リヒャルト・ヴァルター・ダレ
| リヒャルト・ヴァルター・ダレ Richard Walther Darré |
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| 任期: | 1933年6月29日 – 1942年5月23日 |
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| 出生: | 1895年7月14日 |
| 死去: | 1953年9月5日(満58歳没) |
| 政党: | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
| 配偶者: | アルベルティン・シュタート シャルロッテ・フィティンコフ |
リヒャルト・ヴァルター・ダレ(ドイツ語:Richard Walther Darré、1895年7月14日 - 1953年9月5日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党農政全国指導者。ヒトラー内閣では食糧大臣を務め、「血と土」イデオロギーを推進した。最終階級は親衛隊大将位の親衛隊名誉指導者。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
ダレはアルゼンチン・ブエノスアイレス近郊の街ベルグラノで生まれた。父はドイツ人、母はスウェーデン人とドイツ人のハーフである。父は貿易会社の重役だった。両親の結婚生活は幸福なものではなかったが家庭は裕福で、第一次世界大戦の何年か前に国際関係の悪化のためドイツへの帰国を余儀なくされるまでの間、息子たちを個人的に教育した。そのおかげで、ダレは英語・スペイン語・ドイツ語・フランス語の四か国語に堪能だった。
両親はダレが9歳のとき、ハイデルベルクの学校に通学させるためドイツへ行かせた。1911年に彼は交換生徒としてウィンブルドンのキングス・カレッジ・スクールに行き、翌年、残りの家族はドイツへ戻った。その後、リヒャルト(彼は家庭でそう呼ばれていた)はグンマースバッハの実科高等学校で2年間を過ごし、1914年前半にはゲッティンゲン南部の街ヴィッツエンハウゼンのドイツ・コロニアル・スクールへ移った。そこで彼の農業に対する関心は呼び起こされた。
ヴィッツエンハウゼンで一学期過ごした後、彼は軍に志願し、第一次世界大戦に出征した。戦争が終わった後、彼は農業で生活をするためアルゼンチンへ戻ろうと考えたが、長年のインフレーションで家庭の経済的事情が厳しく、これを断念した。代わりに彼は研究を続けるため、ヴィッツエンハウゼンに戻った。その後、彼はポメラニアで農場の助手として無報酬の仕事に従事した。そこで復員ドイツ兵の治療を観察したことは、後の著作に影響を与えた。
1922年に彼は研究を続けるためハレに移った。そこで彼は家畜の飼育を専攻し、農学の学位を取得した。1929年には博士研究を完了。この頃、彼は東プロイセンやフィンランドで働くことに若干の時間を費やした。
[編集] 政治的な覚醒
ドイツ青年としてダレはまず、土地への回帰に傾倒する民族主義的な青年のグループ「アルターマネン」に加入した。ダレが「北方人種の将来は土に結びつけられている」という観念を展開し始めたのはこうした背景によるものであり、それは「Blut und Boden(血と土)」として知られるようになった。「Blut」すなわち「血」は人種あるいは血統を表現し、「Boden」は土、領域、または土地と解釈することができる。この理論の本質は、占有され耕される土地と人間との間の長期にわたる相互関係である。1926年に発表されたダレの初めての政治的な論文は内なる植民地化に関するもので、失われた植民地を取り戻そうと試みるドイツに反対する内容であった。とはいえ、この時期における彼の著作の大部分は家畜の飼育の技術面に関するものである。
彼の最初の著書「Das Bauerntum als Lebensquell der nordischen Rasse(北方人種の生命の源としての農民)」は1928年に書かれた。彼は森の保護を大いに強調してより自然な土地管理の方法を主唱し、家畜を飼育するに際しては、もっと開放的な空間と空気が必要だと主張した。こうした主張を聞いて感銘を受けた人々の一人がハインリヒ・ヒムラーだった。ヒムラー自身も「アルターマネン」のメンバーである。
二つの主要な作品において、ダレはドイツ農民を「ドイツ国民の文化的人種的中核を形成し、北欧人の先祖を持つ均質的な人種集団」と定義した。北欧人の出生率は他の人種より低いので、北欧人は長い間、絶滅の脅威のもとにあった。
[編集] ナチス党員として
ダレは活動的なナチス党員となり、農民をナチスに加入させるため1930年夏に農業に関する政治組織を設立した。彼はこの組織に対して三つの主要な役割を果たした。すなわち、都市政府に対する武器として田園地方の農民の不安につけ込むこと、ナチスの忠実な後援者として農民を味方につけること、将来の東側の征服地でスラブ人にとって代わる移民として使える人々の選挙区を獲得すること、以上の三つである。すべてにおいて、彼は田園地方を国家社会主義に向けることにかなりの成功をおさめた。
ナチスが政権を掌握してすぐにダレは食糧大臣、人種移住局長官、全国農民指導者に就任し、1933年から1942年までつとめた。彼は小さな単位に農場が分割されるのを防ぐために世襲農地法の制定を進めたが、この法律は論争を引き起こした。彼はまた、北海から土地を開発することにも尽力した。
ダレは親衛隊人種及び移住本部(猛烈に人種差別的で反ユダヤ的な組織)の設立に際して主導的な役割を果たした。彼は「人種と領域」に対する計画を発展させ、「我が闘争」で詳述された「東方への衝動」や「生存圏」に代表されるナチスの膨張主義的政策にイデオロギー的な背景を与えた。選択的な交配にもとづいてドイツ人の人種的貴族を創造する目標を持っていたヒムラーにダレは強い影響を与えた。しかし後に、ダレは空論的に過ぎるとヒムラーは考えるようになり、ダレとの関係を絶った。また彼は、概してヒャルマル・シャハトとの関係がよくなかった。
ダレは1942年、健康を表向きの理由にして辞任したが、実際は強制収容所での配給を減らせというヒトラーからの命令に異議を唱えたからだった。
[編集] 戦後
ダレは1945年に逮捕され、1948年から開かれたニュルンベルク継続裁判の大臣裁判にかけられた。より重大な(特に大量虐殺に関係する)嫌疑の多くに関しては無罪となったが、懲役7年の刑に処せられた。しかし拘留期間はほとんど過ぎており、1950年に釈放された。1953年9月5日、アルコール依存症に誘発された肝臓がんのためミュンヘンの病院で死去した。
彼は生涯に二度、結婚をした。1922年にアルベルティン・シュタートと結婚したが1927年に離婚し、1931年にシャルロッテ・フィティンコフと再婚している。アルベルティンとの間に二人の娘をもうけた。
現在、ダレの著作は、都市生活の頽廃と自足の気高さを信じる右翼過激主義者に相当な影響を与えていることが判明している。
[編集] 著書
- Das Bauerntum als Lebensquell der nordischen Rasse(北方人種の生命の源としての農民)、1928年
(岡田宗司訳『民族と土 (上)』橘書店,1942年)
- Neuadel aus Blut und Boden(血と土の新貴族)、1930年
(黒田礼二訳『血と土』春陽堂書店,1941年)
[編集] 文献
- Blood and Soil: Richard Walther Darré and Hitler's "Green Party" by Anna Bramwell (Kensal Press, 1985, ISBN 0-946041-33-4)
- Biographical Dictionary of the Extreme Right Since 1890 edited by Philip Rees, (1991, ISBN 0-13-089301-3)
- The Plough and the Swastika: The NSDAP and Agriculture in Germany, 1928-45 by J.E. Farquharson (London, 1976, reprinted by Landpost Pr, 1992, ISBN 1-880881-03-9)
[編集] 外部リンク
- Review of Anna Bramwell's biography of Darré, Blood and Soil
- Quotation of speech
- Neuordnung unseres Denkens at archive.org
- Blut und Boden at archive.org
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