ハンス・ハインリヒ・ラマース

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ハンス・ハインリヒ・ラマース
Hans Heinrich Lammers
Bundesarchiv Bild 146-2008-0276, Hans Heinrich Lammers.jpg
生年月日 1879年5月27日
出生地 プロイセン王国ルブリニッツ
(現ポーランド領ルブリニェツ en
没年月日 1962年1月4日(満82歳没)
死没地 ノルトライン=ヴェストファーレン州デュッセルドルフ
所属政党 ドイツ国家人民党(DNVP)
国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)
称号 一級鉄十字章二級鉄十字章

ドイツの旗 ドイツ無任所大臣(ナチス・ドイツの旗 ドイツ国)
内閣 ヒトラー内閣
任期 1937年12月1日 - 1943年2月28日
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ハンス・ハインリヒ・ラマース(Hans Heinrich Lammers、1879年5月27日 - 1962年1月4日)は、ナチス・ドイツの政治家。アドルフ・ヒトラー内閣無任所大臣。首相官房長官を務めた。マルティン・ボルマンとともに総統の側近として権勢をふるった。

経歴[編集]

シレジアルブリニッツ(現在のポーランド領ルブリニェツ en)出身。父は獣医だった。ブレスラウハイデルベルクロースクールに通い、法務博士(Dr. jur.)の学位を取得した。1912年にはボイテン裁判官となった。第一次世界大戦の際には出征して一級鉄十字章二級鉄十字章を受章した。戦後は弁護士として活動し、ドイツ国家人民党(DNVP)に入党した。1922年にはヴィルヘルム・クーノ内閣で内務省次官となっている。

1932年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党。すぐさま党の幹部となり、ナチス党の政権掌握後には首相官房長官(Chef der Reichskanzlei)、国務長官(Staatssekretär)の職責が与えられた[1]。また1933年9月29日には親衛隊(SS)の名誉指導者ともなり、親衛隊上級大佐(SS-Oberführers)の階級が与えられた。親衛隊の階級は1935年4月20日に親衛隊少将(SS-Brigadeführer)、1938年1月30日に親衛隊中将(SS-Gruppenführer)、1940年4月20日に親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)と昇進している 。1937年からヒトラー内閣の無任所大臣にもなり、国防閣僚会議(de) のメンバーとなった。彼はこうした立場に基づき、全ドイツの政府機構から連絡と諮問を受けていた。またすべての政治文書を総統ヒトラーの前に届く前に検閲することができた。1943年1月からはヒトラー不在の閣議においてはラマースがヒトラーを代理することと定められた。

ラマースは党官房長マルティン・ボルマンとともに総統の面会相手をコントロールしたため、強大な権力を持った。スターリングラードの戦いの後の1943年2月にはボルマンとラマースは、党を代表するボルマンと政府を代表するラマースと軍を代表するヴィルヘルム・カイテル元帥による「三人会議」を創ることを目論んだ。しかしヨゼフ・ゲッベルスアルベルト・シュペーアヘルマン・ゲーリングハインリヒ・ヒムラーなど他のナチス幹部達に警戒されてこの計画は崩された。さらに戦局の悪化で党や軍や各省庁がばらばらになっていったことでラマースの影響力も低下していった。

大臣裁判でのラマース

大戦末期の1945年4月にゲーリングの「反逆」に関与したとされて逮捕された。ボルマンの陰謀であった可能性がある。いずれにしてもアドルフ・ヒトラーはラマースの銃殺に反対したため、命は助かった。しかし彼の妻と娘はこの拘束の最中に自殺している[2]。敗戦後の1946年4月にニュルンベルク裁判の証人として招集された。1949年4月には彼自身もニュルンベルク継続裁判の1つ「大臣裁判」にかけられた。20年の懲役刑判決を受けたが、後に10年に短縮された。さらに恩赦されて1952年には釈放された。1962年にデュッセルドルフで死去。

脚注[編集]

  1. ^ Hans Heinz Sadila-Mantau, German political profiles, Terramare Publications, Berlin, 1938
  2. ^ NNDB