全権委任法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
議場で全権委任法への賛成を求めるアドルフ・ヒトラー

全権委任法(ぜんけんいにんほう)とは、授権法(じゅけんほう)(: Ermächtigungsgesetz英語: Enabling act)とよばれる、立法府行政府立法権を含む一定の権利を認める法律のうち、1933年ドイツで定められた、ヒトラーの政府に国会が立法権を委譲した「民族および国家の危難を除去するための法律」(: Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich)を指す。ドイツ語および英語では、他の授権法と用語上の区別はされず、日本においても単に「授権法」と呼ばれることもある。

制定手続きはヴァイマル憲法の憲法改正手続きにのっとって行われ、ヒトラーが制定理由を「新たな憲法体制」(Verfassung)を作るためと説明し[1]、前文に「憲法改正的立法」とあるように通常の法ではなく、憲法改正法であった。この法律によって国家社会主義ドイツ労働者党NSDAP/ナチス独裁が初めて確立されたと見られることもあるが、これ以前から既にナチスは強大な権力を掌握していた[2]

経緯[編集]

前史[編集]

ドイツにおいて政府に対して広範な権限を与える授権法は、1914年の第一次世界大戦勃発にあたって制定されたものが始まりである。ヴァイマル共和政期でも不安定な政情に対応するために1923年に二度制定されており、1931年の関税法も政府に命令権限を認める点で一種の授権法であった。しかし、いずれの場合も授権の範囲は限定されたものであり、国会(ライヒスターク)への報告が義務づけられたうえに国会による政府措置の破棄も可能であった[3]

世界恐慌後、深刻な不況・失業率の急増に対して対応できない議会に対し不信が高まっていた。ヒンデンブルク大統領は議会を重視せず、国家緊急権である大統領緊急令(ヴァイマル憲法第48条)を多用することで政治運営を図った。1931年には発令された緊急令の数が国会採択を上回り、1932年には60発令に対し、議会での立法はわずか5に留まっている[3]。こうした権威主義体制は、議会制民主主義に失望する大衆の支持を集めていった。これらのことは、既に全権委任法以前から反議会主義的な世論が形成されていたことを示している。

ヒトラー内閣[編集]

ヒトラーは政権を握った際、自らに独裁権を与えることを主張していた。1932年7月の選挙でナチ党は第一党となり、国防相であったクルト・フォン・シュライヒャーパーペン内閣への協力を求めた。この時、ヒトラーは自らの首相就任と全権委任法の成立を要求している。しかしこの時は妥協が成立しなかった。

1933年1月30日に成立したヒトラー内閣最初の閣議でも、一定の授権法制定が議題となった[4]。その後ヒトラーはまもなく国会を解散し、4年間の政権委任を訴える選挙キャンペーンを行った。この選挙中の2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーは大統領に要請し、共産主義暴動の発生に対応するためとして、2つの大統領緊急令「民族と国家防衛のための緊急令de)」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(de:Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe)」を布告させた。ヒトラー政府はこの二つの緊急大統領令の権限で、国会議員を含む多数の共産党員・ドイツ社会民主党員を逮捕・予防拘禁した。また州政府への命令権限を利用し、州政府を次々に掌握していった。選挙の結果、ナチスは288議席、連立を組む国家人民党は52議席を獲得し、過半数を獲得した。全権委任法制定を待つまでもなく、ナチ党はこの段階でほとんど絶対的な権力を手にしていた[5]

3月7日の閣議でヒトラーは、憲法の範囲を超える全権委任法の制定への意志を表明した[4]。ヒトラーは国会での採択に自信を見せ、「共産党の議員が国会に現れることはないであろう」「彼らはあらかじめ拘禁されてしまっているのだから」と続けた[6]。3月15日の閣議では、ナチ党員の内務大臣ヴィルヘルム・フリックから法案を内示し、3月20日には最終案を提示した。副首相フランツ・フォン・パーペン、経済大臣アルフレート・フーゲンベルクは国民会議による憲法制定条項を追加することで、ナチ党の権限を制約しようとしたが、国会議長ヘルマン・ゲーリングによって簡単に一蹴された。こうして閣議は全員一致で全権委任法に賛成し、次の国会に提出することが決定された[7]

この間、各州の地方政府ではナチ党によるクーデターが相次ぎ、次々にナチ党の支配下に落ちていった。3月9日には最後まで抵抗したバイエルン州政府が総辞職し、国家代理官フランツ・フォン・エップが就任した[8]

採択への道[編集]

3月21日、国会議事堂が全焼したためにポツダムフリードリヒ大王の墓所のある衛戍教会ドイツ語版)で、ヒンデンブルク大統領が列席する盛大な国会開会式が行われた(ポツダムの日ドイツ語版)。この日の午後、ナチ党はいわゆる全権委任法、「民族および国家の危難を除去するための法律案」を国家人民党と共同で提出した[9]

この法律は5条の法律案であるが、内容は議会から立法権を政府に移譲し、ナチ政府の制定した法律は国会・第二院(ライヒスラート)や大統領権限を除けば憲法に背反しても有効とする法律案である。つまり、非常事態を理由にして、為政者の権力濫用を拘束し国民の人権を保証する憲法を骨抜きにし、ナチスに逆らう者に「公益を害する者」というレッテルを貼り、人権を剥奪して弾圧するようなナチ立法を(憲法に反していても)有効とし、選挙を経ていないナチ行政府公務員に立法権まで与える法律案であった。

実質的な憲法修正の内容を持つ本案は、本来は可決には総議員の2/3以上の出席を得た上で、出席議員の2/3以上の賛成を必要とした。ヒトラー与党は過半数の議席を得ていたが、2/3には足りなかった。そこでナチスは連立与党の国家人民党、鉄兜団などの協力で議院運営規則修正法案を同時に提出していた。この修正案は、委員会や投票に参加しない議員の会議への出席を排除できた上に、排除された欠席議員は全て出席したもの(棄権扱いで、採決の分母から除外)と見なして計算することを可能とするものであった。既にドイツ共産党議員(81議席)は全員が「予防拘禁」、あるいは逃亡・亡命を余儀なくされ、一人も出席できない状態であった。あとは中央党の同意さえ取り付ければ、「円満な採択」が可能な状態となった。

3月22日の午後4時から、ヒトラーと中央党党首ルートヴィヒ・カースの会談がもたれた[10]。カースは執行段階での大統領関与の保証、監視委員会の設置、委任法からの除外項目の画定という三つの条件を提示した。これに対しヒトラーは大統領と自分が対立することはあり得ず、監視委員会は内閣の内に設けると回答し、さらに中央党の支持基盤である教会との関係や教育政策は対象とならないとした上で、州の権限に対する侵害は考えていないと回答した[10]。カースはこの意見を持ち帰り、翌3月23日の午後1時から中央党は法案への対処を決める会議を行った。この席でカースは、反対した場合に「党に対して不愉快な結果」が降りかかるおそれがあるとし、賛成しなくてもナチ党は法によらない手段でその権限を獲得するであろうと述べた[11]。他の議員もおおむね同じ考えであり[2]、中央党は賛成に回ることを決議した。

採択[編集]

3月23日の昼過ぎ、臨時国会議事堂となったクロル・オペラハウスドイツ語版の周辺を突撃隊親衛隊が取り囲んだ。演壇の後ろにはハーケンクロイツ旗が掲揚されていた[11]。まず議院運営規則の改正案の審議が行われ、起立多数で採択された[12]。共産党議員の他、26人のドイツ社会民主党議員ならびにドイツ人民党と中央党所属の2議員も逮捕・逃亡・病気などで欠席を余儀なくされた。

ついで全権委任法の審議が始まり、ヒトラーが法案の趣旨説明を行った。ヒトラーは「真の民族共同体建設」のためには、「民族の意志と真の指導の権威が結びついた一つの憲法体制」を作ることが必要であり、全権委任法の制定はそのためであると説明した[11]。また政府の行為に国会の承認を得ることはしないが、必要である場合には同意を求めることもあるとした。さらに国会、第二院の存在と、大統領の地位と権限を保証し、教会に対する政策も変化しないとした[13]。そして最後に「政府は諸君の拒否の表明と、それにともなう抵抗の宣言を受け入れる覚悟を固めるものである。今や戦うか、平和を選ぶかは諸君自らである」と、否決された場合の強行手段を暗示した[14]。これにより、最後まで逡巡していたドイツ国家党の5人も賛成に回ることを決めた[15]

このあと2時間の休憩が取られ、午後6時過ぎに再開された審議の冒頭、ドイツ社会民主党党首のオットー・ヴェルスがこの日唯一の反対演説を行った[15]

暴力による平和からは、いかなる繁栄も生まれない。真の民族共同体というものはそうしたものに基礎を置くことは出来ない。その第一の前提は平等の権利である。自由と生命を奪いとることはできても、名誉はそうはいかない(Freiheit und Leben kann man uns nehmen, die Ehre nicht.)。社会民主党が最近被った迫害にてらして言えば授権法への賛成を我々に要求したり期待することなど誰にも出来ないはずである。

3月5日の選挙の結果、政府与党は多数を獲得し、憲法の文言と目的に忠実に統治することが可能になったのではないか。こうした可能性が存するところでは、そうする義務も存在する。およそ批判とは有益なものであり、必要でもある。ドイツに国会が生まれて以来、民族の代表者が政治に関与し参画することが今日のように排除されたことはいまだかつてなかったことである。新たな授権法が成立すれば、こうした状況がさらに加速されるであろう。革命の続行のために国会を真先になくしてしまうこと、それが君達の要求なのだ。しかし、現に存在するものを破壊することが革命ではない。法というヴェールをかけたとしても、暴力による政治という現実を覆い隠すことは不可能である。いかなる授権法も永遠かつ不変の理念を抹殺することはできない。

社会主義者鎮圧法が社会民主主義を抹殺しえなかったように、新たな迫害の中からドイツ社会民主党は新たな力を汲み取るであろう[16]

ヒトラーは即興にしてはきわめて巧みに、ヴェルスの主張を逐一余裕たっぷりに粉砕していった[17]

遅れてやってきたものの、とにかくやってきたことは認めてやろう。

おまえは迫害という。しかしおまえたちの迫害を牢獄で償う必要が無かった者はわれわれの中でごく少数に過ぎなかったのだ。われわれのほとんどが、おまえたちの手によって何千回となく嫌がらせを受け、弾圧された経験を持っている。色が気に食わないという理由だけで、何年もの間われわれがシャツを引き裂かれたという事実をおまえたちはすっかり忘れてしまったのか。おまえたちの迫害の中からわれわれは生まれたのだ。

おまえは批判は有益だという。たしかにドイツを愛するものがわれわれを批判することは結構である。しかし国際主義に魂を売った者による批判を許すわけには行かない。われわれが野党の立場にあった時、おまえたちは批判の有益性とやらを認識すべきであったのだ。その当時われわれの新聞は繰り返し禁止され、集会も演説も同じであった。それなのに、今頃批判は有益だとはよくも言えたものだ。革命を続行するため国会の排除をわれわれが狙っているとおまえは言う。しかし、そのためであれば、われわれは選挙を行うことも、国会を召集することも、それに授権法を提案することも必要なかったはずではないか。

この瞬間われわれが議会に求めていることは、たとえ諸君の同意が無くとも、どっちみち奪い取ることのできたものに他ならない。我々があえて法律的な手続きを踏むのは、今日われわれと異なった立場に立つにせよドイツに対する信仰を共有する人々をいずれは手に入れたいためである。反対者を抹殺するのでもなく、彼らと和解するのでもなく、ただ挑発するという愚を私は避けたかったのである。永遠の戦いをおっぱじめるようなことだけはしたくない。それはわれわれの弱さの故にではなく、民族に対する愛からに他ならない。

おまえたちがこの法律に賛成しないのは、おまえたちの内奥のメンタリティが今日我々を鼓舞している意図を理解できないからに他ならない。私はお前達の票など欲しくない。ドイツは自由を手に入れる。しかし、それはおまえたちの手によってではないのだ[18]

その上で、「我々をブルジョアと誤解しないでくれたまえ。ドイツの星は昇りつつあるが、君たちの星は消えかかっている。君たちの弔鐘は鳴りわたったのだ」[19]とまくし立てた。

続いて立った中央党党首カースの演説は自己弁護に終始し、言葉とは裏腹に躊躇いを残したまま下した決定を自分自身に納得させようとする惨めなものに終わった[20]

あらゆる狭小な考慮が沈黙すべきこの時に、中央党が一切の党派的その他の躊躇いを捨てたのは、国民と国家に対する責任感である。我々がかつて敵であったもの含め全ての人々に手を差し伸べることにしたのは、差し迫った困難およびドイツの再建という巨大な課題にかんがみ、国民と国家の救済を確実にし、秩序ある国家と法の再建を促進し、無秩序な発展を阻止するためである。…

…ライヒ首相により与えられた約束が将来の立法活動の基礎となり指針となることを条件として、中央党は授権法に賛成する[21]

この後、バイエルン人民党、ドイツ国家党、キリスト教社会人民運動の賛成演説が続いた。最後に国会議長ゲーリングが「今や、ドイツの頂点に立つのは我々の指導者(Führer)である。もはや、言葉は不要である。今や、行動あるのみである。我々の指導者、ライヒ首相に対し、我々は盲目的な忠誠を捧げ、ドイツの勝利にいたるまで彼に付き従うことを誓うものである」と宣言し[21]、投票にうつった。

採決
政党 議席数 賛成投票 反対投票
国家社会主義ドイツ労働者党 288 45 % 288 0
ドイツ国家人民党 52 8 % 52 0
中央党 73 11 % 72 0
バイエルン人民党 19 3 % 19 0
ドイツ国家党 5 0.8 % 5 0
キリスト教社会人民運動ドイツ語版 4 0.6 % 4 0
ドイツ人民党 2 0.3 % 1 0
ドイツ農民党ドイツ語版 2 0.3 % 2 0
ドイツ農民連盟ドイツ語版 1 0.2 % 1 0
ドイツ社会民主党 120 19 % 0 94
ドイツ共産党 81 13 %
総計 647 100 % 441 94

裁決時、この時点ではまだ共産党議員は議員の資格を保持していた[22]にもかかわらず、議長ゲーリングは議員総数を共産党議員の分を差し引いた「566」と発表した[23]。国会による成立後まもなく開催された第二院でも、この法律は全会一致で承認された[21]。第二院の議員は選出州政府の命令に従うことが定められており、すでに各州政府はナチ党に握られていた[24]

内容[編集]

全権委任法の前半
全権委任法の後半
署名は上から
大統領ヒンデンブルク
宰相ヒトラー
内務大臣フリック
外務大臣ノイラート
財務大臣クロージック
のもの

いわゆる全権委任法は全5条から成る。

前文:国会(ライヒスターク)は以下の法律を議決し憲法変更的立法の必要の満たされたのを確認した後、第二院の同意を得てここにこれを公布す

  1. ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる。本条は、憲法85条第2項および第87条に対しても適用される。
  2. ドイツ政府によって制定された法律は、国会および第二院の制度そのものにかかわるものでない限り、憲法に違反することができる。ただし、大統領の権限はなんら変わることはない。
  3. ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。憲法68条から第77条は、政府によって制定された法律の適用を受けない。
  4. ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
  5. 本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日と現政府が他の政府に交代した場合、いずれか早い方の日に失効する。

要旨をまとめると、以下のようになる。

  • 第一条は、立法権を国会に代わって政府(ヒトラー内閣)に与えたものである。
  • 第二条は、政府立法が憲法に優越し得る(違背し得る)ことを定めたものである。この条文には国会・第二院・大統領の権限に関する留保事項が存在しているが、法学者ウルリヒ・ショイナードイツ語版らは留保事項は従来の憲法でなく、将来制定される憲法に基づくものであると解釈し、制限は極めて限定されたものだと解釈している[25]
  • 第三条は、大統領にかわって首相(アドルフ・ヒトラー)が法令認証権を得たことを示す。
  • 第四条は、外国との条約を成立させる際、議会の承認が必要ではないことを確認したものである。
  • 第五条は、この法律が時限立法であったことを示す。全権委任法の成立には中道政党である中央党の賛成が必要であったが、この規定は中央党が賛成へ傾く一因になった。

またこの法律には、従来の授権法に存在した、国会に対する通告義務、国会による政府措置の破棄権限の条項が存在しないなど、従来の授権法と比べても異質な立法であり[26]、新たな憲法体制への道を開く、暫定憲法ともよべる法律であった[27]

成立後[編集]

ヨーゼフ・ゲッベルスが24日の日記に「今や我々は憲法上もライヒ(ドイツ国)の支配者となった」[5]と書いたように、全権委任法はすでにナチ党が手中にしていた権力に一応の合法性を与えるものとなった[5]。当時の法学者カール・シュミットはこの法により、政府が立法権を手中にしただけでなく、憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと説明している[28]。こうして事実上ヴァイマル憲法は死文化した。

同法の成立後、ナチ党は他の政党や労働組合を解体に追い込み、同年7月14日には政党新設禁止法を制定、一党独裁体制を確立していく。大統領権限は不可侵であるとされて首相・閣僚任免権や国軍の最高指揮権は依然として大統領のヒンデンブルクにあったが、すでに病体であったヒンデンブルクはこれらの措置に対して強い行動を起こさなかった。1934年1月30日には『ライヒ新構成法ドイツ語版』が制定されたが、その第四条には「ライヒ政府は新憲法を制定できる」という条文が定められた。この条文を根拠に政府は全権委任法を超えた措置をも行うようになり、本来憲法改正的手続きを行わなければならない第二院(ライヒスラート)廃止が決定されている[29]。8月2日の『国家元首に関する法律ドイツ語版』発効による大統領職と首相職の統合ならびにヒトラー個人への大統領権限委譲も、この『ライヒ新構成法』第四条を根拠としている[30]。ヒトラーはこれによって完全にドイツの独裁者となった(総統)。8月19日には『国家元首に関する法律』の条項に賛成するか否かという民族投票ドイツ語版が行われた[31]。投票率は95.7%、うち89.9%が賛成票であった[31]

1937年には全権委任法の期限切れを迎えた。当初関係省庁は「ライヒ立法に関する法律」を制定し、指導者兼首相に立法権が存在するということを明文化しようとした。ヒトラーは当初この案に賛成していたが、「心理学的理由」からこの立法を拒否し、全権委任法の延長で対応することにした[32]。ヒトラーは自らの権限が国会の議決に基づくという形を嫌い、国会による延長法の制定という形をとったものと見られている[32]1939年にも同様の措置がとられたが、その4年後の1943年には『政府立法に関する指導者命令』(総統命令)によって、全権委任法の権限を今後も政府が行使すると規定された。この措置により全権委任法自体は延長されず失効したものの、その効果は政府が保持し続けることとなった[33]。この命令では「国会がこの措置を批准することを留保する」という文言が存在したが、国会はこれ以降開かれず、批准措置はとられなかった[32]。1945年9月20日、ドイツを占領していた連合国管理理事会英語版ナチス法の廃止に関する管理理事会法第一法律ドイツ語版を発し、他のナチス政権下に成立した複数の法律ととともに、全権委任法および関連する法令の廃止を宣言した。

合法性[編集]

この法律が合法的な手段で制定されたという意見は存在しているが、カール・ディートリヒ・ブラッハードイツ語版は、欺瞞や恐喝による同意の取り付け、左翼議員の逮捕や各州政府の改編は明らかな違法行為であったと指摘している[24]

現代ドイツ基本法への影響[編集]

第二次世界大戦後に成立したドイツ連邦共和国(西ドイツ)では、憲法(ドイツ連邦共和国基本法)の国民主権規定を防衛する義務を国民に課し、「戦う民主主義」を基本としている。言論・結社の自由などの天賦人権は保障されているが、民主主義体制の否定、連邦共和国の破壊を目指す政党は言論・結社の自由の例外となり禁止される(基本法21条)。また1968年6月24日の改正では、憲法的秩序を除去しようと企てる者に対し、他の救済手段が存在しない時、すべてのドイツ人は抵抗権を有するという抵抗権が明記されるようになった[34]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 南利明 2002, pp. 128.
  2. ^ a b 南利明 1988, pp. 209、220.
  3. ^ a b 南利明 1988, pp. 206-207.
  4. ^ a b 南利明 1988, pp. 199.
  5. ^ a b c 南利明 1988, pp. 217.
  6. ^ 南利明 1988, pp. 200.
  7. ^ 南利明 1988, pp. 201.
  8. ^ 南利明 「NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-」、『静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇』第25巻第1号、静岡大学1989年、 61-98頁、 NAID 110007615716
  9. ^ 南利明 1988, pp. 205.
  10. ^ a b 南利明 1988, pp. 208.
  11. ^ a b c 南利明 1988, pp. 209.
  12. ^ 南利明 1988, pp. 210.
  13. ^ 南利明 1988, pp. 209-210.
  14. ^ 南利明 1988, pp. 211-212.
  15. ^ a b 南利明 1988, pp. 212.
  16. ^ 南利明 2002, pp. 212-213.
  17. ^ 南利明 2002, pp. 213.
  18. ^ 南利明 2002, pp. 213-214.
  19. ^ ジョン・トーランド、149p
  20. ^ 南利明 1988, pp. 214-215.
  21. ^ a b c 南利明 1988, pp. 215.
  22. ^ 正式に共産党議員の議席が剥奪されるのは、3月31日の「ラントとライヒのグライヒシャルトゥングのための暫定法律」施行による(南利明 1988, pp. 221-222)
  23. ^ 南利明 1988, pp. 221-222.
  24. ^ a b 南利明 1998, pp. 216.
  25. ^ 1988, pp. 222ー223.
  26. ^ 南利明 1988, pp. 207.
  27. ^ 南利明 1988, pp. 207、223.
  28. ^ 南利明 1988, pp. 217ー218.
  29. ^ 南利明 1989, pp. 70.
  30. ^ 南利明 1989, pp. 97.
  31. ^ a b 南利明 1989, pp. 96.
  32. ^ a b c 南利明 2003, pp. 122-123.
  33. ^ 南利明 2003, pp. 122.
  34. ^ 山内敏弘 「西ドイツ非常事態憲法における抵抗権」、『一橋論叢』第65巻第1号、一橋大学1971年、 92-113頁、 NAID 110007638453

参考文献[編集]

  • 加瀬俊一 『ワイマールの落日』 文藝春秋社、1976年。
  • 四宮恭二 『ヒトラー1932~1933(上・下巻)』 日本放送協会、1981年。
  • エーリッヒ・マティアス 『なぜヒトラーを阻止できなかったか』 岩波書店、1984年、ISBN 4-00-004768-X
  • ヘーネ・ハインツ 『ヒトラー独裁への道』 朝日新聞社、1992年、ISBN 4-02-259560-4
  • 有澤廣巳 『ワイマール共和国物語(上・下巻)』 東京大学出版会、1994年、ISBN 4-13-003303-4(上巻)、ISBN 4-13-003304-2(下巻)。
  • 南利明 「NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-2-」、『静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇』第24巻第2号、静岡大学1988年、 199-223頁、 NAID 110007616176
  • 南利明 「NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-」、『静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇 人文・社会科学篇』第25巻第1号、静岡大学、1989年、 123-183頁、 NAID 110007615716
  • 南利明 「指導者-国家-憲法体制における立法(一)」、『静岡大学法政研究』第8巻第1号、静岡大学、2003年10月、 69-129頁、 NAID 110007522689
  • 南利明 「民族共同体と指導者 : 憲法体制」、『静岡大学法政研究』第7巻第2号、静岡大学、2002年、 69-129頁、 NAID 110000579739
  • 南利明 『ナチス・ドイツの社会と国家』(勁草書房1998年ISBN 978-4326200399
  • ジョン・トーランド著、永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー 2巻』 集英社文庫、1990年、ISBN 4-08-760181-1

関連項目[編集]

外部リンク[編集]