ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ

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ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
Walther Heinrich Alfred Hermann
von Brauchitsch
1881年10月4日1948年10月18日
Bundesarchiv Bild 183-2004-0105-500, Walther v. Brauchitsch.jpg
生誕 ベルリン
死没 ハンブルク
軍歴 1918年1945年
最終階級 陸軍元帥
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ヴァルター・ハインリヒ・アルフレート・ヘルマン・フォン・ブラウヒッチュ: Walther Heinrich Alfred Hermann von Brauchitsch, 1881年10月4日 - 1948年10月18日)は、ドイツ軍人。最終階級は陸軍元帥ドイツ国防軍の第2代陸軍総司令官を務めたが、モスクワの戦いの最中にヒトラーにより更迭された。

経歴[編集]

初期の軍歴[編集]

シレジア貴族プロイセン王国騎兵大将ベルンハルト・フォン・ブラウヒッチュとシャルロッテ・フォン・ゴルドンの間に生まれた。

士官学校を卒業後、1900年ベルリン・シャルロッテンブルクのエリザベート妃近衛擲弾兵第3連隊に一年志願の少尉として入営。翌年近衛野砲兵第3連隊に転属。1903年に砲兵学校で学ぶ。1905年、シュパンダウの銃器工場を監督。1908年から翌年まで、第3近衛野砲兵第3連隊第2大隊で副官。中尉に昇進。1909年、陸軍大学で学ぶことなく暫定で参謀本部付となる。1909年から1912年まで、近衛野砲兵第3連隊で連隊副官。1913年、正式に参謀本部に転属し大尉に昇進。第一次世界大戦勃発後、第16軍団参謀に転じる。1915年、第34歩兵師団参謀。1917年、皇太子付特務参謀。しかしすぐに総司令部第7課に転属。同年第11歩兵師団参謀。1918年2月、後備第1近衛師団参謀。同年8月、後備近衛軍団参謀となり少佐に昇進。

終戦後はヴァイマル共和国の国防軍に採用され、第2軍管区教育部付参謀となる。のち第6砲兵連隊で部長。1925年、中佐に昇進。1927年、ミュンスターの第6軍管区(=第6歩兵師団)参謀長に補される。翌年大佐に昇進。1929年、国防省兵務局教育部長に就任。1931年、少将に昇進。翌年砲兵総監に任命される。1933年のナチス政権樹立ののち、第1軍管区・第1歩兵師団司令官に補される。翌年中将に昇進し、ドイツ再軍備宣言後の1935年には第1軍団司令官に就任。1936年、砲兵大将に昇進し、翌年ライプツィヒに新設された第4集団司令官に任命される。

陸軍総司令官就任・解任[編集]

1938年ブロンベルク罷免事件が起き、また陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが罷免されると、後任にブラウヒッチュが第2代陸軍総司令官に任命され、上級大将に昇進した。1938年から1941年まで務め、ヒトラーの戦争政策に追従する。第二次世界大戦初期のポーランドデンマークノルウェーオランダベルギーフランスバルカン半島諸国との戦闘で勝利を収めた。フランス戦勝利の後、陸軍元帥に列せられる。1940年12月には、同盟国である日本より航空総監航空本部長山下奉文陸軍中将を団長とする大日本帝国陸軍訪独団(ドイツ派遣航空視察団)とベルリンにて会見、「ブラフウィツチ元帥閣下」の鞘書の日本刀を贈られている。

1941年バルバロッサ作戦独ソ戦が始まると、戦略をめぐりヒトラーとブラウヒッチュは見解の相違が大きくなった。しかしブラウヒッチュはヒトラーの強気の作戦に異論を差し挟むことができず、何度も解任を申し出るようになった。12月にモスクワ攻略に失敗して退却を許さないヒトラーと対立すると、ついに解任された。後任の陸軍総司令官に自ら就任したヒトラーは彼を「役立たずの臆病者」と語った。

ブラウヒッチュはその後軍務に就くことはなく、ボヘミアの陸軍演習場にある狩場で隠棲した。1942年9月26日に旭日大綬章を受章。終戦後イギリス軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判では主要戦争犯罪人の裁判に証人として出廷した。ついで自らも主要戦犯として裁判が行われることになったが、開廷を待たずにハンブルクで病死した。

家族[編集]

ブラウヒッチュ家の家紋

29歳の時に荘園主の娘エリーザベト・フォン・カルシュテットと最初の結婚をして、一男マンフレート・フォン・ブラウヒッチュと一女シャルロッテ・リュッファーが生まれた。夫妻は1938年に離婚し、同年行政裁判所長の娘と再婚した。甥マンフレートはカーレーサーとして活躍(1937年のモナコGP優勝)した。

外部リンク[編集]