ナチス・ドイツの経済

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「公益は私益に優先する」(Gemeinnutz vor Eigennutz)の言葉がきざまれた1ライヒスマルク貨幣(1937年発行)

ナチス・ドイツの経済(ナチス・ドイツのけいざい)では、1933年から1945年までのドイツ、いわゆるナチス・ドイツ時代のドイツ経済について記述する。

概要[編集]

ヴァイマル共和政時代のドイツ経済は、一時好調であったものの1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌によって壊滅的な状況に陥った。失業率は40%に達し、社会情勢も不安定となった。この情勢下で政権を握ったのがアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ヒトラー政権は前政権からの雇用増加政策と、経済相兼ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁ヒャルマル・シャハトの指導による新規の計画等によって失業を改善し、1937年にはほぼ完全雇用を達成した。恐慌からの回復に関しては、同時期にアメリカで行われたニューディール政策よりも効率的であったという仮説も近年有力になってきている[1]が、その回復は賃金の増大や民間消費拡大も伴わない景気回復であった[2]。、しかもドイツ経済の足かせであった外貨不足や、輸入困難による資源不足は解決されなかった上に、軍備拡大のために膨大な国家債務を抱えることになった。1936年からは自給自足経済の成立を唱えた「第二次四カ年計画」を開始するが、資源難と労働力不足は改善されず、軍拡も不完全なまま第二次世界大戦の開始を迎えた。

戦争が始まると戦争経済体制に移行し、1940年に創設された軍需省de[注釈 1]が指導する体制になった。またポーランド人やユダヤ人の強制労働による占領地からの搾取も始まった。1942年にアルベルト・シュペーアが軍需大臣となると、ドイツの軍需生産はいよいよ拡大されて「総力戦」体制の構築が進んだ。しかし戦局の悪化とともにドイツ経済は悪化の一途をたどり、敗戦を迎えた。

経済に関するナチスのイデオロギー[編集]

経済におけるナチズムのイデオロギーは不鮮明である。結党時からのメンバーで25カ条綱領の策定にも携わり、党の経済委員会の座長を務めていたゴットフリート・フェーダーは「利子奴隷制の打破」や「企業の国有化」、「国際金融資本との戦い」を持論としていた。ヒトラー自身も「我が闘争」においてフェーダーの主張を一部取り入れているが、同時に「国家は民族的な組織であって経済組織ではない」「国家は特定の経済観または経済政策とは全く無関係である」とも述べており、統一的なナチス経済政策というものは存在しなかった[3]

一方で経済政策について熱心であったのはグレゴール・シュトラッサーを中心とするナチス左派と呼ばれる社会主義的改革を求める派閥であった。しかしヒトラーが政権獲得のために保守派や財界に接近すると、左派は猛反発した。ヒトラーは1926年のバンベルク会議で左派を押さえこんだが、その後も一定の勢力は保持していた。1932年7月にナチ党が公表した経済振興策はシュトラッサーが起草したものであった。この振興策には道路網計画などの一部は後のナチス時代において実行されるが、この計画の実質的な発案者はユダヤ人のロベルト・フリードランダー=プレヒテル(Robert Friedländer-Prechtl)であった[4]。また5月にはフェーダーの持論に基づく、全銀行・信用供給機関の国有化を提案している[5]。政権獲得後にはこれらの計画は白紙に戻され、フェーダーや左派の思想がそのまま実行される事はなかった。

しかし経済政策の基本には、民族共同体の構築と[6]、その生存のための領土拡大、そのための軍拡があった[7]。個別政策においても経済団体統制に用いられた「指導者原理」、農業政策における独立小農民保護政策、労働環境からの女性排除、そして経済の脱ユダヤ化などはナチズムの思想に基づくものであった。

政権獲得から第二次大戦まで[編集]

前史[編集]

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を負わされたドイツの経済はきわめて不安定であった。フランスルール占領に対する抵抗が引き起こしたインフレーションは天文学的な規模におよんだが、ライヒスマルク(以下、マルクと表記)の新規発行によって終息した。その後黄金の20年代ドイツ語: Goldene Zwanziger)と呼ばれる好景気期を実現した。しかし1928年頃から次第に景気は後退を始め、1928年半ば頃には159万人だった失業者が、1929年半ば頃までに20万人増加した[8]。1929年10月に世界恐慌が始まると、アメリカをはじめとする外資によって支えられていたドイツ経済はたちまち破綻した。国内の需要は極端に減少し、財・サービスの輸出入は落ち込んだ。産業構造は第一次世界大戦期からの重工業・化学製品重視政策が継続されていた[9]

1930年に首相となったハインリヒ・ブリューニング首相は金融安定化策で不況に対応しようとした。しかし景気悪化状況での経済対策には財源が必要であり、増税が不可避であった。しかし増税策は議会の反対にあって否決され、ブリューニングは大統領緊急令や複数化の選挙による強行突破で予算や金融政令を成立させた。ブリューニングが選択した政策は税収増加・福祉予算等の政府支出の削減・物価の抑制を主眼としたデフレ政策であり[10]、彼は「飢餓の首相」と国内から批判を受けた[11]。一方でハインリヒ・ブランズde:Heinrich Brauns)前労相の指揮の元、外国融資を資金として大規模な公共事業計画を立案していた[11]

1931年3月23日にはオーストリアとの関税同盟(独墺関税同盟)を結んだ。しかしこれはヴェルサイユ条約の「ドイツ・オーストリア合邦禁止」規定に抵触するとして連合国諸国から強い反発を受け、フランスは制裁としてオーストリアの資本を引き揚げた。これを受けてオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタット(de)が破綻した。この事はヨーロッパの金融危機を招き、1931年7月にはドイツ第2位の大銀行ダナート銀行de)が支払い停止に陥り閉鎖、大統領令で8月までドイツ全土の銀行が閉鎖されたもののドイツ全土に広がった金融危機は収まらず不況はさらに悪化した。外資もあてに出来ない状況となり、インフレの再来を恐れる世論やライヒスバンクが大規模な財政出動に反対したため、公共事業計画は縮小された上に実施されなかった[12]。1932年2月には登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達し[13]、ピークを迎えた。産業総失業者割合は40%を超え、同時期のイギリスやアメリカの2倍近くに達している[8]外貨準備も減少が止まらず、すべての金・外貨管理をライヒスバンクが監督するよう制限を行ったが[14]、1932年2月には10億マルクを割り込んでいる[15]

5月にはブリューニングが失脚し、フランツ・フォン・パーペン内閣が成立した。パーペン政権では租税証券(ドイツ語: Steuergutschein)による実質的な企業減税策が策定され、新規雇用を行った企業には一人につき年400マルクの租税証券を公布することで雇用を増大させようとした。またブリューニング内閣時代の公共事業計画を拡大し、総額3億マルクに及ぶ公共事業計画(パーペン計画)を開始した[16]。また同年12月3日に首相となったシュライヒャーも雇用創出国家弁務官ギュンター・ゲーレケde:Günther Gereke)を任じ、雇用創出委員会を発足させた。この委員会は総額5億マルクにおよぶ雇用創出公共事業、緊急計画(ドイツ語: Sofortprogramm)を決定し、ライヒスバンクによる部分的な同意も行われたが、翌1933年1月にシュライヒャー内閣が倒れたため実行に移されなかった。この両内閣はブリューニング内閣のデフレ政策を転換し、景気も反転ないし底入れした[17]

この間政局もきわめて不安定であり、ドイツ共産党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は勢力を拡張した。特に企業経営者などには右派が多く、共産党に対抗するためナチスに対する資金援助を行った。1932年11月19日にライヒスバンク元総裁ヒャルマル・シャハト合同製鋼社長フリッツ・ティッセンen)、ヴィルヘルム・クーノ元首相ら「ケップラー・グループ」(de)の政財界人が連名でヒトラーを首相にするよう請願書を送っている (Industrielleneingabe)[注釈 2]

1933年1月30日にはヒトラー内閣が成立した。経済対策に当たる経済相・農業食糧相にはナチ党と連立を組んだドイツ国家人民党アルフレート・フーゲンベルクが就任した。ライヒスバンク総裁ハンス・ルタールートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相はパーペン内閣、シュライヒャー内閣と続けて留任した。

経済分野の強制的同一化[編集]

政権獲得後の2月1日にヒトラーは国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」として第一次四カ年計画の開始を発表し、失業者の削減と自動車産業の拡大を訴えた。しかし、その後にナチ党は国会議事堂放火事件後の二つの大統領緊急令、全権委任法によってきわめて強力な独裁権力を確立した(ナチ党の権力掌握)。ナチ党がまず行った経済政策は、ナチ党の思想に基づくよう政治・経済・産業界を再構成する強制的同一化であった。失業対策は前政権のパーペン計画・緊急計画を蹈襲するのみで、労働政策のとりまとめが開始されたのは5月1日になってからだった[18]。3月にはライヒスバンク総裁ルターがナチ党と対立して更迭され、ナチ党の支持者であったシャハトが再任された。シャハトは8月からは経済相も兼ね、1935年5月21日には戦争経済全権にも就任、この後の経済政策を主導する事になる。

5月2日にはすべての労働組合は解散され、ロベルト・ライが率いるドイツ労働戦線に一本化された。これにより労使関係調整はナチ党の手中に落ちた。7月15日には「強制カルテル法」が施行され、新規企業設立の禁止、同業企業によるカルテル設立の強制と、国家による監視と規制が行われる体制が始まった。9月13日には「帝国食糧団体暫定設立法」によって分野別の経済団体が設立され、国がその指導者を任命することによって経済活動を統制する仕組みが定められた[19]。指導者制度はナチズムの基本概念である指導者原理に基づくものであり、経済団体は国家の下部機構として動くようになった[19]。11月16日には価格停止令が布告され、商品の価格と原価の管理を国が行う事とになった[20]

1934年2月には経済有機的構成準備法が施行され、企業は各分野の経済集団(Wirtschaftsgruppe)もしくはライヒ工業集団(Reichsgruppe Industrie)の地方組織に入る事が義務づけられた[21]。7月、シャハトは経済措置法によってから9月までの間、既存の法律の枠を超えて権限行使する権限を手に入れた。この権限に基づき8月20日には商工会議所令が発せられ、商工会議所の権限が拡大された上で、経済大臣が会頭・副会頭の任免権を含む監督権を持つ事となった[22]。これによって商工会議所の主要人事の大半はナチ党関連の人物が占める事となり[23]、全国の中小企業もナチ党体制に組み込まれた。こうした企業統制化の影響で、企業数は1933年の9148から1934年の8618、1935年には7840、1936年には7204と明確に減少し、資本集中が顕著となった[9]

シャハトの時代[編集]

シャハト(左端)とエミール・ポールde)らライヒスバンク首脳。1934年

5月31日にヒトラーは指導的経済人と会議を行い、この席で道路網整備と住宅増加が雇用増大の出発点であるとした。また大企業からの要請に基づき、租税の5年間据え置きと、社会政策支出削減によって予算を均整化する方針を固めた[24]。これ以降6月1日には第一次失業減少法(ラインハルト計画)、9月21日には第二次失業減少法(第二次ラインハルト計画)、9月23日からはアウトバーンの建設といった半奉仕活動的な雇用による失業抑制策がとられた。また結婚奨励金や家事手伝いの奨励により、女性を労働から家庭に送り込む事を奨励したが、生活消費を増加させる効果もあった[25]。これらの政策によって登録労働者は1933年のうちに200万人減少したが、奉仕活動的な雇用や統計操作を含むものであり、再軍備や軍需拡大による雇用創出が行われるまでの時間稼ぎ的な性格のものであった[26]。一方で企業に対して租税減免措置がとられ、自動車産業に対する保護育成策もとられた。また低調であった民間投資を集中するため、重点的事業でない繊維・紙パルプ・ラジオ・自動車部品製造などの分野には投資禁止措置がとられた[27]

1934年3月をピークとして雇用創出での雇用は減少しはじめ、1935年には20万人程度まで低下した[28]。この間に生産財製造業や建築業、自動車産業での雇用が進んだ[29]。また1935年3月16日には正式に再軍備en)が開始され(ドイツ再軍備宣言)、徴兵制が再開されたことで国防軍に86万人が吸収された[30]こともあって失業問題は解決され、ほぼ完全雇用が達成された。

また大規模な公共投資は直接的な雇用だけではなく、関連企業の投資を促して景気回復を促した[31]。1936年には国民総生産が1932年比で50%増加し[32]、1936年には国民所得が42%、工商業各指数生産指数が88%、財・サービスへの公共支出が130%、民間消費指数が16%増加した[33]。しかし各種政策への出資に伴い、1933年から1937年の期間で国家債務が110億マルク増大していた[34]。産業面では公共事業に直結する生産財製造業や建築業の活況が景気を支えた。特に自動車産業の成長が目立ち、1934年の生産額は過去最高の1928年比で148%、1935年には200%を超えた。さらに雇用数は1934年には過去最高の1928年の水準に達し、1935年にはこの水準をも超過した[35]。さらに石炭・冶金・機械工業企業では総利益が2倍になっている[36]。この一方でヴァイマル時代からの外貨不足状況は変わっておらず、原材料である生糸や綿の輸入が進まなかったため、消費財分野の主力である繊維工業は停滞し[37]、消費財分野全体の雇用者もほとんど増加しなかった[29]。また、統制による賃金抑制は国内消費水準回復の遅滞を招いた[38]。また、同時期には食糧相リヒャルト・ヴァルター・ダレが推進した血と土イデオロギーに基づく農本主義的農業政策が行われたが、自立小農民を保護する政策は経営合理化を妨げ、増産につながらなかった。また農地の長子単独相続を定めたために次男以下の離農が進み、農業振興とは逆行する事態が発生した[39]。この事と天候不順が重なり、食料輸入が1936年代の課題となる。

自動車産業[編集]

「帝国アウトバーン会社の設立に関する法律」によって6月30日に、ドイツ国営鉄道の子会社帝国アウトバーン会社(de:Reichsautobahn)が設立され、技術者であったフリッツ・トートが「ドイツ道路総監」に任命された。アウトバーン関連には1935年6月までに4億マルクが投資され、最大12万人の雇用が行われた[40]。ただし、アウトバーン関連労働者の一部に対しては少額の手当と衣食住の支給が行われたのみであり、賃金と呼べるほどのものは受け取っていなかった[41]

また、ヒトラーは一家が一台乗用車を保有できるという「国民車」構想を喧伝し、それは後の「KdF-Wagen(歓喜力行団の車)」の完成につながった。

各種助成[編集]

自動車税法改定により、自動車・オートバイの購入には免税措置が行われた。また第一次ラインハルト計画では設備投資に対する各種税の免除、租税軽減法では工場建物改修費用の一割が減免された[42]。第二次ラインハルト計画では住宅建設促進のため、住宅補修や改築に資金援助を行ったほか、借り入れを行った際の利子肩代わりも行った。このため1934年の住宅建築数は新築の割合が少ないとはいえ、1929年の水準に戻っている[43]。重工業・化学分野の産業育成も継続された[9]

資金調達[編集]

これらの措置の財源としては、ヒトラーが増税を否定し、公債発行も困難であったため、割引手形という手段にたよるほかはなかった。雇用創出に関しては国が支払いを保証する3ヶ月の雇用創出手形が創出された。この手形は3ヶ月期限であったが、借り換えによって最大5年までの割り引き期限延長が可能であった[44]。しかし雇用創出以外の公共事業や軍需面でも資金が必要であったが、公然たる多額の公債発行は破滅的なインフレを招く危険性があり、シャハトは一種の抜け穴を利用する事にした。1933年5月、国防省とライヒスバンクは「冶金研究協会」(ドイツ語: Metallurgische Forschungsgesellschaft、略称MEFO)を設立した。同社は国防省とライヒスバンクによって手形引受機関として作成されたペーパーカンパニーであり、資本金はクルップシーメンスラインメタルグーテホフヌンクドイツ語版が25万マルクずつ拠出している[45]。公共事業や軍需の発注を受けた会社は「冶金研究会社」相手に3ヶ月期限の手形(メフォ手形)を振り出し、この手形をライヒスバンクが割り引くことで支払いにあてることになっていた。この手形も雇用創出手形と同様支払期間は延長可能であったが、割引き機関はライヒスバンクのみであった[46]。また支払保証や予算に対する償還計上も行われなかった[47]


貯蓄奨励[編集]

ナチス政府にとって、金融恐慌の再来を防ぐ金融システム構築と、軍事費捻出の両方の政策の鍵が国内預金量の半分を占める全国の貯蓄銀行であった。貯蓄銀行は1931年の改革によって独立公法人となっており、政府にとって利用しやすい存在であった[48]。政府は「国民貯蓄会議」を設立し、「貯蓄は労働とパンをもたらす。浪費は国家建設のサボタージュ」と喧伝した[49]。また労働戦線傘下の「歓喜力行団」による「旅行貯蓄」や、「オリンピック貯蓄」「ヒトラーユーゲント貯蓄」など特別貯蓄制度も貯蓄熱をあおった。全国の預金量に対する貯蓄銀行の割合は1930年には42.4%、1933年には53.5%で115億マルク、1935年には58.1%、1939年には57.4%と増加し、開戦後の1939年年末には193億マルクに達した[49]。貯蓄銀行はこの膨大な資金力で公債を買い支え[50]、「静かな戦時貯蓄」[49]と呼ばれるもう一つの戦争財源となった。

ゲーリングの時代[編集]

1936年夏頃には外貨不足と2年連続の農業不振が重なって、ドイツ経済は深刻な原料危機を迎えており、景気失速の危険があった[30]。この危機を乗り越える方策としては協調外交と軍拡の減速に政策を切り替えるか、軍備拡大を続けて領土拡大によって占領地から収奪するかという二つの道があったが、ヒトラーとナチ党にとっては後者以外の選択はあり得なかった。このため前者の路線を志向するシャハトは放逐される運命であった[51]。さらに食糧輸入への外貨割当拡充をめぐってシャハトと食糧相ダレが深刻な対立を開始した。ヒトラーの命令でナチ党No2の航空相ヘルマン・ゲーリングが仲介に入り、彼は外貨・原料問題の全権を掌握した[52]

8月の夏期休暇の最中、ヒトラーはオーバーザルツベルクベルクホーフにおいて、「第二次四カ年計画」の秘密覚書を書き上げた。この覚書には「4年以内に戦争を可能ならしめるための国防経済体制」への移行計画が書かれていた。9月9日、ヒトラーはニュルンベルク党大会において、覚書に基づいた「自給経済体制ドイツ語: Autarkie、アウタルキー)」の確立を目指す第二次四カ年計画の開始を発表した[53]。10月18日には「四カ年計画施行令」が発令され、ゲーリングが四カ年計画受託官として、計画遂行のための全権を付与された[30]。シャハトはゲーリングと対立し、11月に経済相を辞任した。以降ゲーリングが経済相も兼ねる事となり、経済分野の全権を掌握する事となった。

計画が進展する1938年頃には過剰な通貨供給と軍需拡大によってさらに景気が過熱し、インフレの危機と外貨不足がいっそう深刻化した[54]。このため1936年11月の「物価ストップ令」など物価抑制措置が相次いでとられた[55]。また資本集中もいっそう進み、ドイツ企業の12.5%を占める500万マルク以上の大株式会社が、全企業の資本金総額の78.5%を占めるようになっていた[36]

四カ年計画[編集]

カール・クラウホ。1942年

四カ年計画による自給経済構築とは、外貨不足により輸入が困難であるため、資源の国内自給を高めるものである[53]。ゲーリングが12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」[56]と語ったように、計画の実行は経済性を無視したものであった。1937年2月にはヴァルター・フンクが経済相と戦争経済特命委員に就任したが、フンクはゲーリングの腹心であり、大きな路線変更は行われなかった。この四カ年計画で実権を握ったのは、最終的にはゲーリングに次ぐナンバー2となったIG・ファルベンカール・クラウホen)であった。

四カ年計画では戦時の輸入途絶を前提として、化学繊維人造石油合成ゴムなどの代用品開発が推進された[30]。また1937年7月には国営企業として「国営企業ヘルマン・ゲーリングReichswerke Hermann Göring)」が設立され、これまで不採算のため放棄されてきた国内資源の開発にあたった。四カ年計画のために投じられた資金は、ドイツ全体の設備投資金額の半分以上を占める莫大なものであった[57]。また四カ年計画の技術者はIG・ファルベンの関係者が多く、1939年の段階で20%、戦時には30%がIG・ファルベン出身者であった[58]。また10月29日の執行令により四カ年計画局にライヒ価格形成監理局が設置され、経済集団と連携して全国の価格を監視した[59]

しかしドイツ国内の資源類は偏っており、また軍需産業への労働力集中は農業人口の減少を招き、食糧自給が困難になった[60]。1937年11月5日の秘密会議でヒトラー自身も完全な自給経済体制構築は不可能であると述べ、自給が可能であるのは石炭・鉄鉱石・軽金属食用油にすぎず、食糧にいたっては「まったく無理」であるとした[61]。ヒトラーは食糧自給のためにはヨーロッパ内での領土獲得が不可欠であると述べ、近い将来における戦争準備推進を要求した(ホスバッハ覚書en))。

1938年になると四カ年計画の軍備への傾斜がいっそう鮮明となった。7月以降いくつかの部分計画が追加されたが、四カ年計画としてのまとまりを欠くようになった[58]。12月にはアウトバーン総監であったフリッツ・トートが建設経済統制特命委員に任ぜられ、彼の指揮下にある「トート機関」が、アウトバーンの他に西部国境の要塞ジークフリート線などの軍事施設建設を開始している。1939年頃には四カ年計画の機構すらも統一性を失っていった[58]。これらの政策で石炭は8000万トンの増産に成功[注釈 3]し、鉄鉱石生産高は1932年の260万トンから1938年の1500万トンへ急成長した[62]。しかし自給の努力にもかかわらず、物資備蓄ははかばかしく進展せず、1939年10月の時点でガソリンゴム、鉄鉱石、ボーキサイトの備蓄量はわずか半年分に過ぎなかった[63]。また、政府は耐久消費財や住宅建設の削減といった国民生活に負担のかかる政策を好まなかったため、戦争準備に全力を注げたわけではなかった[64]

経済の脱ユダヤ化[編集]

ナチスは発足時から反ユダヤ主義を掲げており、政権獲得後にはユダヤ人商店に対するボイコットなどを扇動していた。しかしシャハトは1935年11月に全国の商工会議所会頭にユダヤ人の「自由な経済活動」を保障する必要性を説く書簡を送るなど[65]、経済分野を阻害する反ユダヤ主義には反対の立場を取っていた[66]

しかし1937年後半以降、「経済の脱ユダヤ化」(ドイツ語: Entjudung der Wirtschaft[注釈 4]政策が加速し始めた[67]。1938年4月26日にはユダヤ人の財産に申告義務が課せられ[68]、6月14日には経営陣に一人でもユダヤ人がいる経営を「ユダヤ経営」と見なし[69]、諸官庁のリストに登録された。11月12日にはユダヤ経営の営業や、ユダヤ人が経営を行う事が禁止され[70]、12月3日にはユダヤ経営資産や有価証券の譲渡が定められるとともに(ユダヤ人資産税ドイツ語版)、ユダヤ人の土地取得が禁止された[71]。またこうして譲渡された経営に勤務していたユダヤ人は解雇が厳命された[72]。こうして1938年のうちにユダヤ経営の大半はドイツから姿を消し[73]、ユダヤ人の9割が経済基盤を失った。このためこの年はヴォルフガング・ヴィッパーマンde)によって「ドイツユダヤ人の財政の死」と表現されている[74]。さらに1939年にはユダヤ人保有の金・プラチナや宝飾品の供出が義務づけられるなど[75]、迫害はますます進行した。

資金調達[編集]

1937年の時点でメフォ手形の発行額は120億マルクに達していた。シャハトはこれ以上の増発は国家の支払い能力を超える[76]として、1938年にメフォ手形を発行停止にした。しかし軍拡のためにはさらなる資金が必要であり、ゲーリングらはメフォ手形の償還を行わず、中長期債による資金調達を開始した。シャハトらライヒスバンク首脳はこれに抗議し、1939年1月7日に債権増発の危険性を警告する書簡をヒトラーに送った。ヒトラーは激怒してシャハトらを更迭し、フンクをライヒスバンク総裁に据えて人事を一新した[77]。6月15日にはライヒスバンク法が制定され、独立性を失ったライヒスバンクは国家に従属する一官庁に位置づけられた[78]

しかしメフォ手形及びライヒスバンク・ライヒ政府が発行した手形の債務は短期金融市場を圧迫し、さらにヒトラーの拡張政策による軍備費の増大[79]もあり、1938年9月と12月にはライヒ政府が支払困難になるという事態に陥っている[80]。9月にははドイツ国有鉄道やライヒスポストの資金を流用して乗り切ったものの、12月には20億ライヒスマルクの不足が出ている[81]

とにかく歴史から学びたまえ、これまで借金で亡びた民族など一つもありはしないのだから

1942年5月4日のヒトラー談話、村瀬興雄 『ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜』 (中公新書、1968年) ISBN 978-4121001542、225p

1939年5月、国防軍は二種類の租税証券を発行して軍事費調達に当たった。この増発は証券の相場下落や受け取り拒否を招いたために発行は11月に停止され、ライヒスバンクが引き取る形となった[82]。また政府はライヒスバンクから無制限に信用供与を受け、それで政府財政をやりくりする事態となっていた[83]。ライヒスバンクの対政府信用はさらに増加し、インフレ圧力が強まった[84]

領土編入[編集]

1935年にザールラントがドイツに復帰し、ドイツの石炭収入は飛躍的に増加した。1938年3月13日にはオーストリアが併合され(アンシュルス)、ドイツ経済域に組み込まれた。オーストリアには60万人の失業者が存在するなど不況のまっただ中であったが、4億シリングにのぼる金・外貨準備と水力発電を含む膨大な資源も獲得した。3月23日にはオーストリア経済復興令が発令され、公共事業による雇用拡充が行われた。同年11月には継続して失業している者は10万人に減少したと発表されている[85]

同年10月にはミュンヘン会談の結果、チェコスロバキアからズデーテン地方を獲得した。政府はこれによって同地の繊維・ガラス・陶磁器工業を手に入れた[86]。さらに翌1939年3月にはチェコをベーメン・メーレン保護領として支配下に置き、同地の鉱山や当時世界有数の武器工場を手に入れた。また、外貨不足にあえぐドイツにとって、保護領の外国貿易は貴重な外貨供給源であった[86]

労働政策[編集]

年平均登録失業者数推移(単位千)[注釈 5]
賃金推移(1932年=100)[注釈 6]
失業者数 名目時間賃金率 名目週賃金収入
1929年 1,898,6 122.4 149.4
1930年 3,075,5
1931年 4,519,7
1932年 5,575,4 100 100
1933年 4,804,4 97.0 102.2
1934年 2,718,3 96.8 109.7
1935年 2,151,0 96.8 122.3
1936年 1,592,6 96.8 116.6
1937年 912,3 97.0 120.6
1938年 429.4 97.4 126.5
1939年 104,2
1940年 43,1

雇用創出[編集]

ヴァイマル共和国時代からの重要な政治課題が膨大な失業者問題であった。1927年から機械力より人力を優先させる公共事業(緊急事業、ドイツ語: Notstandsarbeit)で雇用を創出しようという雇用創出計画が策定され、パーペン・シュライヒャー政権時代に決定されていた[87]

ナチス政府はパーペン計画と緊急計画を継承した上で、主要な雇用創出計画を1933年中に策定した[88]。組閣後の2月1日にヒトラーは農民救済と失業問題解決を公約し、ヒトラーを議長、財務相クロージク、経済・農業相フーゲンベルク、労相フランツ・ゼルテ、労働担当国家弁務官ゲーレケによる雇用創出委員会を再スタートさせた。しかしナチ党を無視した政策を取ろうとしたゲレッケは3月に横領の疑いで逮捕され[89]、ナチ党主導による雇用政策があらためて開始される事になった。6月1日には第一次失業減少法、通称第一次ラインハルト計画がスタートした[注釈 7]。6月27日には「帝国アウトバーン会社の設立に関する法律」(Gesetz üeber die Errichtungeines Unternehmens Reichsautobahnen)が公布され、7月15日には租税軽減法、9月21日には第二次失業減少法、通称第二次ラインハルト計画がスタートした。

供給削減[編集]

雇用創出の一方で、ナチス・ドイツ政府は追加雇用(ドイツ語: Zusätzliche Beschäftigung)と呼ばれる失業者数の削減政策を取った。これは工業生産過程外で失業労働力を吸収し、労働市場の過密を緩和させるものであった[90]

この追加雇用には緊急事業や1931年から始まった労働奉仕などがある。これらの事業に参加した労働者は衣食住は現物支給されたものの、賃金と呼べるほどのものは受け取っておらず、期間も短かった[91]。また大卒の若者を一年間農業年季奉仕ドイツ語: Landjahr)に出し、労働市場への労働力供給を延期させた[92]

さらに女子労働力の削減政策も行われた。第一次ラインハルト計画では結婚奨励と女子家事手伝いに対する優遇措置が盛り込まれ、女性の労働市場から家庭への移動が促進された[93]

労働環境[編集]

労働者はドイツ労働戦線(DAF)に加盟し、その指導に従うようになった。労働戦線の組織歓喜力行団は労働者に余暇・スポーツ・演奏会・祭典を提供し、その中でナチズムの浸透を図った。

一方で賃金抑制策のため、景気が回復しても労働者の時間当たりの収益は伸びなかった。原則的に一日8時間、週40時間労働が定められていたが、労働力不足が深刻になると労働時間を延ばすことで対応した。また失業保険の保険料も引き下げられることはなく、支払い条件も厳格化された。集められた資金は本来の役割ではなく、公共投資のための基金となった[94]

完全雇用の達成[編集]

諸計画を合計するとドイツ国家は1933年から1935年にかけて雇用創出費として50億マルク投じ、うち30億マルクは雇用創出手形によって調達された。この手形償還は1938年までに終了したが、財源は不明確である[95]。また、雇用に関する減免税は1933~1934年にかけて7億9000万マルク、租税証券発行も12億790万マルクに達した[96]

政府は雇用創出のため、機械力などによる経済合理化を制限する事で、人手を増加させる方策をとった。第一次ラインハルト計画や1933年7月15日の「タバコ産業における機械使用の制限に関する法」には機械力制限が明記されており、事業資金中の賃金費用の割合が増大した。事業資金全体に占める賃金割合はパーペン計画では43.8%、緊急計画では38.0%、アウトバーン建設では46%、第一次ラインハルト計画に至っては70%であった[95]

パーペン計画、緊急計画、第一次ラインハルト計画の三計画によって1935年までに50万人の雇用が生み出され[97]、さらにドイツ国鉄も4万人の職員を雇用した上に6万人を短期雇用し、さらに発注によって工業・手工業界に25万人の雇用を生み出した[98]。また郵便事業などの公社も個別に雇用を増大させている。

1933年の一年間で失業者は200万人減少したが[99]、工業雇用の回復よりも失業者数の減少が大きいなど[100]、再び生産過程に吸収されたのはその7割ほどであった。また従来失業者にカウントされていた失対労働者、農業補助者、勤労奉仕者を労働者として数えるという統計操作も行われていた[101]。しかし失業者を減少させるという社会政策的には大きな意味があり、ナチス政権の安定化に寄与した[102]。1935年以降の再軍備による軍の雇用もあり、1937年には失業者数を求人者数が上回り、ほぼ完全雇用が達成された[103]

労働力の再配置[編集]

完全雇用は達成されたものの、業種間の労働者需要に偏りがあり、特に建築・金属の分野では熟練工が不足していた[104]。またヒトラーの志向する自給自足経済には、労働力の再配置が不可欠であった。このため政府は1934年12月29日の「熟練金属労働者配置令」、1935年2月26日の「労働手帳導入に関する法律」、1936年6月26日の「公共建築事業実施に際しての労働力需要の届け出に関する命令」など、労働力需給を国が調整するための法律を次々と制定し始めた[105]

軍需産業の活況に伴い景気が上昇することで、民間における労働力需要はますます高まった。政府は賃金を上昇させない政策を取っていたが、企業は残業時間を増やしたり、手当を増額する事で給与を上げ、労働力の争奪に走った。このため政府の監視にもかかわらずじわじわと給与水準は上昇した[106]

1938年5月からは西部国境の要塞線ジークフリート線の建設が始まったが、総工費35億マルクにのぼるこの要塞線の構築には10万人の工兵隊と、トート機関による35万人の労働奉仕者が参加し、国内の労働市場はさらに逼迫した[107]。政府は労働力の確保のため、6月22日に「国策上特に重要なる任務の為の労働力需要確保令」を発令し、国民に政府が求める職場での労働、もしくは職業訓練を受ける義務を課した。これにより、国民の職業選択の自由は失われた[107]


貿易[編集]

ドイツの貿易収支(単位:百万マルク)[108]
四半期 輸入 輸出 貿易収支
1929年 1 3,354.9 3,054.7 -300.2
2 3,465.1 3,476.6 11.5
3 3,338.8 3,487.3 148.5
4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930年 1 3,171.0 3,222.0 51.0
2 2,533.0 2,983.0 450.0
3 2,440.0 2,923.0 483.0
4 2,249.0 2,908.0 659.0
1931年 1 1,919.0 2,420.0 501.0
2 1,885.0 2,348.0 463.0
3 1,464.0 2,465.0 1001.0
4 1,459.0 2,366.0 907.0
1932年 1 1,251.7 1,605.4 353.7
2 1,142.7 1,382.4 239.7
3 1,057.0 1,302.6 244.7
4 1,214.1 1,448.0 233.9
1933年 1 1,077.0 1,190.0 113.0
2 1,011.0 1,188.0 177.0
3 1,044.0 1,230.0 186.0
4 1,072.1 1,263.0 191.0
1934年 1 1,147.4 1,094.3 -53.1
2 1,152.8 991.9 -160.9
3 1,056.7 1,005.4 -51.3
4 1,094.1 1,075.3 -18.8
1935年 1 1,139.7 967.0 -162.7
2 1,008.7 995.0 -13.7
3 965.3 1,099.7 134.4
4 1,055.0 1,208.0 153.0
1936年 1 1,052.9 1,134.2 81.3
2 1,058.4 1,107.7 49.3
3 1,027.6 1,215.8 188.2
4 1,079.2 1,310.5 231.3
1937年 1 1,092.7 1,285.2 192.5
2 1,433.7 1,431.3 -2.4
3 1,443.4 1,565.8 122.4
4 1,498.5 1,628.8 130.3
1938年 1 1,399.0 1,360.0 -39.0
2 1,482.0 1,354.0 -128.0
3 1,476.0 1,375.0 -101.0
4 1,592.0 1,449.0 -143.0
1939年 1 1,445.8 1,333.4 -112.4
2 1,285.5 1,459.9 174.4

世界恐慌以降の貿易低調により、ナチス・ドイツ時代を通じて貿易額は恐慌以前より低い水準であった。ナチス・ドイツ時代を通じて輸入は1938年第四四半期の15.92億マルク、輸出は1937年第四四半期の16.288億マルクが最高であり、いずれも1930年の水準の半分以下であった[109]。ただし世界貿易に占めるドイツ貿易の割合は1929年とほぼ変わりない水準を維持している[110]

ドイツ最大の貿易相手は恐慌以前からアメリカであったが、1930年代以降その割合は急速に低下した。1938年の時点で対米輸出はわずか2.8%まで低下している。同様にイギリス・フランスとの通商関係も悪化していき、かわって北欧(特にスウェーデン)、東南欧、中南米の比重が高まった[110]。シャハトは二国間主義en:Bilateralism)によってこれらの国との通商関係構築を行ったが、それはアメリカのコーデル・ハル国務長官の多国間主義貿易自由化政策と対立するものであった[111]。しかしシャハトの貿易拡大路線はヒトラーやゲーリングが志向する自給自足経済と異なっており、それはシャハトの失脚にもつながる事となった[112]

外貨不足[編集]

ドイツは金本位制を保持していたが、海外でのマルクの実勢レートはかなり低下していた[109]。外貨不足は健全な貿易を大きく阻害した。さらに世界恐慌以降の世界的な貿易停滞は外貨獲得の機会を減少させた。

この外資不足を改善するため、ヴァイマル政府は外貨管理、輸入制限、外国債務の元利支払い停止などの政策を打っていたが、外貨増収には至らなかった。このため輸出振興策として1932年に「追加的輸出手続」(ドイツ語: Zusatzausfuhrverfahren、ZAV)制度を採用した。これは輸出業者が輸出代金の一部として、ドイツの対外債権を外国市場から買い入れ、国内の債務者に売り渡すことを認めたものである。対外債権は海外で安く取引されており、債務者に売ることで輸出業者は利益を得ることが出来た[113]。この他にも様々な外貨使用削減の方策がとられており、シャハトの証言によると、ドイツ貿易の80%は交換・清算・補償などで決済されており、自由な貿易は20%以下であった[114]

外貨不足を補うため、外債の利子送金を停止する計画を建てた。これに債権国は反発し、輸出超過再建の差し押さえを行うなど、貿易関係でも摩擦が続いていた[115]。また軍備拡大に伴って原料輸入が増大する事で工業製品の生産コストが上がり、輸出が不振となったため、ヴァイマル時代からの外貨不足はますます深刻となった[30]。1934年1月時点での貿易赤字は2200万マルク、12月には4500万マルク、翌1935年1月には1億500マルクと増加する一方であった[116]。外貨準備もこれに伴って減少し、1934年6月には1億マルクを割り込む危険水域に突入した[15]。1934年に9月にシャハトがこの状況を打開するため貿易管理政策「新計画Der neue Plan)」を策定したが、あくまで一時的なものであった。新計画の骨子である補助金による輸出奨励はダンピングととられる恐れがあり、食糧事情が逼迫する中で輸入の抑制を長く続けられるものではなかった[117]

1935年3月にシャハトは、ZAVの手続きを簡略化するかわりに輸出促進補助金の資金を経済集団から「自発的に」拠出させる法律[118]を制定したが、拠出金を負担する企業は価格に転嫁することも出来ずに苦しんだ。シャハトは国庫から拠出するよう望んだが、クロージク財務相が拒否した[119]。しかしこの補助金政策によって、輸出価格を安く抑えることが出来たため、輸出増加に一定の効果があった[120]

外貨準備は1935年に一時的に1億マルクを超えたものの、以降も概して低水準であった[15]。また1936年秋に金ブロックen:Gold bloc)諸国が金本位制から離脱した事もあって、ドイツの交易条件はさらに悪化した[121]。さらに四カ年計画の産業保護政策により、国内製造企業がリスクのない国内取引を選択し、輸出を志向しないという事態も発生した[122]。さらに四カ年計画の責任者ゲーリングは自給自足体制を重視したため、外貨獲得に熱心ではなかった[123]。このためそれ以降もドイツの外貨準備は改善されず、平均7600万マルクの低水準であった[15]。このためイギリスの歴史家ティモシー・メイソンen:Timothy Mason)などは、外貨不足がアンシュルスやズデーテン併合ポーランド侵攻などの冒険的政策の決定的要因になったという見方をしている[注釈 8]

輸入に占める地域別比重(単位:%)[注釈 9]
南東欧 エジプト
トルコ
中近東
中南米 北欧 西欧 イギリス アメリカ その他
1929年 3.8 1.4 11.4 7.3 23.9 15.7 6.4 13.3 40.7 76.1
1932年 5.0 2.5 9.6 6.4 23.5 15.1 5.5 12.7 43.2 76.5
1935年 7.7 3.8 13.1 9.9 34.5 14.1 6.2 5.8 39.4 65.5
1938年 9.8 3.8 14.9 11.4 39.3 11.9 5.2 7.4 35.8 60.1
輸出に占める地域別比重(単位:%)[注釈 9]
南東欧 エジプト
トルコ
中近東
中南米 北欧 西欧 イギリス アメリカ その他
1929年 4.3 1.4 7.3 10.2 23.2 26.2 9.7 7.4 33.5 76.8
1932年 3.5 1.3 4.1 9.4 18.3 31.9 7.8 4.9 37.1 81.7
1935年 5.9 3.4 9.1 11.4 29.8 26.1 8.8 4.0 31.3 70.2
1938年 10.3 5.4 11.7 12.9 40.3 20.8 6.7 2.8 29.4 59.7

税制[編集]

財務相クロージクはナチス・ドイツの租税政策として「税の社会的公平」「税による人口政策の保護」「租税立法の範囲内における人格的価値」「経済的・社会的関係の考慮」をあげていた[124]。この思想に基づいて1934年10月16日に制定された「ライヒ所得税法」によって既婚者や子女を持つ家庭は優遇される一方、8000マルク以上の高額所得者や独身者などには負担が増える事になった[125]。1938年の改正により、既婚者の所得税緩和が行われる一方で、教会税の控除制限やユダヤ人家庭に対する子女控除の除外が行われた。1939年の改正では結婚後5年を経ても子女を持たない既婚者と独身者の差別化が果たされた[126]

ナチ党の思想による民族共同体内では民族の平準化が行われるが[127]、共同体に属さないユダヤ人やスラブ人に対しては徹底的な差別を行うものであった[128]。このため戦時に突入するとポーランド人ロマに対しては子女控除は認められなくなった[129]

対外債務[編集]

当時のドイツは債務国であり、公的・民間をあわせた対外債務は1933年2月28日の段階で187億2千万ライヒスマルクに達していた[130]。対象国はアメリカが40%を占め、次いでオランダとスイスの順であった[131]。この膨大な債務は1931年のスターリング・ポンド切り下げと、1933年春のアメリカ合衆国ドル切り下げによって1933年中に42億ライヒスマルク減少し、1940年9月末の時点では1933年から比べて96億ライヒスマルク減少している[132]

戦争準備[編集]

ナチ党はヴェルサイユ条約の破棄を主張しており、ヒトラーも1933年2月3日にハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長宅で開かれた会談(de:Liebmann-Aufzeichnung)において、国防軍首脳に再軍備を約束していた。また2月8日の閣議では「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、何時でも何処でも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」と言明するなど、ナチ時代の経済政策はすべて軍備増強を念頭に置かれたものであった[133]

1933年の予算では直接的な軍事費は激増こそはしなかったものの、ドイツ航空省を設置して空軍の創設準備を開始していた。また雇用計画である緊急計画の費用のうち1億9千万マルクを始めとして、雇用創出費用の一部を再軍備費として流用[134]することには、ヒトラー自身の強いリーダーシップがあった[135]。また自動車産業の育成や、民間施設への地下防空壕建設など、軍事費には含まれないものの準軍事的な政策も多く見られる[136]。8月1日には軍備計画が立てられ、1939年10月1日の時点で平時軍83万人、戦時軍462万人(野戦軍102個師団をふくむ)の編成を目標としていた[137]

一方で雇用問題が一段落した1935年5月21日にはシャハトが戦争経済全権に就任しているなど、将来の戦争計画も明らかにしている。軍事費は1933年度の7億2千万マルクから1934年度には33億マルクと大幅に増額し[138]、以降も増大を続けた。第二次四カ年計画が始まった1936年には前年比から倍増し、一つの画期となった[139]

これらの事情から研究者での間では、雇用問題が解決されてから軍備増強が本格化されたという「二段階説」[注釈 10]と、政権獲得後から軍備が継続されていたという「一段階説」[注釈 11]がある。増大する軍事費で重要な位置を占めたのがメフォ手形であり、1933年から1937年までの軍事費総計324億ライヒスマルクの内、メフォ手形によって捻出されたのは3分の2に近い204億ライヒスマルクであった[140]。1941年に海軍財政局は1933年以降の状態を回顧して、困難がなかったわけではないが、「(資金は)常にほとんど無制限に提供された」としている[141]

再軍備宣言が行われ、第二次四カ年計画期に入ると軍事準備は公然化したものとなった。しかしドイツ経済の抱える資源不足や労働者不足は軍備の分野でも問題となっていた。四カ年計画の責任者でもあり、空軍司令官であるゲーリングは空軍に対する資源割り当てを増やす傾向があり、海軍や陸軍との間で熾烈な資源争奪戦が行われた。ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相はヒトラーの調停を求め、1937年11月3日に軍首脳とヒトラーによる秘密会議が開催された[142]。しかしこの席でヒトラーは食糧問題や原料問題を解決するための土地をヨーロッパに求める、すなわち領土拡張政策を強く主張した。具体的には「1938年から1945年」の間に好機が訪れれば、チェコスロバキアやオーストリアに対して軍事活動を起こす事を表明したが、陸軍や海軍は難色を示した。この後、ブロンベルク国防相や陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュはナチ党の策動によるスキャンダルで失脚させられ(ブロンベルク罷免事件)、国防軍も完全にナチ党勢力下に入った。その後も党機関や各軍の資源・労働力争奪戦はやまず、効率的な軍拡は行われなかった。1938年になると財政状態が危機を迎えたため、予定されていた予算が初めて実行されないという事態を迎え[143]、12月には国防軍最高司令部が軍事費の抑制を各軍に呼びかけている[143]。第二次世界大戦開始時の航空機生産はイギリスと同程度、戦車にいたってはイギリス以下であった[144]


ドイツの軍備支出(単位:百万マルク、会計年度)[注釈 12]
軍需省 陸軍 海軍 空軍 メフォ手形 国民所得中の
軍備支出割合
1932年 457 173 630 630 1.3%
1933年 478 192 76 746 746 1.5%
1934年 3 1,010 297 642 1,952 2,145 4,097 7.8%
1935年 5 1,392 339 1,036 2,772 2,715 5,487 9.3%
1936年 128 3,020 448 2,225 5,821 4,452 10,273 15.7%
1937年 346 3,990 679 3,258 8,273 2,688 10,961 15.0%
1938年 452 9,137 1,632 6,926 17,247 17,247 21.0%
1939年 258 5,611 2,095 3,942 11,906 11,906
1934-1938合計 1,192 24,160 5,491 17,128 47,971 12,000 59,971
各国の国家財政に占める軍事費割合(%)[注釈 13]
ドイツ イギリス フランス イタリア 日本
1929-1930年 6.5 14.6 22.0 25.2 36.1
1933-1934年 12.6 13.9 22.7 21.4 38.7
1936-1937年 67.0 24.1 29.9 53.6 48.7

統計[編集]

1928年から1938年の工業生産指数(1929年=100)[注釈 14]
総生産 投資財 消費財 機械 乗用車 紡績 銑鉄 粗鋼 石炭
1928年 98.6 97.1 103.1 99.1 109.8 108.2 89.0 89.0 92.1
1929年 100 100 100 100 100 100 100 100 100
1930年 85.9 81.6 94.0 82.4 72.4 97.4 73.0 71.0 87.0
1931年 67.6 52.6 89.2 59.0 51.3 94.9 45.7 51.0 72.5
1932年 53.3 34.4 76.3 39.2 31.4 86.6 29.6 35.5 64.0
1933年 60.7 43.6 82.6 46.8 65.5 98.1 39.7 46.6 67.0
1934年 79.8 72.6 92.4 62.5 104.9 106.8 65.9 73.0 76.3
1935年 94.0 99.4 88.2 82.1 149.4 98.5 91.2 101.1 87.5
1936年 106.3 113.2 98.7 98.7 177.6 106.5 115.2 118.1 96.6
1937年 117.2 124.4 104.6 119.6 214.4 108.1 120.2 122.1 112.9
1938年 127.6 142.3 114.9 138.3 187.3 115.8 143.5 148.0 116.5
国家財政収支と公債残高(単位:億マルク)[注釈 15]表中()内は増減。
租税収入 財政支出 赤字 公債残高 短期債残高 雇用創出債残高 メフォ手形残高 中長期債残高
1932年 64.2 73.2 9.0 123.9 11.0 - - 112.9
1933年 59.9 84.3 24.4 139.5(+15.7) 29.6(+18.6) 14.4(+14.4) - 110.0(-2.9)
1934年 80.6 106.6 26.0 159.8(+20.3) 56.2(+26.7) 14.9(+10.5) 21.5(+21.5) 103.6(-6.4)
1935年 90.7 139.0 42.0 201.8(+42.0) 84.7(+28.5) 11.3(-3.6) 48.6(+27.2) 117.1(+13.5)
1936年 115.5 173.5 58.0 258.9(+57.1) 120.4(+35.7) 7.6(-3.7) 93.1(+44.5) 138.5(+21.4)
1937年 140.3 194.3 54.0 312.8(+53.9) 143.0(+22.7) 3.8(-3.8) 120.0(+26.9) 169.8(+31.3)
1938年 177.3 283.3 105.0 417.8(+105.0) 180.2(+37.2) 0(-3.8) 119.0(-1.0) 237.7(+67.9)
国民総支出(単位:億マルク)[注釈 16]表中()内は総支出に対する割合。
国民総支出 個人消費 政府部門 軍事支出 道路鉄道投資 その他公共投資 民間設備投資 工業投資 住宅建築
1928年 894 639(71.5) 103(11.5) 8.3 22.3 41.8 71.6(8.0) 26.2 15.0
1932年 568 471(82.9) 56(9.9) 6.2 8.1 11.7 22.0(3.9) 4.4 6.1
1933年 587 475(80.9) 63(10.7) 7.2 12.4 11.9 25.7(4.4) 5.6 6.9
1934年 661 500(75.6) 92(13.9) 33.0 16.9 17.7 36.7(5.6) 10.6 10.8
1935年 733 521(71.1) 125(17.1) 51.5 18.8 20.1 47.4(6.5) 16.4 13.4
1936年 814 523(64.3) 169(20.8) 90.0 21.4 20.8 61.9(7.6) 21.6 20.3
1937年 915 571(62.4) 204(22.3) 108.5 24.0 22.2 69.1(7.6) 28.4 19.2
1938年 1,020 606(59.4) 262(25.7) 155.0 33.8 21.5 80.8(7.9) 36.9 19.0


戦時経済[編集]

1944年発行の寄附金付切手。54ペニヒの額面に対し、96ペニヒが寄付金となる。

1939年8月30日、戦時総動員体制の最高中枢機関として国防閣僚会議(de:Ministerrat für die Reichsverteidigung)が設置された。しかし基本的な経済政策は第二次四ヵ年計画期の継続であり、経済計画の統一性がより失われていった。しかしそれは一面では変化する状況に応じやすいという事でもあり、戦況や占領地の変化に適合した政策が取れるということでもあった[145]。1940年3月には軍需省が設置され、トートが軍需大臣となった。戦争開始後には軍事費と軍需生産が増加したが、フランスポーランドを支配下においてなお、1940年から1941年にかけては軍需物資増産は停滞した[146]。食糧調達は海外輸入が途絶したが、非制圧諸国からの移入により状況は悪化しなかった[147]。軍以外の食糧消費額は1942年までに20%減少したが、これは肉類が減少してジャガイモや豆が増加するといった質の悪化によるもので、カロリーベースではほとんど変化はなかった[148]独ソ戦開始後の1941年6月23日にゲーリングは特別軍備計画いわゆる「ゲーリング計画」を発した。空軍力を2年から2年半の間に4倍拡張するほか、軽金属・航空燃料・火薬・爆薬の大増産を行う大規模な計画であったが、空軍偏重に対する陸軍や軍需企業の強い抵抗を招いた[149]。一方で損耗も増加し、軍需生産の先行きが悲観的であると感じた軍需相トートは、早期終戦をヒトラーに進言していた[150]

戦費調達は債権増発でまかなわれることになり、債務は1944年11月までの間に3091億ライヒスマルク増加した[151]。ライヒスバンクの対政府信用供与も倍増以上となり、1941年の時点で200億ライヒスマルクを突破した[152]

独ソ戦が停滞の様相を見せ始めた1942年1月にヒトラーは総統布告を出し、消費生活を犠牲にしてでも軍需、とくにUボートや東部戦線用の戦車に代表される兵器の生産拡大を命令した[153]。2月にトートが航空機事故で死亡すると、後任には建築家アルベルト・シュペーアが任じられた。シュペーアはトートの敷いた軍需省機構改革路線を引き継ぎ、4月には軍需省傘下の中央計画庁が設置された。軍需省への権限集中は進み、3月には航空機を除く空軍兵器と軍艦の生産権限、5月には国防省の経済軍需局を吸収し、国防省の発言力は低下した[154]。シュペーアは兵器生産に関わる戦車をはじめとする13の分野の中央委員会と、ボールベアリングなど部品ごとに産業リングを組織した。これにより、兵器発注に関する固定価格制度、一工場一製品大量生産の原則が普及し、兵器類の大増産につながった[154]。1942年から1944年の間に工業純生産額が10%伸びたが、軍需物資生産額は3倍に増加し、全体の40%を占めることになった[155]。軍需生産のピークは1944年7月であり、自動車と戦艦が減少したほかはいずれも増大したが、特に戦車の増産が大きかった[155]

一方で消費財生産は1940年を100とすると44年には食糧が88、皮革・繊維・被服の分野は79にまで減少した[156]。また穀倉地であったウクライナやポーランドを奪還されて以降は、食糧調達を国内生産に頼らざるを得なくなった[147]。ヒトラーは総力戦によって国民生活に負担をかけることを躊躇しており、戦局が一時的に好転すると1942年1月の布告を後悔する言動を見せたり、1943年4月に民需品購入の「無用な制限」を望まない旨を言明していたが、1944年以降は食料品の不足が明らかになった[148]。また1943年からは連合軍の戦略爆撃が盛んになり、1944年9~10月の爆撃ではダイムラー・ベンツの工場が操業停止に追い込まれるなど多大な損害を与えた[157]。政府は空爆の被害を抑えるため、生産拠点の移転・疎開・分散化を図ったが、すでに戦後を考えていた企業経営者による消極的抵抗も見られた[158]

しかし1944年6月にはソ連軍のバグラチオン作戦の開始、米英軍によるノルマンディー上陸作戦による西部戦線の再構築とフランス失陥によって、ドイツは戦時経済の基盤としてきた占領地の多くを失った。そして8月にはドイツの主要な石油供給源であったルーマニアのプロイェシュティ油田を喪失し、燃料不足はさらに深刻になった[159]。1945年には戦局がさらに悪化し、ドイツ国民の平均摂取カロリーは2100キロカロリー、外国人は2000キロカロリー、強制労働者にいたっては生存も維持できない量であった[160]。3月20日、ヒトラーは通称「ネロ指令」と呼ばれる命令を出し、退却地の生産施設をすべて破壊するよう命じた。この命令はシュペーアの判断によって実行されなかったが、すでにドイツ経済は末期状態となっており、5月に終戦を迎えた。

労働者[編集]

ポーランド侵攻が開始された9月1日には「労働移動制限令」が発令され、労働力の戦時配置が開始された[161]。1939年9月1日から1940年9月1日までの間に314万人の男子が国防軍に徴兵され[162]、国防軍が動員した労働力総計は1940年に570万人、1942年5月には940万人に達した[163]。このため国防軍を除く労働人口は1942年までに3910万人から3130万人へと減少していた[163]

1939年3月に施行されていた「ヒトラーユーゲント法第二施行令」によって勤労奉仕義務を持つ10歳から18歳の男女青少年を徴用した[164]。しかし一方で、女子労働者は出生前の兵士と結婚する事例が増えた事、さらに既婚者は夫の労働時間が増えて収入は増えたが、商品を買う機会が減少したこともあり、女子労働者は30万人減少している[165]。また、軍需工場によっては労働力を過剰に確保し、一種の飼い殺し状態にすることもあった[166]

外国人労働者[編集]

政府はこれを補うため、戦争捕虜や囚人の労働力を利用した。対ポーランド戦勝利によって35万人の戦争捕虜と、その他外国人労働者29万5千人が戦争遂行上の重要産業に追加供給された[167]第二次世界大戦時のドイツによる強制労働en))。しかし独ソ戦開始準備のため労働力はさらに逼迫したため、1941年2月にはゲーリングの布告で軍需省に労働力配置を監督する「軍需大臣点検委員会」(通称・隘路委員会、トート委員会)が設置された。6月20日には委員会の権限はさらに強化され、軍需産業への労働力配置転換をすすめたが、1941年末までに38万4千人と、当初の目標を10万人下回った[168]。独ソ戦の開始はさらに労働力の逼迫を招き、ユダヤ人が軍需工場から追放されたことによってより悪化した[169]


1942年5月までに420万人の外国人が投入されたが、それを含めても非国防軍労働力は10%減少している[163]。これら労働者は人種によって格付けされ、西欧人(フランス、オランダ、ベルギー)・東欧人(枢軸国国民[注釈 17])はドイツ人とほぼ同じ待遇を受けたものの、チェコスロバキア人やポーランド人やソ連人(ロシア、ウクライナなど)は冷遇された[170]

労働者の中でもロシア人に対する待遇は悪く、1941年11月には彼らの「自給」が要求された。この際に食糧次官ヘルベルト・バッケはわらくずや木の葉を混ぜたパンのみを支給することを提案している。この提案自体は通らなかったものの、食糧事情は劣悪であり、1942年4月2日のフリードリヒ・クルップ社の報告では12%のロシア人捕虜が死亡、生存している捕虜も30%以上は労働不能状態である上に、移送されてきたロシア人労働者にはすでに飢餓浮腫が見られたという[171]。さらに過酷な条件の労働者としてはユダヤ人がいたが、彼らに関しては労働を通じた絶滅が行われた(ホロコースト)。

1942年5月にはシュペーアの主導で[172]フリッツ・ザウケルが労働力配置総監に任じられ、労働力調整の全責任者となった。ザウケルはソ連領を含む東部占領地域en)から150万人のソ連人男女をドイツに連行するなど、徴用による労働力確保をさらに推し進めた[173]。このため強制労働者数はさらに増加し、1944年5月には750万人と、国防軍を除くドイツ総労働力数の五分の一を占めるまでになった[174]。また、強制労働者の待遇改善も行われたが、党や政府関係者による横流しが頻発したため、根本的な解決にはならなかった[175]。一方で1942年には女子労働力の徴用が開始されたが、前線兵士への悪影響が考慮され[166]、1944年の時点でもほとんど伸びなかった[156]

1943年12月には西欧占領地労働者のドイツ国内への移送を優先させるザウケルと、現地で労働させるべきとするシュペーアの関係が悪化した[176]。1944年になるとイタリア・フランスでは労働力徴用が「完全な失敗」と認めざるを得ない状況になり[177]、さらに占領地失陥によって国外労働力確保はさらに困難になった。この経緯によってザウケルの権力は失墜し、シュペーアの軍需省によって権限が吸収されていった[178]


各国軍需生産の推移(1944年=100)[注釈 18]
1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
ドイツ 20 35 35 51 80 100
日本 10 16 32 49 72 100
アメリカ 2 5 11 47 91 100
イギリス 10 34 59 83 100 100
ソ連 20 30 53 71 87 100
ドイツ工業純生産に占める各産業分野の比率(%)[注釈 19]
産業分野 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
原料 21 21 22 25 25 24 21
兵器 7 9 16 16 22 31 40
建物 25 23 15 13 9 6 6
その他の投資財 16 18 18 18 19 16 11
消費財 31 29 29 28 25 23 22

略奪[編集]

占領地においては外国為替事務所 (ナチス・ドイツ)ドイツ語版の傘下にあった通貨保護部隊ドイツ語版よって、ユダヤ人等が所有する外貨・貴金属・ダイヤモンド・銀行預金等の押収を行った。

参考文献[編集]

総論[編集]

価格・税制[編集]

金融[編集]

貿易・外資[編集]

雇用・労働力[編集]

戦時経済[編集]

イデオロギー[編集]

その他[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

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  79. ^ 1938年度の軍備費支出は、1937年度の1.58倍、ライヒ政府支出の50%に達していた(大島通義 1986, pp. 87)
  80. ^ 大島通義 1986, pp. 83.
  81. ^ 大島通義 1988, pp. 24-25.
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  177. ^ 中村(2007:95)
  178. ^ 中村(2007:97)

注釈[編集]

  1. ^ 創設当時は兵器・弾薬省、1943年以降は軍需・軍事生産省
  2. ^ ただし、この時点においても政財界からの政治献金の圧倒的な量は反ナチ勢力に流れており、この時点でのナチ党財政の大半は党費収入によるものであったとヘンリー・アシュベイ・ターナーen)は指摘している。ジョン・トーランド著、永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫)2巻 ISBN 978-4087601817、95p
  3. ^ 1933年から1938年比。ただし、この間有数の石炭産出地ザール地方とオーストリアが領土に加わっている
  4. ^ 当初は「経済のアーリア化」という語が主に使われていたが、1939年3月以降には脱ユダヤ化に統一された。山本(2002:53)
  5. ^ R.J.Overy, War and Economy in the Third Reich(Oxford/New York,1994)のP.39よりの引用。川瀬(2005:26)
  6. ^ Bry,G.,Wages in Germany P239、327、塚本健『ナチス経済』273pよりの引用。村上(2006:69)
  7. ^ ラインハルトは当時の財務省次官フリッツ・ラインハルトenからとられたものである)。
  8. ^ この結果、ライヒスバンク保持分以外にオーストリアやチェコスロバキアの政府、さらに個人備蓄分を接収したため、1930年代末のドイツ外貨準備は危機的な状況ではなかったとするアルブレヒト・リッチェルde)やラルフ・バンケン(Ralf Banken)の説もある。三ツ石(2009:49)。
  9. ^ a b V.z.K. 14 Jahrg 1939/40 Heft 1,S.75,S.77 塚本健『ナチス経済』230pよりの引用。村上(2007:92)
  10. ^ 主な論者にゲルハルト・クロルde)、アブラハム・バルカイen)、ミハエル・ウォルフゾーンenユルゲン・シュテルツナー(Jürgen Stelzner)、リチャード・オーバリーen:Richard Overy)、バートン・クライン(Burton Klein)、後藤俊明、原信芳。またニュルンベルク裁判でシャハトもこの路線の発言をしている。
  11. ^ 主な論者にヴォルフガング・ザウアー(Wolfgang Sauer)、ヴォルフラム・フィッシャーde)、ロッテ・ツムベ(Lotte Zumpe)、大島通義
  12. ^ Kroll,G.,ibid S 571.(Europa Archiv, 20. 6. 1951, S 4129)塚本健『ナチス経済』250pよりの引用。村上(2007:79)
  13. ^ Schnejerson,A.I., Die Unterordung des bürgerlichen Staates unter die Monopole, S. 50.塚本健『ナチス経済』250pよりの引用。村上(2007:80)
  14. ^ L.o.N Monthly Bulletim Statistics 1938, No12 p.584-588、塚本健『ナチス経済』297pよりの引用。村上(2007:71)
  15. ^ Erbe,a.a.O.,S.34,48,51,54. P239、327、戸原四郎『恐慌論』323pよりの引用。村上(2006:76)。短期債残高には雇用創出債の金額も含む。
  16. ^ Erbe,a.a.O.,S.100,109、戸原四郎『恐慌論』322pよりの引用。村上(2006:79)。政府部門支出は軍事支出、民間設備投資は工業投資も含む
  17. ^ ただし、イタリア休戦後のイタリア人はソ連人とほぼ同じ扱いを受けた
  18. ^ Das Militärgeschchilice Forshungsamt (Hrsg.),Das Deutshe Rich und der Zweite Weltkring, Bd.5, Organisation und Mobilisierung des deutschen Machatbereichs, Erster Halbband Kriegsverwaltung, Wirtschaft und personelle Ressouren 1939-1941 von B.R.Kroener, R.F.Müller, H.Umbreit,Stuttgart 1988, S.523.よりの引用。中村(1995:169)
  19. ^ 毎年ごとにその時点でドイツ領土とされていた地域内で達成されたものを基礎とする。Das Militärgeschchilice Forshungsamt, a.a.O., S.582.よりの引用。中村(1995:170)

関連項目[編集]