アドルフ・アイヒマン

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アドルフ・アイヒマン
ファイル:Eichmann1933.jpg
アイヒマン。1933年
生年月日 1906年3月19日
出生地 ドイツ帝国ゾーリンゲン
没年月日 1962年6月1日(満56歳没)
死没地 イスラエルの旗イスラエルラムラ
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党

国家保安本部第IV局ユダヤ人課課長
親衛隊中佐
  

カール・アドルフ・アイヒマンKarl Adolf Eichmann1906年3月19日 - 1962年6月1日)はドイツの警察官僚。最終階級は親衛隊中佐。ナチ政権によるユダヤ人の組織的虐殺の歯車として働き、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたり指揮的役割を執った。自らの職務に対する生真面目さの一方、無責任な服従の心理を持つ人格の典型として有名。

中間管理職的な生真面目さからナチス党率いるドイツの大きな歯車の一部となり、ホロコーストを着実に実行する「ユダヤ人問題の最終解決」と曖昧に表現されたヨーロッパにおけるユダヤ人の絶滅計画におけるアイヒマンの役割は、各国からユダヤ人をヨーロッパ東部に散在する各種の強制収容所へ送り出すことであり、これにより数百万のユダヤ人が虐殺されるに至っている。

目次

[編集] プロフィール

[編集] 生い立ち

アイヒマンはドイツ西部の都市のゾーリンゲンで成功したビジネスマンの息子として生まれた。1914年に一家はオーストリアリンツへ出国する。オーストリアにおける子供時代、アイヒマンはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った(当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた。アドルフ・ヒトラーもオーストリア生まれである)。第一次世界大戦が始まるとアイヒマンの父親はオーストリア・ハンガリー帝国軍に従軍した。戦後、父親はリンツで事業を再開し、1920年に一家はドイツへ戻る。

[編集] ナチス入党

1925年にアイヒマンは機械工学を学ぶため再びオーストリアへ移り住むが、貧しい学生であった彼はすぐに大学を中退した。その後、彼は父親の事業を手伝うため1930年にドイツに帰る。アイヒマンとナチスとの最初の接触は彼がワンダーフォーゲル運動に参加したときであった。ワンダーフォーゲル活動団体にはユダヤ人のメンバーも所属していたし、反ユダヤ活動は一部に見られたに過ぎなかった。アイヒマンは1932年にオーストリアに移り、26歳でオーストリア・ナチス党に加わった。

[編集] 親衛隊

ダッハウ強制収容所

オーストリア人のエルンスト・カルテンブルンナーに助言されたアイヒマンは1932年4月1日に親衛隊のオーストリア支部に加わる。彼は同年11月に正式な親衛隊隊員と認められ、45326号の隊員番号を与えられた。

翌年、アイヒマンは一般親衛隊のパートタイム・メンバーとしてザルツブルクで活動した。1933年にナチス党がドイツで政権を掌握すると、彼はドイツに帰国しフルタイムのSSメンバーとなることを申請した。同年11月にアイヒマンは親衛隊伍長として、同年3月に「政治犯を収容する最初の強制収容所」として開設されたミュンヘン郊外ダッハウダッハウ強制収容所で勤務し、ラインハルト・ハイドリヒに注目された。

1937年にはドイツからユダヤ人のパレスチナへ大規模な移住計画の可能性を評価するためヘルベルト・ハーゲンの副官としてパレスチナに行った。彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。カイロではハガナーのメンバーに会った。さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。後に、ユダヤ人国家の設立を妨げるというドイツの政策と矛盾したので、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いた。

[編集] 「ユダヤ人問題の最終解決」

親衛隊中佐昇任時に提出されたアイヒマン直筆の履歴書(1937年)

第二次世界大戦中の1942年にハイドリッヒの命令で関係各省庁の次官級担当者がベルリン高級住宅地ヴァンゼーに集まった所謂ヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席し、「ユダヤ人問題の最終解決策」(=虐殺)の決定に関与した。アイヒマンは親衛隊中佐に昇進し、国家保安本部第IV局(ゲシュタポ)ユダヤ人課の課長に任じられ、ヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者となる。続く2年間にアイヒマンは「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」と自慢するように、任務を着実に遂行した。

この手法は、自身の経験から基づいている。アイヒマンが独ソ戦戦線でユダヤ人に乱射[要出典]して殺すという手法を見て蒼白になって逃げ出してしまったことがあり、後に上官に対し「あのやり方は兵士をサディストにするだけです」と抗議していた。

アイヒマンの実績は注目され、1944年には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。

アイヒマンはソ連軍が迫るハンガリーから脱出し知己であったカルテンブルンナーの居るオーストリアへ戻ったが、彼はアイヒマンの任務がユダヤ人の根絶であることを知っていたため、連合軍から責任を問われることを恐れアイヒマンとの面会を拒絶した。なお、アイヒマンは自身がユダヤ人虐殺の責任者であることを十分に認識していたことから敗戦が現実味を帯びてくるとともに極度に写真に写ることを嫌った。ある日写真を撮られたことに激怒し、カメラを破壊した後弁償したという。

[編集] 逃亡

第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束される。しかしながら偽名を用いて復員軍人であったと主張し、捕虜収容所から逃亡することに成功する。1947年初頭からドイツ国内を逃亡、1950年初頭には難民を装いイタリアに到着、親ナチスが多く元ナチスの逃亡に力を貸していた修道会の施設で数ヵ月を過ごした。

その頃、リカルド・クレメントの偽名で国際赤十字委員会から渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、同年7月15日には船でアルゼンチンブエノスアイレスに上陸した。その後16年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員の主な隠れ家となっていた。

[編集] 逮捕

しかし、アイヒマンがアルゼンチンに逃亡していたことをつかんだイスラエル諜報特務局ピーター・マルキン率いる秘密工作チームによって1960年5月11日に拉致され、5月21日にアルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空のブリストル・ブリタニア機でイスラエルへ連れ去られた。車中でアイヒマンは当初否定したが、少し経つとあっさり認めたという。

モサッドはリカルド・クレメンテを名乗るアイヒマンに「E」とコードネームを付け尾行。尾行中の彼らが彼をアイヒマンであると最終的に確信したのは、彼が結婚記念日に妻へ贈る花束を買ったことであった。なお、この逮捕および強制的な出国についてはイスラエル政府はアルゼンチン政府に対し正式な外交的手続きを踏んだものではなかったため、後にアルゼンチンはイスラエルに対して「主権侵害」として抗議している。

イスラエル政府は暫くの間、ユダヤ人の民間人有志によって身柄を拘束されたとして政府の関与を否定した。しかしながら最終的にその主張は覆された。ダヴィド・ベングリオン首相は1960年5月25日クネセトでアイヒマンの身柄確保を発表し世界的なニュースとなった。当時のイスラエル諜報特務局長官イセル・ハルエルは後にアドルフの身柄確保に関して『The House on Garibaldi Street』を著した。ピーター・マルキンも『Eichmann in my Hands』という本を著した。

獄中のアイヒマンは大量虐殺の責任者とは思えないほど神経質で、部屋や便所をまめに掃除したりするなど至って普通の生活を送っていた。彼を知る人物は「普通の、どこにもいるような男」と評した。

[編集] アイヒマン裁判

裁判時のアイヒマン。

アイヒマンの裁判1961年4月11日にイスラエルの首都・エルサレムで始まった。「人間性に対する犯罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。

証言にしばしば伴ったナチスの残虐行為の恐ろしい記述はホロコーストの現実および、当時ドイツを率いていたナチスの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。一方で、自分の不利な証言を聞いている男が小役人的な凡人であったことが、ふてぶてしい大悪人であると予想していた視聴者を戸惑わせた。 裁判を通じてアイヒマンはナチス率いるドイツによるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張し、死刑の判決を下されてもなお自らは無罪と抗議しておりその模様は記録映像にも残されている。

この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残した。なお、既にこの世を去っていたソビエトの指導者で数十万から数百万人とも言われる政敵を虐殺したことで知られるヨシフ・スターリンも同じような言葉を残している。

[編集] 処刑

すべての訴因上で有罪と判決されて、アイヒマンに対し1961年12月2日死刑(イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑)の判決が宣告され、1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑に処された。遺体は焼却され遺灰は地中海に撒かれている。

処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われ、「ユダヤ教徒になる」と答えた。何故かとたずねると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と返答をした問答の逸話も残された。アイヒマンの最後の言葉は「ドイツ万歳、オーストリア万歳、そしてアルゼンチン万歳」であったと伝えられている。

処刑後、アイヒマンはいかなる服従の心理に基づいて動いたのかそれが学者の研究対象となり、役者の演技によって擬似的に作り出された権威の下にどれ程の服従を人間は見せるのかが実験で試され、「アイヒマンテスト」と呼ばれる事に話が繋がって行く(ミルグラム実験を参照)。

[編集] 関連文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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