ルートヴィヒ・ベック

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ベック(1936年)

ルートヴィヒ・アウグスト・テオドール・ベックLudwig August Theodor Beck, 1880年6月29日1944年7月21日)は、ドイツ軍人。陸軍参謀本部総長を務めた。最終階級は上級大将第二次大戦中の1944年7月20日に中心人物としてヒトラー暗殺未遂事件を起こすが、失敗して自殺した。

経歴[編集]

参謀総長[編集]

ライン河畔のヘッセン州ビーブリッヒで、由緒ある軍人の家に生まれた。アビトゥーア合格後の1898年にドイツ帝国陸軍に入営。第一次世界大戦には参謀将校として従軍した。戦後、ヴァイマル共和国陸軍に残り、1933年にはヴェルサイユ条約が禁止する参謀本部機能の偽装である兵務局々長に就任。1935年に総統アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約の軍事条項破棄を宣言した後、晴れて伝統ある参謀本部総長を名乗ることになる。以後参謀総長として新生ドイツ陸軍の建設に邁進する。

軍事テクノクラートとして、当時のドイツの軍事力ではイギリスフランスなどを相手に戦った場合に勝算の無いことを見越し、ヒトラーの威圧的な外交政策に懐疑的であった。ドイツを大戦前の強国に戻すために、ヒトラーが主張するチェコスロバキアに対する攻撃自体には反対していなかったが、少なくとも1940年以前は無理とみていた。1938年、ヒトラーが計画通りに、チェコ国内に少数民族として生活するドイツ系住民の民族自決に関わるズデーテン問題が先鋭化したとき、ベックら一部の陸軍将官は、ヒトラーがチェコ侵攻を命じた場合、戦争を回避するためにヒトラーを逮捕するクーデター計画を準備していた。しかし英仏両国が外交的譲歩をしたためチェコ侵攻命令は出されず、この計画は実行されなかった。彼はブロンベルク国防相らの更迭に不満を持ち、既に1938年8月に参謀総長職の辞表を提出、第1軍司令官を拝命した直後の同年10月に退役し、以後軍務に戻る事はなかった。

ヒトラー暗殺未遂事件の実行者の最期の地にある記念碑(ベルリン・ベンドラーブロック)

抵抗運動と死[編集]

間もなく第二次世界大戦が勃発。ベックの予測と異なりドイツ軍は最初は快進撃を続けたものの、結局は劣勢になり敗戦は避けられない見通しになった。既にベックはカール・ゲルデラーと共に反ヒトラー抵抗運動の中心人物となっていた。ただし今日では、ベックの批判の対象はヒトラーの軍事・外交指導の誤りであって、独裁体制そのものではなかったとみなされている。数度にわたりヒトラー暗殺計画と新政府樹立が立案されていたが、その中では成功の暁にはベックが「摂政」として国家元首に就任し、首相就任が予定されたゲルデラーと共に、ドイツを破滅から救うために連合国と停戦交渉をすることになっていた。

1944年7月20日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により爆弾による暗殺・クーデター作戦が実行されたが、失敗に終わった。ベックはベルリンで逮捕され、フリードリヒ・フロム将軍の黙認を得て自殺する機会を与えられたが、ピストル自殺に失敗し重傷を負った。フロムの命を受けた部下によりとどめの一発を受け、ベックは拷問や不当かつ不名誉な裁判といったナチスの非道な報復を避けることが出来た。

評価[編集]

参謀総長時代にはハインツ・グデーリアンの戦車部隊の集中運用に懐疑的で、ベックは古い型の将軍であったとも評される。一方では1936年初頭には戦車部隊における対戦車攻撃力の重視や戦車部隊の集中投入、攻撃的な運用が可能な完全自動車化師団の設立を支持する報告書も書いており、先進的な部分も見受けられる。彼の悪評にはグデーリアンと保守的な参謀本部将校の間で板挟みになってしまった結果という面もあると思われる。

彼の政治姿勢は決して民主主義的でも平和主義的でもなかったが、ヒトラーに抵抗した人物として今日のドイツでは高い評価を受けている。

文献[編集]

  • 清水多吉・石津朋之編『クラウゼヴィッツと「戦争論」』彩流社 2008年。

(ベックの戦略論についての言及を含む。ベックの軍事戦略思想についてクラウゼヴィッツとの共通性を論じている)

外部リンク[編集]

先代:
ヴィルヘルム・アダム
陸軍兵務局長
1933年 - 1935年
次代:
(参謀本部に改編)
先代:
(陸軍兵務局)
陸軍参謀総長
1935年 - 1938年
次代:
フランツ・ハルダー