遺愛女子中学校・高等学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遺愛女子中学校・高等学校
地図北緯41度47分14.1秒 東経140度45分24.2秒 / 北緯41.787250度 東経140.756722度 / 41.787250; 140.756722座標: 北緯41度47分14.1秒 東経140度45分24.2秒 / 北緯41.787250度 東経140.756722度 / 41.787250; 140.756722
過去の名称 ミセスカロラインライトメモリアル女学校
遺愛女学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人遺愛学院
校訓 信仰・犠牲・奉仕
設立年月日 1874年
創立者 メリマン・ハリス夫妻
共学・別学 男女別学(女子校)
中高一貫教育 併設型(外部混合有)
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科(25学級)
英語科(3学級)
学科内専門コース 一般コース
特進コース
学校コード C101320200226 ウィキデータを編集(中学校)
D101320200126 ウィキデータを編集(高等学校)
高校コード 01522K
中学校コード 010818
所在地 041-8543
北海道函館市杉並町23-11
外部リンク 【IAI】北海道 函館の女子中・女子高 | 遺愛女子中学校・高等学校
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示
遺愛女子中学校・高等学校の位置(北海道内)
遺愛女子中学校・高等学校

遺愛女子中学校・高等学校(いあいじょしちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、北海道函館市杉並町に所在し中高一貫教育を提供する私立女子中学校高等学校併設混合型中高一貫校で、略称は「愛中愛高」・「遺愛女子」・「遺愛」。

概要[編集]

明治期に創設されたミッションスクールで日本人により創設された女子校より古い学校の一つであり、東北地方以北では最古の女子校である。

安政五カ国条約により、日本で初めて開港した市の一つ箱館で、アメリカ・メソジスト教会牧師メリマン・ハリス夫妻が女子教育の必要性を強く感じ、アメリカで発行されているメソジスト監督派教会婦人伝道局の機関誌に、現状と学校が必要であることを報告して創設された学校である。創設時は「日々学校」(Day School)という私塾で、6人の女学生でスタートした。

1882年明治15年)、文部省認可の正式な女学校「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」となる。校名を「遺愛」としたのは1885年(明治18年)のことである。これには設立時の経緯が大きく関わっている。Day Schoolは、メリマン・ハリス夫妻の報告に心を打たれた、アメリカのカロライン・ライト夫人の献金によるものである。ライト夫人は最愛の娘を病気で失い、悲しみに暮れていた。敬虔なクリスチャンであるライト夫人は昇天された愛娘への祈りと神へのご恩に報いるために、そして良き奉仕として、愛娘の教育資金にと貯めていたお金を献金として申し出た。「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」から覚えやすい日本語の校名が望まれるようになり、文学者内藤鳴雪に本校創立のいきさつを知らせて校名選定を依頼し「遺愛」の名が生まれた。

キリスト教精神を信条とするプロテスタントミッションスクールである。三大精神を「信仰・犠牲・奉仕」とし女子教育を行っている。

入試は函館と札幌、帯広、北見で実施され、道内各地からを募集するため「遺愛寮」を設置している。

沿革[編集]

  • 1874年明治6年) - アメリカ・メソジスト教会牧師、メリマン・ハリス夫妻来函。日々学校(Day School)を開設。
  • 1882年(明治14年) - 文部省認可の女学校として開校、校名「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」。
  • 1885年(明治20年) - 内藤鳴雪の名付けにより校名を「遺愛女学校」とする。
  • 1886年(明治18年) - 遺愛女学校第2代校長第メアリー・ハンプトンと本多庸一が、カロライン・ライトに因んで来徳女学校を開設。
  • 1887年(明治19年) - 分校の弘前遺愛女学校が開学。
  • 1937年昭和12年) - 日中戦争の始まりとともに軍国主義的諸行事への参加が始まる[1]
  • 1941年(昭和16年) - 太平洋戦争始まる。学校報国団結成。
  • 1944年(昭和19年) - 「遺愛高等女学校」となる。
  • 1945年(昭和20年) - 校舎が軍隊に接収され、的場国民学校へ移転。敗戦に伴い校舎返還される。
  • 1948年(昭和23年) - 新制高等学校発足。「遺愛女子高等学校」および「付設中学校」と改称。
  • 1980年(昭和55年) - 創立百周年記念新校舎完成。
  • 1982年(昭和57年) - 旧宣教師館が北海道の指定文化財に指定。創立百周年記念式典。
  • 2001年平成13年) - 旧宣教師館が日本国の重要文化財に指定[2]
  • 2002年(平成14年) - 創立百二十周年記念式典。講堂が日本国の登録有形文化財に登録[3]
  • 2004年(平成16年) - 本館が日本国の重要文化財に指定。
  • 2005年(平成17年) - 謝恩館が登録有形文化財に登録。
  • 2006年(平成18年) - 新体育館が完成。

歴史[編集]

女子教育ミッションスクールの動き[編集]

明治初期に全国の開港都市で創設されたミッションスクールの中でも有数の歴史を持つ。北海道では札幌市所在の藤女子中学校・高等学校と共に双璧をなす女子校として知られる。

メリマン・ハリス[編集]

オハイオ州出身のアメリカ・メソジスト教会牧師。1873年(明治6年)、妻フローラ・ハリスとともに来日。1874年(明治7年)に来函、キリスト教を伝え、遺愛女学校の前身である日々学校を開設するとともにアメリカ合衆国領事も兼ねた。また、英語教師として札幌農学校においても教鞭を執った[4]1877年(明治10年)4月にウィリアム・スミス・クラーク博士が、ハリスに札幌農学校一期生の信仰的指導を仰いだ。同年9月2日、クラーク博士門下の札幌農学校の第一期生佐藤昌介大島正健ら15人に洗礼を授け、続いて1878年(明治11年)6月2日に第二期生の内村鑑三新渡戸稲造宮部金吾らの7名にも洗礼を授けた[5][6]

交通アクセス[編集]

文化財の指定または登録[編集]

遺愛女子は東北以北最古の女学校で、歴史的建築物は国の文化財指定または登録を数多く受けている。

校舎は国の重要文化財に指定されている「本館」(設計:ジェームズ・ガーディナー[7])、高等部の教室が入っている「新館」、食堂などが入っている「ライト館」、チャペルや理科室、および放送室などが入っている「科学館」、中学部の教室、および新設の図書館が入っている「東館」からなる。

さらに、通称ホワイトハウスと呼ばれ親しまれている旧遺愛女学校宣教師館(日本国の重要文化財)、登録有形文化財の「講堂」(設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ建築事務所[8])、茶道のための和室や同窓会室のある「謝恩館」(登録有形文化財)がある。

  • 遺愛学院(旧遺愛女学校)本館 - 日本国重要文化財[7][9]
  • 遺愛学院(旧遺愛女学校)旧宣教師館 - 日本国重要文化財[2][10][11]
  • 遺愛学院講堂 - 日本国登録有形文化財[3][8][12]
  • 遺愛学院(旧遺愛女学校)謝恩館 - 日本国登録有形文化財[13][14]

制服[編集]

1930年昭和5年)に制定されて以来の、伝統のあるセーラー服となっている。中高同じデザイン。夏服は、白色のセーラー服に紺のプリーツスカート。冬服は上下ともに紺色となる[15]

セーラー服には襟、胸当て、袖口には白い3本線が入っている。スカーフは非常に目立つ赤となっており、本校自ら制服のポイントとして挙げている[16]。また、スカートのプリーツは、前面中央が幅広の前ひだとなっている。これは、をデザインしたものだからだという[15][16]

渡辺麻友(元AKB48)が芸能活動していた当時、全国の制服を着用した姿を掲載した写真集『渡辺麻友 制服図鑑 最後の制服』(2013年平成15年)4月19日ISBN 978-4-08-780677-9)を発売するにあたり、日本全国から可愛い制服写真を集英社が募集したところ、同校の制服が採用され、写真集に含まれることとなった。

著名な出身者[編集]

俳優[編集]

その他[編集]

関係者[編集]

  • メリマン・ハリス - 遺愛女子創立者。メソジスト教会牧師。クラーク博士の依頼により札幌バンドに洗礼を授けた[4][5][6]
  • フローラ・ハリス - 遺愛女子創立者。メリマン・ハリスの妻。夫メリマンと共に女子教育の普及に尽力した。
  • カロライン・ライト - 当時のドイツ駐在アメリカ公使夫人[21]。ハリス夫妻と共にカロライン・ライト・メモリアル・スクールの開校に尽力した。また1886年、弘前に設置した来徳女学校の校名の由来となった。
  • 佐藤昌介 - 遺愛女子初代理事長北海道帝国大学初代総長を務めた。日本初の農学博士の一人。
  • 内藤鳴雪 - 校名「遺愛」の名付け親。明治 - 大正期の俳人
  • ジェームズ・ガーディナー - 明治 - 大正期に活躍したアメリカ人建築家教育者。日本国重要文化財である遺愛学院校舎「本館」の設計者[7]。立教学校・立教大学校(現:立教大学)の校長を歴任した。
  • メアリー・ハンプトン - 遺愛女学校第2代校長[21]。本多庸一と共に1886年(明治19年)、来徳女学校の創設に尽力した[22]。来徳女学校は創設の翌年、1886年(明治19年)には弘前遺愛女学校となった。
  • 雑賀浅 - 遺愛女学校舎監および裁縫教師[23]。雑賀アサとも表記される。婚前名:簗瀬浅。会津藩家老である簗瀬三左衛門の三女[23][24][25]として会津若松城下に生まれる。会津藩の名門である会津三家[簗瀬(柳瀬)家、北原家、内藤家]の一つ簗瀬家の出身。血族に簗瀬三左衛門の孫であり大日本帝国陸軍少将簗瀬真琴がいる。斗南藩士であり開拓使役人の雑賀重村(繁村)の妻となる[23]。函館において、同郷会津出身で婚前の日向ユキ(結婚後名:内藤ユキ。夫は薩摩藩士であり開拓使役人で札幌在住であった内藤兼備)を奉公人として迎え入れた[23]
  • 本多貞 - 本多庸一の妻。婚前名:長嶺貞。盛岡藩士族・長嶺忠司の二女として生まれ、東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)で学び[26]、遺愛女学校で教師を務めた[27]。後、弘前遺愛女学校の後身である弘前女学校において教頭を務めた[28]
  • 荒木賢治 - 明治 - 大正期に活躍した建築技師。ジェームズ・ガーディナー建築事務所に在籍した[29][30]。日本国重要文化財である遺愛学院校舎「本館」の建築にあたり、主任として携わった[29]。ガーディナー建築事務所に勤務後独立。遺愛学院本館のほか、代表的な建築物としてエンゼル館などがある。

舞台となった映画・CM・小説等[編集]

小説[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

テレビアニメ[編集]

CM[編集]

プロモーション・ムービー[編集]

ミュージック・プロモーション[編集]

雑誌・写真集[編集]

観光への協力と貢献[編集]

「観光庁長官表彰」の受賞[編集]

函館港の外国クルーズ客船寄港時に、英語科生徒が通訳ボランティアとして受入に関わり、観光案内や学校を開放して書道や茶道の体験メニューを提供するなど市民レベルからの国際交流の推進や日本文化の発信、魅力ある地域づくりに貢献した[41] として、2015年(平成27年)10月に、国土交通省観光庁から「第7回観光庁長官表彰」を受賞した[41][42]

系列校[編集]

その他[編集]

  • 生徒数は853人、教職員数は42人、事務職員数は4人である[43]
  • 創立者ハリス夫妻ゆかりの教会が函館市元町にある日本基督教団函館教会である。
  • ハリス夫妻と共に遺愛学院の運営に尽力したカロライン・ライトの基金により、遺愛女学校第2代校長メアリー・ハンプトン(Mary Hampton)と本多庸一が協議の上、1886年(明治19年)に弘前において設置したのが来徳女学校である[22]。カロライン・ライトは、来徳女学校の校名の由来にもなっている。1886年(明治19年)開学の来徳女学校は、1887年(明治20年)には遺愛女学校の分校の形をとり、弘前遺愛女学校となった。その後、弘前女学校、聖愛高等女学校を経て、現在の弘前学院聖愛中学高等学校となっている[22][44][出典無効]。ハンプトンは、弘前女学校の校長も務めた[28]
  • 講堂には道南最大級を誇るドイツ製のパイプオルガンがあり、遺愛女子中学校・高等学校の卒業生や教員はここで結婚式を挙げることもできる。

脚注[編集]

  1. ^ 写真資料 昭和20年3月11日付 北海道新聞、総務省ホームページ バーチャル情報館 軍需工場で働く遺愛女学校の生徒”. 2015年2月7日閲覧。
  2. ^ a b “優雅な装い 90余年 函館・遺愛女子校の「宣教師館」重文指定へ”北海道新聞(2001年4月21日)
  3. ^ a b “遺愛学院講堂 国の文化財に 「今後も活用し次代に継承を」”. 北海道新聞(北海道新聞社)(2002年3月23日)
  4. ^ a b 北海道高等学校長協会英語部会 ホームページ”. 2014年5月3日閲覧。
  5. ^ a b 鈴木範久『内村鑑三』岩波新書、19ページ
  6. ^ a b 遺愛学院発祥の地 - 発祥の地コレクション”. 2019年6月22日閲覧。
  7. ^ a b c 文化遺産オンライン 遺愛学院(旧遺愛女学校) 本館項”. 2019年6月22日閲覧。
  8. ^ a b 文化遺産オンライン 遺愛学院講堂項”. 2019年6月22日閲覧。
  9. ^ 文化庁 国指定文化財等データベース 遺愛学院(旧遺愛女学校) 本館項”. 2014年5月3日閲覧。[リンク切れ]
  10. ^ 文化遺産オンライン 遺愛学院(旧遺愛女学校) 旧宣教師館項”. 2019年6月22日閲覧。
  11. ^ 文化庁 国指定文化財等データベース 遺愛学院(旧遺愛女学校) 旧宣教師館項”. 2014年5月3日閲覧。[リンク切れ]
  12. ^ 文化庁 国指定文化財等データベース 遺愛学院講堂項”. 2014年5月3日閲覧。[リンク切れ]
  13. ^ 文化遺産オンライン 遺愛学院(旧遺愛女学校)謝恩館項”. 2019年6月22日閲覧。
  14. ^ 国指定文化財等データベース 登録有形文化財(建造物) 遺愛学院(旧遺愛女学校)謝恩館”. 2019年8月16日閲覧。
  15. ^ a b 安田誠『図説 女子高制服百科』幻冬舎コミックス、2010年、8頁。ISBN 978-4-344-81891-0 
  16. ^ a b 制服チェック”. 遺愛女子中学校・高等学校. 2013年10月26日閲覧。
  17. ^ a b c 遺愛女子中学・高校がキャロリング 函館市内にキリスト誕生の喜びを届けて”. 日刊キリスト新聞 (2018年12月11日). 2022年1月17日閲覧。
  18. ^ 週刊テレビ番組(東京ポスト)1987年8月21日号「山内絵美子プロフィール」44頁
  19. ^ バック・トゥ・ザ・フューチャー”. 草薙厚子オフィシャルブログ (2015年5月1日). 2022年1月17日閲覧。
  20. ^ 同窓生の動向(遺愛女子高等学校 2016年9月15日 PDF)
  21. ^ a b はこだて人物誌 オーガスタ・デカルソン項”. 2014年5月3日閲覧。[リンク切れ]
  22. ^ a b c 聖愛の歴史1”. 2019年8月15日閲覧。 弘前学院聖愛中学高等学校
  23. ^ a b c d はこだて外国人居留地 人物編、はこだて外国人居留地研究会 編集・発行、2014年3月発行、電子図書館 新函館ライブラリ” (PDF). 2014年6月8日閲覧。
  24. ^ 岩手大学教育学部研究年報、第57巻第1号、1997、pp. 29 - 44、32頁 hdl:10140/1693
  25. ^ 新島八重 武家の女はまつげを濡らさない、PHP研究所発行、2012年 ISBN 978-4-569-80804-8
  26. ^ お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ、小学師範科卒業生アルバム、番号:g_ph188107-0006”. 2014年5月24日閲覧。
  27. ^ 弘前と遺愛女学校の音楽教育、弘前大学教育学部紀要 第80号:37-47(1998年10月) hdl:10129/1566
  28. ^ a b 弘前女学校の音楽教育、弘前大学教育学部紀要 第82号:87-95(1999年10月)hdl:10129/1567
  29. ^ a b 函館遺愛学院(旧遺愛女学校)本館と関連建築文書、日本建築学会 学術講演梗概集. F-2、建築歴史・意匠 2003、645-646 NAID 110006642986
  30. ^ ガーディナー建築事務所のスタッフ、荒木賢治と上林敬吉について:日本聖公会の建築史的研究 4、日本建築学会 学術講演梗概集. F-2、建築歴史・意匠 1995、99-100 NAID 110004140558
  31. ^ 映画化4度目の『若い人』の封切用パンフレット「青年の樹/若い人」(東宝、1977年4月)への石坂の寄稿文『「若い人」の映画化にあたって』。
  32. ^ a b 遺愛エピソード#たくさんのドラマの舞台となるキャンパス”. 2010年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月15日閲覧。
  33. ^ はこだてフィルムコミョション >> ロケ地マップトップ >> パコダテ人”. 2019年8月15日閲覧。
  34. ^ 映画 星に願いを。公式ホームページ”. 2014年5月3日閲覧。
  35. ^ シネマズニュース 映画『PとJK』ロケ地、北海道・函館の情緒あふれる街並み&撮影エピソード”. 2017年10月1日閲覧。
  36. ^ はこだてフィルムコミョション >> ロケーション実績 テレビ”. 2019年8月15日閲覧。
  37. ^ TVアニメ『明日ちゃんのセーラー服』の協力校とさせていただいております。”. 2022年2月13日閲覧。
  38. ^ ポッキー坂恋物語 撮影日記”. 2014年5月3日閲覧。
  39. ^ 遺愛学院 公式サイト 北海道新幹線開業応援プロモーションビデオに出演!”. 2016年3月28日閲覧。
  40. ^ YouTube La, La, Love Youで踊ってみた! 北洋銀行✕雪ミク 北海道新幹線開業応援ムービー”. 2016年3月28日閲覧。
  41. ^ a b 第7回観光庁長官表彰受賞者名簿” (PDF). 2015年10月4日閲覧。
  42. ^ 国土交通省観光庁 公式ウェブサイト、第7回観光庁長官表彰”. 2015年10月4日閲覧。
  43. ^ 北海道私立中学高等学校協会(私学ナビ)”. 2020年9月1日閲覧。
  44. ^ 広瀬院長の弘前ブログ 遺愛女学校項”. 2014年5月3日閲覧。

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]