大塩平八郎

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大塩 平八郎(おおしお へいはちろう、1793年3月4日寛政5年1月22日) - 1837年5月1日天保8年3月27日))は、江戸時代後期の儒学者大坂町奉行与力大塩平八郎の乱を起こした。

通称は平八郎、は正高、のち後素(こうそ)、は子起、号は中斎。家紋は揚羽。大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満の生まれ。かつては平八郎が養子で阿波国の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから養子である可能性は否定されている。平八郎の実の祖父・政之丞が阿波国脇町の出身で、与力大塩氏に養子に入ったことから、この祖父と混同されたと考えられる。

生涯[編集]

大塩終焉地の碑(大阪市西区

大坂町奉行組与力[編集]

奉行所時代はさっぱりとした性格の人物として不正を次々と暴いた。特に、組違いの同僚である西町奉行与力弓削新左衛門の汚職事件では内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めた。腐敗した奉行所内では彼を憎む者も少なからずいたが、上司の東町奉行高井実徳の応援があればこそ活躍できた。この一件と、切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自ら三大功績として扱っている。切支丹の摘発は京都町奉行所との連携で行われ、また腐敗役人糾弾と破戒僧摘発は京都町奉行所や奈良奉行所、堺奉行所など上方の諸役所にも波及し、上方の腐敗は一掃された。

陽明学者[編集]

文政13年(1830年、この年改元して天保元年)の高井の転勤とともに与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲った。学問は陽明学をほぼ独学で学び、知行合一致良知万物一体の仁を信じて隠居後は学業に専念し、与力在任時に自宅に開いていた私塾洗心洞で子弟を指導した。江戸の陽明学者佐藤一斎とは面会したことはないが、頻繁に書簡を交わした。大塩の存命時は寛政異学の禁の影響が続いており、朱子学がもてはやされたため、もともと狷介人である大塩は朱子学者からの不毛な論戦に時間を取られることを避けて、来客にはほとんど面会せず、送られてきた書簡への返信もしなかった。

飢饉対策[編集]

天保の大飢饉は、全国的には天保4年秋から5年夏にかけてと天保7年秋から8年夏にかけてが特にひどかった。天保4-5年の際には大阪西町奉行の矢部定謙が大塩を顧問のごとく遇し、また矢部の配下に内山彦次郎のような経済の専門家が揃っていたため、無事切り抜けた。しかし天保7-8年の際には矢部は勘定奉行に栄転しており、大坂東町奉行の跡部良弼は幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ強制的に廻米し、また豪商が米を買い占めたため米価が高騰した。大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛め、跡部に対して、蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせるなど、米価安定のためのさまざまな献策を行った。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門 (9代)に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけたという。善右衛門が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかったとされる。内山彦次郎は、跡部の指揮の下で江戸強制回米の実務を主導した。跡部は江戸への回米を徹底するため、京から5升1斗程度の米を買いに下る者をさえ召し捕えるほどであったため、(将軍の主君たる天皇が座する)京の都は餓死者で溢れた。自ずと流民は大坂に流れ込み、大阪市中の治安は悪化した。儒学は孝と忠を重んじるが、儒者たる大塩が認めた『檄文』からは、大塩が朝廷への忠を念頭に、我が主君たる幕府への諫言を行う意図が明らかに読み取れる。このスタンスは、陽明学徒の主たる特徴である。

乱とその後[編集]

蜂起の前年の天保7年秋、米価高で甲斐国の「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。

大塩は戦場から離れた後、跡部の暗殺を志してか、淀川に船を浮かべて日が暮れるまで大阪東町奉行所の様子を伺った。その後、四ツ橋のあたりで長刀を川に投げ捨て、河内国を経て大和国に逃亡した。数日後、再び大坂に舞い戻って下船場油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏した。一月余りの後、美吉屋の女中がいつも2人分の食事が余分にあるのを不審に思い、大坂城代(下総国古河藩主)土井利位の摂津平野郷陣屋に密告したことで幕府方に発覚し、役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決した。享年45。

人物・逸話[編集]

  • 「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくすべきではない」との言葉から、極めて厳格な人間性が伺われる。
  • 非常に短気で、頼山陽からは「小陽明」とその学識ぶりを称賛される一方で、「君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之を蔵せよ。」とその直情的な性格を忠告された。また、大坂西町奉行矢部定謙宅に招かれて食事中に幕政の腐敗に怒ったあまり、本来なら歯が立たないほどの硬い魚(カナガシラ)の頭を噛み砕いてしまったことがある。
  • 大塩は、近藤重蔵が大坂御弓奉行に就任していた時に会った事があり、大塩は重蔵に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、重蔵もまた大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた。
  • 講義は厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり大塩の目が見られなかったという。
  • ストイックな生活を送り、夕方には就寝、午前2時に起床と天体観測、潔斎と武芸の後朝食、午前5時には門弟を集めて講義、その後出勤というサイクルであった。
  • 自他共に厳しく、神経の張り詰めた生活を送り、10日余りも眠ることが出来なかった時があったという。

生存説[編集]

大塩平八郎の乱が鎮圧され、一月後に潜伏先を探り当てられて大塩が養子格之助とともに自害した際、火薬を用いて燃え盛る小屋で短刀を用いて自決し、死体が焼けるようにしたために、小屋から引き出された父子の遺体は本人と識別できない状態になっていた。このため「大塩はまだ生きており、国内あるいは海外に逃亡した」という風説が天下の各地で流れた。また、大塩を騙って打ちこわしを予告した捨て文によって、身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年アメリカモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説も流れた。これらに加え、大塩一党の遺体の磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。

幕府の吟味は、乱の関係者が数百人に上ることに加え、未曾有の大事件であったため、大坂町奉行所と江戸の評定所の二段階の吟味となり、一年以上の長期に渡ることとなった。事件の大きさからすれば吟味が遅延したとはいえないが、天下の注目を集めただけに、町人出身の京の老儒猪飼敬所のように、なかなか仕置が定まらないことに不審を持つ者も多かった。

仕置は翌年に言い渡され、大塩以下、主だった者たちの磔が大坂南郊の飛田刑場において行われた。竹上万太郎を除き、塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされるという異様な風景で、さらに生存説に拍車をかけることとなってしまった。ただし、大塩の友人で乱鎮圧の立役者となった坂本鉉之助は、市中引き回しとなった大塩の遺体を見た知人の話として、確かに大塩の面影があったと松浦静山に述べている。

追悼碑・墓[編集]

平八郎と格之助の墓

大塩父子の終焉地近傍の大阪市西区靱本町1丁目18番12号(天理教飾大分教会の敷地内)に、追悼碑がある。碑文にもある通り、終焉地である油掛町の美吉屋の跡は、この碑がある道路の一本北の道に北面していた。

平八郎と格之助の墓は大阪市北区成正寺にある。戦災で破損した墓を1957年に復元したものであり、まだ新しい。

著書[編集]

いずれも乱の直後に大坂町奉行所によって禁書とされ、売買を固く禁じられた。現在の出版状況については「関連文献」の項を参照のこと。

  • 『洗心洞箚記』
    • 大塩の代表作。読書録の形式で陽明学を説いた書。
    • 長州藩吉田松陰はこの著作を「取りて観ることを可となす」と評価し、また薩摩藩西郷隆盛も禁書となったこの著作を所蔵していた。
  • 『儒門空虚聚語』
    • 仏教特有の概念とされてきた「空」・「虚」が仏教伝来以前の儒教の聖賢の経書に現れていることを実例を挙げて証明した書。陽明学は「知行合一」で実践を重んじることから、朱子学派や仏教徒などから禅の影響が強いと批判されがちであった。
  • 『増補孝経彙注』
    • 四書五経の『孝経』についての先賢の注釈をまとめた書。大塩は儒教の概念の根本は親への孝であると説いた。
  • 『古本大学刮目』
    • 朱子学提唱者の朱熹は経書である『大学』の字句を自説に従うよう修正してしまい、朱子学の興隆とともに修正後の『(新本)大学』が広く出回るようになってしまったため、本来の形の『古本大学』に陽明学者として注釈を加えた著作。出版のための準備が進行していたが、乱により禁書となった。明治維新後、門人の田結荘千里によって出版された。
    • この著作の序文は頼山陽に依頼したが、間もなく他界したために頓挫し、のち佐藤一斎に依頼して断られる。また、津藩儒の斉藤拙堂に依頼し、原稿が寄せられたものの、拙堂は朱子学者の立場で書いたため、著作の意義が損なわれるとして大塩は採用しなかった。序文は最終的には、大塩本人が天保3年6月に書いた自序のみが掲載された。

家族[編集]

  • 大塩ゆう
    • 平八郎の妾。曽根崎新地の茶屋大黒屋和市の娘。ただし平八郎に正妻はおらず、ゆうが実質的な正妻であった。平八郎に嫁ぐにあたり、高弟の橋本忠兵衛の義妹となる。乱当時は大塩や橋本の画策で、中山寺参詣のため、みね、いく、弓太郎とともに摂津国伊丹町の紙屋幸五郎宅に退避していた。乱後、ゆうとみねに自決を勧めに来た橋本忠兵衛をも一行に加えて逃亡。京で京都町奉行所の役人に捕らえられた。幕府の吟味書によれば、ゆうやみねたちは、乱については事前に何も知らされていなかったという。翌年に牢死。判決は「存命ならば遠島」とされた。
  • 大塩格之助
    • 平八郎の養子。東組与力で大塩家の西隣に屋敷を構えた西田家の出身。平八郎の門弟として初読から洗心洞で学んだ。乱では先鋒、本隊、殿軍の三隊のうち先鋒を指揮した。乱後、最後まで大塩に付き従い、大塩とともに自決した。乱当時には平八郎に代わって与力大塩家の当主であったことから、幕府からは平八郎とともに乱の首謀者として糾弾され、遺体を磔刑とされた。
  • 大塩みね
    • 格之助の妾。橋本忠兵衛の長女。弓太郎の実母。乱当時は大塩や橋本の画策で、中山寺参詣を口実に摂津国伊丹町の紙屋幸五郎宅に退避していた。乱後はゆうや橋本忠兵衛らと逃亡。京で捕縛され、大坂町奉行所に身柄を引き渡された直後に死亡した。吟味前に死亡したため、仕置は申し渡されていない。
  • 今川弓太郎
    • みねの長男。乱当時はゆうやいくとともに摂津国伊丹町の紙屋幸五郎宅に退避していた。乱後の幕府の仕置書では、平八郎とみねの不義密通の子とされた。大塩氏は今川氏の支流であり、乱で用いた大筒の砲台には乱の首謀者たちの名に並んで「今川弓太郎」の名が平八郎によって書かれていたため、乱後の幕府の仕置書では、大塩でなく今川の苗字が用いられた。仕置は「首謀者の実子につき大坂永牢」とされた。
  • 宮脇いく
    • 平八郎の年下の叔父宮脇志摩の次女。大塩家に引き取られて養育された。乱当時はゆうやいくとともに摂津国伊丹町の紙屋幸五郎宅に退避していた。ゆうやみねらとともに逃亡し、京で捕縛されたが、大塩家への縁組は奉行所に届けられておらず、宮脇志摩の実娘として裁かれた。仕置では姉や妹と同様「構い無し」とされた。
  • 宮脇志摩
    • 平八郎の実の祖父政之丞と、政之丞の後妻の清との間に生まれた叔父。平八郎の4歳下。摂津国島下郡吹田村の牛頭天王社の神職宮脇家の婿養子となる。一統に加盟するも、密告によって企てが露見し蜂起が早まったため、村人を糾合して進軍したときには大坂の町は煙が多くて進めず、本隊と合流できなかった。その後、大塩捜索のための役人の訪問を自分の捕縛のためと誤解した志摩は切腹したが死に切れず、錯乱状態となり、身重の妻の理加を突き倒して昏倒させ、姑を切り殺して逃亡した。翌日、死んで溜池に浮かんでいるところを発見された。仕置では塩漬け死体を磔とされた。いくを含む三人の娘は構い無しとされたが、身重の妻が志摩の死後に産んだ末子を含め、三人の息子は他の磔刑に処せられた者たちの男児と同様、一定の年齢に達した段階で遠島とされた。
  • 大塩政之丞
    • 平八郎の実父方の実祖父、宮脇志摩の実父。平八郎の両親は幼少時に他界したため、父親代わりとして平八郎を育てた。政之丞は阿波藩蜂須賀氏筆頭家老稲田氏の家臣の出自で、稲田氏が治める阿波国脇町で出生した。のち、大坂の与力大塩家に養子として入り、大坂東町奉行組与力として出仕した。文政元年、大塩が26歳の時に死去。
  • 大塩清
    • 政之丞の後妻、平八郎の養祖母、宮脇志摩の実母。乱時には既に他界。平八郎は政之丞の先妻の孫のため、血縁関係はない。大塩邸の隣家の東組与力西田家の出身。早くに両親を失った平八郎の母親代わりとなった。平八郎は儒学でも孝の概念を重要視したが、実の両親や実の祖父政之丞よりも清に対する孝心が篤かったらしく、平八郎が建てた墓碑の中で清のものが飛びぬけて大きい。清の他界の直後、清の実家西田家から格之助が養子として入った。
  • 大塩平八郎敬高
    • 乱の首謀者大塩平八郎後素の実父。寛政11年5月11日、後素が7歳のとき、後素の実父である敬高は死去した。この年の9月20日、後素の実母である敬高の妻(俗名不詳、大坂東町奉行組与力大西駒蔵の娘)が後を追った。このため、祖父母が後素の両親代わりをつとめた。
  • 大西駒蔵
    • 平八郎後素の外祖父、後素の実母及び大西与五郎の姉弟の実父。長く与力として諸御用調役に就き、東町奉行所の最古参格であった。文政11年、大塩が36歳の時に死去。
  • 大塩波右衛門正勝
    • 大塩家の初代波右衛門義勝の嫡流である大塩宗家の当主、御三家尾張藩徳川氏の家臣(知行200石)。大塩平八郎は隠居直後の文政13年に尾張宗家を訪問し、念願の「徳川家康公直々に賜った弓」の拝謁を果たした。この旅では、友人の頼山陽から『送大塩子起適尾張序』を贈られている。尾張宗家では歓迎を受け、平八郎は弓蔵などの修繕費用を出した。

上役[編集]

  • 高井実徳
    • 大塩が切支丹や破戒僧の摘発、奸吏糾弾などの功績を挙げた際に上役の大坂東町奉行として指揮した。高井が病気による退任願いを受理された時、大塩もまた38才という若さで隠居した。のち旗本の役職である御三卿田安家家老に抜擢された。乱時には既に他界。
  • 内藤矩佳
    • 高井の相役として長く大坂西町奉行を勤めた。高井実徳の就任当初には、大塩は組違いの奉行である内藤の方を支持していたらしい逸話がある。かつては御用金を納めるほど羽振りがよかった大坂の町人が零落して家が潰れそうになったところ、大塩は大坂東町奉行就任直後の高井でなく内藤に掛け合い、忠孝の道を説いてこの町人を没落から救った。大塩は内藤が継母に孝行を尽くしていることを称えた後、商人が御用金に応じるのは、公儀と主従関係に準じた関係を結び、いざというときに公儀に商人自身の零落を防いでもらうためだとし、この商人を救わねば誰も御用金に応じなくなり、公儀の資金繰りが悪化するとした。そして、大塩の自説である「忠心は親への孝心が元になる」という論理で、内藤こそがこの商人の零落を救い得る人物だと説き伏せたものである。のち公事方勘定奉行に栄転し、大塩の乱の吟味を評定所の構成員として担当することになった。
  • 新見正路
    • 大塩隠居の前後に大坂西町奉行であった。大塩の支援もあって大川浚えを成功させ、西ノ丸御側御用取次見習に栄転した。学問に造詣が深く、蔵書家としても知られる。文政13年、大塩は頼山陽の『日本外史』を新見に譲渡すべく気安く山陽にかけあったために、一時的に大塩と山陽との関係がこじれた。書籍渉猟や大川浚えの費用確保のため、大塩や瀬田藤四郎の仲介で鴻池から1000両の調達金を確保したことで恩義を感じ、後々も大塩らに目をかけた。その一例として、大塩が昌平黌儒者の古賀侗庵らと論争をした際には、大塩に江戸出府時の寄宿先として自邸の提供を申し出たことが挙げられる。
  • 太田資始
    • 遠江国掛川藩主。大阪城代在任時に大塩と交流があったらしく、京都所司代に移っていた天保4年には大塩から著作『洗心洞箚記』を献呈された。乱発生時には西ノ丸老中であった。のち老中となり、天保の改革では穏健派として水野忠邦と対立した。
  • 矢部定謙
    • 大塩の隠居後に大坂西町奉行に就き、大塩を顧問として遇した。天保4年の飢饉では米価引き下げに活躍し、名奉行としての名声を得た。乱の前年に勝手方勘定奉行に栄転したが、この年の飢饉で米価引き下げが上手くいかなかったことを大塩は誤解したらしく、大塩が乱の直前に老中宛で送った建議書では奸物として糾弾された。乱後は、親しい友人である江川英龍が建議書を入手したことから大塩の建議書の内容をわきまえていたのはほぼ確実であるにもかかわらず、老中の水野忠邦などに対立して徹底して大塩擁護に回った。そのためか、勘定奉行として職務上目立った失態がないにもかかわらず西ノ丸留守居に左遷された。
  • 跡部良弼
    • 乱発生時の大坂東町奉行。老中水野忠邦の実弟。先任の相役であった矢部定謙からは引継ぎの際に、有能ながら気難しい与力隠居である大塩の扱いに注意するよう忠告されたが聞く耳を持たず、飢饉に際して大塩の献言を一切受け付けずに京大坂を大混乱に陥れたことが乱の発生に繋がったとされる。幕府評定所からの褒賞からは外れたものの、乱発生の責任は一切問われず、天保の改革時はおろか実兄水野忠邦の失脚以後も顕職を歴任した。
  • 堀利堅
    • 乱発生時の大坂西町奉行。幕府儒官の林大学頭述斎の娘婿。乱の発生は大坂への着任の直後で、乱の発生日は新任奉行の恒例行事である市中巡見の予定であった。
  • 土井利位
    • 下総国古河藩主。乱発生時の大坂城代。大坂城防備の中心として幕府勢を指揮した。乱後には大塩父子の潜伏場所を突き止め、家老の鷹見泉石が捕り手を指揮した。のち京都所司代を経て老中に就任し、天保の改革では水野忠邦と対立した。
  • 遠藤胤統
    • 近江国三上藩主、定府大名。乱発生時の大坂玉造口定番。坂本鉉之助や本多為助らの上役。乱の折には相役の京橋口定番が大坂に未着任であったため兼任していた。大坂町奉行所に坂本や本多らを増援に出し、乱鎮圧に繋げた。のち若年寄に栄転。
  • 大久保忠真
    • 相模国小田原藩主。乱発生時の老中首座、勝手掛老中。清廉で老練な老中として、後に天保の改革の担い手となる多くの逸材を抜擢した。しかし、政敵である水野忠邦や脇坂安董らの妨害によって改革は遅々として進まず、乱直後に病死した。大塩が乱の直前に老中宛に送った建議書では、京都所司代在任時に不正無尽を行ったとして糾弾されている。
  • 水野忠邦
    • 遠江国浜松藩主。乱発生時の勝手掛老中。跡部良弼の実兄。但馬国出石藩の御家騒動である仙石騒動を担当老中として上手く裁定したとして、担当寺社奉行であった脇坂安董とともに将軍徳川家斉に目をかけられていたため、乱発生時には実権は大久保忠真でなく水野が握っていたとも言われる。大塩が乱の直前に老中宛に送った建議書では、京都所司代在任時に不正無尽を行ったとして糾弾している。

同僚[編集]

  • 瀬田藤四郎
    • 大坂東町奉行組与力。済之助の養父。瀬田家の屋敷は大塩邸と裏手で接していた。大塩とは特に懇意の同僚であったが、乱の数年前に中風で半身不随となっていた。乱に用いる大筒を知人から借り受けるために手紙を書くなど、乱に積極的に加担した。乱後、養子瀬田済之助の妻子とともに親類の茨田郡次を頼って大和国に潜伏したが捕縛され、まもなく獄死した。吟味前に死亡したらしく、幕府評定所の仕置には名前がない。
  • 弓削新左衛門
    • 大坂西町奉行組与力。手下の八尾屋新蔵などを使って大坂城代などの不正無尽を手配するなどして取り入り、汚職の限りを尽くした。弓削は大坂西町奉行の内藤矩佳が栄転のために江戸に出府することから見送りのために大坂を離れ、その隙に、大塩によって手下たちを捕縛された。そうとも知らずに大坂に帰還した弓削は、親戚たちによって詰め腹を切らされたという。弓削家は取り潰しを免れたが3000両が没収され、大塩の指揮の下、貧民に施された。
  • 大西与五郎
    • 大塩平八郎の実母方の叔父。大坂東町奉行組与力。乱に誘われたが不参加。叔父甥の関係ながら大塩とは5歳しか離れておらず、しかも与五郎は嫡子ではなく兄の死によって出仕したことで奉行所への出仕も平八郎の方が早かったため、大塩に日常的に侮られていたのが原因とされる。乱発生時の朝、奉行の跡部良弼から「大塩を説得せよ、不首尾なら刺し違えて死ね」と命じられたが、既に大塩勢は蜂起していて説得は不可能であったため、西宮に逃亡した。仕置では、大塩の企てを事前に聞かされていたにもかかわらず単なる大言壮語と解釈して取り合わず、奉行所に訴え出ずにいたことを咎められて、三宅島に遠島に処された。
  • 西田青太夫
    • 大坂東町奉行組与力。格之助の兄。西田家の屋敷は大塩家の西隣であった。乱には加担しなかった。当時の大坂の医師による見聞録『浮世の有様』によれば、大塩父子の自殺の直後に奉行の跡部良弼から謹慎を命ぜられた。ただし跡部は、西田が大塩勢と距離を置いていたと見ていたらしく「すぐに謹慎は解けるから早まったことをせぬように」との言葉をかけたと記されている。
  • 内山彦次郎
    • 大坂西町奉行組与力。経済や財政の実務家として高い能力を持ち、名奉行の矢部定謙を度々唸らせるほどであり、天保4-5年度には飢饉対策の実務を主導的に行った。しかし、乱の直前には手柄にはやって跡部良弼の命に盲従し、天下の米価高騰の原因となる江戸強制廻米の実務を主導したため、大塩から敵視された。乱発生時には大坂を離れて備前岡山で囲い米取締りの指導をしていたために難を逃れた。大塩父子の自殺の際、配下の同心たちや大坂城代の軍勢とともに包囲網に加わった。後に新選組芹沢鴨らが大坂で力士と騒動を起こした際には担当与力となり、新撰組の恫喝に屈しなかったため、米価高騰の一件に対する天誅との理由で暗殺された。
  • 朝岡助之丞
    • 大坂東町奉行組与力。江戸強制廻米の実務では内山彦次郎とともにことに当たった。朝岡邸は大塩邸から道を挟んだ向かいにあり、市中巡見の折には奉行の跡部と堀が朝岡邸に立ち寄って休憩する予定であったため、大塩はそこに大筒や棒火矢などで攻撃して両奉行を暗殺し、奉行所が大混乱に陥っている最中に大坂市中や近隣農村の豪商豪農中の奸物を懲らす計画であった。

師匠・交友[編集]

  • 篠崎三島
    • 儒学者、徂徠学者。大坂の私塾梅花社塾の主人。篠崎小竹の養父。頼春水尾藤二洲片山北海らと交友した。大塩の初読の師として知られ、三島の葬儀で大塩は「饅頭印紙五十」及び「菓子一袋」を供えた。
  • 柴田勘兵衛
    • 大坂玉造口定番与力。大塩の佐分利流槍術の師。大塩は与力として摂津国西宮町の勤番として出た折、姫路の宝蔵院流師範と試合をしてよい成績をおさめた。これを柴田に手紙で報告したところ、柴田が他流試合を厳しく叱ったため、大塩が平謝りに謝った手紙が今に伝わっている。乱では柴田は同僚の坂本鉉之助や本多為助らと同様に大坂東町奉行所に派遣され、大塩らと対峙した。しかし、跡部良弼が強引に無用の長物である百目筒を柴田に持たせたため、柴田は乱の鎮圧に貢献できなかった。
  • 頼山陽
    • 大塩との交友を通じて、いくつかの漢詩を残している。乱の5年前に死去。広島藩を脱藩して主君や父の朱子学者頼春水に背き、また漢詩の師匠菅茶山のもとを出奔するなどしたため、詩文の名声とは裏腹に存命時には不忠不孝の代名詞のように評された。そのためか乱の後には、山陽は生前に大塩と乱について共謀していたと噂された。
  • 篠崎小竹
    • 頼山陽の親友。大坂の私塾梅花社塾を養父篠崎三島から受け継いだ儒者。三島は大塩の初読の師であり、小竹も大塩と親しく交流した。小竹の養父三島と、山陽の父頼春水は友人関係にあった。
  • 林述斎
    • 幕府儒官、大学頭。大塩は現役与力の頃に林家が大坂表で不正無尽を企てていることを知り、門弟の富農たちと諮って一千両の調達金を貸与した。大塩は隠居後に一度江戸に出て対面し、幕政の粛正に関して大いに和するところがあったらしく、乱の直前に老中に宛てた幕政改革の建議書では宛先を述斎にして、改革の確実な履行を監督してもらえるよう希望していた。
  • 佐藤一斎
    • 天保年間頃には大塩とともに数少ない陽明学者。しかし狷介な大塩は一斎との直接の面談を避け、書簡で交流した。大塩と交流していた時期は林述斎の私塾塾長であった。その立場から、表向きは朱子学を教え、これはという人物に陽明学を教えるという指導法を取り、「陽朱陰王(表では朱熹の学問を教え、蔭では王陽明の学問を説く)」と呼ばれた。
  • 近藤重蔵
    • 蝦夷地の探検家。書物奉行から大阪弓奉行に左遷された際に大塩と交流した。生きたすっぽんを土産に大塩の元を訪れ、大塩にさばかせて胆力を試したという逸話がある。重蔵の息子近藤富蔵は大塩の仲介で佐分利流槍術の柴田勘兵衛に入門した。江戸帰府後、富蔵が起こした殺人事件で監督責任を問われて大名預かりとなり、そのまま死去した。富蔵は八丈島に流された。
  • 岡田半江
    • 絵師、岡田米山人の子。大塩の旧友であるとともに、頼山陽とも親しく、山陽が天保3年の秋に死去した時には半江は第一に大塩にその報を知らせた。乱で天満橋北詰にあった隠宅は延焼し、父米山人の遺品の多くを失ったと推測されている。京の猪飼敬所が伊勢国の平松楽斎に送った手紙によれば、乱への連座を疑われて入牢したという。これがきっかけで住吉に移住し、「住吉真景図巻」などの作品を残した。
  • 大蔵永常
    • 豊後国日田出身の農学者。大坂で出版活動をしていた頃に大塩と交流した。永常の妻は大塩の紹介によって知り合った。幕府の勘定方役人主導による伊豆諸島開拓計画で、大蔵が大塩を推薦しようとした消息を伝える書簡が今に伝わっている。
  • 猪飼敬所
    • 京の折衷学派の老儒者。猪飼は頼山陽と懇意であったが、山陽が存命中には大塩と猪飼の交流はなかった。その後、津藩士の内に幾人かの共通の知友ができた縁で交流が始まった。しかし、猪飼には誤字脱字を見れば朱で修正せねば気が済まない点竄癖があり、過去にも人から借りた貴重書に朱を加えたために貸し手から受け取りを拒絶されるというような問題を起こしていた。大塩も自著を頼みもしないのに添削されたことに腹を立て、公刊書で逆に猪飼を批判するという挙に出て関係が悪化した。
  • 間重新
    • 天文学者、蘭学者。号は確斎。間重富の子。シーボルト事件の高橋景保高橋至時の息子で、互いに父親の代からの盟友。父の跡を継いで、大坂在住のまま幕府天文方御用を勤め、天体観測の第一人者と目された。大塩は易学に基づき、天体観測によって天意を読み取る試みを続けており、天体観測技術を重新から学んだ。また、大塩の公刊書のいくつかの蔵板主となった。佐藤一斎は若い頃の大坂遊学時に父の間重富を頼って屋敷に寄宿していたために親しく、平八郎と佐藤一斎の仲を取り持った。乱の直後にも、佐藤に大坂の混乱状況を知らせる書簡を出している。乱の翌年、いまだ幕府評定所で大塩らの処罰が定まらない時期に病死した。
  • 坂本鉉之助
    • 大坂玉造口定番与力。砲術家坂本天山の実子で、本家に当たる大坂の坂本家の養子となった。当人も実父の薫陶で砲術に長け、狙撃により乱の鎮圧の立役者となり、功績第一として旗本に取り立てられ、禄米を現米八十石(禄米二百俵あるいは知行二百石相当。禄米は大坂表の御家人では江戸の俵単位とは異なり、現米での石数表示が多い)から二百俵とほぼ据え置きのまま、大坂鉄砲方に就任した(ただし役料は別に七人扶持)。回顧録の『咬菜秘記』で大塩との交流や乱について詳しく記録している。
  • 本多為助
    • 大坂玉造口定番与力。乱の鎮圧では坂本鉉之助をよく援護し、大坂定番与力としては異例の譜代御家人に取り立てられた。水戸藩士藤田東湖の『浪華騒擾記事』は東湖の友人の剣士斎藤弥九郎の大坂での内偵調査の結果をまとめ、主君徳川斉昭に上呈したものだが、その内容の大部分は斉藤が本多から聞き取りをした話で占められている。
  • 足代弘訓
    • 伊勢外宮権禰宜、御師。本居派の国学者。大塩が伊勢の内宮外宮の文庫に著書などの書物を奉納する際には仲介の労をとった。交流が始まった頃には既に天保の飢饉の只中で、平八郎に飢饉対策を繰り返し尋ねている。
  • 岡本花亭
    • 江戸の勘定方役人。文化度の朝鮮通信使聘礼に参加して、その才は遠く清国にまで響いた秀才であったが、老中水野忠成貨幣改鋳について諫言したために疎まれ、長く左遷されていた。大塩は与力隠居後の天保4年、いまだ面識のない花亭に著書『洗心洞箚記』を贈って花亭を感激させた。花亭は共通の友人である足代弘訓に、大塩の役人としての能力と清廉さ、そして学識を称え、江戸の勘定方への出仕を望む手紙を出している。
  • 斉藤拙堂
    • 伊勢国津藩士。昌平黌で古賀精里に学んだ朱子学者。大塩から『古本大学刮目』の序文を求められて寄稿した。山田三川の『想古録』には、嵐の中の船上でも動じない大塩の胆力についての逸話を拙堂が語ったものが収録されている。
  • 平松楽斎
    • 伊勢国津藩士。儒者。津藩校有造館の設立に尽力した。松浦武四郎の儒学の師。大塩とは特に親しく交流し、大塩の養子格之助とみねの祝言の知らせを受けると、新婦に贈物をするほどであった。
  • 武藤休右衛門
    • 大坂西町奉行新見正路の老臣。在地代官として新見家知行地の近江国小中村に住していたが、新見が大坂に赴任するのを期に勝手向きの総支配を任された。新見の書籍渉猟や大川浚えの資金を調えるために大塩及び瀬田藤四郎を頼り、その縁で懇意になった。新見家では大塩と瀬田の世話で鴻池から一千両を借りたが、乱の際には既に返済を終えていた。
  • 桑原幾太郎
    • 御三家水戸藩士、藤田東湖の妹婿。東湖らと徳川斉昭の藩主擁立に尽力して腹心となった。大塩が佐藤一斎を介して斉昭に著書を上呈したことがきっかけで、水戸藩京都藩邸にいた桑原は大塩と接触し、交流した。

門弟[編集]

高弟[編集]

  • 宇津木静区
    • 彦根藩家老宇津木泰交の同父異母弟、同じく幕末時の家老岡本黄石の同父同母兄。洗心洞に寄宿し陽明学を学んだが、挙兵には否定的であったため、乱の当日の早朝に大井正一郎によって斬殺された。
  • 湯川民太郎
    • 斎藤拙堂の門人として朱子学を学んでいたが、足代弘訓の紹介で大塩に入門し、宇津木静区と交代で洗心洞塾の塾長を勤めた。乱の直前に脱出し、宇津木を救出しようとして果たせず、母の実家紀伊国新宮近郊に逃亡した。その経緯は岡本黄石に向けて書いた『周章録』に詳しく記している。乱後は江戸昌平黌で再び朱子学を学び、後に、父が医師として仕えた紀州藩附家老新宮水野家に出仕し、水野家の学校で督学を勤めた。
  • 松本乾知
    • 松浦誠之や但馬守約と同じく大坂で開業する医師の息子。乱以前に流行り病で死去した。大塩は将来を嘱望しており、その死を深く歎き悲しんだ。実弟の隣太夫はいまだ元服前の少年ながら乱に参加した。
  • 松浦誠之
    • 松本乾知や但馬守約と同じく大坂で開業する医師の息子。乱後の大坂町奉行所の吟味書によれば、松浦誠之は大塩に檄文を見せられて乱への参加をそれとなく勧められたが、内容の過激さのために本気とは思えず、取り合わなかったという。乱後捕縛され、大塩の企てを届け出なかったことを咎められて長く入牢し、牢死した。
  • 但馬守約
    • のち田結荘千里を名乗る。松本乾知や松浦誠之と同じく大坂で開業する医師の息子。乱後の大坂町奉行所の吟味書によれば、松浦が大塩に乱への参加をそれとなく勧められたが取り合わなかったためか、大塩は松浦と親しい但馬守約には話を持ちかけさえしなかった。乱後、松浦と同じく捕縛されたが、大塩の企てを知らなかったものと認められ、九死に一生を得て出牢した。のち砲術家となり、更に幕末から明治にかけて実業家として活躍した。
  • 林良斎
    • 讃岐国多度津藩家老隠居。藩は藩士の他家との交流を厳しく制限していて、林良斎は大坂の大塩と一、二度行き来した以外は主に文通により交流していたため、乱については蚊帳の外だった。乱後には、但馬国の池田草庵や京の春日潜庵、安芸国の吉村秋陽らと主に文通によって交流し、陽明学の興隆に努めた。

武士・神職[編集]

  • 瀬田済之助
    • 大坂東町奉行組与力。東組与力寺西家の出身で、同組与力瀬田藤四郎の養子となり、与力となった。乱では本隊及び総軍の将大塩平八郎、先鋒の将大塩格之助とともに、殿軍を指揮した。乱の当日未明には小泉淵次郎とともに奉行所に泊番で、密告者により乱を察知した奉行の手勢に追われるが、逃げ切って大塩邸の仲間に事が露見したことを知らせた。乱の後には大塩父子らと行動をともにしたが、途中ではぐれ、村人に追い詰められて信貴山麓で縊死した。遺骸塩漬けの上、磔刑。
  • 小泉淵次郎
    • 大坂東町奉行組与力。大和郡山藩士青木氏の出身で、東組与力小泉氏の養子となり、与力となった。一統に加盟。乱の当日未明には瀬田済之助とともに奉行所に泊番で、密告者により乱を察知した奉行の手勢により斬殺された。遺骸塩漬けの上、磔刑。
  • 大井正一郎
    • 大坂玉造口定番与力大井伝次兵衛の嫡男。父の同僚である坂本鉉之助や本多為助の紹介で洗心洞に入門。特に為助は正一郎の槍術の師匠であったが、伝次兵衛の頼みで正一郎に説教をしたところ、その晩には意趣返しで為助の屋敷の瓦をすべて打ち砕くほどの乱暴者であった。蜂起の朝、大塩の高弟宇津木静区を斬殺した。乱では先鋒に入り大塩格之助の指揮を受けた。乱後は能登国にまで逃亡したが、金に困り京に舞い戻ったところを捕縛され、江戸で大名預かりとなり、病死した。遺骸塩漬けの上、磔刑。乱後、親から事前に勘当されていたこととされ、無宿正一郎として裁かれた。
  • 竹上万太郎
    • 大坂弓奉行組同心。大塩の最古参の門人の一人で、乱の血判にも加盟し、乱の当日に火縄銃を持参して大塩邸に駆けつけたが、計画が奉行所側に発覚したことが分かり口実を作って逃亡した。磔刑に処せられた十数人の中で、唯一生きながらに刑に処された。
  • 渡辺良左衛門
    • 大坂東町奉行組同心。乱に参加。敗残後、大塩父子に従った最後の一人。河内国五条宮で大塩の介錯により切腹した。遺骸塩漬けの上、磔刑。
  • 庄司義左衛門
    • 大坂東町奉行組同心。乱に参加。乱戦時に大筒の操作を誤って右手と両目を負傷し、逃亡時に大塩一行とはぐれ、大和国で捕縛された。牢死し、遺骸塩漬けの上、磔刑。
  • 近藤梶五郎
    • 大坂東町奉行組同心。乱に参加。奉行所勢により壊乱させられた後、大塩一行と合流できず、幾日か経って自宅の焼け跡で切腹して果てた。遺骸塩漬けの上、磔刑。
  • 平山助次郎
    • 大坂東町奉行組同心。奉行所や町人の不正を監視する町目付の役に就いていたため、一統に加盟するも離反。奉行跡部良弼の命で、乱の前日に矢部定謙に知らせるため江戸に出立。大名預かりとなり、乱の翌年、評定所による吟味がなされる中、監視役の目を盗んで短刀で自殺した。裁定では「磔刑のところ、密訴により、譜代取立ての上小普請入り」とされた。平山には嫡子がおり、譜代御家人となった平山家を継いだ。
  • 吉見九郎右衛門
    • 大坂東町奉行組同心。一統に加盟するも離反。九郎右衛門は密訴状で「大塩平八郎は息子格之助の許婚みねとの不義密通で今川弓太郎を産ませた」とし、「平八郎は『弓太郎のために奮起する』と九郎右衛門に語った」とも記している。これが幕府評定所の仕置書における「平八郎とみねの不義密通」の糾弾につながった。裁定では「磔刑のところ、密訴により、譜代取立ての上小普請入り」とされた。
  • 吉見英太郎
    • 吉見九郎右衛門の息子。洗心洞に寄宿。蜂起に合わせて配布する予定の檄文を河合八十次郎と共に版木から刷った。九郎右衛門の指示で密かに配布予定の檄文を一枚盗み、八十次郎と共に乱の当日未明に洗心洞を脱走し、実家に戻る。九郎右衛門の密訴状とあわせて大坂西町奉行所に訴え、その功で褒賞を受けた。後に父の吉見九郎右衛門とともに江戸に出、後に跡目を継いで譜代御家人となった。
  • 河合郷左衛門
    • 大坂東町奉行組同心見習。一統に加盟するも、乱以前に出奔。最後まで行方不明。
  • 河合八十次郎
    • 河合郷左衛門の息子。洗心洞に寄宿。吉見英太郎とともに洗心洞を脱走、大坂西町奉行所に訴え、その功で褒賞を受けた。乱参加者の与力同心の家は全て取り潰しになったため、その穴埋めのためもあって、八十次郎は祖父が当主をつとめる河合家本家とは別に、河合家の分家当主として出仕した。吉見英太郎との待遇の違いは、河合家の場合には郷左衛門が役所に訴え出ずに出奔したためである。
  • 安田図書
    • 伊勢外宮御師。乱の前年の天保7年に足代弘訓の紹介により洗心洞に入門。しかし、既に大塩は砲術の鍛錬等に時間を割かれて洗心洞の面倒を見る暇はなくなっていた。乱への参加も持ちかけられなかったが、寄宿していたために大井正一郎による宇津木静区暗殺では見張り役として関与させられ、そのまま否応なく乱に従軍することになった。大塩が大筒を操作する隙を見て逃げ出したが、すぐに大坂町奉行所に捕縛され、江戸送りで大名預かりとなり、そのまま病死した。仕置では「存命ならば中追放」とされた。

農民・町人[編集]

  • 橋本忠兵衛
    • 摂津国東成郡般若寺村庄屋。ゆうの義兄、みねの実父。最古参格の門人。ホオズキ栽培を広く手がけて財を成した。乱に参加して敗走した後、大塩家のゆうとみねに自殺を勧めるよう大塩に言いつけられたが果たせず、ともに逃亡して京で捕縛された。牢死し、遺骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。
  • 白井孝右衛門
    • 河内国守口町の質商古手屋の隠居。乱に参加。乱の翌日に伏見で捕縛され牢死し、遺骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。平八郎がしばしば出講した孝右衛門の隠居部屋を含む屋敷は、白井家が取り潰しになっても守口町の者たちが金を出し合って維持し、遠島とされた息子が明治維新によって帰還した際に引き渡された。隠居部屋は後には大塩書院と呼ばれ、子孫によって近年まで保存されていた。
  • 茨田郡次
    • 河内国門真三番村の富農。東組与力瀬田家の遠縁。乱に参加。中風で半身不随の瀬田藤四郎や、乱に参加した瀬田済之助の妻子らが頼ってきたため、彼らを大和国の知人宅に送り出したあと領主の役所に自首し、牢死した。骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。
  • 深尾才次郎
    • 河内国尊延寺村の富農。村人を引き連れて大塩の軍勢に合流する手筈になっていたが、密告によって蜂起が半日早まったために果たせなかった。のち大和国初瀬で大井正一郎と偶然出会い、ともに能登国に逃亡した。手持ちの金が尽きて大井を京の知人宅に送ったが、領主加賀藩の役人の捜索が厳しく自殺した。骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。
  • 柏岡源右衛門
    • 摂津国東成郡般若寺村年寄。乱の当日、橋本忠兵衛が庄屋をつとめる般若寺村の村民たちを引き連れて大塩勢に合流した。乱後、同門の高橋九右衛門とともに高野山にあった旦那寺を頼って逃亡したが、乱の報が山上にも届き、金銭を渡されて追われた。般若寺村は大坂城代役知に含まれていたため、領主である大坂城代土井氏の摂津国平野郷陣屋に自首した。牢死し、骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。
  • 柏岡伝七
    • 摂津国東成郡般若寺村百姓代。檄文の配布を任されたが、乱の当日朝、離反者の発生で浮き足立った雰囲気の大塩邸を出て一人になったところで後悔し、自宅で思い悩んでいるところを捕縛された。牢死し、骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。
  • 高橋九右衛門
    • 河内国門真三番村の富農。乱に参加し、壊乱後は柏岡源右衛門とともに高野山に逃亡した。下山させられた後、門真三番村もまた般若寺村と同じく大坂城代役知に含まれていたため、源右衛門とは事前に立ち分かれて平野郷陣屋に自首した。牢死し、骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。
  • 木村司馬之助
    • 摂津国東成郡猪飼野村の富農。木村氏本家当主とともに大塩の門人となったが、本家は乱には及び腰で、軍資金の寄附のみ行った。司馬之助は乱に参加し、のち捕縛されて牢死した。骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。吟味では司馬之助は木村本家の乱への関与を隠し通したため、本家には累が及ばなかった。司馬之助の男子は縁座により遠島となったが、本家はこの男子に目をかけて世話をした。
  • 横山文哉
    • 摂津国東成郡森小路村の医師。姑(妻の母)は横山の世話で大塩邸で長く針子をつとめていた。乱に参加し、捕縛されて牢死した。遺骸は塩漬けにされ、磔刑とされた。
  • 西村履三郎
    • 河内志紀郡弓削村の富農。乱に参加した後、姉の夫の伝手を頼り、伊勢国や陸奥国仙台の黄檗宗寺院を訪れた後、江戸に入って病死した。幕府が磔刑相当とした大塩以下20人の中で、唯一天命を全うした男である。幕府役人の追及が及んだ時には既に埋葬されて死体が腐乱していたため塩漬けにできず、磔刑相当ながら墳墓破壊に処せられた。
  • 柴屋長太夫
    • 摂津国兵庫西出町の町人。兵庫から大坂天満の洗心洞まで通って受講した。大塩の蔵書の多くは長太夫が支弁した。乱の直前に大塩に呼ばれたが参加は要請されず、資金供出を求められて否応なく応じた。判決では、「科料十貫文のところ数日入牢につき宥免」とされた。
  • 額田善右衛門
    • 摂津国伊丹町の馬借。大塩が伊丹の酒造家たちに招かれて出講した折、額田は隠れて盗み聞きしているところを大塩に見つかり、特別に末席での受講を許されるようになった。乱では檄文の配布を任されたが、乱の当日朝、離反者の発生で浮き足立った雰囲気の大塩邸を出て、一人になったところで後悔し、自殺した。
  • 美吉屋五郎兵衛
    • 大坂油掛町の染物商。大塩の祖父政之丞の遠縁。大塩から正直さを愛され、乱の蜂起で大塩一統が掲げた旗は五郎兵衛が全て染めた。乱の数日後、大坂町奉行所の取り調べにより五郎兵衛が町預かりとなったが、その当日に逃亡していた大塩父子が現れたため、店の裏手にある隠宅にかくまった。五郎兵衛は妻とともに江戸に呼ばれて評定所の吟味を受けたが、夫婦ともに病死した。

その他の関係者[編集]

  • 徳川家斉
    • 乱発生時の将軍。乱は天保の飢饉の結果として発生したが、御側御用取次たちは正直に飢饉の様相を家斉に伝えれば加増等の褒賞を返上せねばならなくなるため、飢饉をはじめ天下に起こる諸問題をごく些細なことのごとく報告していた。このため、飢饉の最中、乱発生の年に多額の出費を要する将軍代替わりが行われるという異常事態になった。大塩の乱の家斉への報告については、御側御用取次が同じように隠そうとしたとも、あるいは老中水野忠邦が実弟跡部良弼をかばって隠そうとするのを御側御用取次が連座責任を恐れて伝えたとも言われる。大塩がその蜂起の意思表明として各地に配った檄文は、西ノ丸への隠居直前に御側御用取次を通じて呈されたことが松浦静山の『甲子夜話』に書かれている。
  • 徳川斉昭
    • 御三家水戸藩主。水戸藩では斉昭と戸田忠太夫藤田東湖ら主従の活躍で、幕府や諸藩に先駆けて藩政改革を実施していたことから、大塩は畏敬の念を抱いた。大塩は水戸藩に招かれて儒学を講じていた佐藤一斎に依頼して斉昭に著書を献呈したことで、水戸藩との関係ができた。天保の飢饉では水戸藩も困窮し、水戸藩では一斎を介して大塩に水戸藩への廻米を周旋してくれるよう頼んだという。第一便は届いたが乱が発生したため、後便は乱に流用されたのではないかとの噂が流れたという。
  • 鷹見泉石
    • 下総国古河藩家老、蘭学者。主君の土井利位が大坂城代に就いたため、補佐役として大坂に赴任。乱の一月余り後、古河藩の飛地陣屋がある摂津国平野郷から大塩父子潜伏の情報が入り、鷹見は城代屋敷にあって捕縛の軍勢を指揮した。その動向及び内山彦次郎との確執については『鷹見泉石日記』に記されている。なお、この日記では、蘭学仲間である間重新とともに乱の当日から幾日かの分が執筆者本人によって切り取られ破棄されている。これは、大塩への同情か、あるいは水野忠邦の実弟である跡部良弼への批判が書かれていたためと推測される。
  • 松浦静山
    • 肥前国平戸藩主隠居。随筆『甲子夜話』の著者。『甲子夜話三篇』で大塩の乱について盛んに情報収集した結果がまとめられている。静山自身は朱子学を奉じており、民を救うために乱を起こした陽明学者大塩平八郎の行動を是としなかった。静山は、乱鎮圧の立役者坂本鉉之助の実父で砲術家の坂本天山を平戸に招いていたことがあり、天山は鉉之助を同行していた。鉉之助はその恩義に報いるため、論功行賞で旗本に取り立てられた際の御目見のための江戸出府で、恩人の静山と面談した。
  • 江川英龍
    • 天領伊豆国韮山代官。大塩が老中宛飛脚便で送った建議書は、大坂町奉行所の手配により届け先に送られる以前に差し戻しとなった。この荷が帰路に江川の支配地内で盗難に遭ったことから偶然入手、建議書全文を代官所役人総出で密かに書き写した。建議書では徳川斉昭及び大学頭林述斎の監視のもとで幕政改革を進めて欲しいという内容であったため、江川は友人の御三家水戸藩士藤田東湖を通じて斉昭に写しを呈しようとしたが、乱の共謀を疑われることを嫌った水戸藩の側では一旦拒絶した。大塩父子の自殺後に斉昭は東湖を通じて建議書写しの入手を催促するが、幕閣では老中首座の大久保忠真が死に、水野忠邦の権力が増大していたため、機を逸したとして江川は拒否した。
  • 斎藤弥九郎
    • 剣士。江川英龍や藤田東湖とは岡田十松の道場「撃剣館」の同門。乱当時は韮山代官所の江戸役所で手代として働いており、江川の指図で大坂に密偵として入り、江戸ではつかみ難い大坂表の情報を持ち帰った。大坂町奉行の跡部良弼は自らの不始末で乱を起こしてしまったため、処罰を恐れて情報を秘匿し、江戸表には公式には跡部に都合のいいように捻じ曲げられた情報しか入ってこず、根拠の薄弱な噂ばかりが飛び交って、誰もが疑心暗鬼に陥っていた。
  • 藤田東湖
    • 御三家水戸藩士。藩主徳川斉昭の腹心。乱後、江川英龍から大塩の建議書の写しの提供を持ちかけられたが、江川がその内容も見せずに答えを求めたため、後難を恐れて拒絶した。しかし、主君徳川斉昭は乱に強い興味を持っており、友人の斎藤弥九郎に大坂の情勢を詳しく聞いて『浪華騒擾記事』をまとめ、斉昭に呈した。
  • 渡辺崋山
    • 三河国田原藩士。蘭学者。儒学を佐藤一斎や松崎慊堂に学んだ。大塩との交流の有無は不明。蛮社の獄では崋山が大塩の手紙が公儀に発見されなかったことを安堵する文章を残しているが、これは殖産興業の技術者として招聘していた大蔵永常から譲渡された手紙である可能性がある。
  • 古賀侗庵
    • 幕府昌平黌儒者、朱子学者。古賀精里の三男、古賀穀堂の弟。大塩の友人の中では精里門下の篠崎小竹や斉藤拙堂らと親しく、乱の3年前の天保5年、彼らの伝手で、手紙によって大塩に接触を試みた。しかし大塩は、幕政改革が進まぬ原因の一端は昌平黌にあると思い定めていて、攻撃的、侮蔑的な返信を送ったために話がこじれた。更に大塩は自説をまとめた小冊子を送り、老中への回覧を願ったため、幕閣では大塩を江戸に召喚して釈明させようという動きにまで発展した(従来は、このやりとりに関する手紙が幕府への再仕官の働きかけにまつわるものと誤解されていた)。この動きの中で新見正路は大塩を支援する側に回り、佐藤一斎は朱子学派と陽明学派の対立を嫌い、逆に火消しに奔走した。
  • 山田三川
    • 伊勢国津藩士の出で、乱発生時には江戸で遊学していた。『三川雑記』では江戸でも大塩びいきの噂が飛び交っていることを書きとめ、また『想古録』では大塩の人柄について伝え聞いた人物評を収録している。
  • 川路聖謨
    • 乱当時は勘定吟味役。矢部定謙や岡本花亭、江川英龍、羽倉簡堂、藤田東湖らと親しかった。乱発生の第一報が江戸に届いた際は林述斎から伝え聞き「大塩は陽明学派の儒者だから乱など起こすはずがない。たとえ実際に起こしたとしても、狂人の所業だから大したことはない」と感想を述べた。いよいよ乱の発生が確かで、跡部良弼は殺されたとの噂が江戸に流れてくると、跡部の実兄の老中水野忠邦に対して「大塩は浪人であり、白昼に自宅を焼いて蜂起した以上は大したことはできないはずだ」と言って水野を安心させた。この経緯は川路の『遊芸園随筆』に記されている。なお川路は、仙石騒動で寺社奉行吟味物調役として実務を担当したことが出世のきっかけとなり、担当老中であった水野や担当寺社奉行であった脇坂安董とは懇意であった。その一方で大久保忠真とも懇意で、病床にある大久保に大塩の乱の報が伝わって心労を増やさないようにとの配慮から、大久保の家臣たちに口留めの働きかけもしている。川路のこの働きかけは間に合わず、既に大久保の耳に入っていた。

関連文献[編集]

大塩の著作(明治以降出版)[編集]

  • 大塩の主著の概略は「著書」の項を参照のこと。
    • 『洗心洞詩文』船井政太郎刊(1879)
    • 戴聖王守仁著, 大塩編『古本大学旁註』鉄華書院 (1896)
    • 『通俗洗心洞箚記』内外出版協会 (1913)
    • 『大塩中斎先生天保救民告文』大塩中斉先生九十年記念会 (1926)
    • 山田準訳『洗心洞箚記』岩波文庫 (1940)
    • 『日本の名著27 大塩中斎』中央公論社 (1978年)
    • 『日本教育思想大系11 大塩中斎』日本図書センター (1979年)
    • 『日本思想体系46 佐藤一斎・大塩中斎』岩波書店 (1980年)
    • 吉田公平訳『洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート〈上下〉』たちばな出版 (1998)

学術雑誌[編集]

  • 『大塩研究』大塩事件研究会
    • 年数回発行。

研究書[編集]

  • 森田康夫『大塩平八郎と陽明学』 日本史研究叢刊:和泉書院
  • 相蘇一弘『大塩平八郎書簡の研究』清文堂出版
    • 発見された大塩の書簡全てを網羅し、個別に読み下し及び詳細な解説を付す。現在までで最も詳細かつ正確な年表が収載。
  • 大塩事件研究会編『大塩平八郎の総合研究』和泉書院
    • 大塩個人の事績や乱、周辺人物、時代背景などに関する論文12編を収載。

伝記[編集]

  • 幸田成友『大塩平八郎』中公文庫、「著作集」中央公論社
    • 現在に至るまで大塩平八郎研究の基礎となる著作。
  • 叢書・日本の思想家38『大塩中斎・佐久間象山』(1981年)
  • 宮城公子『大塩平八郎』朝日選書、増補版ぺりかん社

小説[編集]

  • 森鴎外『大塩平八郎』
  • 阿部牧郎『大坂炎上 大塩平八郎「洗心洞」異聞』徳間文庫ほか
  • 長尾剛『大塩平八郎構造改革に玉砕した男』ベストセラーズ
  • これら以外にも多数の小説がある。

漫画[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]