ハヤブサ (プロレスラー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ハヤブサ
プロフィール
リングネーム ハヤブサ
江崎英治
H
ダークサイド・ハヤブサ
本名 江崎 英治
ニックネーム 不死鳥
スーパースター
身長 183cm
体重 75kg
誕生日 1968年11月29日(46歳)
出身地 熊本県八代市
スポーツ歴 柔道
デビュー 1991年5月5日
テンプレートを表示

ハヤブサ(本名:江崎 英治(えざき えいじ)1968年11月29日 - )は、日本覆面レスラー(元FMW所属)、歌手。熊本県八代市出身。株式会社ライトハウス所属。

経歴[編集]

デビューから若手トップレスラーへの成長[編集]

熊本商科大学(現:熊本学園大学)出身で、大学時代は「肥後ずいき」のリングネームで学生プロレスのリングに上がっていた。1991年に大学の同期の本田雅史(現:ミスター雁之助)と共にFMWの入団テストを受けて合格。同年5月5日、アミーゴ・ウルトラと組んでレイ・パンディータ&上野幸秀戦でデビュー。その後海外遠征に出発し、メキシコのプロレス団体WWAを中心に活動していたが、1994年一時帰国してジュニアヘビー級レスラーのオールスター戦「スーパーJカップ」に出場し、獣神サンダー・ライガーと対戦、関係者、ファン、ライガーからその素質を絶賛され、トップレスラーへの足がかりをつかむ。

1995年5月5日、FMW川崎球場大会において大仁田厚の引退試合の相手を務め、電流爆破マッチに初挑戦。その後は「新生FMW」のエースとして団体を引っ張る立場となった。同年6月、大矢剛功とのタイトルマッチに勝利し、大仁田由来のベルト・世界ブラスナックル王座を奪取するも、すぐに返上。FMWのトップ選手を集めたリーグ戦「グランドスラム」では、決勝戦に進出するも、ザ・グラジエーターに敗れ、準優勝となった。

1996年には肘がパンクしてしまい、手術のため長期離脱となるが選手不足のため短期間で強行復帰せざるを得なかった。、5月の川崎球場には田中正人と組んでメインイベントに登場。テリー・ファンク&ミスター・ポーゴ組に敗れる。その後は、傷心のため失踪というアングルを取って、8月末までリハビリのために欠場。汐留で行われた復帰戦の相手を務めたのは、今なお行動を共にする盟友の中川浩二(現:GOEMON)であった。10月、みちのくプロレスの両国大会に参戦し、新崎人生に敗れる。12月の駒沢大会では、みちのくプロレスのザ・グレート・サスケと対戦し、勝利。しかし、この大会で大仁田が現役復帰し、FMWはハヤブサを盛り立てていこうとする社長・荒井昌一と、自らが目立ちたい大仁田の、二つの方向性に割れていくこととなった。

全日本プロレス参戦[編集]

1997年2月、全日本プロレス小橋健太に挑戦を表明。それを受けてハヤブサの師匠格である大仁田厚ジャイアント馬場に直談判した。川田利明の反対もあったが(川田は1997年2月の週刊プロレスのインタビューにおいて「馬場社長には大仁田さんに関わってほしくないんだよね…」と語っていた)、馬場はかつての愛弟子である大仁田の頼みを邪険に扱うことなく、ハヤブサの全日参戦を承諾した(大仁田から直談判を受けた際、馬場は大仁田に「欲しいものがあったら言え」とだけ伝えたという)。そしてハヤブサは馬場同席で全日参戦発表の記者会見まで馬場のお膝元であるキャピトル東急ホテルで開かれるという高待遇を受けた(1997年3月3日)。 「'97チャンピオン・カーニバル」より全日にスポット参戦。 全日本マットで新崎人生とタッグを結成し、小橋&志賀賢太郎組に勝利。FMWの川崎球場大会では、小橋&マウナケア・モスマン(現:太陽ケア)組と戦い、自らが小橋のラリアットに敗れた。年末には、新崎人生とともに全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦。強い格付け意識を押し出した当時のメジャー団体の中で、戦績は2勝7敗と振るわなかったが、多くの好勝負を展開。この年はFMWと全日本プロレスをまたにかけた活躍が評価され、年末のプロレス大賞で殊勲賞を受賞。

1998年4月には、ミスター雁之助からFMW二冠統一王座を奪取し、10月には格闘探偵団バトラーツ池田大輔とのタッグで冬木弘道&金村ゆきひろ組から世界ブラスナックルタッグ王座を奪取。しかし、11月に冬木に敗れ、FMW二冠統一王座を失った。海外では、新崎人生とともにECWに参戦。当時ロブ・ヴァン・ダム&サブゥー組が保持したECWタッグ王座に挑戦した。

1999年2月、全日本プロレスに参戦し、新崎人生とのタッグでアジア・タッグ王座を奪取。その後、FMWマットで田中&黒田哲広相手にアジア・タッグ防衛戦が行われた。

Hへの一時的な改名[編集]

同年6月に当時のFMWコミッショナー冬木弘道からマスク剥奪勧告を受け、素顔に戻りH(エイチ)と名乗り活動する。これは飛び技を主体とするファイトスタイルにより、着地の衝撃を支え続けた江崎の膝が限界に達していたと言う事情もあったらしい。11月に横浜アリーナで行われたFMW10周年記念興行では、2代目ハヤブサを名乗る覆面レスラー(正体は雁之助)と戦い、フェニックススプラッシュでこれに勝利。

2000年からは再びハヤブサに戻る。ハリウッドで製作されたプロレス映画「Backyard Dogs」に、本人役で出演するために渡米。WAR後楽園大会では、ミスター・プロレスとも呼ばれる天龍源一郎と対決、これに敗れた。11月には腕の再手術を決意、2度目の長期欠場に入る。

2001年には田口トモロヲ主演の映画「Mask de 41」にレッド・ファルコン役で出演するも、その後に起きた本人と団体のトラブルで、映画が公開されたのは2004年のことだった。

頸椎損傷と歌手への転身[編集]

2001年5月の川崎球場大会で、欠場から復帰。ザ・グレート・サスケとタッグを結成し、雁之助&黒田に勝利する。10月22日、試合中のアクシデント(ラ・ブファドーラの失敗)により頸椎を損傷し全身不随の重傷を負った[1]。この事故により事実上のレスラー休業を余儀なくされる。その後懸命のリハビリにより、現在は奇跡的に自力で立ち上がり、補助付きで歩けるまでに回復した。

2002年8月、WMF旗揚げにあたりコミッショナーに就任するが、その後離脱し個人事務所「隼計画」を設立。現在GOEMONと共に所属する。現在も歩行が困難な状況にあるが、「お楽しみはこれからだ!」と宣言、あくまでもカムバックを目指す。

2003年平井堅「Life is…」のPVに出演。

2004年には、2館のみで上映の映画「倍音―ばいおん―」にも出演。歌手のみのや雅彦、GOEMONとTRIPLE FIGHTというトリオを結成し、歌手としてライブハウスやプロレス会場で活動する。

2006年からは舞台俳優としての活動も始め、市川博樹主演の「天野真一物語」「飛行機雲」などに出演。

2009年1月24日には自身プロデュース興行「ハヤブサ プロデュース フェニックス」開催。

2014年現在、プロレスラーとしての復帰はあきらめておらず、つえを使って約200メートル歩けるまでに回復。「5年後(2019年)、レスラーとして再びリングに立つ」と宣言した[2]

交友関係[編集]

全日本プロレスへの本格参戦前から、三沢光晴とは親交が深かった。これは三沢がプロレスリング・ノアを旗揚げしてからも変わらず、三沢がリング上での事故(頸髄離断)により他界した際は、自身が頸椎損傷からのリハビリテーションで苦しんでいたこともあり、相当ショックを受けていた。また小橋建太とはつながりも深く小橋建太の引退興行で開会宣言を務めた。

また、お笑い芸人の博多大吉は親友である。大吉は福岡吉本を代表するプロレス好きであり、番組共演もあって知り合った。頸椎損傷の後、2002年に福岡の番組に大吉には内緒で出演。車椅子に乗って出てきた時点で大吉は、本番中にもかかわらず号泣してしまい、それを見たハヤブサは「ねぇ大ちゃん、挨拶ぐらいしようよ」と、笑いながら明るく話しかけたほどの間柄である。

他、芸能関係では滝沢秀明とは現在も連絡を取り合っているという(元々、滝沢がハヤブサの大ファンでテレビ番組で共演したのがきっかけだそうである)。

人物[編集]

子供時代はいじめられっ子だったことを公表している。また、イラストが上手で、自身のマスクや衣装は勿論、FMWの選手バスのデザインを担当した。

日本ハムファイターズが札幌移転の前に始球式を務め、現在もファイターズのファンである。

リングネーム[編集]

現在、過去に用いたことがあるリングネーム

  • 江崎英治
  • ハヤブサ
  • H(エイチ)
  • ダークサイド・ハヤブサ

得意技[編集]

ヘビー級時にも数々の高難易度な飛び技を使いこなし、俗にいわれるインディー団体出身選手らしくデスマッチもこなす希有な存在であった。

ファイアーバード・スプラッシュ
いわゆる450°スプラッシュ。リング内を向いてトップロープに立ち、そこから前方に宙返りしながら寝ている相手をプレスする技。
フェニックス・スプラッシュ
リング外を向いた状態でトップロープに立ち、そこから半ひねりを加えながらのファイヤーバード・スプラッシュ。非常に難易度の高い飛び技である。初代タイガーマスクが考案、獣神サンダー・ライガーが公開、ハヤブサが実戦向けの技に昇華させ、現在では多くのジュニア戦士達に引き継がれている。
ラ・ケブラーダ
ラ・ブファドーラ
ダウンしている相手に対してプレスする型を使用。
下記ラ・ブファドーラ式アトミコに続き、たたみ掛ける意味で連続で使用することが多かった。マンモス佐々木との試合でこの技を繰り出そうとした際にロープから足を滑らせ頭から落下、頚椎損傷の重傷を負ってしまった。
ラ・ブファドーラ式アトミコ
ダウンしている相手にラ・ブファドーラの途中で体に捻りを入れてトペ・アトミコの要領で落ちていく飛び技。
トペ・コン・ヒーロ
トップロープを飛び越えて放つ前宙から背面を相手にぶつける技。試合中盤によく見られるほか、入場直後にガウンを着たまま場外へ飛ぶこともある。
対角線トペ・コンヒーロ
リングの対角線を走って、場外にトペ・コンヒーロを見舞う。
ファルコン・アロー
ブレーンバスターの要領で相手を抱え上げ、振り向いて正面に向かい合うような形になり、そこから開脚ボムの要領で背中から落とす技。相手を持ち上げつつ反転させて、正面に向かい合うような形になって仕掛けることもあった。凱旋帰国の際に小橋建太のオレンジクラッシュを参考に考案した[3]。現在この技の使い手は多いが、元祖は江崎である。友人関係にある金本浩二も使用している。
大一番や強敵相手には垂直落下式や旋回式も時折見せていた。
Hエッジ
相手の脇下にもぐりこんで、相手の体を持ち上げ、叩きつける。ザ・ロックロック・ボトムと同じ要領だが、タイツを掴んで持ち上げる点や、持ち上げた後に旋回して叩き付けることもあった点が異なる。H時代に払い腰をヒントに編み出された。
Hサンダー
ボディスラムの要領で持ち上げて自分の右サイドに頭から垂直に落とす技。
三沢光晴エメラルド・フロウジョンと似ているが、右腕で相手の股下を、左腕で相手の胴をクラッチしている点が異なる。
フェニックスドライバー
相手をボディスラムのように持ち上げて持ち方を変えてサイドに落とす。三沢光晴の原型エメラルド・フロウジョンと同型。
素顔のHからハヤブサに戻った頃から使用し始める。
ドラゴン・スープレックス
投げっぱなし式も使用。
タイガー・スープレックス
上記同様、こちらも投げっぱなし式も使用していた。クラッチは三沢式。
タイガー・ドライバー
いわゆる三沢光晴バージョンのタイガー・ドライバー。冬木や雁之助相手には'91式(※FMW的には“くどめドライバー”)を使用する。
フライング・ニールキック
ダイビング式やスワンダイブ式も時折使用していた。
スクリュー・ハイキック
ニールキックの体制からさらに体を半回転させ、ニールキックと反対側の足の甲側で蹴る技。
アッパー掌底
ファルコンアローに入る前に使用するほか、エプロンでの攻防の最中や場外乱闘の最中など、試合の流れを自分の方向に変える際に使用することが多い。

タイトル履歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 回顧録では、この日は高熱を出していたが最終戦を休むわけにはいかないと強行出場した。そしてラ・ブファドーラを決めようとセカンドロープに飛び乗った瞬間に、ロープが回り頭から落ちたと記載されている。
  2. ^ ハヤブサさん、試合中のけがで全身不随…リングへ復帰「5年後に」
  3. ^ 技解説:ファルコンアロー, ハヤブサオフィシャルブログ「愛と勇気とあるこーる」(2012年2月25日), 最終閲覧日:2012年2月25日
  4. ^ 第3代戴冠時はHのリングネームで獲得。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]