クルト・プリューファー

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クルト・プリューファー独語:Kurt Prüfer、1891年1952年)は、ドイツエンジニア

工場設備メーカーであるトップフ・ウント・ゼーネ社に勤務。火葬に使用する焼却炉の建設を専門としており、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に設置されていた、人間の死体を効率的に燃やす焼却炉を設計した。

生涯[編集]

クルト・プリューファーは1891年にドイツの町、エアフルトで出生した。兄弟が13人おり、父親が機関士のため労働者階級であった。[1] 中等教育を終えると、彼は建築現場で働き始めた。3年後、建築の技術を向上させるため、エアフルトの専門学校に入学し、6年間勉強。[1]

20歳で工場設備メーカーである「トップフ・ウント・ゼーネ」に入社した。しかし23歳の時、第一次世界大戦が開戦されたため、徴兵された。[2]

除隊後、29歳になったプリューファーは「トップフ・ウント・ゼーネ」に戻り焼却技術部門に配属され、火葬設備の設計を担当した。[3]

その後、世界恐慌により会社が不況になり、その時40代であったプリューファーは解雇を言い渡された。しかしナチスが政権を掌握し、失業対策を行ったことで解雇を免れた[1][4]

1933年4月彼はナチ党に入党し、収容所の遺体専用の焼却炉の設計を担当した。彼は収容所を閉鎖するまで、効率的に遺体を処理できる焼却炉を追求。[5]

1945年5月7日ドイツ降伏。翌年、プリューファーはナチスに協力したとして逮捕された。57歳の時、有罪が確定し25年の強制労働を課せられた。[3]

1952年脳卒中によりクルト・プリューファーは61歳で生涯を終えた。[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d Volkhard Knigge 「Techniker der “Endlosung”」  (21-3-149.pdf) 2021年11月28日 p4-16
  2. ^ 芝健介ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌」 中公新書  2008年4月1日 ISBN 978-4121019431 p143-145
  3. ^ a b スコット・アンダーソン「ロレンスがいたアラビア」 白水社 2016年12月8日 ISBN 4560092435 p96-108
  4. ^ ルドルフ・ヘス「アウシュヴィッツ収容所」 講談社 1999年8月10日 ISBN 978-4061593909 p132-145
  5. ^ ジュディス・S・ ニューマン「アウシュヴィッツの地獄に生きて」 朝日文庫 2020年12月7日 ISBN 4022620412 p123-129