ボビー・ダンカン

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ボビー・ダンカン
プロフィール
リングネーム "ビッグ・バッド" ボビー・ダンカン
"カウボーイ" ボビー・ダンカン
ビッグ・ボブ・ダンカン
ザ・スポイラー2号
本名 ロバート・エルドン・ダンカン
ニックネーム 人間戦車
身長 193cm
体重 132kg(全盛時)
誕生日 1944年8月14日(69歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 テキサス州オースティン
スポーツ歴 アメリカンフットボール
トレーナー ドリー・ファンク・シニア[1]
デビュー 1969年[2]
引退 1980年代後半
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ボビー・ダンカン"Big Bad" Bobby Duncum、本名:Robert Eldon Duncum1944年8月14日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーテキサス州オースティン出身。

カウボーイギミックの大型ラフファイターとして、NWAAWAWWFの各団体で活躍した。息子のボビー・ダンカン・ジュニアも元プロレスラーである[3]

来歴[編集]

ウエスト・テキサス州立大学ではアメリカンフットボールの選手として活躍。1968年NFLセントルイス・カージナルスに1シーズン所属[4]した後、ドリー・ファンク・シニアにスカウトされてプロレスラーに転向[1]。以降、テキサスを中心にジョージアフロリダなどNWA南部テリトリーでキャリアを積み、フロリダでは1971年10月21日にディック・マードックとのコンビで同地区認定のタッグ王座を獲得している[5]

1974年ニューヨークWWWF(現・WWE)に進出。グラン・ウィザードマネージャーに、同年11月から翌1975年3月にかけてWWWF世界チャンピオンのブルーノ・サンマルチノに連続挑戦した[6]1976年からはAWAに参戦し、ボビー・ヒーナンをマネージャーにブラックジャック・ランザとカウボーイ・タッグを結成。同年7月23日、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを破り第32代AWA世界タッグチャンピオンとなる[7]。その後もAWAではランザと共に、世界王者ニック・ボックウィンクル用心棒的なヒールとして活躍した。

1978年にはフロリダ地区で覆面レスラーザ・スポイラー2号The Spoiler #2)に一時的に変身[8]。同年6月27日、1号のドン・ジャーディンとのコンビでジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコの兄弟チームからフロリダ・タッグ王座を奪取している[5]。素顔に戻ると、同年8月30日にジャック・ブリスコを下してフロリダTV王座を獲得[9]。10月3日にはキラー・カール・コックスと組んでスティーブ・カーン&ジム・ガービンを破り、フロリダ・タッグ王座に返り咲いている[5]

1979年、再びニューヨークを襲撃。同年12月17日には空位となっていたWWFヘビー級王座を賭けて、マディソン・スクエア・ガーデンボブ・バックランドと王者決定戦を行った[6]。試合には敗れたものの、以降も約1年間に渡ってWWFをサーキットし、アンドレ・ザ・ジャイアントともMSGをはじめ東部各地で対戦[10]1980年12月29日にはMSGでアントニオ猪木NWFヘビー級王座にも挑戦している[11]

同時期にはジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区にも転戦し、1980年から1981年にかけてブラックジャック・マリガンと大型カウボーイ同士の喧嘩試合を展開[12]、同地区認定のブラスナックル王座を争った。1982年からはAWAに復帰し、WWF時代の盟友でもあるケン・パテラブラック&ブルー・エクスプレスThe Black & Blue Express)なるタッグチームを結成。このときもヒーナン・ファミリーの一員として悪党AWA王者ニック・ボックウィンクルをサポートし、当時AWAで大ブレイクしていたハルク・ホーガンと軍団抗争を繰り広げた。

その後は南部マット一帯を主戦場に、テキサスのサンアントニオ地区ではベビーフェイスに転じてタンク・パットンバック・ロブレイと対戦。フロリダではヒールに戻り、1983年ダスティ・ローデスバリー・ウインダムと抗争した。古巣のAWAでは、1985年4月21日にセントポールで開催されたビッグイベント "StarCage 1985" に、ヒールターンしたビル・ロビンソンと組んで出場[2]1986年にはオーストリアに遠征し、8月11日にオットー・ワンツのCWA世界ヘビー級王座に挑戦した[2]

キャリア末期はサンアントニオのテキサス・オールスター・レスリングにて再びベビーフェイスとして活動し、同じくフェイスのポジションにいたブルーザー・ブロディともタッグを組んだが、1980年代後半に引退した。

日本での実績[編集]

初来日はデビュー年の1969年4月に開催された日本プロレスの『第11回ワールドリーグ戦』だが、キャリア不足もあって戦績は振るわなかった。当時はカウボーイ・スタイルではなく、アメリカンフットボールのヘルメットを被っていた[13]1972年の再来日ではボボ・ブラジルのパートナーとなってジャイアント馬場坂口征二の「東京タワーズ」のインターナショナル・タッグ王座にも挑戦している。

ブルーノ・サンマルチノに挑戦するなどしてトップスターとなってからは全日本プロレスに参戦。通算4度目の来日を果たした1975年にはウエスト・テキサス大学の後輩でもあるスタン・ハンセンが1シリーズを置いて全日本に初来日しているが、当時はダンカンの方が圧倒的に格上だった[1]

1980年代からはWWFとの提携ラインで新日本プロレスの常連外国人となる。新日本初参加となる1981年1月の『新春黄金シリーズ』最終戦では、前年にMSGで対戦した猪木と後楽園ホールでシングルマッチを行った。同年5月には『MSGシリーズ』の第4回大会にも出場。公式戦で対戦したスタン・ハンセンとはシリーズ中にタッグも組んでいる。当時の実況アナウンサーだった古舘伊知郎は、野性的なブルファイターのハンセンに対し、ダンカンを都会的な雰囲気を持つ「アーバン・カウボーイ」と表現していた。

当時の日本マットは新日本と全日本のレスリング・ウォーが激化し、団体間での選手の引き抜きが横行していた。ダンカンは旧知の間柄であるテリー・ファンクの要請でハルク・ホーガンの全日本移籍を画策していたが、新日本が大幅なギャラアップを提示してホーガンを慰留したため実現しなかったとされている(厚待遇での自分自身の移籍を仲介の条件としたダンカンに馬場が難色を示し、この話は幻になったという説もある)。

こうした背景もあってしばらく新日本への来日は途絶えていたが、1983年11月、『MSGタッグ・リーグ戦』の第4回大会にカート・ヘニングと組んで参戦。翌1984年3月の『ビッグ・ファイト・シリーズ』への参加が最後の来日となった。

エピソード[編集]

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

アメリカン・レスリング・アソシエーション
NWAビッグタイム・レスリング
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / クリス・コルト)
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
  • NWAブラスナックル王座(アマリロ版):2回
ジム・クロケット・プロモーションズ

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『THE WRESTLER BEST 100』P238(1981年、日本スポーツ出版社
  2. ^ a b c Wrestlers Database: Bobby Duncum”. Cagematch.net. 2012年5月16日閲覧。
  3. ^ Wrestler Profiles: Bobby Duncum Jr.”. Online World of Wrestling. 2011年12月27日閲覧。
  4. ^ Bobby Duncum Biography”. NFL.com. 2012年5月16日閲覧。
  5. ^ a b c NWA Florida Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。
  6. ^ a b WWE Specific Arena Results: MSG 1970-1979”. The History of WWE. 2009年3月30日閲覧。
  7. ^ a b AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。
  8. ^ The Spoiler 1 & 2”. The Archives of Championship Wrestling from Florida. 2010年5月26日閲覧。
  9. ^ NWA Florida Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月27日閲覧。
  10. ^ WWE Yearly Results 1980”. The History of WWE. 2010年5月26日閲覧。
  11. ^ WWE Specific Arena Results: MSG 1980-1989”. The History of WWE. 2009年3月30日閲覧。
  12. ^ Blackjack Mulligan Interview”. Mid-Atlantic Gateway. 2010年4月2日閲覧。
  13. ^ 『これぞプロレス ワンダーランド!!(プロレスアルバム51)』P26(1984年、ベースボール・マガジン社
  14. ^ 『ミスター高橋の プロレスラー陽気な裸のギャングたち 』(1983年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583023049

外部リンク[編集]