森繁久彌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
森繁久弥から転送)
移動: 案内, 検索
もりしげ ひさや
森繁 久彌
森繁 久彌
映画『ロマンス娘』(ポスター)での森繁(右下)
本名 同じ(旧姓:菅沼、すがぬま)
別名 爺、爺や、座長、座、モリシゲ、シゲさん
生年月日 1913年5月4日
没年月日 2009年11月10日(満96歳没)
国籍 日本の旗 日本
血液型 B型
職業 俳優作曲家作詞家アナウンサー
ジャンル 映画舞台テレビドラマ
活動期間 1936年 - 2007年

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日[1])は、日本俳優コメディアン[2]。最終期はアクターズセブン所属。森繁久弥とも表記される。身長171cm、体重78kg、血液型B型大阪府枚方市出身。

目次

[編集] 略歴

[編集] 出生

旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈等の重役職を経て後に実業家となった父・菅沼達吉1858年 - 1915年)と大きな海産物問屋の娘であった母・馬詰愛江との間に出来た3人兄弟の末っ子。久彌という名前は、父が大実業家・岩崎久彌と深い親交を持っていたことに由来する。江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だった。しかし久彌が2歳の時、父が死去。母方の実家も色々と子細、経緯等があって7歳の時に母方の祖父の姓を継いで「馬詰」姓から「森繁」姓となった。長男・弘(1907年 - 1940年代頃)は馬詰家を継ぎ、次男・俊哉(1910年頃 - 1982年)はそのまま菅沼家を継ぎ三男・久彌は森繁家を継ぎ名字も「森繁」となる。戸籍上の養父は南海電鉄の鉄道技師であった森繁平三郎である。幕末の奥儒者・成島柳北は大叔父にあたる。父・菅沼達吉は大目付・森泰次郎の次男であり、菅沼家の養子となった。泰次郎と成島は松本家の出身の兄弟であり(泰次郎が兄)、それぞれ森家、成島家の養子となっている。

[編集] 学生時代

堂島尋常高等小学校旧制北野中学校早稲田第一高等学院を経て1934年早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉山本薩夫と共に活動。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、山本らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となりアマチュア劇団に加わり築地小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演した。

[編集] 演劇の世界へ

1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。長兄の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)の東京宝塚新劇団へ入団。その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かなかった。日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。座長の古川ロッパに認められた緑波一座では、盟友となる山茶花究と出会う。1937年、退座。

1939年NHKアナウンサー試験に合格し満洲に渡る。満洲電信電話の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛ける。甘粕正彦とも交流があった。満州巡業に来た5代目古今亭志ん生6代目三遊亭圓生らとも親交を結ぶ。この頃、新京の劇団に所属していた芦田伸介と知り合う。

1939年、長男(元俳優の森繁泉)誕生。

アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。

その一方で川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送(見つかれば確実に生きて帰れないほどの接近をしたこともあったという)に行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊(本土での「震天隊」に相当))の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。

戦後も劇団を渡り歩く。1947年、東宝で、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画初出演。1949年、再建したばかりの新宿ムーラン・ルージュに入団。演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集める。

1950年、NHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』に倣ったラジオ番組『愉快な仲間』を放送。メインの藤山の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く続く人気番組となった。この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとなった。同年、新東宝腰抜け二刀流』で映画初主演。1952年源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇(河村黎吉主演『三等重役』)に要領のよい人事課長役で助演。後に河村が急逝したこともあって久彌が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展する。1953年からマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに三枚目の森の石松役で出演、シリーズ第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。

テレビドラマでは、草創期から活躍した。テレビ放送が開始された1953年には、『半七捕物帳』(NHK)や『生と死の一五分間』(日本テレビ)に出演している。

1955年豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった久彌の名声を決定的なものにした。同年、久松静児監督の日活警察日記』で田舎の人情警官を演じこれも代表作の一つとなる。これにより、単なるコメディアンから実力派俳優へと転進する。

1959年第10回から1965年第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。このうち、第10回は森繁の歌のラジオ中継の音声が現存し、第14回1963年)と第16回は映像が現存する。第10回は2009年4月29日放送のNHK-FM今日は一日“戦後歌謡”三昧』の中で、森繁の歌も含め全編が再放送された(音声はモノラル)。第14回と第16回はNHK-BS2で再放映されている。

1960年代、『知床旅情』を作詞作曲し自ら歌うシンガーソングライターとしての活動もしていた。同曲は1970年加藤登紀子によってカバーされた。

ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。舞台では1959年より「森繁劇団」を結成し、持続的に演劇活動を行う。またミュージカル屋根の上のバイオリン弾き』は900回にわたってユダヤ人・テヴィエ役を演じ、彼の代表作となった。

1982年佐々木孝丸の後任として日本俳優連合の理事長に就任。1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け正式に卒業を認められた。

[編集] 晩年

1989年に妻・杏子(本名・満壽子)、1999年に長男・泉に先立たれた。長男が行っていた事業清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。

2002年12月、沖縄県で心筋梗塞で倒れ、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画「死に花」で復帰した。 2003年には90歳を迎えたことを機に、作家・演出家の久世光彦と<語り森繁、文は久世>の形で『大遺言書』を週刊新潮で連載を開始。後に単行本4冊にまとめられた。当初はこれが最後の仕事と森繁は熱意を持って望んでいたが、諸般の事情から連載終盤は森繁の話が殆ど出て来なくなっていった。

俳優として演技を見せたのは2004年1月2日放送のテレビドラマ『向田邦子の恋文』(TBS)が、1980年代半ば以降慣例となっていた大物芸能関係者の葬式における弔辞も2004年1月の坂本朝一元NHK会長のものが、それぞれ最期となった。

2006年3月に22歳年下の久世が急逝。同3月6日、健康上の理由から周囲が止めたがそれ押し切り、久世の通夜に参列。焼香後一旦は帰路に着くも再び会場へ引き返し焼香を行った。この通夜で「どうして僕より先に逝っちゃうんだよ…」と嘆き哀しむ姿が森繁が公の場へ現れた最期の姿となった。

2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が出されたが1991年に舞台用に録音されながらもお蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている(元々は森繁自身が録音する予定であったが、声が弱っていることから親交の深い竹脇無我が代読。主題歌担当者とのツーショット写真は公開されている)。 このDVD発売の際、森繁の近況が関係者から明かされた。それによれば天気のいい日は散歩や観劇に出掛け、食欲も旺盛でフォアグラステーキ等の肉料理を平らげ、ホットブランデーを愛飲するという元気な日々を送っているという。 またこの際、森繁自身も「体は思うように動かないが心は現役である」というコメントを発表している。 同年に日本俳優連合の理事長の地位を退き、名誉会長になった。

2009年8月、同年7月に風邪を引きそのまま8月3日に至るまで入院中である事が発表された。発熱などの重い症状は7月中に回復したが、が出る等の症状が治まらない為に大事をとって退院せずに病院で経過を診る措置がとられた。その後、9月15日に自身が在住する東京都世田谷区内のイベント「第十一回世田谷フィルムフェスティバル」において開かれた『名優・森繁久彌展』へメッセージを寄せ、その中で入院の件にも「皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております」と触れた。

11月10日午前8時16分、東京都内の病院で老衰のため死去[1]。96歳没。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の3代目テヴィエ役を担当した西田敏行や『知床旅情』のカバーをした加藤登紀子をはじめ、森光子黒柳徹子司葉子中村メイコ中村玉緒和田アキ子等、多くの芸能関係者が彼の訃報を受けて追悼と哀惜の思いを込めたコメントを発表している[3]。また、映画評論家白井佳夫は森繁をマルチタレント1号と評しその死を悼んでいる[2]

10日夜には多くの新聞社で号外が発行され、テレビニュースもほぼトップ扱いで森繁の逝去を報じ(TBS某事件容疑者逮捕のニュースと並行する形で)、各局がニュース速報テロップで彼の訃報を報じた。更に翌11日付の各社朝刊では1面に訃報が掲載された。

葬儀は故人の「こじんまりとしてほしい」との意向で、11日に家族葬に近い密葬形式で送られた[4]。同日午後に記者会見で、所属事務所の守田洋三代表はお別れ会については「関係者に挨拶した後改めて考えたい」[4]と述べた。

[編集] 没後

11月20日に青山葬儀所で、葬儀・告別式とファンによる「お別れの会」が行われた。告別式には小泉純一郎首相を始め、小林桂樹、竹脇無我、加山雄三里見浩太朗伊東四朗ペギー葉山樹木希林梅宮辰夫西郷輝彦あおい輝彦黒沢年雄森公美子関口宏林家正蔵野際陽子、黒柳徹子、加藤登紀子、中村玉緒、中村メイコ、司葉子、西田敏行、和田アキ子ら多くの芸能・政財界関係者が参列した[5]。祭壇には今上天皇からの祭粢料(一般の香典に当たる物)と生前に贈られた文化勲章などが飾られた。法名は「慈願院釋浄海」(じがんいんしゃくじょうかい)。

12月8日、日本政府は大衆芸能の発展に尽くし、多くの人材を育てた生前の功績を多とし、森繁久彌に対し、従三位に叙すると同時に国民栄誉賞を授与する閣議決定を行った[6]。国民栄誉賞の受賞は森光子以来18人目で、俳優での国民栄誉賞の受賞は、長谷川一夫渥美清、森光子に次いで4人目。表彰式は12月22日に執り行われた。

2010年2月6日、出身地の大阪府枚方市で市葬が行われ、地元(大阪11区)選出で、内閣官房長官平野博文(当時)も参列した。

同年6月に次男・森繁建と長女・和久昭子による、対談共著『人生はピンとキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌』(新潮社)が刊行された。

2010年11月の一周忌に当たり、東京都世田谷区小田急電鉄千歳船橋駅から旧森繁久彌私邸へ抜ける世田谷区道を『森繁通り』と命名することを決定し、11月13日に命名式典が世田谷区長:熊本哲之と森繁建(次男)を始めとする関係者列席の下に執り行われた[7]

[編集] 人物

1975年に『屋根の上のヴァイオリン弾き』の役作りの一環として(白い)口髭と顎髭を蓄え、以後それがトレードマークとなった。本人も気に入り、また一度剃ると蓄えるまで時間がかかるということで、オファーがあった際に髭があっても差し支えない役かを尋ねたという。ただし役の上で髭は邪魔ということであれば剃っている(映画「小説吉田学校」など)。

1977年に、60歳から80歳までの年齢層を「熟年」と呼ぶことを提唱した原三郎(東京医科大学名誉教授)からパーティーでこの言葉について説明を受ける[8]。以後、森繁もこの意見に賛同[9]、1981年にテレビ朝日系で放映されたテレビドラマ『おやじは熟年』では主役を務めた。このドラマの主人公は65歳の実業家という設定で、森繁本人と同じく「老年と目されることを嫌って"熟年"だとしきりにこだわる人物」とされていた[10]

[編集] 社会活動

小児麻痺に苦しむ子供たちを助けてあげたい」という思いから、伴淳三郎と共にチャリティー活動を始め、多くの俳優や歌手などの協力を得て街頭募金活動などを行った。それを法人化したのが『あゆみの箱』である。

[編集] 趣味

射撃を趣味にしていた時期があった。所有していた散弾銃は、独創的な機構を持つイタリア製の銘銃「コスミ」(外部リンク)であったことが射撃界では知られている。また芸能人・文化人の射撃好きで結成している『芸能文化人ガンクラブ』会長を結成以来務めていた。但し晩年は健康上の理由もあり表舞台には出ず、会の運営は会長代行(2代目理事長)の高木ブー(ハワイアンミュージシャン)に委ねていたという。

ゴルフも若い頃にやっており、広島県東広島市賀茂カントリークラブの設立に携わり初代社長も務めていた。ちなみに賀茂カントリークラブには森繁のライフワークであったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の像が設置されている。

[編集] 人間関係

駆け出しの放送作家だった向田邦子の才能を高く買い、自身のラジオ番組スタッフに抜擢し、本格的な放送作家となるきっかけを作った。その後『七人の孫』や『だいこんの花』シリーズなど多くの番組でタッグを組んだ。向田の墓石に刻まれた『花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る』の詩は森繁の作である。

記念すべき『徹子の部屋』第1回(1976年2月2日)放送分のゲストである。放送中に突然黒柳徹子の胸を触り、ハプニングシーンとなった。この時の映像は、バラエティ番組で『徹子の部屋』第1回放送シーンが流れるたびに使われる。

竹脇無我の父・竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友であった。無我は森繁と自殺した自分の父の姿とがだぶることから、彼を「オヤジ」と呼び慕っていた。

[編集] 評価

森繁の成功の影響でコメディアンの中からベテランになるにつれてシリアスな演技者となりたがる者が多発したため、作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』でそのような傾向の人々を「森繁病」と呼んだ。ただ小林は同書で森繁は元来シリアスな役者志望者であり、たまたまコメディアンとしての才能もあったため一時的にそのように注目されたのであってそのため彼の「転身」を他のコメディアンが単純に真似するのはおかしいとしている。

7代目立川談志は、『立川談志 日本の笑芸百選』(NHK BS2)や自身の著書等で「日本最高の喜劇役者は森繁久彌」と絶賛している(ただし、功名成し遂げた後の、特に「屋根の上のヴァイオリン弾き」などは否定的である)。

[編集] 賞詞

[編集] 叙位・叙勲・褒章

[編集] その他の表彰

[編集] 役職

[編集] 映画

[編集] 東宝 社員・重役シリーズ

[編集] 東宝 社長シリーズ(主演)

  • 1956年
    • 『へそくり社長』、『続へそくり社長』(田代善之助)
    • 『はりきり社長』(大神田平八郎)
  • 1958年社長三代記』、『続・社長三代記』(浅川啓太郎)
  • 1959年 『社長太平記』、『続・社長太平記』(牧田庄太郎)
  • 1960年 『サラリーマン忠臣蔵』(大石良雄)
  • 1961年
    • 『続サラリーマン忠臣蔵』(大石良雄)
    • 『社長道中記』、『続社長道中記』(三沢英之助)
  • 1962年
    • 『サラリーマン清水港』、『続サラリーマン清水港(山本長五郎)
    • 『社長洋行記』、『続社長洋行記』(本田英之助)
  • 1963年
    • 『社長漫遊記』、『続社長漫遊記』(堂本平太郎)
    • 『社長外遊記』、『続社長外遊記』(風間圭之助)
  • 1964年 社長紳士録』、『続社長紳士録』(小泉礼太郎)
  • 1965年 『社長忍法帖』、『続社長忍法帖』(岩戸久太郎)
  • 1966年 『社長行状記』、『続社長行状記』(栗原弥一郎)
  • 1967年 『社長千一夜』、『続社長千一夜』(庄司啓太郎)
  • 1968年 『社長繁盛記』、『続社長繁盛記』(高山圭太郎)
  • 1969年 『社長えんま帖』、『続社長えんま帖』(大高長太郎)
  • 1970年 『社長学ABC』、『続社長学ABC』(網野参太郎)

[編集] 東宝 駅前シリーズ 他(主演)

  • 1958年 『喜劇 駅前旅館』(生野次平)
  • 1961年 『喜劇 駅前団地』、『喜劇 駅前弁当』(柳田金太郎)
  • 1962年 『喜劇 駅前温泉』、『喜劇 駅前飯店』(柳田金太郎)
  • 1963年
    • 『喜劇 とんかつ一代』(五井久作)
    • 『喜劇 駅前茶釜』(柳田金太郎)
  • 1964年 喜劇 駅前女将』、『喜劇 駅前怪談』、『喜劇 駅前音頭』、『喜劇 駅前天神』(森田徳之助)
  • 1965年
    • 『喜劇 駅前医院』、『喜劇 駅前金融』、『喜劇 駅前大学』(森田徳之助)
    • 『喜劇 各駅停車』
  • 1966年
    • 『喜劇 駅前弁天』、『喜劇 駅前漫画』、『喜劇 駅前番頭』、『喜劇 駅前競馬』(森田徳之助)
    • 『喜劇 仰げば尊し』(浜口丈太郎)
  • 1967年 『喜劇 駅前満貫』、『喜劇 駅前学園』、『喜劇 駅前探検』、『喜劇 駅前百年』(森田徳之助)
  • 1968年 『喜劇 駅前開運、『喜劇 駅前火山』、『喜劇 駅前桟橋』(森田徳之助)
  • 1973年 『喜劇 黄綬褒章』
  • 1976年 『喜劇 百点満点』(北上大三)
松竹
  • 1971年 『喜劇 女は男のふるさとヨ』、『喜劇 女生きてます』(金沢)
  • 1972年 『喜劇 女売出します』(金沢)

[編集] 次郎長シリーズ

東宝「次郎長三国志
  • 1953年 『次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』、『次郎長三国志 第三部 次郎長と石松』、『次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港』、『次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路』、『次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家』(森の石松)
  • 1954年 『次郎長三国志 第七部 初祝い清水港』、『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』(森の石松)
日活次郎長遊侠伝
  • 1955年 『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』、『次郎長遊侠伝 天城鴉』
東宝「次郎長意外伝
  • 1957年 『次郎長意外伝 灰神楽の三太郎』、『次郎長意外伝 大暴れ三太郎笠』(森の石松)

[編集] その他の主な出演

[編集] アニメ(声の出演)

[編集] テレビドラマ

[編集] 日本テレビ 年末時代劇スペシャル

日本テレビ年末時代劇スペシャル」には、6作品に出演した。

[編集] TBS 水戸黄門

TBSナショナル劇場(現・パナソニック ドラマシアター)水戸黄門』には数回、ゲストで出演している。当初は、徳川光圀役を演じる予定だった。

[編集] TBS 向田邦子ドラマスペシャル

[編集] その他(主な出演)

NHK
日本テレビ
TBS
フジテレビ
  • 1983年 芸能生活50周年記念・栄花物語田沼意次
  • 1994年 銀色の恋文(未放送作品/2009年11月14日に追悼番組として初放送)
  • 1995年 銭形平次 第5シリーズ 第10話「過去からの告発」ゲスト(勘助)
  • 2001年 旗本退屈男 第5話「幽霊城の姫君」ゲスト(立石右京太夫)
関西テレビ
  • 1981 - 1997年 裸の大将放浪記(園長先生)
  • 1983年 開局25周年記念 吉田茂(吉田茂)
テレビ朝日
テレビ東京

[編集] CM

[編集] ラジオ、テレビゲスト出演ほか

2003年からは再放送、共演は加藤道子

[編集] 徹子の部屋

黒柳徹子が司会を務める徹子の部屋NET)には記念すべき第1回の放送から通算13回にわたってゲスト出演している。1977年の2回分の放送は録画テープがなく、特別番組では写真と録音テープが紹介された。
  • 1976年2月2日放送(第1回ゲスト、ゲスト出演1回目)
  • 1977年1月4日放送(ゲスト出演2回目)
  • 1977年12月1日放送(ゲスト出演3回目)
  • 1980年5月15日放送(ゲスト出演4回目)
  • 1984年2月2日放送(ゲスト出演5回目)
  • 1986年2月3日放送(ゲスト出演6回目)
  • 1989年2月2日放送(ゲスト出演7回目)
  • 1993年1月28日放送(ゲスト出演8回目)
  • 1993年5月4日放送(ゲスト出演9回目)
  • 1997年4月29日放送
  • 2001年2月2日放送(最後のゲスト出演13回目)
  • 2009年11月12日放送(追悼特別番組)
  • 2010年2月1日放送(35周年特別番組)

[編集] バラエティ番組など

[編集] 華やかなる饗宴(うたげ)

1955年NHK総合テレビで放送された、テレビ創生期のミュージカルショー。生放送で、共演は三木のり平岸井明ら。デビュー直後の岡田真澄も出演していた。

[編集] その他

森繁が各界著名人とインタビューする番組のメインパーソナリティー。出身地・大阪の放送局で製作された数少ない森繁主演番組である。

[編集] 舞台

[編集] 作詞・作曲

[編集] LPレコード

  • おらが唄さ(1963年/日本コロムビア
  • 森繁久彌 魅力のすべて(1969年/日本コロムビア)
  • しれとこ旅情(1971年/日本コロムビア)
  • 我がセンチメンタルの碑(発売年不明/日本フォノグラム

[編集] コンパクトディスク

[編集] 著書

単著で20数冊ある。『森繁自伝』で日本文芸家協会の推薦を受け会員となった。

[編集] 揮毫など

  • 秀吉 - 題字(1996年大河ドラマ/NHK)
  • 吟醸酒「神の座」 - 命名・題字(青森県・尾崎酒造)

[編集] 脚注

  1. ^ a b “「俳優の森繁久弥さんが死去」”. 朝日新聞13版 (朝日新聞社). (2009年11月10日) 
  2. ^ a b 2009年11月11日『サンケイスポーツ』21面
  3. ^ 『サンケイスポーツ』、『デイリースポーツ』、『報知新聞』など。
  4. ^ a b 森繁久彌さん死去で次男が会見 「命、全うしたと思います」”. オリコン (2009年11月11日). 2011年1月10日閲覧。
  5. ^ 故森繁久弥氏の告別式、共同通信11月14日閲覧
  6. ^ 故森繁久彌氏に国民栄誉賞 産経新聞 2009年12月8日閲覧
  7. ^ 森繁通り(もりしげどうり) 設定年月日:2010年8月4日 起点 世田谷区船橋一丁目10番先(小田急線) 終点 世田谷区船橋三丁目5番先(旧・森繁久彌邸前) 路線延長660m 故・森繁久彌さん:世田谷に「森繁通り」誕生! 一周忌迎え命名式 毎日新聞 2010年11月14日閲覧
  8. ^ 「『熟年』論争の運命は?」朝日新聞1981年4月5日
  9. ^ 1980年に放映されたテレビドラマ『機の音』出演の際、新聞の取材で「60歳から80歳は熟年ですよ」と答えている(朝日新聞1980年8月22日)。
  10. ^ 朝日新聞1981年3月19日(番組紹介記事)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語