アドルフ・アイヒマン

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ナチス・ドイツの旗 ドイツ国の政治家
アドルフ・アイヒマン
Adolf Eichmann at Trial1961.jpg
1961年
生年月日 1906年3月19日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国 ゾーリンゲン
没年月日 1962年6月1日(満56歳没)
死没地 イスラエルの旗 イスラエルラムラ
所属政党 Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg 国家社会主義ドイツ労働者党
Flag Schutzstaffel.svg 親衛隊
称号 親衛隊中佐
配偶者 ベロニカ・アイヒマン(旧姓リーベル)
サイン Adolf Eichmann (signature).svg

国家保安本部第IV局B部4課課長
ゲシュタポ局宗派部ユダヤ人課課長)
任期 1939年12月21日 - 1945年5月
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アドルフ・オットー・アイヒマンAdolf Otto Eichmann[1]1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツ親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。

戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年イスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

少年時代のアドルフ・アイヒマン

アドルフ・アイヒマンは1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンに生まれた。父はアドルフ・カール・アイヒマン(Adolf Karl Eichmann)。母はオーストリア系[2]マリア・アイヒマン(Maria Eichmann)[1]。アドルフは5人兄弟の長男で[3][4]、長男アドルフから順に次男エミール(Emil)、三男ヘルムート(Helmuth)、長女イルムガルト(Irmgard)、四男オットー(Otto)であった[5][1]。このうち三男ヘルムートは後にスターリングラードの戦いで戦死した[5]

父アドルフ・カールはアドルフが生まれた当時、電機会社に簿記係として勤務していた。上昇志向のある専門職中産階級者の典型であった。信仰はプロテスタントだった。アドルフは自身の回顧録に父について「私にとって父は絶対的な権威だった」と書いている[1]1913年にアドルフ・カールはオーストリア=ハンガリー帝国リンツにあった同じ電機会社の役員に任じられ、アイヒマン一家はリンツへ移住している[6][3][7]。母マリアの旧姓はシェーファーリング(Schefferling)といい、専業主婦としてアイヒマン家を守っていた人物だった。アドルフを含む5人の子供を産んだ後、彼女は1916年に32歳の若さで死去した。アドルフは立て続けに子供を産んだことが母の早い死の原因ではなかったかと後に語っている。母マリアの死後、父アドルフ・カールはすぐにマリア・ツァヴァルツェル(Maria Zawrzel)という人物と再婚している。彼女はウィーンの資産家の娘で熱心なプロテスタントだった。父アドルフ・カールとは教会で知り合った。アドルフはこの継母について「熱心で非常に良心的だった」と語っている[7][5]

オーストリアにおける子供時代、アドルフはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った[8](当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた)。アドルフは学校の成績が悪く、リンツのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を卒業することができなかった[4]。なお全くの偶然であるが、アドルフ・ヒトラーもこのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校に通っていたことがあり、同じく卒業できずに退学している。

父アドルフ・カールはこの頃には会社を退職し、ザルツブルクに鉱山工場を起こしてその株式を51%持ち、自らの事業を始めていた。しかしこの会社はすぐに行き詰まり、その後、小麦会社や機関車製造会社に投資したが、これも財産を失うだけに終わった[9]。アドルフは1921年にカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を退学した後、機械工学を学ぶため工業専門学校に通っていたが、ここも卒業することなく中退している[4]

この後、アドルフは父のザルツブルクの鉱山工場で働いたが、すぐに辞めて、1925年から1927年にかけて電気製品販売業者で働いた。さらに1928年からはスタンダード石油のウィーンに於ける現地子会社であるヴァキューム・オイル・カンパニーという株式会社(AG)で販売員として働いている[9][3]。この会社に5年半ほど務めたが、1933年には人員削減の対象として解雇されている。アドルフは後にこの解雇について「自分は独身の社員だったため、それが災いして人員整理された」と語っている[10][3]

ナチス親衛隊[編集]

アドルフは石油会社に勤めていた頃の1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党のうえ、親衛隊に入隊している(オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326)[11]。アドルフの父アドルフ・カールの事業仲間である弁護士ヒューゴ・カルテンブルンナーの息子で同じく弁護士のエルンスト・カルテンブルンナー博士の薦めであったという[12][11]。アドルフ自身はイデオロギーにはさほど興味はなかったようだ[4]

1933年夏、アドルフがベロニカ・リーベル(Veronica Liebl、愛称ベラ)と結婚の準備を進めていた頃、オーストリア・ナチ党がオーストリア政府から禁止されたため、1933年8月1日に大管区本部の命令でアドルフはドイツへ派遣されることとなった。アイヒマン一家はドイツ市民権を放棄していなかったし、アドルフは失業中だったので再度ドイツへ移住することになんら問題はなかった。婚約者ベラとともにドイツのパッサウへ移住。ベラとは1935年にパッサウで結婚している[13]

1933年8月から1934年9月までレヒフェルトLechfeld)とダッハウバイエルン州地方警察から「オーストリア人部隊」として訓練を受けていた。なお、アドルフはダッハウの親衛隊の訓練場にはいたが、同じ場所にあったダッハウ強制収容所の運営とは何も関係していない[14][4][15]

アドルフはこの時の訓練時代を「軍務の単調さが耐えられなかった。毎日毎日が全く同じで、くりかえしくりかえし同じことをさせられる」[14]、「訓練は国防軍の兵士と全く変わらないものでした。(中略)徹底的な匍匐前進でした。肘に貼った絆創膏なんかすぐにはがれてしまって。(中略)私はどうやってここから抜け出すか、そればかり考えていました。そんなときにSDの人員募集の噂を聞きつけたんです。私は、これだ、と思いました。」と回顧している[15]

SD勤務時代[編集]

1934年9月、当時親衛隊伍長(SS-Scharführer)であったアイヒマンは、SDに応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用される。SDII/111課(フリーメーソン担当課)の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという[16]。しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン親衛隊少尉de:Leopold von Mildenstein)が課長をしていたII/112課(ユダヤ人担当課)へ異動した[17][18]。以降一貫してアイヒマンはユダヤ人問題に携わることとなる。

ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという[17]。アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。1933年から1937年にかけて2万4000人の在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた[19]。アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937年夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン(フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長)とともに英国委任統治領パレスチナに赴いた[18]。彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。カイロではハガナーのメンバーに会った。さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。そのため外遊の成果はほとんどなかった。しかもナチスの政策は後にユダヤ人国家の設立を妨げる方向で定められたので、結局、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いている。

ウィーン勤務時代[編集]

1938年3月18日、ウィーンのザイテンシュテッテンのユダヤ人協会。手前の親衛隊員がアイヒマン

オーストリア併合後の1938年3月、当時親衛隊少尉(SS-Untersturmführer)だったアイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣された。ロスチャイルド家の財閥ユダヤ人ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト(de)男爵からナチスが没収した邸宅は親衛隊の建物となり、アイヒマンはここの一室をあてがわれて「ユダヤ人移民局」を起こし、オーストリアのユダヤ人の移住に取り組んだ。ユダヤ人たちの亡命の代償は全財産であり、その所有物はすべて没収された。また移住者は「提示金」として不可欠な外国為替を、滅茶苦茶なレートで購入させられた。アイヒマンは移住政策を巨額のビジネスに仕立て上げたのだった[20]。アイヒマンは1938年10月21日の報告書で着任の日から9月末までに5万人のユダヤ人をオーストリアから追放した、と報告している。同時期のドイツでは1万9000人であったからアイヒマンの成果は歴然であった[21]

1938年6月の親衛隊内部の勤務評定はアイヒマンに「秀」の成績をつけており、「彼の格別な能力は交渉、話術、組織編成」「精力的かつ機敏な人物であり、専門分野の自己管理に優れた能力を備えている」と記している[22]。1939年1月24日には名目上のユダヤ人問題責任者であるヘルマン・ゲーリングの命令でベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が開設されることとなったが、これはハイドリヒがアイヒマンのウィーンでの働きを高く評価し、アイヒマンの方式を全国に拡大しようと設置したものであった。アイヒマンは親衛隊内でユダヤ人移住の権威として知られるようになり、ユダヤ人移住の「マイスター」などと呼ばれるようになった[23]

アイヒマンも後に述べているが、ウィーン時代はアイヒマンの人生で最良の時代であった。アイヒマンは、ロスチャイルドから没収した高級リムジンを公用車にして乗り回し、旧ロスチャイルド邸のワイン蔵からワインを持ち出して同志たちと飲みかわして楽しんだ[22]

プラハ勤務時代[編集]

1939年3月、チェコスロバキア併合によりベーメン・メーレン保護領が誕生し、4月に旧チェコスロバキア首都プラハへ派遣されることが決まった。当時親衛隊大尉だったアイヒマンは、ウィーンの移民局の仕事を部下のロルフ・ギュンターRolf Günther)やアロイス・ブルンナーに任せて次なる任地プラハへ移動した[24][23]。しかしアイヒマン自身は後に「最初、私はウィーンを離れたくなかった。万事円滑、かつ秩序正しく動いているのであるから(ウィーン勤務を)手放しくないのは当然だった。」と語っている[25]

しかもプラハではアイヒマンはウィーンでの仕事ほど成果を上げられなかった。すでにほとんどの国でユダヤ人の受け入れを拒否するようになっていた上、ベルリンも保護領のユダヤ人追放よりライヒ(ドイツとオーストリア)内のユダヤ人追放を優先したがっていた[23]。しかしプラハ勤務時代はすぐに終わりを迎えた。

ゲシュタポ・ユダヤ人課課長[編集]

ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦した後の1939年9月27日に保安警察ゲシュタポ)とSDが統合されて国家保安本部が新設された。アイヒマンはそのIV局(ゲシュタポ局)B部(宗派部)4課(ユダヤ人課)の課長に任命され、ベルリン勤務となった。各地のユダヤ人移住局を統括する立場となった[26][27]

1940年6月にフランスがドイツに降伏し、西部ヨーロッパはほぼドイツの支配領域となった。支配領域の拡大に伴い、ドイツの抱えるユダヤ人の数は大幅に増した。1940年6月の時点でドイツの支配領域にユダヤ人は325万人生活しており、彼らの追放先を探すことがドイツ政府にとって急務となった[27]。アイヒマンは支配領域のユダヤ人をポーランドのゲットーへ集中させていった。一方1940年10月にアイヒマンは、バーデンプファルツザールラントのユダヤ人7500人ほどを南フランスの非占領地域(ヴィシー政府領)へ移送させている[27]。このうち2000人以上のユダヤ人がフランスの収容所で病死し、残りもほとんどがポーランドへ再移送されてそこで殺害されたとみられる。アイヒマンによるとこのフランスへの移送は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの咄嗟の思いつきであったという[28]

併行してフランス降伏から独ソ戦開始までの間、アイヒマンは、フランスの植民地であったマダガスカル島へユダヤ人を移住させる計画(マダガスカル計画)の立案に熱心になっていた。しかし何百万人も送る船舶がドイツにはないうえ、マダガスカルまでの海路がイギリスとアメリカに抑えられていることからこの計画をまともに取り合ってくれる上官はいなかった。独ソ戦の準備が始まる中、アインザッツグルッペンが組織されるなどユダヤ人は「最終解決」される方向で首脳部の意図が定まっていき、マダガスカル島移住計画は消えていった[29]

「ユダヤ人問題の最終解決」[編集]

本人の証言によるとアイヒマンは、1941年8月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという[30]。さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府ルブリン親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ(後にここにトレブリンカ強制収容所が置かれる)でガス殺を行う建物を視察した。

ついでアイヒマンの直属の上官であるゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーからの命令でポーランド西部地域のクルムホーフ(ポーランド語でヘウムノ。ここにはヘウムノ強制収容所がつくられた)で行われていたガストラックによるガス殺を視察し、またその後にはミンスクでのアインザッツグルッペンのユダヤ人銃殺活動の視察、さらに再度ルブリンのトレブリンカへ派遣されてガス殺を視察することとなった。

アイヒマンは後にイスラエル警察からの尋問に対して、これらの視察について「強いショックを受けたこと」や「正視できなかったこと」を強調している[31][32]。アドルフ本人の証言によるとレンベルクの親衛隊司令官や直属の上官ハインリヒ・ミュラーに「あれでは若い兵士たちをサディストにするだけだ」と抗議を行ったという[33]

1941年11月に親衛隊中佐(SS-Obersturmbannführer)に昇進[34]。しかし以降の昇進はなく、アイヒマンの階級はここで止まっている[29]1942年1月20日にハイドリヒの命令で関係各省庁の次官級担当者がベルリン高級住宅地ヴァンゼーに集まった所謂ヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席し、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送して絶滅させる「ユダヤ人問題の最終解決」(=虐殺)政策の決定に関与した[35][36]。アドルフ本人もこの会議で絶滅政策が決定されたことを認めているが、アイヒマン自身は会議の席上で一言も発言しておらず、出席者の誰からも気にとめられることもなく、ただタイピストとともにテーブルの隅っこに座っていただけだと証言している[37]

この会議後、アイヒマンは、ゲシュタポ・ユダヤ人課課長としてヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者となる。1942年3月6日と10月27日に行われたヴァンゼー会議に続く二度の最終解決についての省庁会議はアイヒマンが議長を務めている[38][39]

1942年3月から絶滅収容所への移送が始まったが、その移送プロジェクトの中枢こそがアドルフ・アイヒマンであった。総力戦体制が強まり、一台でも多くの車両を戦線に動員したい状況の中でも交通省と折衝して輸送列車を確保し、ユダヤ人の移送に努めた[40]。続く2年間にアドルフは「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」と自慢するように、任務を着実に遂行した。

アイヒマンの実績は注目され、1944年3月には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。

アイヒマンはソ連軍が迫るハンガリーから脱出し知己であったカルテンブルンナーの居るオーストリアへ戻ったが、彼はアイヒマンの任務がユダヤ人の根絶であることを知っていたため、連合国軍から責任を問われることを恐れアイヒマンとの面会を拒絶した[41]。なお、アイヒマンは自身がユダヤ人虐殺の責任者であることを十分に認識していたことから敗戦が現実味を帯びてくるとともに極度に写真に写ることを嫌った。ある日写真を撮られたことに激怒し、カメラを破壊した後弁償したという。

逃亡[編集]

「リカルド・クレメント」の偽名で交付されたアイヒマンの赤十字渡航証

第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、捕虜収容所から脱出。1947年初頭からドイツ国内で逃亡生活を送り、1950年初頭には難民を装いイタリアに到着。反共産主義の立場から元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたフランシスコ会の修道士の助力を得る。

リカルド・クレメント(Ricardo Klement)名義で国際赤十字委員会から渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、1950年7月15日アルゼンチンブエノスアイレスに船で上陸した。その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていた。上記のアイヒマンの偽造渡航証は2007年5月にアルゼンチンの裁判所の資料庫から発見された。

拘束[編集]

1957年西ドイツのユダヤ人検事フリッツ・バウアーは、イスラエル諜報特務庁(モサド)にアイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を提供した。直ちにブエノスアイレスに工作員が派遣されたが、アイヒマンを捕捉することは容易ではなかった。しかし、アイヒマンの息子がユダヤ人女性と交際しており、彼女に度々父親の素性について話していたことから、モサドは息子の行動確認をしてアイヒマンの足取りをつかもうとした。2年に渡る入念な作業のすえ、モサドはついにアイヒマンの居場所を見つけ出した。

モサドイサル・ハルエル長官はラフィ・エンタン率いる作業班を結成させ、作業班と共にブエノスアイレスへ飛んだ。作業班は、偽名のリカルド・クレメントを名乗るアイヒマンに「E」とコードネームを付け行動確認した。アイヒマンも痕跡を残さぬよう慎重に行動していたが、1960年5月11日、バスから下車して自宅へ帰る道中マルキンらに拘束され、セーフハウスに連行された。行動確認中の作業班が彼をアイヒマンであると最終的に確信したのは、アイヒマンが結婚記念日に妻へ贈る花束を買ったことであった。拘束されセーフハウスへ運ばれる車中で、当初自らがアイヒマンであることを否定したが、少し経つとあっさり認めたという。

その後アイヒマンは、ブエノスアイレス市内のモサドのセーフハウスに置かれた後に、アルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空ブリストル ブリタニアで、5月21日にイスラエルへ連れ去られた。出国の際に彼は、酒をしみこませたエル・アル航空の客室乗務員の制服を着させられた上に薬で寝かされ、「酒に酔って寝込んだデッドヘッドの客室乗務員」としてアルゼンチンの税関職員の目を誤魔化したという。

さらに同機は当初ブラジルサンパウロ市郊外にあるヴィラコッポス国際空港を経由して同空港で給油する予定だったにもかかわらず、空港への到着前に同機にアイヒマンが搭乗していることが知られた場合、元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者を含むドイツ系移民が多く、ドイツ系移民が一定の影響力を持つブラジル政府により離陸が差し止められる危険性があることから、ヴィラコッポス国際空港での給油を行わずにセネガルダカールまで無給油飛行を行うなど、移送には細心の注意が図られた。

イスラエル政府は暫くの間、サイモン・ヴィーゼンタールをはじめとする「ユダヤ人の民間人有志によって身柄を拘束された」として政府の関与を否定した。しかしながら最終的にその主張は覆された。ダヴィド・ベングリオン首相は1960年5月25日クネセトでアイヒマンの身柄確保を発表し世界的なニュースとなった。当時モサド長官イサル・ハルエルは後にアイヒマンの身柄確保に関して『The House on Garibaldi Street』を著したマルキンも『Eichmann in My Hands』という本を著した。

獄中のアイヒマンは神経質で、部屋や便所をまめに掃除したりするなど至って普通の生活を送っていた。獄中のアイヒマンを知る人物は「普通の、どこにもいるような人物」と評した。なお、この逮捕および強制的な出国については、イスラエル政府がアルゼンチン政府に対して犯人逮捕および正式な犯罪人引き渡し手続きを行ったものではなかったため、後にアルゼンチンはイスラエルに対して主権侵害だとして抗議している。

アイヒマン裁判[編集]

アイヒマンの裁判1961年4月11日にイスラエルのエルサレムで始まった。「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。275時間にわたって予備尋問を行われた。裁判の中でヒトラーの『我が闘争』は読んだことはないと述べている。

証言にしばしば伴ったドイツ政府による残虐行為の記述はホロコーストの現実および、当時ドイツを率いていたナチスの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。一方で、自分の不利な証言を聞いている人物が小役人的な凡人であったことが、ふてぶてしい大悪人であると予想していた視聴者を戸惑わせた。裁判を通じてアイヒマンはドイツ政府によるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。

この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残した(ソ連の指導者で数十万から数百万人とも言われる政敵を粛清したことで知られるヨシフ・スターリンも同じような言葉を残したとされるが、実際にはこの言はスターリンではなく、ドイツの反戦作家のエーリッヒ・マリア・レマルクの言葉だった事が近年証明された)。アイヒマンは死刑の判決を下されてもなお自らを無罪と抗議しておりその模様は記録映像[42]にも残されている。

処刑[編集]

1961年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑の判決が下された。翌1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑が行われた。イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑である。遺体は焼却され遺灰は地中海に撒かれた。

処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われ、「ユダヤ教徒になる」と答えた。何故かとたずねると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と返答をした問答の逸話も残された[要出典]。最期の言葉は「ドイツ万歳、オーストリア万歳、そしてアルゼンチン万歳」であったと伝えられている。

処刑後、アイヒマンはいかなる服従の心理に基づいて動いたのかそれが学者の研究対象となり、役者の演技によって擬似的に作り出された権威の下にどれ程の服従を人間は見せるのかが実験で試され、「アイヒマンテスト」と呼ばれる事に話が繋がって行く(ミルグラム実験を参照)。

家族[編集]

アドルフ・アイヒマンは、1931年8月に彼の妻となるヴェロニカ・リーベル(Veronica Liebl、愛称ヴェラ)と知り合った。ヴェラはチェコスロヴァキアボヘミア地方ムラダー(Mladé)の農家出身のチェコ人女性であった。ヴェラによると2人が知り合ったのはリンツで行われた演奏会だったという。ヴェラは出会って一目でアイヒマンにひかれたという。ヴェラは熱心なカトリックであり、プロテスタントのアイヒマンとは信仰が異なったが、彼女はそれでもアイヒマンと結婚することに決めた。2人は1933年夏から結婚の準備を進めていたが、この頃オーストリア・ナチ党が禁止されたため、アドルフは妻のヴェラを伴ってドイツへ移住し、そこで結婚することとなった。アイヒマンは1934年10月30日に親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)に結婚許可の申請をした。親衛隊の結婚にはRuSHAの許可が必要であり、妻となる女性が「アーリア人」であることを証明せねばならなかったが、ヴェラはチェコ人であったため、アイヒマンは書類の形式を整えるのに苦労したようである[13]。許可が下りた後、2人は1935年3月21日にパッサウで挙式した。しかしアドルフの同僚の親衛隊員達の間ではヴェラがチェコ人であることは公然であり、ヴィルヘルム・ヘットルde:Wilhelm Höttl)SS少佐によるとチェコ人妻の存在はアドルフへの風当たりに原因の一つになっていたという[43]。ヴェラも反教会的なナチ党を好ましく思っておらず、ナチ党への入党は最後までしなかった。アイヒマン夫妻は、1936年にベルリンで長男クラウス(Klaus)[13]、1940年にウィーンで次男ホルスト(Horst)[44]、更にその後三男ディーター(Dieter)を儲けている。親衛隊大尉ディーター・ヴィスリツェニーによるとアドルフは自分の子供には大変強い愛着を抱いていたが、逆に妻はどうでもよい存在になっていたという[45]

ヴェラはドイツの敗戦後、オーストリアのアルトアウスゼーで子供とともに暮らしていたが、アメリカの諜報部から尋問を受けた。ヴェラは「アドルフとは1945年3月に離婚しており、それから彼から連絡はない。自分が知る限りアドルフは死んだはずだ。」と主張した。さらにヴェラはアイヒマンを指名手配犯からはずそうとして、1947年にアイヒマンの死亡宣告をもらおうとしているが、アイヒマンがプラハで銃殺されたのを見たと主張している者がヴェラの義兄弟であることをナチハンターのサイモン・ヴィーゼンタールが立証してこれを阻止した[46]

1952年夏にアイヒマンはヴェラと子供たちをアルゼンチンへ呼び、再び一家で暮らすようになった。ここで四男リカルド・フランシスコ・クレメントを儲けた。1959年にはアイヒマンの継母マリアが死去し、父アドルフ・カールも後を追うように1960年2月5日に死去した[47]

人物[編集]

  • アイヒマンはみずからが反ユダヤ主義者ではないことをイスラエル警察の尋問や裁判で強調していたが、実際、アイヒマンの学生時代にはユダヤ人の友達もおり、特にミッシャ・セバ(Mischa Sebba)というユダヤ人とはアイヒマンがナチスに入党した後も親交があったという[1]
  • アイヒマンはユダヤ人移送の任務については息苦しいまでの厳格さを見せ、移送列車の発着時刻が正確に守られるよう気を配っていたという。1942年7月14日にパリからポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所へ向かう列車が故障した事件があったが、アイヒマンは、電話で現地の指揮官に対して「今回のことは威信に関わる問題であり、事の全体は極めて屈辱的である」と激昂したという。
  • アイヒマンの信仰はプロテスタントであったが、教会からの脱会を定めたSDの内部規則にしたがって1937年にプロテスタント教会を脱会している[48]
  • アイヒマンはナチス幹部であるマルティン・ボルマンハインリッヒ・ミュラーヨーゼフ・メンゲレが南米で生き延びているとイスラエルの裁判で証言した(実際に確認されたのはメンゲレのみ)。

語録[編集]

アドルフ本人の発言[編集]

戦前戦中の発言[編集]

  • 「先ごろ一連の地域で行われたユダヤ人の東方移住は、ドイツ本国、オストマルク(オーストリア)、及びベーメン・メーレン保護領におけるユダヤ人問題の、その最終的解決の幕開けである。」(1942年1月31日、アイヒマンがドイツの占領地の全ゲシュタポ局に宛てた文書)[49]
  • 「百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない。」[50]
  • 「金貨など不要なのだ。金貨なら自分でも持っている。ほしいのは命令だ。これからどう進展するのか知りたいのに。」(敗戦直前エルンスト・カルテンブルンナーに面会を拒否され、その副官から金貨を渡された際に語った言葉)[51]

逮捕後[編集]

  • 「あの当時は『お前の父親は裏切り者だ』と言われれば、実の父親であっても殺したでしょう。私は当時、命令に忠実に従い、それを忠実に実行することに、何というべきか、精神的な満足感を見出していたのです。命令された内容はなんであれ、です。」(イスラエル警察の尋問で)[52]
  • 「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」(一般市民を虐殺する命令に疑問を感じないか、というイスラエル警察の尋問に)[53]
  • 「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」(イスラエル警察の尋問で)[53]
  • 「私の罪は従順だったことだ。」[54]
  • 「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。覚悟はできています。」(絞首刑になる直前のアイヒマンの言葉)[55]

人物評[編集]

  • 「決定的だったのは彼のコンプレックスだった。SDでは責任あるポストは大学卒業者で占められていたが、彼にはどの学校の卒業資格もなかったので、そのことが大変なショックだった。それに追い打ちをかけたのが、彼が『ユダヤ人風の容貌』をしているという同志たちの意地の悪い言葉だった。同志からジギ・アイヒマンと呼ばれ、そのことでもひどく傷ついていた。」(親衛隊少佐ヴィルヘルム・ヘットルWilhelm Höttl))[56]
  • 「私は彼が比較的単純な男だとわかった。知性に関していえば興味を引くところはなく、著しい天才なわけではない。ぶっきらぼうな親衛隊員だった。」(親衛隊少将フランツ・ジックス[57]
  • 「赤毛の人間を全部殺せとか、名前がKで始まる人間を全部殺せと命令されても、奴ならばその通りに実行するだろう。」(ナチハンターサイモン・ヴィーゼンタール[58]
  • 「あそこまで魂を売り渡した心理状態の男を私はこれまで見たことがない。我々は知的水準の極めて高い男と対峙していると感じていた。だがその一方で、我々の目の前にいるのは無に等しい男であり、一から十まで協力的で一度たりとも面倒をかけず、時には自分から協力を申し出る腑抜けだった。」(イスラエル諜報特務庁長官イサル・ハルエル)[59]
  • 「もしも彼がより人間的だったなら、彼の人間性が悪の機構に加わることを許さなかっただろう。彼がより非人間的だったなら、仕事の有能さに欠けていたことだろう。ところが彼はその中間であり、ボタンを押せと命じられればボタンを押し、そのボタンを正確に押すことだけに腐心してしまい、ボタンを押せば誰がどこで生命を失うかといったことは考えもしないという、まさしく陳腐な人間を体現していたのだ。」(心理学者ブルーノ・ベッテルハイム[56]
  • 「アイヒマン問題は過去の問題ではない。我々は誰でも等しくアイヒマンの後裔、少なくともアイヒマン的世界の後裔である。我々は機構の中で無抵抗かつ無責任に歯車のように機能してしまい、道徳的な力がその機構に対抗できず、誰もがアイヒマンになりえる可能性があるのだ。」(哲学者ギュンター・アンデルスGünther Anders))[56]

参考文献[編集]

日本語文献[編集]

英語文献[編集]

  • David Cesarani著『Becoming Eichmann Rethinking the Life, Crimes, and Trial of a "Desk Murderer"』(Da Capo Press)2006年。ISBN 978-0306814761

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b c d e 『Becoming Eichmann』19ページ
  2. ^ 『オーストリアの歴史』91ページ(増谷英樹/古田善文河出書房新社2011年刊行)
  3. ^ a b c d 『ナチス親衛隊』242ページ
  4. ^ a b c d e 『ヒトラーの共犯者 下』34ページ
  5. ^ a b c 『アイヒマン調書』3ページ
  6. ^ 『イェルサレムのアイヒマン』22ページ
  7. ^ a b 『Becoming Eichmann』20ページ
  8. ^ 『ナチ強制収容所 その誕生から解放まで 』186ページ
  9. ^ a b 『アイヒマン調書』5ページ
  10. ^ 『アイヒマン調書』7ページ
  11. ^ a b 『アイヒマン調書』10ページ
  12. ^ 『Becoming Eichmann』26ページ
  13. ^ a b c 『Becoming Eichmann』44ページ
  14. ^ a b 『イェルサレムのアイヒマン』27ページ
  15. ^ a b 『アイヒマン調書』14ページ
  16. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』35ページ
  17. ^ a b 『アイヒマン調書』18ページ
  18. ^ a b 『ヒトラーの共犯者 下』36ページ
  19. ^ 『SSの歴史 髑髏の結社』327ページ
  20. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』39ページ
  21. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』40ページ
  22. ^ a b 『ヒトラーの共犯者 下』42ページ
  23. ^ a b c 『ヒトラーの共犯者 下』43ページ
  24. ^ 『アイヒマン調書』48ページ
  25. ^ 『ナチス親衛隊』251ページ
  26. ^ 『アイヒマン調書』52ページ
  27. ^ a b c 『ヒトラーの共犯者 下』44ページ
  28. ^ 『アイヒマン調書』60ページ
  29. ^ a b 『ヒトラーの共犯者 下』45ページ
  30. ^ 『アイヒマン調書』63ページ
  31. ^ 『アイヒマン調書』65ページ
  32. ^ 『イェルサレムのアイヒマン』69ページ
  33. ^ 『アイヒマン調書』67ページ
  34. ^ 『アイヒマン調書』134ページ
  35. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』54ページ
  36. ^ 『イェルサレムのアイヒマン』90ページ
  37. ^ 『アイヒマン調書』76ページ
  38. ^ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』318ページ
  39. ^ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』321ページ
  40. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』56ページ
  41. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』73ページ
  42. ^ 裁判から50年の節目を迎え全記録映像がyoutubeにて公開されている。http://www.youtube.com/user/EichmannTrialEN
  43. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』38ページ
  44. ^ 『Becoming Eichmann』69ページ
  45. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』37ページ
  46. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』76ページ
  47. ^ 『イェルサレムのアイヒマン』183ページ
  48. ^ 『アイヒマン調書』31ページ
  49. ^ 『ホロコースト全証言 ナチ虐殺戦の全体像』150ページ
  50. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』69ページ
  51. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』75ページ
  52. ^ 『アイヒマン調書』136ページ
  53. ^ a b 『アイヒマン調書』137ページ
  54. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』25ページ
  55. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』88ページ
  56. ^ a b c 『ヒトラーの共犯者 下』28ページ
  57. ^ 『Becoming Eichmann』36ページ
  58. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』31ページ
  59. ^ 『ヒトラーの共犯者 下』74ページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]