白いバラ
白いバラ(しろいバラ、Die Weiße Rose)は第二次世界大戦中のドイツにおいて行われた非暴力主義の反ナチス運動。ミュンヘンの大学生であったメンバーは1942年から1943年にかけて6種類のビラを作成した。その後グループはゲシュタポにより逮捕され、首謀者とされるハンス・ショルほか5名がギロチンで処刑されたため、7種類目の印刷がおこなわれることはなかった。彼らの活動を描いた映画が戦後何度かドイツで作られ、反ナチ抵抗運動として、国際的に知られている。日本では、白バラ、白バラ抵抗運動などとも呼ばれる。
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[編集] 活動と経過
[編集] 背景
白いバラはミュンヘン大学の学生で構成されていた。ハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショルを筆頭に、他にもクリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授らが活動に参加していた。
白いバラに参加した学生はフランス侵攻、東部戦線に従軍したドイツ陸軍の帰還兵であった。ドイツ青年運動に影響を受けたと考えられており、ハンス・ショルとプローブストはそのメンバーである。彼らは、ポーランドのユダヤ人居住地区の状況や東部戦線における惨状を目にして、この戦争を受け入れることができず、さらにスターリングラードの戦いにおけるドイツ国防軍の敗退によりドイツの敗北を予感した。彼らはナチスのヨーロッパ支配を否定し、キリスト教の忍耐と正義を信奉していた。聖書、老子、アリストテレス、ノヴァーリス、ゲーテ、シラーなどからの引用が見られ、ドイツの知識階級の典型を表している。リーフレットは当初バイエルン、オーストリアなど南ドイツを拠点に配布された。これは反軍国主義のメッセージは南部においてより受け入れられやすいと考えていたためである。
グループは、1942年6月から7月にかけて4種類のビラを作成し、郵便などで配布した。1943年に入ると、1月に5種類目のビラ「全ドイツ人への訴え」を作成して各地で配布した。さらに、スターリングラード攻防戦における1月末のドイツ軍降伏を受け、2月に6種類目のビラ「学友へ」が作成された。いずれのビラも平易なドイツ語で書かれており、グループが広くドイツ国民に訴えかけようとしていたことが分かる。
[編集] 逮捕と処刑
6種類目のビラは、2月14日と16日の夜にミュンヘン市内でまかれたが、まだかなり残っていた。そこで、グループは、これをミュンヘン大学でまくことにした。2月18日の11時前に、ショル兄妹は大学へ行き、まだ閉まっている講義室の前と廊下にビラを置き、最後に残ったビラを持って3階に行き、ゾフィーが吹き抜けにばらまいた。この時彼女はナチス党員である大学職員ヤーコプ・シュミットに発見され、兄ハンスとともにその場で拘束されゲシュタポに引き渡された。翌日にはプロープストも逮捕された。残っている尋問記録から、ショル兄妹が2人で責任をとり、友人を守ろうとしたことが分かっている。
ショル兄妹とプロープストの裁判は2月22日に行われた。彼らは、ローラント・フライスラーが裁判長を務める人民法廷(ドイツ民族裁判所)で反逆罪により有罪となり、死刑の判決を受けた。
被告はビラの中で、戦時において武器生産のサボタージュを呼びかけ、わが民族の国家社会主義的生活を打倒し、敗北主義を宣伝し、われらの総統を口汚く罵り、国家の敵に利する行いをし、我々の防衛力を弱めんとした。それゆえに死刑に処せられる。・・・もし死刑以外の扱いをすれば、連鎖の始まりとなり、その結末はかつて-1918年(の第一次世界大戦敗北)-と同じになる。それゆえ戦う民族と国家を守るべき人民法廷には、唯一の刑、すなわち死刑しか選択はありえない。・・・わが民族に対する裏切りにより、被告らはその自らの市民権を永遠に失う。
— 1943年2月22日、「白バラ」メンバーに対する判決理由
その後、シュモレル、グラーフとフーバー教授も逮捕されて4月19日に死刑判決が下り、シュモレルとフーバー教授は7月13日に、グラーフは10月12日に処刑された。他にも、ビラの印刷や配布を助けたり、プロープストの未亡人・孤児へ援助を与えたりした者たちが逮捕され、6か月から10年の懲役に処せられた。
[編集] その後
戦後に白いバラの活動が知られるようになったきっかけは、作曲家のカール・オルフが連合国の尋問に対して、自身がグループの創設者の一人であったと述べたことに始まる。オルフはフーバー教授の友人であり、この証言が基となり釈放されたが、その証言の真実性には疑問が投げかけられている。白いバラの活動詳細が明らかになると、個人的野心や権力にとらわれずにナチスの狂気に立ち向かった学生達に絶え間ない賞賛が与えられた。
一方、白いバラのメンバーを裁いた人民法廷のフライスラーは、1945年2月3日のアメリカ軍空襲で死亡した。ショル兄妹を発見したとして3,000マルクの報償を与えられ、昇任した大学職員シュミットは、アメリカ軍に逮捕されて5年の刑に処せられ、公職からも追放された。シュミットは刑期を終えて1951年に出所したが、「義務を果たしただけだ」と刑務所から恩赦を2回嘆願している。
戦後のドイツでは、白いバラの活動、なかでもショル兄妹に、惜しみない賞賛が与えられている。ミュンヘン大学の大講堂がおかれている一角は、兄妹にちなんだ "Geschwister-Scholl-Platz"(ショル兄妹広場)、隣接する広場は "Professor-Huber-Platz"(フーバー教授広場)と名付けられている。1968年にミュンヘン大学に設置された政治学の研究所は、Geschwister-Scholl研究所と命名された。また、1980年からは、バイエルン州出版協会とミュンヘン市がショル兄妹賞を設立し、兄妹の考えであった自由、市民、道徳、知的な勇気などに関連する出版物を表彰している。
ミュンヘンのみならずドイツ各地にも、ショル兄妹の名が付けられた広場や通りがある。また、ドイツ国内の学校で最も多い校名は "Geschwister-Scholl-Schule"(ショル兄妹学校)である。
[編集] 文献
[編集] 当事者の執筆
- インゲ・イェンス編『白バラの声 ショル兄妹の手紙』新曜社、1985年
[編集] その他
- F・ブライナースドルファー編『「白バラ」尋問調書 「白バラの祈り」資料集』未來社、2007年
- M・C・シュナイダー、W・ズュース(共著)『白バラを生きる ナチに抗った七人の生涯』未知谷、1995年
- インゲ・ショル『白バラは散らず』未來社、1964年
- 関楠生『「白バラ」 反ナチ抵抗運動の学生たち』清水書院、1995年
- クラウス・フィールハーバー『権力と良心 ヴィリー・グラーフと「白バラ」』未來社、1973年
- ヘルマン・フィンケ『ゾフィー21歳 ヒトラーに抗した白いバラ』草風館、1982年/文庫(改題)『白バラが紅く散るとき ヒトラーに抗したゾフィー21歳』講談社、1986年
- C・ペトリ『白バラ抵抗運動の記録 処刑される学生たち』未來社、1971年
- 山下公子『ミュンヒェンの白いばら ヒトラーに抗した若者たち』筑摩書房、1988年、ISBN 4480854576
[編集] 映画
- ミヒャエル・フェアヘーフェン (Michael Verhoeven) 監督『白バラは死なず』(Die Weiße Rose)、1982年。[1]ドイツ映画賞 (Deutscher Filmpreis) で銀賞を受賞。
- マルク・ローテムント 監督『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』、2005年。ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞。
[編集] 白いバラをモデル、モチーフにした作品
- TEAM D.O.C『花と狼の帝国』白泉社(絶版)
- 舞台 劇団室生春カンパニー『林檎城の円窓』作・室生春(2004年、2009年他、上演)
[編集] 関連項目
- エーデルヴァイス海賊団
- ホーフガルテン (ミュンヘン) - 庭園内に碑が建てられている。
[編集] 外部リンク
[編集] リソースサイト
- 白バラの庭-反ナチ抵抗運動の学生たち
- The White Rose(英語)
- The White Rose - Die Weisse Rose(英語)
- White Rose International(英語)
- Weiße Rose Stiftung e.V.(ドイツ語。ミュンヘン大学、白バラ記念館)
- White Rose links(英語。ドイツ語のリンク先あり)
[編集] 映画
- Internet Movie Database (IMDb): Die Weiße Rose(英語)
- Internet Movie Database (IMDb): Sophie Scholl - Die letzten Tage(英語)