に、アドリアン・アドニスと彼の名を挙げていた。1983年には前田日明ヨーロッパ凱旋帰国初戦の相手を務め、フライング・ニールキック、リバース・アームソルトの連続技にあっさりと敗退。試合後、首を押さえながらレフェリーに「なぜ、あんな危険な技を使わせるのか?」と抗議する一幕も見られた。また、次の来日時の再戦でも前田のジャンピング・ニーアタックを食らってのエプロン・カウントアウト負けを喫するなど、前田の売り出しアングルに一役買ったものの、アメリカマットでのスケジュールが多忙だったこともあり新日本に定着することはなかった。
1995年にWCWでIWGPヘビー級王座をかけてグレート・ムタと対戦したことがあるが、新日本プロレス非公認であったため公式にはタイトルマッチとして扱われていない(ベルトを保持していたのはムタではなく武藤敬司であったため)。また、エージェント時代の2000年にはムタのWCWサーキットをプロデュースした。
2005年には1980年代のWWFにおける功績から、WWE殿堂に迎えられている。プレゼンターはかつてのマネージャーであるボビー・ヒーナンが務めた。
得意技 [編集]
獲得タイトル [編集]
- NWA南部ヘビー級王座(ミッドアメリカ版):1回
- NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):2回
- NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ジミー・スヌーカ)
- NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ディック・スレーター、ノーベル・オースチン)
- ミッドサウス北米ヘビー級王座:1回
- NWAナショナル・ヘビー級王座:4回
- AWFヘビー級王座:1回
- UWFサザン・ステーツ王座:1回
- NWLタッグ王座:1回(w / ブライアン・ブレアー)
- WCW世界TV王座:1回
- WCW世界タッグ王座:2回(w / ポール・ローマ)
- WWE Hall of Fame:2005年度(プレゼンターはボビー・ヒーナン)
エピソード [編集]
- 現役時代のライバル、ハルク・ホーガンとは非常に仲が悪いことで有名。共にフロリダ出身でヒロ・マツダに師事しており、学生時代から顔を知っていたともいう。2005年のWWE殿堂式典の際は同じく殿堂入りしたホーガンの入退場の際、壇上で一人座ったまま拍手もしなかった。さすがにホーガンから手を差し出された際には苦笑いしながら握手には応じている[6]。
脚注 [編集]
- ^ “NWA Southern Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。
- ^ a b “NWA North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。
- ^ “NWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。
- ^ “NWA Southeastern Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。
- ^ “Wrestler Profiles: Paul "Mr. Wonderful" Orndorff”. Online World of Wrestling. 2009年5月2日閲覧。
- ^ a b DVD『WWE レッスルマニア21』DISC-3(2005年、ジェネオン・エンタテインメント)
- ^ “WCW World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。
関連項目 [編集]
- ロディ・パイパー
- ボブ・オートン・ジュニア
- ナチュラル・ボーン・スリラーズ
- デビッド・シュルツ(WWF移籍初期のパートナー)
- ディック・スレーター(タンパ大学フットボールチームの同期)
- リッキー・スティムボート(1980年頃の日本では、スティムボートとオーンドーフは「まだ見ぬ強豪」の筆頭として来日が待たれていた)
外部リンク [編集]
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