土井利位

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土井 利位
時代 江戸時代後期
生誕 寛政元年5月22日1789年6月15日
死没 嘉永元年7月2日1848年7月31日
戒名 敬誉剛義温翁簡廉院
墓所 東京都台東区浅草・誓願寺
茨城県古河市大手町・正定寺
官位 従五位下、従四位下、侍従。大炊頭、主膳正
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行大坂城代
京都所司代・老中(首座)
下総古河藩
氏族 土井氏
父母 父:土井利徳、養父:土井利厚
兄弟 利制利謙利央利位利以
正室:桜井松平忠名の娘(土井利厚の養女)
娘(土井利則正室)
養子:利順利亨

土井 利位(どい としつら)は、下総国古河藩の第4代藩主。土井家宗家11代。江戸幕府老中(首座)である。

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生涯 [編集]

寛政元年(1789年)5月22日、三河国刈谷藩土井利徳の四男として生まれる。古河藩の第3代藩主土井利厚の実子が早世したため、文化10年(1813年)に利厚の養子に迎えられた。文政5年(1822年)に利厚が死去したため、家督を継いだ。

利位は奏者番寺社奉行を歴任して大坂城代となるが、利位が大坂城代のときに大塩平八郎の乱が起こってその鎮圧を担当した。その功績により、京都所司代に抜擢され、天保10年(1839年)に老中に任命された。

藩政においても天保2年(1831年)から鷹見泉石を家老に登用し、藩政改革を行なっている。

天保12年(1841年)1月に徳川家斉が死去し、5月に老中首座水野忠邦による天保の改革が始まると、利位は忠邦に協力して改革に参与した。ところが天保14年(1843年)、忠邦が打ち出した江戸・畿内周辺に対する上知令に関しては、自らの所領が畿内にもあったために反対し、反水野派の中心人物となる。水野派の鳥居耀蔵らの裏切りもあって忠邦を辞任に追い込み、その後を受けて老中首座に任命された。

利位は幕府財政再建のため、忠邦時代から続いていた倹約令を継続し、さらに百姓や旗本の生活苦を救うため救済策に尽力する一方で、弛緩していた武士道の引き締めにも力を入れるなどしている。利位の老中首座としての幕政担当期間はわずか10ヶ月という短期間であるが、利位は大坂で米の先物取引を行なうなどして一時的に幕府財政を黒字に好転させるなど、手腕を発揮しているのも確かである。

ところが天保15年(1844年)、江戸城本丸に火災が起こり、その再建のための資金調達を第12代将軍徳川家慶に命じられたが、利位は諸大名から十分な献金を集めることが出来ずに家慶の不興を買い、さらに6月21日にはオランダをはじめとする外国問題の紛糾もあって、水野忠邦が老中首座として復帰してしまう。このため、利位は忠邦の報復を恐れて自ら老中を辞任した。

嘉永元年(1848年)4月25日、養子の利亨に家督を譲って隠居する。直後の7月2日に死去した。享年60。

人物・逸話 [編集]

  • 大阪市天王寺区にあった鏡如庵(きょうにょあん)の通称であるどんどろ大師の語源は、土井利位が大坂城代の在任中(1834年 - 1837年)の大坂城代屋敷が鏡如庵の近くにあり、利位が鏡如庵に祀られている弘法大師を深く信仰して、折々に参拝していたために、「土井殿大師」(どいどのだいし)の名前が起こり、やがて「どんどろ大師」へ転訛したと伝えられる。鏡如庵は、明治時代初期に廃寺となり、その跡地には現在、どんどろ大師 善福寺高野山真言宗)がある。土井利位との関連ははっきりしていないが、現在、境内に土井氏と刻まれた五輪塔が残っている。歌舞伎「傾城阿波の鳴門」・「国訛嫩笈摺(くになまりふたばのおいずる)」に「どんどろ大師 門前の場」がある。
雪華図説』。土井利位著、1832(天保3)年刊。国立科学博物館の展示。
  • 日本で初めての結晶を顕微鏡で観察した人物として知られている。家老であり蘭学者の鷹見泉石の協力の下、20年にわたり雪の結晶を観察し、雪の結晶を『雪華』と命名して、観察結果を「雪華図説」「続雪華図説」にまとめ出版した。「雪華図説」「続雪華図説」は私家版で出版数も少なかったが、掲載されている結晶図はテキスタイルパターンとして取り入れられ、雪華模様の衣装が流行した。そのため、庶民から『雪の殿様』の愛称で親しまれた。雪華模様の別名『大炊模様』は、利位の官職からとられている。

年譜 [編集]

著書 [編集]

  • 雪華図説 - 天保3年(1832年)刊
  • 続雪華図説 - 天保11年(1840年)刊

土井利位が登場する作品 [編集]

外部リンク [編集]

先代:
利厚
古河土井家(土井宗家)
第11代
次代:
利亨