四カ年計画

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四カ年計画(Vierjahresplan)はドイツ首相アドルフ・ヒトラーが立てたドイツ経済の計画。1933年の第一次四カ年計画はドイツの富国を約し、1936年の第二次四カ年計画はドイツの国際的自主性の確保とまたそれに伴う最悪の場合(戦争)に備えて、特に食料と原料を外国に頼ることのない自給自足の経済活動(アウタルキー)の確立を目指した。

第一次四カ年計画[編集]

1933年1月30日に首相に任命され政権を取ったアドルフ・ヒトラーは首相就任演説で「ドイツ国民よ、我々に四年の歳月を与えよ」と訴えた。ヒトラーは「ドイツは今後、四年間に失業者が600万人から100万人に減少するであろう。全国民所得は140億マルクから560億マルクに増加するであろう。自動車生産は4万5000台から25万台に増加するであろう。ドイツは人類始まって以来の空前の道路を持つことになるであろう。中産階級及び貿易は未曽有の好景気になるであろう。幾百万の家屋を有する巨大新家族集団地が帝国各地に出現するであろう。ドイツは一人のユダヤ人の力も借りずして知的覚醒を経験するであろう。ドイツの新聞はドイツのためにのみ活動するようになるであろう。」といった公約をドイツ国民に行った。これをヒトラーは2月1日に国民へのラジオ放送で「四カ年計画」と呼んだ[1]

第二次四カ年計画[編集]

これに続くものとして1936年8月にヒトラーは第二次四カ年計画の覚書の作成を開始した。そして1936年9月9日のニュルンベルク党大会において第二次四カ年計画が発表された。こちらが一般に四カ年計画と呼ばれるものである。四カ年計画覚書の中でヒトラーは「経済の課題はドイツ民族が自己主張できるようにすること」「ドイツ経済は以降4年間のうちに戦争に耐えうる経済になっていなければならない」「ドイツ国防軍は四年間で戦場に投入可能なレベルになっていなければならない」と書いている。代替財・原料生産・貿易統制を推進して自給自足経済の確立を目指す内容そのものであった[2]

ヒトラーはこの四カ年計画の全権責任者にはナチス党幹部ヘルマン・ゲーリングを据えた。ゲーリングは12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」と語り[3]、ドイツの外国資源への依存を減らし、自給自足経済の確立を急いだ。このため非採算的な人造石油人造繊維合成ゴムの生産拡充が行われ[3]、また軍備支出を大幅に増やしていった。結果、国家負債は激増し、国民の生活水準の成長率も半減したが、戦争経済体制の構築は進んだ[4]

この四カ年計画において実質的な実権者はゲーリングと親密な関係にあったIG・ファルベンカール・クラウホCarl Krauch)であった。計画の役員もIG・ファルベンの社員で占められていた。そのため計画の全投資の三分の二はIG・ファルベンに割り当てられている[5]。1938年からは実質的にIG・ファルベン計画となっていた[6]

四カ年計画は個別においては注目すべき成果もあったが、現実を無視して設定されていたため、全体目標は達せられなかった。本来ならば多様であるべき生産領域は輸出の制限から更に縮小させてしまった。軍備増強による国民経済の歪みはナチ党政権が巧妙に国民の目から隠した[6]

参考文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『ヒトラー全記録 20645日の軌跡』324ページ
  2. ^ 『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』119ページ
  3. ^ a b 村瀬、366p
  4. ^ リチャード・オウヴァリー著『ヒトラーと第三帝国』(河出書房新社)58ページ
  5. ^ 『ドイツ史〈3〉1890年~現在 』(山川出版社)236ページ
  6. ^ a b 『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』120ページ

関連項目[編集]