禁書

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禁書(きんしょ)とは、時の権力を代表する政府、あるいは宗教的・イデオロギー的な権威によってある書物の出版や販売を禁止する行為あるいは禁止された書物である。

禁書の理由[編集]

禁書が行われる理由はさまざまだが、書かれた内容が宗教的なタブー(神や聖書の否定、支配的な宗派からの逸脱、異端)、あるいは文化的なタブー(食人近親相姦など)に触れるものであったり、その国の体制を支えている政治システムやイデオロギーに対する批判となっていたり、性的な放埓(『O嬢の物語』、『ファニー・ヒル』など)や残虐描写を描いていたり、否定的に評価される政治的指導者の著書(アドルフ・ヒトラーの『我が闘争』など)や政治犯の手記である、などといったことが挙げられる。また魔術を乗せた本つまり魔導書なども含まれる。

ヨーロッパ[編集]

ヨーロッパでは活版印刷が行われる以前、書物は手書きで作られていたため、流通数が少なくコントロールが容易であった。しかし印刷物の数が爆発的に増えることでその影響力も甚大となり、政治的・社会的権威にとって不都合あるいは脅威を及ぼす書物が禁書という形でコントロールされるようになった。

中国[編集]

中国では後述の通り始皇帝による焚書が余りに著名であるが、その後2000年、現代に至るまで禁書政策は、歴代の王朝によって繰り返し施行され続けている。その記録にある最古の例は、戦国初期の秦国で行なわれた禁書である。秦の天下統一後の焚書坑儒の反動から、前漢代は一転して開放的な政策がとられた。禁書が復活するのは後漢代になってからであるが、この時に禁止されたのは、予言的な内容で盛行した讖緯の書であった。続く魏晋南北朝時代も、讖緯の書をしばしば禁じた外、廃仏時の仏書道教経典の禁止などを除けば、長期間にわたる禁書は見られなかった。代に至っても、同様の傾向が続き、会昌の廃仏などの一時期を除き、大掛かりな禁書は見られない。

代以降、時代の変化に応じて、禁書の範囲は拡大する。黄庭堅蘇軾など旧法党の文人の文集が、新法党と旧法党の政争により禁書の措置を受けたが、これは前代までには見られないことであった。朝は、讖緯の書や偽撰と認定した道教経典を禁止したなどの事件が見られる程度である。代、思想的な書物のみならず、『剪灯新話』などの多くの小説の類も禁書処分を受けた。明末の思想家李卓吾に至っては、その名も『焚書』などの著作によって人心を扇惑させたとして、最後は遂に獄死し、著書は全て焼却処分を受ける程の弾圧を受けた。

朝の禁書は更に厳しさを増す。これは、同じく北方の民族が興した王朝である元とは対照的である。清代の禁書を「文字の獄」という。歴代の皇帝は絶えず禁書政策を発し続けていたし、その輝かしい文化政策も反面、文化弾圧政策としての一面を持つものであった。一大叢書である『四庫全書』の編纂が、それである。その編纂過程で、世に流通が許された書物を確定した。陽明学の書など、あるものは本文を改変して四庫全書に収録し、価値の低い書物は目録にのみ記載し、目録に記載されなかったもののうちからブラックリストを作成して禁圧するという措置がとられた。

現代中国でも中国共産党に対する批判や歴史的事件などの書籍・伝記などは、社会秩序に反するとして中国本土では違法書籍となる場合がある[1]。 香港を除く中国国内では、文化統制政策のもとに国務院直属の新聞出版総署が各省・自治区・直轄市の各新聞出版局に方針を通達し、発禁書籍リストを作成、公安関係機関と連携して取り締まりを行なっている[2]

2012年5月、上海で起きた違法書籍の販売・所持事件では、違反者に5年5カ月~6年の懲役罰金が課せられ、違法書籍は没収の上、焼却処分されている。[3]

有名な禁書[編集]

歴史上有名な禁書行為としては古代中国の始皇帝による焚書、近代のカトリック教会による禁書目録の作成、ナチス・ドイツによる政治的禁書および焚書、中国の文化大革命における禁書・焚書などがあげられる。また大規模なものではないが、李氏朝鮮がその成立において儒教とは相容れない問題があったため、で出版された「明紀輯略」等を禁書とし、国内への搬入を拒むだけでなく、明にその処分、訂正を外交的に要求していたという例もある。

脚注・出典[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]