マーティ・ジャネッティ

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マーティ・ジャネッティ
マーティ・ジャネッティの画像
プロフィール
リングネーム マーティ・ジャネッティ
"ザ・ロッカー" マーティ・ジャネッティ
マーティ・オーツ
本名 フレデリック・マーティ・ジャネッティ(フレデリック・マーティン・オークス)
ニックネーム 弾丸児
身長 181cm
体重 101kg
誕生日 1960年2月3日(55歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ジョージア州の旗 ジョージア州コロンバス
トレーナー ジェリー・オーツ
デビュー 1984年4月5日
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マーティ・ジャネッティMarty Jannetty、本名:Frederick Marty Jannetty[1]1960年2月3日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラージョージア州コロンバス出身。

ショーン・マイケルズとのタッグチームザ・ロッカーズThe Rockers)での活躍で知られる。

来歴[編集]

NWA〜AWA[編集]

全日本プロレスの常連外国人選手だったジェリー・オーツのトレーニングを受け、1984年4月にカンザスシティNWAセントラル・ステーツ地区でデビュー。当初は師匠にあやかりマーティ・オーツMarty Oates)をリングネームとしていたが、すぐにマーティ・ジャネッティMarty Jannetty)に改名し、トミー・ロジャース[2]アップタウン・ボーイズThe Uptown Boys)を結成、ベビーフェイスの新鋭として売り出される。シングルではジプシー・ジョーからセントラル・ステーツTV王座を、ミスター・ポーゴから同ヘビー級王座をそれぞれ奪取[3][4]。デビュー翌年の1985年8月には早くも全日本プロレスに初来日しているが、キャリア不足を露呈して技に失敗し、後楽園ホールの観客の失笑を買うこともあった。

その後、テキサスサンアントニオ地区から転戦してきた新人のショーン・マイケルズミッドナイト・ロッカーズThe Midnight Rockers)を結成。当時の人気タッグチーム、ロックンロール・エクスプレスロバート・ギブソン&リッキー・モートン)の二番煎じと関係者からは揶揄されたが、1986年5月にセントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得[5]、同年よりバーン・ガニアAWAに移籍する。

AWAではバディ・ローズ&ダグ・サマーズ、アレックス・スミルノフ&ポール・デマルコ、バッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)などのチームと抗争し、1987年1月27日にはローズ&サマーズからAWA世界タッグ王座を奪取[6]。同年12月27日にも、ポール・E・デンジャラスリー率いる "オリジナル" ミッドナイト・エクスプレスデニス・コンドリー&ランディ・ローズ)を下し再び同王座を獲得した[6]。この間、ジェリー・ジャレットジェリー・ローラーが主宰していたテネシー州メンフィスCWAにも遠征し、AWA南部タッグ王座も2度に渡って獲得している[7]

WWF[編集]

ザ・ロッカーズ(左がショーン・マイケルズ、右がマーティ・ジャネッティ)

彼らとWWFとの最初の契約は1987年の夏だったが、不祥事を起こして2週間で解雇[8]。その後AWA復帰を経て、1988年に改めて再契約を交わした。チーム名もザ・ロッカーズThe Rockers)と簡略化し、アイドル系の若手タッグチームとして女性や子供の観客からの支持を獲得。ハート・ファウンデーションデモリッション、ブレーン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)、ツイン・タワーズ(ビッグ・ボスマン&アキーム)、パワー&グローリーハーキュリーズ&ポール・ローマ)、ナスティ・ボーイズなど、数々のチームと激闘を繰り広げたが、タッグ王座に就く機会には恵まれなかった。

1991年11月27日、サバイバー・シリーズにおける同士射ちを発端にマイケルズとの仲間割れアングルが勃発。翌1992年初頭のブルータス・ビーフケーキのインタビュー・コーナー "バーバーショップ" で一旦は和解したかに見えたが、不意をついたマイケルズがスウィート・チン・ミュージックでジャネッティをKO。ロッカーズは解散し、マイケルズはヒールのシングル・プレイヤーとして売り出されることになるが、ジャネッティはマイケルズの急襲による負傷というアングルのもと、諸事情のためしばらくWWFを離脱する。

カムバック後は、1993年よりマイケルズとの本格的な抗争がスタート。1月24日のロイヤルランブルではマイケルズのインターコンチネンタル王座に挑戦、試合では当時マイケルズとの間に軋轢が生じていたマネージャーセンセーショナル・シェリー[9]がジャネッティのセコンドに付いた。その後もIC王座を巡る連戦を行い、5月17日のマンデー・ナイト・ロウにてマイケルズを下しタイトルを獲得するが[10]、6月6日のリターンマッチではディーゼルの介入によりマイケルズが奪還に成功している。

同年下期からは同じくマイケルズやディーゼルと反目していたレイザー・ラモン1-2-3キッドと共闘し、翌1994年1月10日にはキッドとのコンビでザ・ケベッカーズ(ジャック&ピエール)からWWFタッグ王座を奪取[11]。翌週のRAWで奪還され、またもや短命王者に終わったものの、ロッカーズ時代には成し得なかった同王座への初戴冠を果たした。しかし、ロッカーズ時代に起こしたリング禍の裁判[12]が同年より始まり、再びWWFから姿を消すことになる。

その後、ECWへのスポット参戦(エディ・ゲレロらと対戦)を経て1995年9月よりWWFに復帰したがポジションを見出せず、1996年からはレスラーとしてのキャリアでは初めてとなるヒールに転向。リーフ・キャシディことアル・スノーニュー・ロッカーズThe New Rockers)を結成するもファンの反応は鈍く、1996年11月のサバイバー・シリーズを最後にWWFを退団した。

復帰〜近年[編集]

1997年、インディー団体Ultimate Championship Wrestlingにて

1997年は東部のインディー団体を転戦し、1998年よりWCWと契約。従来通りのベビーフェイスとしてスコット・スタイナークリス・ジェリコクリス・ベノワらと対戦するが、ミッドカード専門のジョバーのポジションに甘んじ、同年下期に負傷のため解雇された。

その後しばらく近況が聞かれなかったが、2003年頃よりインディー団体でカムバックし、2004年7月にはロッカーズ・ギミックの先達である元ロックンロール・エクスプレスのロバート・ギブソンとのロックン・ロッカーズThe Rock 'n' Rockers) としてIWAジャパンに登場、1990年代初頭のSWS参戦以来となる久々の来日を果たした。

そして2005年、3月14日開催のRAWにおいてWWEに電撃復帰。ショーン・マイケルズとの一夜限りのロッカーズ再結成が実現し、ラ・レジスタンスシルヴァン・グラニエ&ロブ・コンウェイ)を撃破した。3月17日放送のスマックダウンでは、レッスルマニア21に向けて当時マイケルズと抗争中だったカート・アングルとも対戦。ファンの反応も上々でフルタイム契約が結ばれたにもかかわらず、不祥事のため7月に契約は破棄された。

2006年2月20日、再びWWE(RAW)に登場。スピリット・スクワッドの5人がかりの攻撃からマイケルズを救出して大喝采を浴びたが、以降も解雇と復帰を繰り返し、WWEにはパートタイム参戦の状態となる。2007年12月10日のRAW15周年大会では、やはりマイケルズと抗争していたミスター・ケネディと対戦した。

2009年には、前週に元タッグパートナー同士のUS王者ザ・ミズとIC王者ジョン・モリソンが自分達をロッカーズになぞらえ、互いのどちらかがマイケルズの如く成功し一方はジャネッティのように没落する、と言い争ったのを受け10月19日のRAWに登場。ジャネッティを散々に愚弄したミズと対戦するが、スカル・クラッシング・フィナーレを食らいフォール負けを喫した。

近年はセミリタイアの状態ながら、インディー団体へのスポット参戦を続けており、2011年からはチカラに出場している。

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

セントラル・ステーツ・レスリング
アメリカン・レスリング・アソシエーション
コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
  • AWA南部タッグ王座:2回(w / ショーン・マイケルズ) [7]
ワールド・レスリング・フェデレーション
その他
  • MTWヘビー級王座:1回
  • MWAヘビー級王座:1回
  • NBPWヘビー級王座:1回
  • WWWAインターコンチネンタル王座:1回
  • SWA TV王座:1回
  • UWCタッグ王座:1回(w / Purple Hooter)

脚注[編集]

  1. ^ もともとの本名はフレデリック・マーティン・オークスFrederick Martin Oakes)だったが、2007年よりフレデリック・マーティ・ジャネッティFrederick Marty Jannetty)を正式に本名としている。
  2. ^ ボビー・フルトンとのザ・ファンタスティックスで活躍したトミー・ロジャース(トーマス・コーチ)とは別人。後にトミー・レーンと改名してマイク・デービスとロックンロールRPMsを結成し、メンフィスのCWAでミッドナイト・ロッカーズとAWA南部タッグ王座を争った。
  3. ^ a b NWA Central States Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月6日閲覧。
  4. ^ a b NWA Central States Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月6日閲覧。
  5. ^ a b NWA Central States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月6日閲覧。
  6. ^ a b c AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月6日閲覧。
  7. ^ a b AWA Southern Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月6日閲覧。
  8. ^ 酒に酔ってナイトクラブの器物を損壊させたことが原因だという(『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P197 / 2001年エンターブレイン発行 / ISBN 4-7577-0639-1)。
  9. ^ ジャネッティの急襲を、マイケルズがシェリーを盾にして防いだことによる。ロッカーズとシェリーはAWA時代からの盟友であり、2007年6月に死去したシェリーの葬儀には2人とも参列している。
  10. ^ a b History of the WWE Intercontinental Championship”. WWE.com. 2010年4月6日閲覧。
  11. ^ a b History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月6日閲覧。
  12. ^ 1990年12月、ロッカーズとタッグマッチを行ったジョバーのチャールズ・オースチンが、ジャネッティのフィニッシュ技「ロッカー・ドロッパー」を受けて再起不能の重傷を負った。オースチンはWWFを相手に訴訟を起こし勝訴。WWFは2670万ドルの賠償金を支払うことになった。

外部リンク[編集]