アボリジニ

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アボリジニ (Aborigine) とは、狩猟採集生活を営んでいたオーストラリア大陸と周辺島嶼先住民。"aborigine" は英語において日本語の原住民に当たる言葉だが(例として、台湾原住民はTaiwanese aboriginesと呼ばれている)、先住民という概念が広がるにつれオーストラリア先住民という意味合いで使われることが多くなった。本稿でもその意味で用いる。

目次

[編集] 概要

アボリジナル・アート
アボリジナル・アート
アボリジナル・アート
アボリジナル・アート
アボリジナル・アート
アボリジナル・アート
アボリジニの使う道具
アボリジニの使う道具

アボリジニの先祖は、遺物などの分析から5万年ないし12万年以上前にオーストラリア大陸に上陸したとされていたが、同時代以降にも段階的に人的流入もあった模様で、外部地域と隔絶されたのは、遺伝子の研究によりそれ程古くはないことが明らかになってきているほか、その祖先の系譜が解明されつつある。の色は「銅褐色」と分類される。かつては形質人類学的にも不明確な部分が多く、骨格的特長から南インド系のとする説や、ポリネシア諸島経由で海流に乗って渡来したとする説、またはアフリカから等々、諸説入り乱れていた時代があった。なおオーストラリア大陸は1万8千年前の最も近年の氷期においてユーラシア大陸と飛び石のように連なる島々により、現在よりも遥かに渡りやすい地域だったとも考えられている(国家としてのオーストラリア参照)。

オーストラリアの地理的条件から、人種的に他の大陸と隔絶され、それらが混血を繰り返しながらオーストラリア全土に広まる過程で、様々な固有文化が派生したとされ、一括りにアボリジニとはいっても、言語だけでも250、部族は700を超えていた。今日では言語的な調査から26~28程の系統に分類されているが、相互の文化的差異も多い。オーストラリア到着以後も、一部の集団ではパプア人オーストロネシア人との部分的混血が見られる。

生活は洞窟等を住居とし、一定範囲を巡回しながら食料を得る狩猟採取型で、ブーメラン毒物を巧みに利用した狩猟を行い、オーストラリア固有植物を取ったり、乾燥した地面を掘って木の根等を食べる大型のイモムシの一種を焼いて食べるといった生活をしていた。この独創的で洗練された狩猟採取生活を、今日でも伝統的に続けている人達もいて、世界一過酷といわれるオーストラリアの砂漠も伝統的な手法だけで難なく生活を可能にしている。

オーストラリアは不毛の大陸とされ、農耕に適した種類の食物がユーラシア、南北アメリカ、アフリカと比べ遥かに少なく、家畜に適した動物も一切存在せず、また極度の乾燥地帯で、気候の変動も一年周期とは限らず不規則であるなど、他に類をみない過酷な条件が揃う大陸でもあり、文化的に孤立を余儀なくした。

またオーストラリアの砂漠は世界で最も乾燥した地帯といわれており、他の地域の砂漠と比べても遥かに過酷な環境にある。

主な宗教には自然崇拝が挙げられるが、遺構の中には人物画であると推察されるが解釈不能な壁画が残るなど、不明確な部分が多い。彼等に特有の素朴な美術様式をアボリジナル・アートと呼ぶが、元より様々な部族が混在し、言語的にも多様であった民族に共通化された美術様式がある訳ではなく、中には余所で発見された遺構の美術様式を見た現地人が、独自に真似てみて「アボリジナル・アート」と称しているケースもある。

また「スキンネーム」と呼ばれる一定の範囲内で共通の名前を、本来の名前とは別に持っている。これは近親婚を避ける意図で用いられていたようであり、日本のに相当するが、数種類程度しか存在しない。

1000年前(成立は2~3万年前とする説もある)には存在していたと思われる世界最古の管楽器ディジュリドゥ(長さ1~1.5m)を使用した独自の音楽文化を持っている。この楽器は、シロアリによって中空になった木を利用して製作するが、美しく装飾された物も多い。この楽器では、振動を管内で反響させ、独特の低音を発生させる。この低音には霊的効果があると考えられており、呪術医治療に利用する事もある。乳児の夜鳴きには重低音などによる振動が、成長に伴う痛みを緩和する効果があるという民間療法も存在するので、その類型という可能性もある。この楽器は古く男性のみに使用が許された。

飲酒文化は元々無かったが、後に白人が持ち込んだに興味を覚え、これに耽溺する人も出て社会問題となっている。詳細は後述。

[編集] アボリジニの受難

先住民族図, The New Student's Reference Work, 1914年出版より
先住民族図, The New Student's Reference Work, 1914年出版より

西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、30万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していたと見られている。

しかし、1788年よりイギリスに侵略され植民地化によって、多くのアボリジニの人々が免疫を獲得していない病気に晒された一方、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングの延長としてアボリジニを殺害したり、若い女性を捕らえて強引に(髪を切り男装させた為Boyと呼ばれた)としたケースがあったという。また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。捕らえられたアボリジニ達は、ブルーニー島キャンプに収容されたが、食糧事情が悪かった事や、免疫の無い病気が流行した事から、多くの死者が出た。

これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、1876年には、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した。特に東海岸沿岸部等の植物相の豊かな地域に居住していたアボリジニは、当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり、この犯罪者達によるハンティングという惨劇を語り継ぐ者をも残さず姿を消している。

1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである(白豪主義参照)。

また、1910年頃から1970年代にかけて、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用される事があった)[1]を親元から引き離し白人家庭寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくもので、政府教会が主導して行なわれたこの政策で子供のおよそ1割が連れ去られ、結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。彼らは "Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれている。

一方、不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは周辺の厳しい自然環境に守られながらどうにか固有文化を維持し続けた。今日でもアボリジニ文化の史跡は沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。近代のアボリジニ激減と、文字文化を持たなかった事から文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」に准えられている。

なお現在でも、白豪主義の影響は地方に根強く、アボリジニを含む有色人種への差別事件も時折発生しており、社会問題視されている。

[編集] 現在のアボリジニ

現在、白人やアジア人との混血がすすんでいて「純粋なアボリジニ」と言える人は少ない。兄弟親戚で大きく容姿が異なる場合も珍しくない。

飲酒文化を持たず、また遺伝的にもアルコール耐性が極めて低い。特にアルコール分解酵素がまったく無いか極端に少ないため、体質的に少量の酒で泥酔しやすい。他の先住民族問題においてもアルコール依存症は深刻な社会現象だが、特にアボリジニ居住区にアルコール飲料を持ち込む行為はオーストラリアの法律で禁止されており、持ち込んだ場合には罰金が科せられる。

その一方、長らく広大な平原で暮らしていた事から閉所恐怖症を患う人も多く、治療のために伝統的生活に回帰する人も見られる。

1993年には先住権が認められ、元々のアボリジニ居住地域の所有権が認められている。今日ではアボリジニの大半が都市部に住んでいるが、政府から支給された住宅に住みながら、一定の伝統的生活を嗜む人もあるという。白人主流社会に同化仕事を持つ一方で、伝統舞踊に興じる人もあり、今日では伝統と欧米文明の双方を独自に組み合わせた生活をする人が大半である。

しかし、中には政府から支給された生活保護を糧に堕落した生活に陥る人もあり、他の少数民族同様の社会問題も見られる。また、白人との経済格差を解消するため、大学進学における優遇などの差別是正措置も講じられている。このような特典を得るため、実際にはアボリジニでないものが、アボリジニを詐称することも多く、問題となっている。また、逆差別であるという白人側の不満も根強い。

[編集] 先住民に公式謝罪

ラッド首相は、2008年2月13日の議会で、先住民アポリジニに政府として初めて公式に謝罪した。同日の議会には約100人の先住民らが傍聴する中で、同首相は「Sorry」の語を3度使い謝罪した。議事堂の外には全国から詰めかけた数千人がテレビを通じて謝罪の言葉を聞いた。この謝罪は、昨年11月の総選挙でラッド率いる労働党公約を実現したものであった。

[編集] キャシー・フリーマン

オーストラリアクイーンズランド州生まれの陸上競技選手400mを専門とした選手である。

2000年9月25日に、シドニー五輪金メダルを獲得した後のトラック一周の際に、アボリジニのオーストラリアの国旗の2つを身に包んだが、これが当時のオーストラリアで議論を呼んだ(通例トラック一周は、自分の所属する国・地域の国旗を持つものであるため)。

[編集] 脚注

  1. ^ 出典: 新保満 著 『悲しきブーメラン』

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク