西村修

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
西村 修
西村 修の画像
プロフィール
リングネーム 西村 修
ニシム・ラマ
大猷 修
本名 西村 修
ニックネーム ミスター無我
無我の伝道師
無我説法師
無我の継承者
自由人
闘う哲学者
身長 186cm
体重 105kg
誕生日 1971年9月23日(42歳)
出身地 東京都文京区
所属 フリー
スポーツ歴 バレーボール
野球
スノーボード
トレーナー 藤波辰爾
ヒロ・マツダ
カール・ゴッチ
ドリー・ファンク・ジュニア
トニー・セント・クレアー
ドン・ジャーディン
デビュー 1991年4月21日
テンプレートを表示

西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - )は、日本の政治家でプロレスラー東京都文京区出身で、現在は同区の無所属の区議会議員

階級はヘビー級。ミスター無我無我の継承者のニックネームを持つ。グラウンドでのサブミッションホールド関節技固め技)技を中心としたプロレスを得意とし、そのようなスタイルはしばしば「西村ワールド」と形容される。

現在、慶應義塾大学文学部(通信教育課程)で哲学を専攻する学生でもある。

来歴[編集]

新日本プロレス[編集]

錦城学園高等学校在学中に新日本プロレス学校に入門。卒業後の1990年新日本プロレスに入団。

1991年4月21日、沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之(現:飯塚高史)戦でデビュー。

1993年、第4回ヤングライオン杯に準優勝後、アメリカへ海外武者修行に出発。フロリダヒロ・マツダのもとで再トレーニングを積んだ後、各地のインディー団体を転戦し、ダラスのGWFでは1994年8月にアレックス・ポートゥからライトヘビー級王座を奪取[1] [2]。同年11月にはジム・コルネットの主宰するノックスビルのスモーキー・マウンテン・レスリングにも出場している[3]。翌1995年ECWに参戦、1月7日にフィラデルフィアECWアリーナにてアル・スノーと対戦した[4]

1995年に海外武者修行から帰国し、藤波辰爾の自主興行「無我」にもレギュラー出場した。

1997年、再び海外修行へ出発し、オットー・ワンツの主宰する欧州CWAマットに参戦。ベビーフェイスのポジションでトニー・セント・クレアーともタッグを組み、フィット・フィンレイジャン=ピエール・ラフィットライノ・リチャーズヒール勢と対戦した[5]

1998年1月4日に凱旋帰国。直後に佐々木健介が持っていたIWGPヘビー級王座に挑戦するが、ミサイルキックを何度も使う単調な試合運びに終始し、批判を浴びる。しかし現在では今につながる西村の頑固ぶりが出た最初の試合と言われている。その後、ガン(後腹膜腫瘍)宣告を受け長期欠場。当時現場責任者であった長州力の横暴なやり方に批判し猛反発を受け、それ以降長州を「独裁主義者」と呼んで非常に嫌っている。週刊プロレスのインタビューにも度々そのことについてコメントしている。これに対し長州は無視を決め込んでいる。

1998年よりの欠場から徹底した台湾での漢方療法、イタリア・シチリア島での無農薬完全野菜療法、インド・ケララ州でのアーユルヴェーダ療法、海水を用いた海水浴療法、座禅、ヨガ、瞑想、玄米菜食法に取り組む。 独自の食養療法と精神修行に励み、2000年に藤波戦で1年8か月ぶりに復帰。藤波と組んでIWGPタッグ王座を奪取。

2002年プロレスリング・ノアに一日トレードの形で出場し、志賀賢太郎と対戦。2003年にはノアの秋山準G1 CLIMAXで対戦し勝利している。

2004年、かつての先輩である武藤敬司率いる全日本プロレスのマットへと上がった。両団体に出場することで新日本に無いものをこの両団体で感じ取れたと言い、段々新日本のプロレスが物足りなくなっていき、他団体への興味を持ち始める。同年、映画いかレスラー」に主演(共演はAKIRA)。主題歌も歌っている。

新日本プロレス退団、無我ワールド・プロレスリング旗揚げ[編集]

2006年1月24日に新日本プロレスを退団[6]。フリーバード(フリーランス)として「地位や名誉などいらない。本当のプロレスをしたい」とフリーとして世界中にある数多の団体のマットに上がることを宣言した。

同年8月2日、後楽園ホールで西村修+田中秀和自主興行『新無我伝説 エピローグ〜BLACK CAT MEMORIAL』を行い、ヒロ斎藤と対戦した。これを契機に、藤波辰爾ら元新日本プロレスのフリー選手や田中秀和とともに新団体、進化し続ける現代のプロレスにアンチテーゼを投げかけた原点回帰論をテーマにした「無我ワールド・プロレスリング」を設立。

2007年10月、ハッスルTAJIRIの洗脳を解いた「ムガール帝国の賢人」ニシム・ラマとして登場。TAJIRIも無我に参戦した。

藤波辰爾と決別、全日本プロレス移籍[編集]

2007年10月19日、全日本プロレスに移籍を発表。無我ワールド側へは何も伝えず「言わば無我からの亡命」と発表し、無我ワールド側も西村=無我という概念を打ち崩せなかったと発表した[7]

2008年5月には新韓国プロレス大会に参戦。カート・アングル力抜山との3WAYマッチを制し、NKPW世界ヘビー級王座を獲得。さらには諏訪魔が持つ三冠ヘビー級、鈴木・ケア組が持つ世界タッグ王座に諏訪魔と組んで挑戦している。

同年6月10日、全日本プロレス「武藤祭」にて木戸修松田納とのユニット「オサム軍団」をとして参戦。

2009年になってからは、全日本プロレスに長州力が参戦。対抗意識を燃やし、直近の弟子である征矢学を従えて長州力と対戦を続ける。しかし、征矢が長州への弟子入りを志願。弟分の裏切りにあった西村は、征矢以上に自分のスタイルに近い真田聖也を指導していくこととなる。

WNC参戦[編集]

2013年に「フィンレーを呼ぶあたりのセンスは崇拝の価値がある。私の理論をぶつけてみたく、参戦の意思を申し伝えます」と話し2013年3月31日の新宿フェイス大会に参戦。ゼウスと対戦しAKIRAの持つWNC王座へ挑戦権が与えられた。そしてWNC旗揚げ一周年記念『後楽園ホール大決戦』でAKIRAに首固めで勝利しベルトを奪取した。 その後「シナプスを撃破し、『ニシムラミクス』効果で外交戦略を実現させます」と言ったがTAJIRI達WNC本隊に離党届を提出し半ば強引にシナプスに加入。

政治家への挑戦[編集]

自らが癌を患い、いかなる化学療法を用いず今までのアメリカ型食生活を日本人本来の穀物を中心とした食生活に変え、自らの体験の元に癌を見事に食の改善で克服。その経験を生かし食の改善を目的としたフリースクールを展開。食を改善し体力を強化させることで薬漬けの多くの子供たちを救う。その思いを今度は国レベルから、行政レベルからの変革を求め選挙では強烈な強さのインパクトはないが、自らの信念と体験に基づいた食育を第一の政策にぶち上げ政治の世界に挑戦。 2010年3月21日、全日本プロレスでの試合後に挨拶を行いプロレスを休業することを発表[8][9]。翌22日、全日本プロレス事務所で会見し、同年夏の参議院議員選挙への出馬を表明した。3月24日には、国民新党公認候補(新党日本推薦)として比例代表より出馬することが発表された[10]。同年7月、第22回参議院議員通常選挙国民新党の比例代表から出馬するも落選。

2011年1月24日、同年4月24日統一地方選挙の一環として実施された東京都文京区議会議員選挙に、国民新党公認候補として立候補を表明[11]。これに伴い、同年2月6日に全日本プロレスとの所属選手契約を解除し、政治活動に集中することを発表した[12]。結果、2226票を獲得し6位(定数34)で初当選を果たした。

2011年8月13日、全日本プロレスで復帰、今後は議会とのスケジュールを調整しながらフリーランスとして団体問わずスポット参戦していく事を発表した[13]

2012年5月、国民新党所属であったが党内分裂を機に離党し、無所属議員となった。

人物[編集]

  • 1993年からのタンパでの海外武者修行時代、ヒロ・マツダに弟子入り。マツダが一匹狼として世界で活躍できたかの話に感銘を受ける。
  • 1993年の海外遠征を機にフロリダを拠点とする生活を開始。西村はマツダ、ドリー・ファンク・ジュニアジャック・ブリスコカール・ゴッチからそれぞれ日本人としては最後の弟子として教えを受けている。
  • マツダ、ゴッチの影響を受けて現代のレスラーの主流となるウエートトレーニングを否定し、器具を使わない昔ながらのトレーニング方法でコンディションを整えるようになった。
  • 1997年には、オットー・ワンツ代表のCWAキャッチトーナメントに日本代表選手として参加。トニー・セント・クレアーに徹底した指導を受ける。
  • 2010年にゴルフ界MVPになった藤田寛之と感じが非常に似ているので比較されるようになった。
  • スナック菓子、ジュースをはじめとした甘いものは一切口にしない。
  • 食の基本は、玄米菜食
  • 長期に渡る海外生活で愛用のユナイテッド航空の、100万マイル搭乗のミリオンマイルフライヤーでもある。
  • アメリカ車をこよなく愛すが、区議会当選を機に売却。
  • 82年の歴史をもつ文京区立大塚公園のラジオ体操には、毎日参加。
  • ブーム前の85年より始めたスノーボードの腕前はプロ級。当時より山形蔵王スキー場をホームゲレンデとする。
  • 祖母の長男・細田彦一は、地元で5期務めた元文京区議会議員であり、政治の血を受け継ぐ家系でもある。
  • 2011年6月に、2年間交際し島根県出身の都内百貨店勤務の17歳年下の女性と結婚。

タイトル歴[編集]

得意技[編集]

元来の体の柔らかさを利用した関節技や、ブリッジを使った技が多い。またゴッチ・猪木・藤波を源流としたストロングスタイル・レスリングを中心に、アメリカ時代に世話になったヒロ・マツダ、ドリー・ファンク・ジュニアの技を引き継いで使っている。

ミサイルキック
新人の頃から大事に使っている西村の主武器。蹴る瞬間、屈伸した両足を思いっきり伸ばすのが西村流。
ムーンサルトプレス
海外武者修行前後にフィニッシュとして使用しており、武藤敬司からの伝授も受けたが、帰国後はほとんど使用せず。同世代である天山広吉が使用するため、差別化を図ったのが一因である。
スープレックス
西村のレパートリーはジャーマン・スープレックス・ホールドノーザンライト・スープレックスなど、柔らかいブリッジを生かしフォールに持っていくものを多用する。
スピニング・トーホールド
アメリカに在住していた際、ドリー・ファンク・ジュニアに直接指導を受けたもの。ここから足4の字固めに移行する場合もある。
コブラツイスト
体が柔らかいことを利用し、軟体動物のようにからみつく。そのパーフェクトなフォームをもって猪木以後No.1の使い手。ロープワークの隙をついてグラウンド・コブラツイストに移行しフォールを狙う場合もある。
エルボースマッシュ
以前より使っていたが、アメリカに在住していた際、ドリー・ファンク・ジュニアに直接指導を受けたことで切れ味が増した。
卍固め
師匠・アントニオ猪木から譲り受けたもの。こちらもコブラツイスト同様にフォームが綺麗なことで有名。
ジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールド(回転足折り固め)
ロープワークから相手の後方に回り、一気にブリッジして丸め込む。師・藤波の得意技でもある。
リバース・インディアン・デスロック
ここからブリッジを活かして鎌固めに移行する。
逆さ押さえ込み
ボー・アンド・アロー(弓矢固め)
ヘッドシザーズを倒立で外す
倒立は観客を魅せる西村の代表的な技であるが、対戦相手も対抗して使ってくることがある。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ Wrestler Profiles: Osamu Nishimura”. Online World of Wrestling. 2011年5月30日閲覧。
  2. ^ GWF Light Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年5月30日閲覧。
  3. ^ SMW October - December 1994"”. Pro Wrestling History.com. 2011年5月30日閲覧。
  4. ^ ECW January - March 1995"”. Pro Wrestling History.com. 2011年5月30日閲覧。
  5. ^ Matches von Osamu Nishimura”. Cagematch.net. 2011年10月19日閲覧。
  6. ^ 契約更改に関するお知らせ 新日本プロレス公式サイト 2006年1月31日
  7. ^ なお「無我」の商標は西村個人が保有しているため(商標第4962762号)、無我ワールド側は2007年12月の興行を最後に団体名を変更することを発表している。
  8. ^ プロレス休業、西村参院選 国民新出馬 nikkansports.com 2010年3月22日
  9. ^ 国民新党比例代表・西村修氏…政治のがんも断つ スポーツ報知 2010年5月3日
  10. ^ 西村出馬会見も喋れず…亀井氏独演会 nikkansports.com 2010年3月25日
  11. ^ プロレス西村修 文京区議選出馬表明 日刊スポーツ 2011年1月25日閲覧
  12. ^ 西村修、全日本プロレス退団 文京区議選に専念 スポーツ報知 2011年2月7日閲覧
  13. ^ スポーツナビ 格闘技|ニュース|「文京区議会議員」西村修が8.13後楽園大会で復帰!!=全日本

外部リンク[編集]