アシュカン収容所

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アシュカン収容所の囚人たち(1945年8月)。最前列中央はヘルマン・ゲーリング元帥。その他の人物の氏名についてはルクセンブルク語版ウィキペディアの記事の添付画像を参照。

第32中央欧州捕虜収容所(Central Continental Prisoner of War Enclosure No. 32)は、第二次世界大戦時に連合国が設置した捕虜収容所である。アシュカン(Ashcan, 「くずかご」)のコードネームでも呼ばれた。ルクセンブルク大公国モンドルフ=レ=バン英語版にあったパレス・ホテル(Palace Hotel)内に設置されており、ニュルンベルク裁判までヘルマン・ゲーリングカール・デーニッツを始めとするナチス・ドイツの高官らが収容されていた。1945年5月から8月まで運営されていた。

また、イギリスフランクフルト・アム・マインクランスベルク城英語版内に高官収容所としてキャンプ・ダストビン(Camp Dustbin, 「ごみ箱」収容所)を設置していた。ダストビンの収容者には、アルベルト・シュペーアヴェルナー・フォン・ブラウンなど、技術者が多かった。

歴史[編集]

戦前のパレス・ホテル

アシュカン収容所は連合国軍司令部の命令により設置された[1]バートン・アンドラス米陸軍大佐が所長を務め、職員としては米陸軍第391高射砲大隊(391st Anti-Aircraft Battallion)所属将兵のほか[2]、捕虜となっていたドイツ人のうち連合国側情報機関によって選ばれた42名の特技者(床屋、歯科医、医師、ホテル・マネージャーなど)が配属されていた[3]

パレス・ホテルは4階建ての高級ホテルで、1945年初頭からアメリカ軍が接収し臨時兵舎として利用していた[1]。収容所への改修にあたり、高圧電流を流した15フィート高の有刺鉄線柵、機関銃およびクリーグ・ライト英語版(投光器)を備える監視塔などが周囲に設置された[4]。警備体制は非常に厳重で、憲兵隊員でさえ中に入ることは難しかった。憲兵らの間では皮肉交じりに「(中に入るには)神によって署名され、誰かが署名の真偽を確認した通行証が必要だ」という冗談が語られていた[2]。高級ホテル内に設置されてはいたものの、その環境は厳格で、収容者らのベッドやテーブルは全て陸軍式の安価なものに置き換えられていた[3]

1945年8月10日、収容者らは裁判出廷のためニュルンベルクへ送られ、その後まもなくしてアシュカン収容所は解体された。パレス・ホテルはその後も営業を続けていたが、1988年に解体された。

主な収容者[編集]

アシュカン収容所の収容者はいずれもドイツ国政府および国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の要人であり、ほとんどはニュルンベルク裁判の被告となった。

脚注[編集]

  1. ^ a b Dolibois, 86.
  2. ^ a b Dolibois, 85.
  3. ^ a b Dolibois, 87.
  4. ^ Dolibois, 84.

参考文献[編集]

座標: 北緯49度30分18秒 東経6度16分48秒 / 北緯49.5050度 東経6.2800度 / 49.5050; 6.2800