エアハルト・ミルヒ

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エアハルト・ミルヒ
Erhard Milch
1892年3月30日 - 1972年1月15日
Bundesarchiv Bild 183-1997-0923-500, Albert Speer und Erhard Milch.jpg
シュペーア(手前)とミルヒ(1944年)
生誕地 ヴィルヘルムスハーフェン
死没地 ヴッパータール
軍歴 1910年1945年
最終階級 空軍元帥

エアハルト・ミルヒ: Erhard Milch1892年3月30日 - 1972年1月15日)は、ドイツ空軍軍人。最終階級は空軍元帥騎士十字章受章。

父がユダヤ人であると言われ、ゲーリングにアーリア人認定されたという。航空省次官を務め、ドイツ空軍を復活させた一人。ニュルンベルク裁判で終身禁固刑。

[編集] 経歴

1934年のエアハルト・ミルヒ

ヴィルヘルムスハーフェン生まれ。1910年にアビトゥーアに合格後、東プロイセン歩兵砲第1連隊に配属され、1911年に少尉に任官。早くから飛行機に興味を持っていたが、第一次世界大戦勃発時は歩兵砲第6連隊第2予備大隊の副官だった。1915年7月から航空偵察兵としての教育を受けて航空部隊に配属され、第一級鉄十字章を受章。1916年晩秋に中尉に昇進し、クールラントの航空学校付副官となる[1]。第一次世界大戦末期に大尉に昇進し、第6戦闘航空団司令官となる。

1934年のエアハルト・ミルヒ

終戦後、不正規軍である「航空志願兵第412部隊」の隊長となり、ドイツ東部でポーランドとの国境紛争に従軍。1920年まで「ケーニヒスベルク航空警察隊」の隊長を務める。ヴェルサイユ条約で航空警察が禁止されると、警察を辞めてダンツィヒで航空郵便業を開業する。1920年代半ばからは設立間もないルフトハンザドイツ航空に勤務。1933年にナチスが政権を獲得すると、ヘルマン・ゲーリングに請われて航空省次官に就任し、ドイツ空軍建設に従事した。

ニュルンベルク・ナチ党党大会にて。左からミルヒ、カイテルブラウヒッチュレーダーヴァイクらと(1938年)

第二次世界大戦中の1940年7月、元帥に昇進。1941年からは航空機総監として空軍の装備開発・生産を統括する。エルンスト・ウーデットが自殺したのちは、技術開発を怠ったその失敗を修正するよう命じられ、ミルヒは主に空軍の分野で、アルベルト・シュペーアと共にドイツの軍需生産で中心的役割を果たした。1943年1月、スターリングラードでソ連軍に包囲されていたドイツ第6軍に空から補給するようヒトラーから直接総統命令を受ける。ミルヒは前線に赴いて対策を練ったが、搭乗員も機体も不足していた上、スターリングラードを航続距離内に収める適当な飛行場もなかったため命令を実行できなかった。

その頃がミルヒの出世の最高点であり、1943年に入ると連合軍の空襲が激化してドイツ本国上空の制空権も危うくなり、ミルヒはゲーリングの信頼を失った。1944年に入って連合軍のドイツ都市への大空襲が行われると、軍用機生産のほとんどを占めていた戦闘機部門が軍需省に所轄替えされてしまい、ミルヒの失脚は決定的となった。同年8月、軍用機生産は軍需省の管轄になり、ミルヒは名目上シュペーアの次官とされたが、実権を完全に失った。

戦後ニュルンベルク継続裁判で起訴されたが、ダッハウ強制収容所での人体実験を知っていたことは当時は明確にされなかったので、この点では無罪とされた。しかし兵器生産のため外国人に強制労働させたという罪状で、1947年4月に終身禁固刑の判決を受けた。1951年に獄中での精神不安により恩赦を受けて懲役15年に減刑され、1954年に出獄した。その後は1972年にヴッパータールで死去するまで、経営コンサルタントの仕事をしていたという。

[編集] 出自に関する論争

ニュルンベルクの獄中のエアハルト・ミルヒ(左)。右はニュルンベルク裁判で弁護を担当した兄・ヴェルナー

1933年にミルヒがゲーリングにより航空省次官に任命されたとき、ミルヒの母はキリスト教に改宗したユダヤ人と結婚して彼を産んだという噂が広まった。ミルヒはこれを否定し、ゲーリングもこの主張を受け入れて関係する記録を改竄したという。1946年のニュルンベルク裁判でミルヒが証人として出廷した際に作成された身上書でも、ミルヒは自分が母の婚外子であると主張している。

実際にミルヒがニュルンベルク法に定めるところの「ユダヤ人との混血」であるか否かは、現在も歴史研究の対象となっている。元帥という最高位に上ったミルヒはじめ、ドイツ軍に多くのユダヤ人がいたと主張しているのはアメリカの歴史家ブライアン・マーク・リッグであるが[2]、彼は1990年代に行ったインタビューやドイツ連邦アーカイブにある記録を基にこの説を唱えた。しかしリッグもミルヒの出生記録を発見できたわけではない。おそらくそれはもはや存在していない可能性が極めて高く、仮にミルヒが実際にユダヤ人だったとすれば、その記録を抹殺あるいは改竄したはずである。

「ミルヒはユダヤ人との混血である」という噂は当時かなり広まっており、たとえば自身がユダヤ人である作家ヴィクトル・クレンペラーは、1936年10月18日の日記に次のように記している。

「それとマルタが、空軍のミルヒ将軍はアーリア人の母とユダヤ人の父を持つという報せを持ってきた。彼自身は母はアーリア人との婚外交渉で自分をもうけたと主張しているそうだ

[編集] 脚注

  1. ^ 当時の部下にのちの作家クルト・トゥホルスキーがいる。
  2. ^ Bryan Mark Rigg, Hitler's Jewish Soldiers: The Untold Story of Nazi Racial Laws and Men of Jewish Descent in the German Military, University Press of Kansas (2002), ISBN 0700611789.
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