北畠治房

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北畠 治房
生年月日 (1833-02-20) 1833年2月20日
出生地 大和国平群郡法隆寺村
没年月日 (1921-05-04) 1921年5月4日(88歳没)
死没地 京都府
称号 男爵

大日本帝国の旗 貴族院男爵議員
当選回数 1回
在任期間 1908年5月9日 - 1911年7月9日
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北畠 治房(きたばたけ はるふさ、1833年2月20日天保4年1月1日[1]) - 1921年大正10年)5月4日[1][2])は、江戸時代末期の勤皇家、明治時代の司法官。旧名は平岡 鳩平(ひらおか きゅうへい)、平岡 武夫(ひらおか たけお)。維新後、南朝の功臣北畠親房の末裔を自称し、北畠治房と改名した。

経歴[編集]

生い立ちと勤王家としての活動[編集]

天保4年(1833年)1月1日、大和国平群郡法隆寺村(現:奈良県生駒郡斑鳩町)で誕生[3]。父は平岡久兵衛[4](北畠末重とも[5])、母は筒井村の宮井伊右衛門の娘であった[4]。次男とも[6]、四男ともいう[3][5]。平岡家は中宮寺の宮仕人をしていたと伝えられる[3]嘉永2年(1849年)2月に家督を相続する。はやくから碇圓意に漢学を、尾崎庄左衛に国学を、柴田多輔に武術を学ぶ[5]。四方に遊学し、尊王攘夷を唱えて伴林光平乾十郎といった志士と交友した[6]

文久3年(1863年)8月13日の孝明天皇大和行幸を契機に中山忠光に謁見し、名を平岡武夫にあらため、天誅組の一員として転戦した[6]。天誅組の変が失敗に終わった後は京都や大坂を転々とし[7]、元治元年(1864年)には天狗党の乱にも加わった[3]。その後、大場一真斎橋本若狭と共謀して薩摩に逃れる。同地で忠勇隊を組織[6]明治維新に際して、同志を率いて駿府有栖川宮熾仁親王のもとに向かい[6]、爾来、作戦行動をともにする[5]。この頃、北畠治房を名乗るようになる[6]

官僚としての経歴[編集]

明治初期に東京に居を移し、勤王家として大隈重信の寵愛を受ける[4]。明治4年(1871年)に正院御用を任ぜられ、翌明治5年(1872年)に左院中議生となる[5]。明治6年(1873年)、政府は目安箱を廃止し、上書などの提出先を集議院に定めたが、これは北畠の建言によるものだったという[3]。その後、司法省にて権少判事・少判事・権中判事・判事をつとめ、その間、京都裁判所長・横浜裁判所長・大審院判事を歴任する[5]。明治14年(1881年)、明治十四年の政変により、大隈系の官僚のひとりとして免官となる[3]。この間、河野敏鎌牟田口元學春木義彰中野武營らとともに修進社を興し[5]、明治15年(1882年)には立憲改進党の結成に参画した[3]

明治20年(1887年)に再仕官し、東京控訴院検事長となる。その後、同院評定官・大審院評定官を経て、明治24年(1891年)に大阪控訴院長となる[5]1896年(明治29年)6月5日[8]、司法官としての長年の功労および[3]王政復古への勲功を評価され、正二位階および男爵を叙爵した[6]。明治31年(1898年)に司法官を辞職[6]1908年(明治41年)5月9日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[9]1911年(明治44年)7月9日に任期満了となった[2]。晩年は郷里の法隆寺村に隠棲した[3]

親族[編集]

栄典[編集]

位階
勲章等

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成 上巻』498頁。
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』69頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 鳥海靖「北畠治房」『国史大辞典』吉川弘文館。 
  4. ^ a b c 『大和百年の歩み 社会人物編』大和タイムス社、1972年、392-394頁。 
  5. ^ a b c d e f g h 北畠治房 (第4版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2024年5月7日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h 斑鳩町史編集委員会 編『斑鳩町史』斑鳩町、1963年、829-830頁。 
  7. ^ 北畠男爵家関連資料 | 奈良県歴史文化資源データベース | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」”. www.pref.nara.jp. 2024年5月7日閲覧。
  8. ^ 『官報』第3880号、明治29年6月6日。
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、17頁。
  10. ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号110
  11. ^ 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
  12. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  13. ^ 『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。
  14. ^ 『官報』第3753号「叙任及辞令」1896年1月4日。

参考文献[編集]

関連項目[編集]


公職
先代
児島惟謙
日本の旗 大阪控訴院
1891年 - 1898年
次代
加太邦憲
先代
野村維章
日本の旗 東京控訴院検事長
1887年
次代
高木秀臣
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
北畠(治房)家初代
1896年 - 1921年
次代
北畠具雄