溝手顕正
| 生年月日 | 1942年9月13日(69歳) |
|---|---|
| 出身地 | 広島県広島市南区 |
| 出身校 | 東京大学法学部 |
| 学位・資格 | 法学士 |
| 前職 | 広島県三原市長 |
| 所属委員会 | 政治倫理審査会 |
| 世襲 | 無 |
| 選出選挙区 | 広島県選挙区 |
| 当選回数 | 4回 |
| 所属党派 | 自由民主党(古賀派) |
| 党役職 | 参議院幹事長 広島県支部連合会会長 |
| 会館部屋番号 | 参議院議員会館533号室 |
| ウェブサイト | 参議院議員・溝手顕正ホームページ |
溝手 顕正(みぞて けんせい、1942年9月13日 - )は日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(4期)、自由民主党参議院幹事長、自由民主党広島県連会長。
国家公安委員会委員長(第75代)・内閣府特命担当大臣(防災)、参議院国家基本政策委員長、広島県三原市長(第15代)を歴任した。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
広島県広島市南区皆実町生まれ。安芸郡海田町や三原市で育った。 広島原爆の投下3日後に入市被爆しており、救護活動を3歳弱ながら行っている[1]。広島大学附属三原中学校を卒業後、広島大学附属高等学校まではサッカー選手で昭和34年(1959年)、同級の小城得達らと全国高校選手権に出場して準優勝(1-2山城高校)。東京大学法学部政治学科に進学。東大ではアメリカンフットボール部に転向し4年時に主将を務め、悲願の一部リーグ昇格をもたらした。
[編集] 経営者としての活動
卒業後、富士製鐵株式会社(現・新日本製鐵)で勤務。その後、幸陽船渠株式会社(広島県三原市)に入社し、後には副社長、社長を務める。この間、日本造船工業会常任理事、三原商工会議所副会頭等を歴任。
[編集] 政治家への転身
その後、地元の強い要望により、広島県三原市の市長選挙に立候補。1987年11月に第15代三原市長に初当選。1991年11月に再選。この間、全国市長会評議員、広島市長会副会長等を歴任。
参議院議員藤田雄山の広島県知事選挙立候補に伴い、その後継として1993年12月、第15回参議院議員補欠選挙(広島県選挙区)に立候補し初当選。
1995年7月、第17回参議院議員通常選挙(広島県選挙区)にて2度目の当選。この間、参議院自由民主党副幹事長、参議院地方行政委員会理事、通商産業政務次官、自由民主党政務調査会地方行政部会長、参議院国土・環境委員長、参議院総務委員長等を歴任。
2001年7月、第19回参議院議員通常選挙(広島県選挙区)にて3度目の当選。この間、参議院議院運営委員会筆頭理事、第27次地方制度調査会委員、自由民主党広島県支部連合会会長等を歴任。
2006年には、国会内では、参議院議院運営委員長、同財政金融委員会委員を務める。また、自民党では、新憲法起草委員会財政に関する小委員会委員長、海運・造船対策特別委員会内航海運活性化小委員会委員長を務める。
2006年9月26日に発足した安倍内閣で国家公安委員会委員長・内閣府特命担当大臣(防災担当)に就任した。しかし在任中、松岡利勝農林水産大臣の自殺で大きな問題になった事務所費の面では不祥事はなかったものの、大臣規範違反(後述)が発覚し、安倍改造内閣では再任されなかった。
2006年10月、古賀派副会長に再任される。
2007年7月の第21回参議院議員通常選挙(広島県選挙区)に公明党推薦で出馬。
新潟県中越沖地震発生に際し、広島県で自らの選挙活動を行っていたが、急遽とりやめ政府調査団の団長として新潟県の被災地の現地視察を行った。
2007年12月、北朝鮮との国交正常化実現を目指す議員連盟、自民党朝鮮半島問題小委員会を立ち上げ、副委員長に就任した。
2011年9月、中曽根弘文自民党参議院会長に批判的な町村、額賀、古賀派の3派閥の議員から、参議院幹事長候補に推薦される。その後、10月6日の自民党参議院特別議員総会で、正式に参議院幹事長に就任。
[編集] 主な所属議員連盟
- 日韓議員連盟
- 自民党朝鮮半島問題小委員会副委員長
- 海事振興連盟(副会長)
[編集] 不祥事
[編集] 大臣規範違反
2007年、国務大臣に就任したにも関わらず、溝手が無届で社会福祉法人理事長を務め給与を得ていたことが報道され、国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範(閣議決定)違反が明らかになった。
溝手の上記の行為について、内閣官房は「大臣規範に抵触するおそれがある」[2]との見解を発表した。その後、溝手は、不正に得た利得を2007年7月3日までに社会福祉法人に弁済した[2]。なお、溝手は国務大臣の辞任や議員辞職は考えていないと述べている。
[編集] 政策
[編集] 資産公開制度
2006年11月、国家公安委員長であった溝手は、閣僚の資産公開制度について、「悪い趣味だ」「ワイドショー並」などと痛烈に批判する一幕があった。
[編集] 防災
安倍内閣にて内閣府特命担当大臣(防災担当)に就任したが、自然災害に対する危機管理に度々失敗し批判を受けた。
[編集] 能登半島地震
2007年3月25日には能登半島地震(最大震度6強)が発生した。
安倍内閣で内閣府特命担当大臣(防災担当)を務めていた溝手は、翌日になり被災地視察のため石川県輪島市を訪れた際「人命被害は幸い少なかった。1人だから」と発言した。そのため、記者団などから「犠牲者が出ているのにそれを幸いとは不謹慎ではないか」と声が上がった。
[編集] 平成19年台風第4号
2007年7月14日には平成19年台風第4号(SSHSカテゴリー4)が鹿児島県に上陸した。
この台風は沖縄県接近時に那覇市で日本国内の7月の観測史上最大の最大瞬間風速を記録し、本土上陸時中心気圧は7月に日本に接近した台風としては観測史上初の値を記録し、大きな被害が予想された。しかし、安倍内閣で内閣府特命担当大臣(防災担当)を務めていた溝手は、自身の選挙運動のため東京に戻らず、安倍も戻るよう命じなかったため防災担当大臣不在のままとなり批判された。
[編集] 新潟県中越沖地震
2007年7月16日には新潟県中越沖地震(最大震度6強)が発生した。
その際、第21回参議院議員通常選挙遊説中だった安倍は、官邸に戻ったが、発生当日に柏崎市を訪問した。余震の発生が懸念される中で震源地に近い現地を訪問したことは危機管理の観点から議論を呼び[3]、救援活動優先の観点から「首相が発生直後に行けば、現場が首相への対応に人手を割かなければいけなくなり、行っても混乱するだけだ」[4]との指摘がなされた。また、溝手も安倍の視察に同行していたが、内閣府特命担当大臣(防災担当)としてなぜ首相を止めなかったのかとのちに批判されることになった。
[編集] 岩手・宮城内陸地震
2008年6月14日には岩手・宮城内陸地震(最大震度6強)が発生した。
2008年6月17日には、自民党の災害対策特別委員長として被災者向け避難所となったコミュニティセンターを訪れ「柏崎や山古志と比べ、人的被害や民家の被害が少なくて良かった。町の真ん中だったら大変だった」と発言した。
なお、溝手は安倍内閣では内閣府特命担当大臣(防災担当)を務めていたが、安倍改造内閣では解任され泉信也が後任となり、福田内閣でも留任している。岩手・宮城内陸地震では、福田は救援活動最優先の観点から発生当日の現地入りはせず危機管理センターで陣頭指揮を執り、泉を防災担当大臣として即日現地に派遣し現地の指揮を執らせており、新潟での危機管理失敗の轍を踏まぬよう対処している。
[編集] 脚注
- ^ 参議院議員 溝手顕正のブログ
- ^ a b 「大臣規範抵触おそれ――溝手氏が日当返還」『朝日新聞』朝日新聞社東京本社、2007年3月4日、29面。
- ^ “時事放談” (日本語). TBS (2007年7月22日). 2007年7月22日閲覧。
- ^ 「首相『危機管理』に懸命――政権発足後、初の大地震」『讀賣新聞』47518号、読売新聞東京本社、2008年6月15日、4面。
[編集] 外部リンク
| 官職 | ||
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| 先代: 沓掛哲男 |
第75代:2006年 - 2007年 |
次代: 泉信也 |
| 先代: 沓掛哲男 |
第9代:2006年 - 2007年 |
次代: 泉信也 |
| 議会 | ||
| 先代: 大石正光 |
第12代:2009年 - 2010年 |
次代: 鴻池祥肇 |
| 先代: 鴻池祥肇 |
2008年 - 2009年 |
次代: 大石正光 |
| 先代: 宮崎秀樹 |
2004年 - 2006年 |
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2001年 |
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| 先代: 石渡清元 |
2000年 |
次代: 廃止 |
| 党職 | ||
| 先代: 小坂憲次 |
自由民主党参議院幹事長 2011年 - |
次代: 現職 |
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