ギロチン

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フェルナン・メイソニナー所有のギロチン。実際にフランス領アルジェリアで死刑執行に使用されていた

ギロチン: Guillotine)とは、2本の柱の間に吊るしたを落とし、柱の間に寝かせた人の首を切断する斬首刑の執行装置。「断頭台」、「断首台」とも呼ばれるが、これらはより正確に言えば斬首刑の執行の際に用いられる台全般を指し、ギロチンに限らない。詳細は当該項目を参照。

目次

[編集] 処刑道具のギロチン

ギロチンの原型とされる処刑具(16世紀)
ルイ16世の処刑
フランスのギロチン。1792年型(左)、1872年型(右)

ギロチンは、1792年4月25日フランスで正式に処刑道具として認められた。ルイ16世の提案で刃の角度が斜めになっており、刃についている重りによって素早く切り落とすことができ、従来の処刑器よりも苦痛を与えないとされた。

ギロチンの全高は約5メートルほどである。首を挟む場所は地面から37センチメートルほどの高さにあり、ギロチンは4メートルの高さから40キログラムの刃が自由落下することによって首を切断する。

当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もが処刑されていた。平民絞首刑が適用されることになっており、斬首刑は貴族階級に対してのみ執行された。当時の斬首には斧や刀が用いられていたが、死刑執行人が未熟練であったりした場合、囚人の首に何度も斬りつけるなど、残酷な光景が展開され受刑者に多大な苦痛を与えることも多かった。

1788年、革命前の不穏な雰囲気の中、車裂きの刑の公開処刑の場で、民衆が無実を叫ぶ死刑囚に同調してこれを逃がし、処刑台を破壊するという事件が起こり、死刑執行人の職務に対する忌避のタブーが破られた。これをきっかけとして車裂きの刑は廃止されることとなり、残酷な刑に変わり苦痛を伴わない処刑法を求める流れが起こった。内科医国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンは受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも身分に関係せずに名誉ある斬首の刑が適用できる、「単なる機械装置の作用」によって「人道的」な処刑を行うよう議会で提案した。ギヨタンの提案は初め嘲笑を以て迎えられたが、彼の再度の提案と説得によりその案が採択された。

設計の依頼を受けた外科医のアントワーヌ・ルイは、スコッチ・メイデンハリファックス断頭台などの各地の断頭台を研究し、刃を三日月形にし、死刑囚の首を板で固定するなどの改良を加えた断頭台を設計した。さらに断頭台の設計図を見たルイ16世が、刃を三日月形ではなく斜めの形状にすればどんな太さの首でも切断できると提案しその通りに改良された。

なお、首と同時に両手首も切り落とす形状のものも存在する[要出典]。当初は、設計者のルイの名前をとって「ルイゾン(Louison)」と呼ばれていたが、この装置の人間性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、「ギヨティーヌ(Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。正式名称は「Bois de Justice(「正義の柱」の意)」という。

ルイ16世やマリー・アントワネットはこれによって処刑された。また、恐怖政治を主導し、受刑者をギロチン台に送り続けたマクシミリアン・ロベスピエールも最後はギロチンで斬首された。このように、フランス革命期すべての党派を次々と呑み込み処刑する状況は、当時の人々によって「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。

ルイ16世の首をはねたギロチンの刃は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンが大切に保管していたと回想録に書かれているが、後にサンソン家最後の死刑執行人であるアンリ=クレマン・サンソンが、浪費による借金のために牢獄に入れられ、3800フランの借金返済のために質入れしてしまった。死刑執行命令を受けたサンソンはギロチンを質入してしまったことを法務大臣に話して3800フランの現金を支給され、ギロチンを買い戻して死刑を執行した。しかし、アンリ=クレマンはこの直後に責任を取らされて死刑執行人を罷免された。この当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではない。そのためサンソンは横領罪に問われることは無かった。一度、質から出されたギロチンは再度売られたという。サンソンが売り払ったギロチンは交流のあったイギリス人の手に渡り、現在はイギリスのマダム・タッソー館にマリー・アントワネットやサンソンの蝋人形と一緒に展示され、説明書きに由来が記されている。

[編集] 開発史

ギロチンの開発に関してはシャルル=アンリ・サンソンの回想録に詳細な記述が残されている。

1791年6月3日に立法院で刑法第3条が改訂され、死刑の方法は斬首のみになった。この直後にサンソンが法務大臣に斬首の難しさと問題点について意見書を提出した。これには、斬首は非常に難しく、全員を斬首することは難しいと記されていた。この意見書は法務大臣から国会に提出され、アントワーヌ・ルイに斬首の研究を依頼した。

サンソン回想録によると、この時にサンソン、ルイ、ルイ16世の3人で非公式に検討会が開かれたという、この時にルイ16世が、刃を直角三角形の定規のような斜めの形にすることを提案した。

ギロチンの説明図(1792年)

1792年3月17日にルイから国会に報告書が提出され、国会はこれを採択した。試作品が製作されることになり、サンソンが知り合いのチェンバロ製造業者であるトビアス・シュミット(Tobias Schmidt)に960リーヴルで発注した。当時の一般市民の平均年収が400リーヴル強だったといわれている。シュミット工房はこれ以降、フランス死刑執行人の元締めであるサンソンとの関係からギロチンの製造独占権を得て、フランスだけでなくドイツなどの周辺諸国にも輸出するギロチン独占製造メーカーとなる。しかし、ギロチンは楽器製造の副業として製造されていた。

同年4月17日に、ビセートル監獄の中庭で、ルイ博士、ギヨタンの他、ピネル、カバニスという二人の医者の立会いのもと、3体の死体を使ってギロチンの実験がおこなわれた。死刑執行人はアンリ・サンソンである。ルイ博士は当初は半円月の刃を提案していたため、斜め刃と半月刃の2種類の刃が使用された。結果、斜め刃を使った二体は斬首に成功したが、半月刃を使った一体は斬首に失敗した。こうして、斜めの刃が採用されることとなった。

その8日後の4月25日、史上初のギロチン処刑が行われた。受刑者はニコラ・ジャック・ペルティエ(Nicolas Jacques Pelletier)という窃盗犯で、前年10月にひったくりをしようとして抵抗され、棒で被害者を殴ったため1月24日に死刑判決を受けていた。司法当局はペルティエを「新しい死刑具」であるギロチン処刑の第一号とすべく、ギロチンが完成するまで3ケ月間、その処刑を延期していたのである。

処刑当日、「ベルサイユ死刑囚解放事件」の再現を恐れた当局によって公開ギロチン処刑上には通常より多めの警護兵が配置されたが、群衆は騒ぎ立てることはなかった。むしろあっけないほどの斬首の速さに、不満を漏らす観客が多かった。

1793年6月13日にギロチンを各県に1台ずつ配置することが政令で決定した、当時のフランスの行政区分に従い、83台のギロチンがシュミットに1台812リーヴルで発注された。この時に熾烈なギロチン受注の利権争いが発生したが、サンソンとルイの後ろ盾によりシュミットの独占権が守られた。その後も改良型ギロチンを売り込む業者や、ダンピング、政治活動によってギロチン利権を得ようとする業者は後を絶たなかったが、シュミット工房が最後まで独占権を守り続けた。

ギロチンは人間の背丈よりも高い台の上に設置され、回りから良く見えるようになっていた。1792年に助手を勤めていたシャルル=アンリの次男ガブリエルがこの台から転落死するという事故が起きた。これ以降は回りに手すりが付くようになった。

1870年にアドルフ・クレミューが法務大臣就任後にギロチンを台座からはずし、地面に直接置くように命令し、新しいギロチンを製作させた。この政令に新聞記者たちは一斉に抗議しパリ市民は怒り「我々は豚のように地面に這いつくばって死ぬことを拒否する」「ユダヤ人から人間としての誇りを取り戻せ」と憤慨の声が挙がった。晒し刑でもあった絞首刑とは違い、苦しむことなく首を刎ねられる斬首刑は、本来貴族にのみ許された名誉刑であった。ギロチンはこの名誉ある斬首をあまねく平民階級にも与える、人道的で名誉なものであったのである。

恐怖時代のギロチンの再現模型

1871年4月に地面に置かれた新しいギロチンを使用した公開処刑がヴォルテール広場で初めて行われようとしたがパリ・コミューンはこの処刑に怒り狂い、ギロチンを焼き討ちし破壊した。この時、死刑執行人だったニコラ・ロシュムッシュ・ド・パリに就任してからの初仕事であった。

ギロチンが破壊されたため、1872年に新しく法務大臣に就任したジュール・アルマン・デュフォール(Jules Armand Dufaure)は新しいギロチンの製作を命じた。死刑執行人助手のアルフォンス・レオン・ベルジェが改良を行い、新しい2台のギロチンが製作され、死刑廃止までこの形式のギロチンが使用された。

改良点は以下のとおり。
刃の落下衝撃の緩和
2本の縦枠の下方に、刃の落下によるギロチンに加えられる衝撃を緩和するためのバネをつけた。
後に、バネに変えて円筒形のゴムがつけられたが、これによって独特なギロチンの音が変わった。
刃の固定装置の変更
刃をつけた重しの上部につけられた鏃型の金属の突起がギロチンの最上部につけられた「開閉装置」に挟み込むようにはめ込まれる。
小さなレバー(後にはボタン式)によって開閉装置を開くと、鏃形突起が外れ、刃付き重しが落下する、という仕組みであった。
刃の稼働機構の潤滑化
縦枠の溝を滑る重しにキャスターを取り付けることで、スムーズに落下するとともに、レールの摩耗を防ぐことになった。
執行後の処理の迅速化
高い台の上に設置するのを廃止して、ギロチンは直接地面の上に置いた厚板の上に立てられることになった。
斬首後、死刑囚の頭と胴体を入れるために側に亜鉛とオイルクロスで覆った柳の籠が大小2個置かれた。
ドイツの6分の1のギロチンの模型

ドイツではフランスのギロチンを元に改良型が作られた。主な改良点は柱が金属製となり、死刑囚を拘束するための可動式の台が設けられたことである。ドイツのギロチンはフランス式より小型で230cmの高さから落下させる。そのため、落下高さは260センチ程しかない。

フランス革命当時のギロチンは固定設置式ではなく組み立て運搬式だった。ギロチンは使用しないときは死刑執行人の家に分解した状態で収納されており、死刑を行う通達を受けると、死刑執行人の助手たちが指定された場所へ運び込んで組み立てていた。死刑執行が終わると再び分解して収納するのが普通だった。当時は公開処刑であり、裁判所の判決次第で死刑を実施する場所が変わったため、死刑執行人は毎回、違う場所へギロチンを搬入する必要があった。

後にソビエト連邦では馬車の荷台に据え付けたような形の移動式ギロチンが作られ、各地を巡回して全土を処刑場と化した。さらに後年にはトラックの荷台に据え付けた自走式ギロチンという物まで作られている。

シュミット工房のギロチンはフランスの植民地にも輸出され、インドシナの植民地がフランスから独立した後も使用され続けたことがあり、第一次インドシナ戦争当時やベトナム戦争当時の南ベトナムで使用されている。ベトコンのゲリラがギロチンで処刑されている、という話はここから来ている。

なお、シュミット工房は2009年現在もフランスでバイオリンやピアノの製造を行いながら存続している。

[編集] 死刑執行の歴史

[編集] フランス

王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑(1793年10月16日)
ギロチン刑の公布(1791年10月6日)

ギロチンが登場するまで、フランスには160人の死刑執行人と、3,400人の助手が存在していた。これが、ギロチンの導入後は減少の一途を辿り、1870年11月には、1人の執行人と5人の助手が、フランス全土の処刑を一手に担うようになった。

フランスでは、第二次世界大戦直前の1939年まで、ギロチンによる公開処刑が行なわれていた。しかし、フランス革命でギロチンがあまりに用いられ過ぎた反省からか、その後は積極的に目立った場所を避けて刑務所の門前で早朝に実施するようになり、広場などで白昼堂々と行う事はなくなっていた。1939年6月17日ジュール=アンリ・デフルノーによってパーセイルズで行われたドイツ出身の殺人犯オイゲン・ヴァイトマンEugen Weidmann)の死刑執行が最後の公開処刑となった。この処刑は盗撮され、映画館で公開された。これに問題を感じた法務省は、以降の死刑執行を非公開に切り替える事になる。そのため、これがフランスにおいて唯一映像に記録されたギロチンによる処刑映像となった。

ヴィシー政権下では、レジスタンスのビラを配っただけで、ギロチン処刑された者がいた。また、堕胎罪で逮捕裁判され、死刑判決を受けて1943年に処刑されたマリー=ルイーズ・ジロー(Marie-Louise Giraud)もいた。

無政府主義者のオーギュスト・バランの処刑(1894年)

ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯から欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビ (Hamida Djandoubi) というチュニジア人労働者であり、1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。

アルジェリアベトナムなどフランスの植民地でも使用されていた。

[編集] ドイツ

ギロチンの説明書(ドイツ)

ドイツ帝国1871年 - 1918年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ワイマール共和国1919年 - 1933年)やナチス・ドイツを経て西ドイツで死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。特にナチス・ドイツ時代の1933年 - 1945年にかけては16,500人がギロチンにかけられ、史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動ゾフィー・ショルハンス・ショルら政治犯も多人数含まれている。

オーストリア・ゾンメレグ城(現在は拷問博物館)の実物展示

ナチス占領下のフランスポーランドオーストリアでは、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。西ドイツになってから1949年に死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。

東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1970年代には廃止されたとみられる。 なお、同国は1987年に死刑を廃止した。

[編集] ベルギー

フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。

現在ではヘントにあるフランドル伯の城にギロチンが展示されている。

[編集] スウェーデン

1900年以降になってギロチンを導入した。それ以前は斧による斬首刑が行なわれていた。しかし、1910年11月23日に行われたヨハン・アルフレッド・アンデの死刑が最後の死刑となったため、スウェーデンではたった1度しか使われなかった。

[編集] ベトナム

ベトナムでも、フランスの植民地とされた時代から1975年まで、ベトナム共和国(南ベトナム)で、ギロチンが使用されていた。

[編集] ギロチン処刑の手順

フランスでのギロチン廃止前1970年代のギロチン処刑の手順である。だいたい、20分以内に終わるとされる。

死刑執行の日の午前4時ぐらいに、処刑する者の独房に、立会い者が向かい、検察官が恩赦が却下されたことを告げる。

立ち会うのは、検察官、弁護士、教戒師、刑務官、死刑執行人、死刑執行人の助手である。

遺書を書く時間が少し与えられる。そして、手を後ろ手に縛り、足を拘束具で固定し、抵抗できないようにする。襟と髪をはさみで切る。その間、ラム酒を飲ませ、タバコを吸わせる。

カーテンが開かれ、助手によって死刑囚はギロチンの前の台に押し倒され、首を固定させられる。死刑執行人のボタンで、ギロチンが落とされる。

[編集] 登場する映画

[編集] 娯楽としてのギロチン

ギロチンは公開処刑で使用されることが多く、19世紀のフランスでは大勢の市民がギロチンによる公開処刑を娯楽として楽しんでいた。有名な愛好家の名前も知られている。

ギロチンによる公開処刑が有名になると、ギロチンのミニチュアが玩具として販売されるようになり、子供たちが捕まえてきた生きた鳥やネズミの首を切り落として遊んだ。ゲーテが5歳になる自分の子供のためにギロチンの玩具を買ってくれるように母親に送った手紙が現存している。なお、ゲーテの母親はこの依頼を憤然と拒絶している。

ギロチンの製造権はトビアス・シュミットが独占していたため、このような玩具のギロチンもトビアス・シュミットしか製造することが出来なかった。トビアス・シュミットはギロチン利権で財産を築いている。そのため、フランス革命の裏ではギロチンの権利を巡るギロチン利権争いともいうべきものが起きていた。

フランス革命200周年記念式典などのイベントで藁人形によるギロチンの実演が行われることが現在でもある。

[編集] コレクションとしてのギロチン

フランスでは死刑執行人の人員削減に伴って、死刑執行人が所有していたギロチンが売却されていった。特に、ルイ16世の首を刎ねたというギロチンは何度も競売にかけられた記録があるなど、真贋の怪しいギロチンも数多く出回った。現在でもシュミット工房がギロチンの製造販売を行っているため、個人が新品のギロチンを購入することは可能である。価格は時価である。

日本国内では明治大学博物館に唯一展示・収蔵されており、見学することができる。

[編集] 派生事項

  • 導入提案者のギヨタン自身がこの装置で処刑されたという都市伝説が有るが、事実ではない(実際は病死)。
製作者を処刑した処刑道具には『ファラリスの雄牛』が有る。こちらは製作者兼芸術家ペリロスが最初の被処刑者と成り、製作を命じた君主ファラリスもこれで処刑されている。
  • 1996年にジョージア州の下院議員が、電気椅子や薬殺で死んだ死刑囚は受刑後臓器提供者になれない為、臓器を傷つけないギロチンを採用すべきだとする法案を出したが廃案となった。

[編集] 斬首後に意識はあるか

アンリ・ランギルの公開ギロチン処刑(1905年6月28日) この受刑者の斬首後、ボーリュー博士は意識確認のテストを行った。

ギロチンは痛みを感じさせる暇もないほどの高速で斬首を行い、即死させることを目的にした処刑道具である。しかし、心停止が行われても十数秒前後は意識が保たれているように、斬首後のごくわずかな時間、頭部だけの状態で意識が保たれているのではないかという説がある。斬首後の意識については幾つか報告が残されているものの、その多くは出典が怪しい。

例えば化学者のアントワーヌ・ラヴォアジエは、自身がフランス革命で処刑されることになった時、処刑後の人に意識があるのかを確かめるため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言し、実際に瞬きを行なったと言われている。しかしながら当時、流れ作業で行われたラヴォアジエの処刑に立ち会った目撃者の記述にそのような逸話は書かれておらず、1990年以降、ボーリュー博士の報告を元に創られた都市伝説と考えられる。

同様に斬首後のシャルロット・コルデーの頬を死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンの助手が殴った時、彼女の顔が紅潮し怒り眼差しを向けたという逸話がある。しかし、処刑時すでに夕方だったことから夕日が照り返したため、あるいは血が付いたためそのように見えたに過ぎないとも言われ、伝説の域を出ない。

具体的に斬首後の意識を確認した実験としては、1905年にボーリュー博士が論文として報告したものが挙げられる。[1]1905年6月28日午前5時半に、アンリ・ランギーユ死刑囚がロアレで処刑される際、事前に呼びかけに対して瞬くよう依頼したところ、斬首後数秒たって医師が呼びかけると、数秒目を開けて医師を直視し閉じた。二度目の呼びかけには応じたが、三度目以降は目が開かれなかったという。

しかし、こういった報告は筋肉の痙攣によるものとされており、斬首の瞬間に血圧が変化し意識を失うので、意図的に瞬きをするのは不可能というのが通説である。

フランスでは1956年に議会の依頼によってセギュレ博士が実験を行なっている。この実験では瞳孔反応と条件反射を確認したが、斬首後15分は反応があったとする報告を行なっている。意識の有無については確認手段が無いため不明のままであった。

[編集] 導入国

[編集] 脚注 

[編集] 参考文献

  • 高平鳴海、拷問史研究班 著『拷問の歴史 (Truth In Fantasy)』新紀元社 ISBN 4-88317-357-7
  • サンソン回想録(ガリカでMémoires des Sansonで検索すると無料で全文を参照出来る)
  • 死刑執行人サンソン(安達正勝、集英社新書)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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