天狗党の乱
天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の変ともいう。
| 天狗党の乱 | |
|---|---|
「武田耕雲斎筑波山之図」『近世史略』のうち 歌川国輝筆 明治24年9月 |
|
| 戦争:天狗党の乱 | |
| 年月日:元治元年3月27日~12月17日 (1864年5月2日~1865年1月14日) |
|
| 場所:水戸、筑波山→敦賀 | |
| 結果:天狗党の降伏 | |
| 交戦勢力 | |
| 幕府陸軍 水戸藩兵(諸生党) 高崎藩兵、笠間藩兵ほか |
天狗党 宍戸藩兵(大発勢) |
| 指揮官 | |
| 田沼意尊 市川三左衛門 徳川慶喜 |
武田耕雲斎 藤田小四郎 山国兵部 松平頼徳 |
| 戦力 | |
| 不明 | 1,000 |
| 損害 | |
| - | 降伏 |
目次 |
[編集] 背景
[編集] 水戸藩における派閥抗争
文政12年(1829年)に徳川斉昭が水戸藩第9代藩主となると、その擁立に関わった藤田東湖(藤田幽谷の子)らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。これに藩内の保守派は反発し、幕府と結んで弘化元年(1844年)5月に斉昭を失脚させた。斉昭はその後謹慎を解かれ、第10代藩主徳川慶篤の後見として復権するが、この間に藩内の保守派と改革派の対立は激化の一途を辿った。
嘉永6年(1853年)の黒船来航を期に斉昭が幕府より海防参与を命じられると、水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に尊王攘夷派が形成された。尊攘派は勅書返納問題(後述)への対応を巡り、強硬に攘夷を主張する激派と、よりゆるやかな幕政改革を目指す鎮派とに分裂し、ともに保守派(反対派からは姦党などと呼ばれた)と対立した。桜田門外の変を引き起こし、また天狗党の中核となるのがこの激派である。
[編集] 勅書返納問題
幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇は、安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩に対して直接勅書を下賜するという異例の行動に出た(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。井伊は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて井伊によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。
先に朝廷より水戸藩に下賜された勅書については幕府への返納が命ぜられるが、これへの対応を巡り、尊攘派は密勅返納に応じようとする鎮派と、あくまで密勅を奉じようとする激派に分裂した。翌年に斉昭らは勅書返納の方針を定めるが、激派の中にはこれに反発して実力行使を企てる者が現れた。高橋多一郎ら水戸浪士は水戸街道の長岡宿(東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への勅書搬入を実力で阻止しようとしたのである。後に「長岡屯集」と呼ばれるこの行動を鎮圧するため藩庁は部隊を派遣するが、斉昭による説得もあって屯集勢力は解散し、武力衝突はかろうじて回避された。
万延元年(1860年)3月3日、高橋ら長岡宿の屯集勢力から、また水戸城下から集結した水戸浪士らは江戸城桜田門外で井伊を暗殺した(桜田門外の変)。8月15日に斉昭が病死すると激派の行動は更に活発となり、第一次東禅寺事件、坂下門外の変などを起こすに至った。
[編集] 横浜鎖港路線の成立
水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは文久2年(1862年)である。この年、長州藩等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、武田耕雲斎ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って将軍後見職に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、彼の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩主徳川慶篤には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が追従し、藤田らは京都において、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。
文久3年5月、藤田は一橋慶喜に追従して江戸に戻るが、八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた横浜港の鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始するが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなった[1]。藤田は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、武田の強い慰留にも関わらず、遊説や金策に奔走した[2]。
文久4年(1864年)1月、将軍家茂は老中らとともに前年3月に続く再度の上洛を果たし、参預会議を構成する諸候と幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する他の参預諸候と対立し、参預会議を解体に追い込んだ。朝廷より禁裏御守衛総督に任命された慶喜は、元治元年(文久4年2月改元、1864年)4月には水戸藩士の原市之進・梅沢孫太郎を家臣に登用し、武田耕雲斎に依頼して200~300名もの水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、水戸藩勢力との提携を深めた。天狗党の挙兵はその最中に勃発したのである。
[編集] 「天狗党」の名称の由来
以下の三通りの説がある。
- 保守派(門閥派)の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、「成り上がり者が調子に乗っている(天狗になっている)」といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派をそう呼んだところから来ているという説。
- 改革派は世直しをするものとして、自らを天狗と称したという説。
- 九代藩主斉昭が、彼らの才覚を賞賛して呼称したという説。
[編集] 挙兵とその後の経過
[編集] 筑波山挙兵
幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。藤田は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。藤田は23歳と若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。
挙兵の報を聞いた水戸藩目付役の山国兵部は、弟の田丸が主将に担がれていることを知り、藩主徳川慶篤の命を受けて説得に赴くも、逆に諭されて一派に加わることになる。その後、各地から続々と浪士、農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。彼らは筑波山で挙兵したことから筑波勢、波山勢などと称された。
彼らは急進的な尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の激文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し」と表明している通り、基本的には敬幕派であり、攘夷の実行も東照宮(徳川家康)の遺訓であると考えていた。また、武田耕雲斎ら藩執行部は問題の解決に苦慮するものの、横浜鎖港という挙兵勢力の方針自体には積極的に同調し、その圧力を背景に幕政への介入を図っていくこととなった[3]。
[編集] 日光参拝と田中隊の活動
藤田小四郎ら筑波勢は、元治元年4月3日(1864年5月8日)に下野国日光(栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して攘夷の軍事行動に踏みきる予定であったが、日光奉行・小倉正義の通報を受けた近隣各藩の兵が出動したため、天狗党は慌てて東照宮への参拝が目的であると弁解する。これに対して小倉は10名のみに限って参拝を許すと通告したため、天狗党は代表者数名が参拝を行うと日光から大平山へと移動し、同地に5月末までに滞在した。
一方水戸城下においては、保守派の市川三左衛門が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、藩内での激派排撃を開始した。これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に挙兵勢力は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となった。このため筑波勢はまたも近隣の町村の役人や富農・商人らを恫喝して金品を徴発した。とりわけ田中愿蔵により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木(6月5日~6日)・真鍋(6月21日)などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成した。
中でも最大の惨劇が展開されたのが栃木であった。6月5日、栃木宿に到着した田中らは、たまたま通りかかった住吉屋の娘・お栄らを殺し、家々に押し入って町民を恫喝し金品を強奪した。駆け付けた栃木陣屋の役人が田中に対してお栄殺害の下手人を差し出すよう命じると、田中は賠償金として150両を支払ったがなおも宿場内に居座り続けたため、陣屋側は急いで武器を調えるとともに近くの猟師達を召集し、町に対しては天狗党が強請に来ても相手にしないよう命じた。同日夜、田中は隊員にあらかじめ松明を用意させると、町に対し軍資金30,000両を差し出せと要求した。町側が5,000両しか出せないと答えると田中は宿場に火を放たせ、さらに火を消そうと集まって来た町民達を手当たり次第に惨殺した。この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が焼失した[4]。
[編集] 幕府の対応
北関東における筑波勢の横行に対し、幕府は将軍徳川家茂が上洛し不在であったこともあり、水戸藩や諸藩に鎮撫を要請するのみで、6月に至るまでこれを放置していた。水戸藩も激派が藩政を握っており、藩主慶篤は幕府が横浜鎖港を実行しない限り筑波山に立て篭る挙兵勢力の鎮撫はできないと主張していた[5]。4月20日、参内した家茂に対して朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、川越藩主松平直克(政事総裁職)及び慶篤がその実行者に指名された。
こうして、横浜鎖港は幕府にとっても受け入れざるを得ない情勢となったが、一方で老中板倉勝静・牧野忠恭らはこれが筑波挙兵の結果として受け止められることを回避するため、5月、家茂の江戸復帰を機に、水戸藩に対し筑波勢追討を命じた。これに呼応し、市川三左衛門ら諸生党約600人余は江戸に上り、藩主慶篤のいる江戸小石川の水戸藩邸を掌握、激派を藩執行部から更迭するクーデターに成功する。慶篤の変節は筑波勢追討を巡る幕閣内の抗争にも影響を与え[6]、6月、一橋慶喜の意を汲んで横浜鎖港を主張し、筑波勢鎮圧に反対姿勢を示していた直克が失脚し、ようやく筑波勢の鎮圧方針が定まった。7月8日、相良藩主田沼意尊(若年寄)が追討軍総括に任命される。
また、7月19日には筑波勢の決起に意を強くした長州藩尊攘派が武装上洛し、会津藩らと京都市中で交戦した(禁門の変)。これに敗北した長州藩は「朝敵」となり、政局の課題は鎖港実行より長州征伐に重点が移ることとなった。筑波勢は挙兵の名目を半ば見失い、決起は水戸藩の内部抗争の色彩を強めていった[7]。
[編集] 追討軍との開戦
元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員した[8]。このため7月3日には、栃木・真鍋の件を含むこれまでの天狗党による一連の兇行は全て田中ら「偽天狗」の仕業であるとして、田中隊を除名し[9]責任をなすり付けようとしたが時既に遅く、7月7日に諸藩連合軍と筑波勢との間で戦闘が始まった。筑波勢は機先を制して下妻近くの多宝院で夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走する。水戸へ逃げ帰った諸生党は、筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行った。8月半ばまでに市川らは水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主慶篤の意向と関わりなく藩政を動かすことが可能となった[10]。
諸生党の報復に対し筑波勢の内部では動揺が起こり、藤田ら筑波勢本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かった。藤田らは水戸城下で諸生党と交戦するが敗退し、那珂湊(ひたちなか市)の近くまで退却する。藤田ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も鹿島付近において幕府軍に敗北した。また筑波勢追討が開始されると、これまで天狗党の略奪・暴行に苛まれ続けてきた茨城郡鯉淵村など近隣三十数か村の領民達が幕府軍に呼応して筑波勢に襲いかかった。田沼が彼らに対し、補償に代えて天狗党から分捕った戦利品を私財とすることを許可したこともあり、各地で尊攘激派およびこれに同調していた村役人・豪農等への打ち壊しが行われた[11]。
[編集] 大発勢の出陣と那珂湊の戦い
江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ[12]、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図ることとなった[13]。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。
大発勢は8月10日に水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知った市川らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶した。頼徳は市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。大発勢はやむなく退き、水戸近郊の那珂湊に布陣した。筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。8月20日、頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、22日に全面衝突となった。大発勢は善戦するが、田沼率いる幕府追討軍主力が25日に笠間に到着して諸生党方で参戦すると、29日には再び那珂湊へ後退した。
筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまう。大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、この頃には彼らに対する賛同論が広がっており、結局共に諸生党と戦うことになった。この合流によって、挙兵には反対であった武田も筑波勢と行動を共にする事になる。
幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも幕府海軍の黒龍丸が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた山野辺義芸は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて9月9日に落城した。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に棚倉藩を中心とする軍勢に八溝山で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。
10月5日、「幕府に真意を訴える機会を与える」という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ切腹させられた。頼徳は巻き込まれただけであったとはいえ、天狗党と共謀していた長州藩が禁門の変で御所に砲撃を加えて玉体を脅かしていたこともあり、厳罰に処されたのであった。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら43名は後に佐倉藩や古河藩などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。
[編集] 天狗党の西上
大発勢の解体と那珂湊での敗戦により挙兵勢力は大混乱に陥るが、脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結する。ここで武田耕雲斎を首領に、筑波勢の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、上洛し禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した[14]。世間はこの一行を指して天狗党あるいは天狗勢と呼んだ。武田らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった[15]。
天狗党は11月1日に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。この時、道中に位置する諸藩には幕府から天狗党追討命令が出されていたが、これらの藩はそのほとんどが小藩だったこともあり、天狗党が通過して行くのを傍観していた。また諸藩の中には密かに天狗党と交渉し、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出した藩もあった。
11月16日、上州下仁田において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦した。激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した(下仁田戦争)。また、11月20日には信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩・松本藩兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利した(和田峠の戦い)。天狗党一行は伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み美濃の鵜沼宿付近まで到達するが、彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、天狗党は中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。
天狗党が頼みの綱とした一橋慶喜であったが、自ら朝廷に願い出て加賀藩・会津藩などの兵を従えて彼らの討伐に向った。揖斐宿に至った天狗党は琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し蠅帽子峠を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指すルートを選んだ。越前の諸藩のうち、藩主が国許に不在であった大野藩は関東の諸藩と同様に天狗党をやり過ごす方針を採ったが、鯖江藩主間部詮道と福井藩の府中城主本多副元は天狗党を殲滅する方針を固め、兵を率いて自領に通じる峠を厳重に封鎖し、天狗党が敦賀方面へ進路を変更するとそのまま追撃に入った。
[編集] 投降
12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が天狗党は徳川慶京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した武田耕雲斎ら天狗党幹部は、前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍は言語道断であるとしてこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は完全に鎮圧された。
加賀藩は投降した天狗党員を諸寺院に収容し、かなりの厚遇をもって処した。しかし、田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変する。関東における惨禍を目の当たりにしていた田沼らはこの光景に激怒し、加賀藩から引渡しを受けるとただちに天狗党員を鰊倉(肥料用魚の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、藤田ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した[16]。
慶喜はうやむやの内に事態を終息させようと図ったものの、討伐軍を率いた田沼や関東の諸藩はこれに猛反発し、賊徒をことごとく処刑して禍根を残さぬようにすべきであると慶喜に迫った。しかし、会津藩・桑名藩・加賀藩から「天狗党の行動は単に勤皇の志に動かされてのものであり、寛大な処分を願う」という旨の嘆願書を取り付けた慶喜の工作が功を奏し、結局828名のうち処刑されたのはわずか352名に止まった。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。
[編集] 乱後
天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。
一方、天狗党に加わって遠島処分となった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名は、小浜藩に預けられて謹慎処分となった。同藩は彼らを准藩士格として扱い、佐柿(福井県美浜町佐柿)に収容のための屋敷を建てて厚遇した。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、武田ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した)は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。
水戸を脱出した諸生党は北越戦争・会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった(弘道館戦争)。彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、武田らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。
水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材をことごとく失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。
[編集] 行程
元治元年11月1日大子発 -2日 川原 -3日 越堀 -4日 高久 -5日 矢板 -6日 小林 -7日 鹿沼 -8日 大柿 -9日 葛生 -10日 梁田 -11、12日 太田 -13日 本庄 -14日 吉井 -15日 下仁田 -16日 本宿 -17日 平賀 -18日 望月 -19日 和田 -20日 下諏訪 -21日 松島 -22日 上穂 -23日 片桐 -24日 駒場 -25日 清内路 -26日 馬籠 -27日 大井 -28日 御嵩 -29日 鵜沼 -30日 天王 -12月1日 揖斐 -2日 日当 -3日 長嶺 -4日 大川原 -5日 秋生 -6日 中島 -7日 法慶寺 -8日 薮田 -9、10日 今庄 -11日 新保
[編集] 処刑対象
名前、処刑日(旧暦)、辞世の句の順に記載。
[編集] 斬首の後、水戸にて梟首
首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)より3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。
| 武田耕雲斎 | 2月4日 (新暦3月1日) |
かたしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪 |
| 雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪 | ||
| 田丸稲之衛門 | 2月4日 (新暦3月1日) |
|
| 山国兵部 | 2月4日 (新暦3月1日) |
ゆく先は冥土の鬼と一と勝負 |
| 藤田小四郎 | 2月23日 (新暦3月20日) |
かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき |
| さく梅は風にはかなくちるとても にほひは君が袖にうつして |
[編集] 斬首
- 武田彦衛門
- 武田魁介
- 根本新平
- 川上清太郎
- 秋山又三郎
- 高橋市兵衛
- 小野藤五郎
- 芹澤助次郎
- 瀧口六三郎
- 岩間久次郎
- 玉造清之允
- 安東彦之進
- 桑屋元三郎
- 金澤要人
- 二方舎人
- 大島官壽
- 本田佐久之介
- 澤田信之介
- 片岡源次
- 楠帯次郎
- 高瀬秀之介
- 津久井衛門七
- 白須権次郎
- 堀江一壽
- 小泉虎次郎
- 小泉芳之介
- 津村雄二郎
- 栗田源左衛門
- 平野重三郎
- 荘司与次郎
- 寺門左太吉
- 鈴木秀太郎
- 関雄之介
- 黒澤新次郎
- 相田健之介
- 松崎熊之介
- 安東正之介
- 飯村慎三郎
- 安島鉄次郎
- 篠原造酒
- 北川元三郎
- 藤田秀五郎
- 小田部重平
- 高橋辰三郎
- 森荘三郎
- 阿久津蔵之介
- 小林蘆左衛門
- 大高要介
- 小林貞七郎
- 加藤木総吉
- 加藤木勇之介
- 川澄善兵衛
- 堤三之助
- 谷島福次郎
- 中崎貞介
- 中庭直三郎
- 川津丑之介
- 梶山敬介
- 青木源之允
- 青木源吉
- 安掛藤十
- 安清四郎
- 小沼義太郎
- 登戸佐兵衛
- 幡谷善七
- 小貫藤介
- 皆川亀松
- 小澤弥一郎
- 森山勝蔵
- 浅野善十郎
- 前島竹次郎
- 加藤卯之介
- 栗又鉄之介
- 内藤利兵衛
- 卯月七之介
- 飯島喜介
- 山澤啓介
- 長峰寅松
- 藤田理兵衛
- 坂本勝次
- 鈴木荘三郎
- 岡野亀太郎
- 小松崎荘之介
- 小沼栄介
- 田村長衛門
- 山田才介
- 金澤啓蔵
- 坂本啓介
- 樽井総吉
[編集] 逸話・伝承
- みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里[17]
- 諸生党によって斬首された田丸稲之衛門の次女・八重はまだ17歳の若さであったが、見事な辞世の句を残している。
- 引きつれて 死出の旅路も 花ざかり
- 天狗党に参加した常陸久慈の僧侶・不動院全海は、その剛力から「今弁慶」と呼ばれていたが、和田峠の戦いで討死した。この時、高島藩士・北沢与三郎はその力にあやかろうと全海の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして焙って食べたという。
- 敦賀の古老が身近な人々に語った(戦時中頃か)ことによれば、天狗党の処刑は公開で行われたので見物に行ったが、引き出された党員は逃亡を阻止するためか両足を竹に括られていたという。
- 天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君の無念を晴らした。またこの時、福井藩士にも首斬り役が割り当てられたが、後々の報復を恐れた春嶽が命令して役目を辞退させた。
- 永原甚七郎は明治5年(1872年)に、自らの菩提寺である金沢の棟岳寺に天狗党の供養碑を建立した。これは今日「水府義勇塚」と称されている。なお、天狗党処刑の報に接した永原が、自分の説得がなければ天狗党を無残に殺させずに済んだと激しい自責の念に駆られ、精神を病んで死んだという話が後に創作されたが、実際の永原は明治2年(1869年)から学政寮・軍政寮の副知事を務めるなど、引き続き金沢藩の重臣として政務に奔走し、明治6年(1873年)に61歳で死去している。
- 水戸など茨城県の一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある。
- 渋沢栄一は、天狗党に参加しようとしたが、周囲に止められ参加出来なかった。
- 天狗党の処刑地である敦賀市は、昭和40年(1965年)に水戸市と姉妹都市となっている。
[編集] 慰霊碑等
- 明治7年(1874年)、武田耕雲斎以下の天狗党員を祀った松原神社が敦賀市松島町に建立され、毎年10月10日には例祭が行われている。昭和29年(1954年)には、天狗党員が監禁された鰊蔵が境内に移築され「回天館」という水戸烈士記念館となっている。松島町には「水戸烈士追悼碑」や武田耕雲斎の像が建てられている。
- 昭和44年(1969年)、水戸市松本町に天狗党員を祀った回天神社が建立された。昭和32年(1957年)に敦賀市から水戸市常磐町の常磐神社に移築された鰊蔵が、平成元年(1989年)に回天神社境内に再移築され「回天館」として天狗党資料の展示が行われており、扉や板壁などには天狗党員の絶筆が残されている。
- 天狗党員の家族らが処刑された水戸赤沼牢跡には慰霊碑が建てられている。
- 群馬県甘楽郡下仁田町には、下仁田町ふるさとセンター(歴史民俗資料館)に「下仁田古戦場碑」、山際稲荷神社(山際公園)に「義烈千秋の碑」及び「維新之礎碑」、本誓寺に天狗党員、高崎藩士の墓などがあり、町内下小坂には勝海舟揮毫による「高崎藩士戦死之碑」が建てられている。
- 長野県諏訪郡下諏訪町の和田峠古戦場付近には天狗党戦死者を供養する「浪人塚」がある。
- 福島県東白川郡棚倉町には八溝山で破れた天狗党員の供養碑がある。
- 栃木県那須町には八溝山で破れ、処刑された天狗党「浮浪徒十四人墓」がある。
- 埼玉県深谷市血洗島には天狗党の碑がある。
- 茨城県ひたちなか市には「天狗党百色山戦場供養碑」がある。
- 茨城県鹿嶋市には天狗党の一隊大平組に所属し処刑された23人の「天狗党の墓」がある。
- 茨城県笠間市池野辺には天狗党員の首塚がある。
- 茨城県行方市には麻生藩に処刑された天狗党員を供養する「天狗塚」、大宮神社境内には天狗党の忠魂碑がある。
- 茨城県つくば市の筑波山神社には藤田小四郎の像がある。
[編集] 関連作品
- 山田は天狗党の上洛行と毛沢東の長征とを比較し、天狗党に武士階級以外の階層を含む水戸藩領以外から多数の参加者がいたことや、行軍中に政治的な宣伝を行っていることなどを類似点として挙げており、加えて乱の初期から過酷な行軍の間にかけて意識や思想に何かしらの変容があった可能性を指摘している。
- 吉村昭『天狗争乱』(新潮文庫、朝日文庫)
- 杉田幸三『天狗党血風録』(毎日新聞社)
- 山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』(岩波文庫)。乱後の水戸藩における粛清について詳述している。
[編集] 脚注
- ^ 水戸市編、p.192。
- ^ この頃、藤田は武州血洗島村(埼玉県深谷市)の尊攘派豪農であった渋沢栄一とも、江戸で2度に渡り会見している。
- ^ 奈良、pp.222-223。
- ^ 『栃木市史 通史編』874~876頁(栃木県栃木市、1988年)
- ^ 高橋、p.175。
- ^ 奈良、p.231。
- ^ 水戸市編、p.331。
- ^ 幕府陸軍約3300人、高崎藩・笠間藩兵約2000人に、諸生党が結成した追討軍数百人が追従した(水戸市編、pp.300-301)。
- ^ 田中は水戸人であるが、部下には他藩出身者が多く、田中自身は討幕思想を有していたとされるなど、藤田ら筑波勢本隊とは対立する点が多かったとされる。田中隊はこの時点では除名されたものの、のちに那珂湊戦争で再び筑波勢に合流している。
- ^ 水戸市編、p.336。
- ^ 高橋、p.71。
- ^ 高橋、p.176。
- ^ 水戸市編、pp.338-340。
- ^ 昭和16年(1941年)に作られた『明治維新水戸風雲録』では、この軍議の際に武田は最期の一戦を仕掛け討ち死にする事を主張したが、藤田小四郎が反対し上洛する事に決まったという。
- ^ 天狗党が諸費用をきちんと宿場に支払うなど規律厳守に努めたことは、島崎藤村の代表作『夜明け前』にも記述されている。
- ^ 京都で天狗党の処刑を知った大久保利通は、裸身での鰊倉監禁など、幕府の彼らに対する扱いが過酷を極めたことについて「是を以て、幕府滅亡の表(しるし)と察せられ候」と日記に書き残している。
- ^ 「九重の里」とは宮中のことだとされる。
[編集] 参考文献
- 水戸市編 『水戸市史(中巻5)』(水戸市、1990年)。
- 高橋裕文 『幕末水戸藩と民衆運動』(青史出版、2005年)。
- 長谷川伸二ほか 『茨城県の歴史』 (山川出版社、1997年)、ISBN 4-634-32080-0。
- 奈良勝司 『明治維新と世界認識体系』(有志舎、2010年)。
- ヴィクター・コシュマン 『水戸イデオロギー:徳川後期の言説・改革・叛乱』 (田尻祐一郎・梅森直之訳、ぺりかん社、1998年。原題はThe Mito Ideology、1987年)
- コシュマンは、筑波山で挙兵した天狗党が日光に向かい、最終的には京都へとその目標を定めたことから、その意図を「中心に向けての巡礼」であったと分析している。
[編集] 外部リンク
- 水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱) (茨城大学図書館サイトより)
- DL新八
- 天狗党之乱