水晶の夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

放火されたシナゴーグ。1938年11月10日撮影

水晶の夜(すいしょうのよる、独:Kristallnacht) とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊ドイツ全土のユダヤ人住宅、商店地域、シナゴーグなどを襲撃、放火した事件である。当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた[1]

目次

[編集] 事件の原因

ナチス政権の誕生後、ドイツではユダヤ系ドイツ人が激しい迫害にさらされていた。しかしドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていた。たとえ夜中の三時にゲシュタポがやってきても彼らはポーランドの旅券を見せることで在住外国人としての権利主張ができた。いかにナチス政府といえどポーランドと国交を結ぶ限りは彼らに正当な権利を認めねばならなかった。しかしドイツとの関係悪化を恐れるポーランド政府はついに1938年10月、ドイツ国内のユダヤ系ポーランド人の旅券を無効にすると発表した[2]。これによりポーランド旅券を持っていたユダヤ人たちはポーランド人ではなく、無国籍者となり、いよいよナチス政府の所管に落ちた。

保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒは、早速、1938年10月28日に第一次世界大戦後にポーランドからドイツへ移住してきたユダヤ人1万7000人を強制的にポーランドへ送り返す追放命令を出した。この命令に基づき、ゲシュタポはユダヤ人を次々とトラックや列車に乗せてポーランドへ移送しようとしたが、ポーランド政府が受け入れを拒否して国境を封鎖した。ユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪することとなり、彼らは窮乏した生活を余儀なくされ、餓死者も大勢出た。センデル・グリュンシュパンの一家もこの時追放されたユダヤ人家庭のひとつであった。センデルはパリにいる当時17歳の息子のヘルシェル・グリュンシュパンに惨状を訴えた。ヘルシェルはナチス政府の非人道的なやり方に激昂し、ドイツ大使館員を暗殺して世界にユダヤ人の惨状を訴えることを企図した[2][3]

1938年11月7日、ヘルシェルは、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んだ。しかしこのラートは皮肉にも、ナチス体制に疑問を持つ人物でゲシュタポからマークされている人物だった[3]。ヘルシェルはフランス警察に逮捕され、ラートは2日後の11月9日に死去した。この11月9日、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーミュンヘン一揆15周年記念式典に出席していた。その場に使いが入ってきてヒトラーにラートの死亡を耳打ちした。ヒトラーは隣に座っていたヨーゼフ・ゲッベルスの方へ向き直り、数分間何か話をした。その後、ヒトラーは演説を中止して早々に会場を退席した。この時ヒトラーがゲッベルスに何をいったかは今日まで判明していない。しかしこの日の夜に発生する反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」と関係があった可能性は高い[4]

[編集] 水晶の夜

暴動で破壊されたユダヤ人商店のショーウィンドのガラス。1938年11月10月

ラート暗殺事件を受けて11月9日夜から11月10日かけて組織化された反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生した。あわせて177のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊された[1]。特にフランスとの国境に近いドイツ西部で暴動が多発した[1]。併合されたばかりのオーストリアズデーテン地方でも暴動が発生した[5]

この暴動の際に96人のユダヤ人が殺害され、シナゴーグやユダヤ人商店・企業の他にユダヤ人の墓地、病院、学校、家なども破壊されている[6]。略奪も多数発生し、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒヘルマン・ゲーリングに800件の略奪を報告している[7]

11月9日深夜には保安警察ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーが各地のドイツ警察に「まもなくユダヤ人とシナゴーグに対する攻撃が始まるが、邪魔をしてはならない」と命令している[8]。さらに10日には保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒが、全警察とSDに向けて次のように命令した。「ドイツ人の生命と財産を危険にさらさないユダヤ人への攻撃は許すものとする」「ユダヤ人の商店や住居はただ破壊するのみとせよ。略奪は認めない」「商店街の非ユダヤ系商店が被害を受けないように留意せよ」「外国籍の者はたとえユダヤ人でも被害を受けないよう留意せよ」[4][9]。これらの命令に基づき警察は暴動をまったく取り締まらなかった。さらに消防隊も炎上するシナゴーグを傍観しているだけだった。消火活動をするのは非ユダヤ人の建物に延焼する恐れがある時だけだった[5]

破壊され砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから水晶の夜クリスタルナハト)と呼ばれた[4]。実際には殺害されたユダヤ人のおびただしい血や遺体、壊された建造物の瓦礫等で、現場は悲惨なものだったという。

暴動を煽動し計画したのはナチ宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスだといわれている[8]

[編集] 事件処理

1938年11月10日、逮捕されるユダヤ人

この暴動でドイツ警察に逮捕されることになったのは被害者であるはずのユダヤ人であった。3万人ものユダヤ人が警察に逮捕され、彼らを収容するためにダッハウ強制収容所ブーヘンヴァルト強制収容所ザクセンハウゼン強制収容所が拡張されることとなった[6]

ユダヤ人が暴動で受けた被害額は500万ライヒスマルクに及んだ[6]

この損害に対してドイツの保険会社が損害を負担せねばならないことへの対策会議が、アドルフ・ヒトラー総統の同意を経て11月12日にヘルマン・ゲーリング国家元帥の空軍省で行われた。会議には四ヵ年計画責任者でもあるゲーリングのほか、経済相ヴァルター・フンク、蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、法相フランツ・ギュルトナー、宣伝相ヨゼフ・ゲッベルス、秩序警察長官クルト・ダリューゲ、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒ、また保険業界代表でヒルガルドという人物が招かれた[7][10]

四ヵ年計画責任者としてドイツ経済に最終的責任を負うゲーリングは、ドイツ経済への打撃という観点からこの暴動騒ぎを嫌悪しており、この会議の席上、ゲーリングは一連の暴動による破壊活動と扇動者のゲッベルスを批判した[10]。ゲーリングは「こんなに物を破壊するぐらいならユダヤ人をものの二百人ほどバラした方がよほどよかったぞ」などと言い放った[7]。この一件によりゲッベルスはユダヤ人問題から徹底を余儀なくされ、ゲーリングがユダヤ人問題の責任者となった[10]。さらに1941年にはこの権限がハイドリヒに委譲され、ハイドリヒがホロコーストを実行していくこととなる[11]

この会議でドイツ保険の国際的信用を失墜させぬために一応保険を支払うことが決定された[7]。外国籍ユダヤ人には損害賠償請求も認められたが、一方ドイツ国籍ユダヤ人は損害賠償請求が認められず、さらに支払われた保険も結局没収された[6]

ゲーリングはこの会議の後、同日の11月12日に「ドイツ国籍ユダヤ人の贖罪給付に関する命令」(罰金10億ライヒスマルクをドイツ国籍ユダヤ人団体に課す)、「ドイツの経済活動からユダヤ人を排除する命令」(ドイツ企業は年末までにユダヤ人労働者をすべて解雇せよ。1939年からユダヤ人の小売業も禁止)、「ユダヤ人商店・工場における街路美観修復のための命令」(破壊された建物の修復はすべてユダヤ人が修復する。ドイツ国籍ユダヤ人が受ける損害保険金はすべて国が没収する)の三政令を定めた[10]。ゲッベルスも11月23日にユダヤ人を文化生活から追放する政令を定めた(劇場・映画館・音楽会・ダンス場などへユダヤ人が立ち入ることを禁止する)[10]。11月15日にはユダヤ人が学校へ通うことが禁止され、その2週間後にはユダヤ人夜間外出禁止命令も出された。12月になると公の場からユダヤ人は完全に消されてしまった[6]

なお暴動の際に盗難や略奪も多数発生したが、この取り戻しだけはドイツ警察も「熱心」であった。11月12日の会議でもゲーリングが秩序警察長官ダリューゲと保安警察長官ハイドリヒに「大々的手入れで宝石類は取り戻さねばならん」「だれか店に宝石を売りに来たら有無を言わさず取り上げねばならん。合法的に入手したと言い張っても構わん」などと無法な警察活動を命じている[7]。これに対してダリューゲも「隣近所の者が急に毛皮を着るようになったり、指輪をするようになったら警察に届けるよう命令を出す必要があります。」などと応じた[7]

[編集] 備考

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ a b c リチャード・オウヴァリー著『ヒトラーと第三帝国』38-39ページ
  2. ^ a b ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』138-139ページ
  3. ^ a b ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)88-89ページ
  4. ^ a b c ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』140-141ページ
  5. ^ a b マイケル・ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)114-115ページ
  6. ^ a b c d e マイケル・ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)116-117ページ
  7. ^ a b c d e f ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』144-145ページ
  8. ^ a b 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)392-393ページ
  9. ^ 大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)42‐43ページ
  10. ^ a b c d e 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)394-395ページ
  11. ^ 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)506-507ページ

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ