ミラクルパワーコンビ
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ミラクルパワーコンビは、プロレスラーのスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディによるコンビのこと。超獣コンビとも呼ばれる。プロレス史上最強のタッグチームと称されることが多い。まれに全日本プロレス中継のアナウンサーが、「超ミラクルパワーコンビ」「超ミラクル野獣パワーコンビ」と「超」をつけて呼称したこともある。
[編集] 歴史
若き日のブロディがまだ本名のフランク・グーディッシュを名乗っていた1974年ごろ初結成。ブロディとハンセンはそれぞれウェスト・テキサス州立大学のアメフト出身の先輩・後輩であり、親友でもある。この時期にはルイジアナ州地区USタッグ王座を獲得しているが、これは二人にとって初タイトルであった。1975年に二人はコンビを解消して別々のテリトリーを転戦し、日本でもブロディは全日本、ハンセンは新日本の看板外国人レスラーであったため再結成は実現しなかった。
本格的にこのコンビが売り出されたのは1981年、新日本プロレスのアントニオ猪木、新間寿によるアブドーラ・ザ・ブッチャー引き抜きの報復として、全日本プロレスのジャイアント馬場がハンセンを引き抜き、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦させたことに端を発する。
この最強タッグにはブロディはジミー・スヌーカとコンビを組んで参戦していたが、ハンセンはこのチームの優勝戦にセコンドとして参加。対戦相手のザ・ファンクスのテリー・ファンクに場外でウエスタン・ラリアットを見舞い、ブロディ組の優勝に貢献する。
その後、その師匠格でもあるファンクスに対して「テキサスの化石になれ」と宣戦布告し(外国人トップの世代交代を迫る意味合いもあった)、二人は本格的にタッグを組むことになる。各々がシングルプレイヤーとして突出しているコンビであったため、対戦相手として馬場・鶴田師弟コンビ、鶴龍コンビ、ファンクス、マスカラス・ブラザーズ(ミル・マスカラス、ドス・カラス)などが挑んだが、連係でもファンクスに引けをとらなかったミラクルパワーコンビとの実力差は一目瞭然であり、相手にならなかった。
全日本の看板タッグ王座であるインタータッグ王座には再結成直後の1982年4月に挑戦し、馬場・鶴田の王者コンビは完全にたたきのめされてかろうじて両者リングアウト防衛、これ以降二度とミラクルパワーコンビがインタータッグに挑戦することはなかった。
世界最強タッグの戦績は、1982年はファンクスに反則負けで敗れるものの、1983年に初優勝。1984年は鶴龍コンビに次ぐ準優勝。しかし敗北はたいてい反則負けによるもので、実力的に最強であることは一目瞭然であった。1984年4月には新設されたPWF世界タッグ王座の初代王者決定リーグ戦で優勝。最終戦で馬場&ドリー組を破った時に馬場をツープラトンのパイルドライバーでKO、馬場は翌日の試合を欠場しデビュー以来の無欠場記録が3711でストップしている。
コンビ再結成が軌道に乗ってからは、プエルトリコでも活躍しており小型選手が多い中でパワーで圧倒する試合を魅せていた。
1984年末に、全日本プロレスが新日本プロレスを退団した長州力らにより設立されたジャパンプロレスと業務提携したため、主力外国人によるメインが少なくなったこと、また初来日のロード・ウォリアーズのファイトマネーが、自分より高額だった事に不信感を抱いたブロディは、新日本プロレスからの引き抜きを受諾・移籍し、事実上の解散となった。
後にブロディは全日本プロレスに復帰するが、1987年の最強タッグでは、それぞれ別チームとしての参加であった。翌年にブロディが急死したことで、この年の双方のチームによるタッグマッチが最初で最後の両者の対戦となった。
このコンビは日本マットでピンフォール負けしたことは一度もない。
[編集] エピソード
- ジャイアント馬場は、「ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー組より超獣コンビの方が上、史上最強のタッグチーム」と評している。
- ライバルであるジャンボ鶴田は、ミラクルパワーコンビとロード・ウォリアーズのどちらが強かったかというファンからの質問に対して、ミラクルパワーコンビの方が強かったと答えている。また、当のブロディ、ハンセンはシングルプレイヤーとしても突出している自分たちと、タッグチームとしてのみ存在価値を持っているロード・ウォリアーズでは比較にならないとコメントすることが多かった。また天龍源一郎も「ミラクルパワーコンビはレスリングも出来たし、30分、1時間といった試合も十分こなせた。だがウォリアーズにはそれは出来なかっただろう」と語っている。
- 日本におけるこのコンビの入場テーマ曲は両者のテーマ曲を合体させたものである。また、二人とも同格であるということを意識して、リング・アナウンサーによる選手紹介の順番は必ず日替わりでどちらかが先に呼ばれることになっていた(通常、タッグでは最後に紹介される選手がチームリーダーであることが慣例)。
- ミラクルパワーコンビの試合を数多く裁いたレフェリーのジョー樋口によると、ブロディがこのコンビの指令塔だったという。だがブロディにとっては真の意味で親友であるハンセンの「ウエスタン・ラリアット」の方が自分の「キングコング・ニードロップ」より知名度は上と認めており、フィニッシュをハンセンに快く譲る事が多かったと言う。
- ブロディが亡くなった年の夏の全日本、日本武道館大会では、前年のタッグ対決を受けて、ハンセンとブロディの一騎打ちが検討されていた。しかし、急忌により幻となった。代替としてハンセンは、アブドーラ・ザ・ブッチャーと一騎打ちをおこなった。ブッチャーはブロディ同様のチェーンを帯同し入場、ハンセンはミラクルパワーコンビのテーマで入場した。ただし、冒頭のハンセン曲のイントロがいつもより長く、合体曲だとは誰も気づかなかったため、移民の歌にチェンジした瞬間、場内にブロディコールが爆発した。なお、来賓として、ブロディ夫人と息子が来日し、リングで挨拶も行った。

