アルフレート・ヨードル
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| アルフレート・ヨードル | |
|---|---|
| 1890年5月10日 - 1946年10月16日 | |
| 生誕地 | バイエルン州ヴュルツブルク |
| 所属組織 | 帝政ドイツ陸軍 ワイマール共和国陸軍 ドイツ国防軍陸軍 |
| 軍歴 | 1903~1945 |
| 最終階級 | 陸軍上級大将 |
| 指揮 | 陸軍最高司令部部長 |
| 戦闘 | 第一次世界大戦 第二次世界大戦 |
| 賞罰 | 柏葉付騎士鉄十字章 |
| 除隊後 | 戦犯として死刑 |
アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl、1890年5月10日 - 1946年10月16日)は第二次世界大戦時のドイツ国防軍の軍人。陸軍上級大将。国防軍最高司令部作戦部長。ニュルンベルク裁判で死刑に処された。
[編集] 経歴
- 1890年 5月10日、ヴュルツブルクにて生誕。父親は第二バイエルン砲兵連隊中隊長、母は農民の娘で身分の釣り合いが取れなかったため、父母が結婚したのは父の退役後だった。兄弟一人に姉妹二人がいたが、姉妹は夭折。
- 1903年 バイエルン王国陸軍士官学校入学。成績は上下の揺れが激しかった。
- 1910年 首席で陸軍士官学校卒業。士官候補生として第4バイエルン砲兵連隊に配属。
- 1912年 少尉に任官。
- 1913年 9月、伯爵令嬢と結婚。夫婦仲は良かったが子供に恵まれなかった
- 1914年 8月、第一次世界大戦勃発。西部戦線に従軍。8月24日、腕に負傷し、第二級鉄十字章受章。
- 1915年 3月、怪我から回復し前線に復帰。
- 1916年 中尉に昇進し東部戦線に転属。
- 1917年 ハンガリー軍第72野砲兵連隊中隊長。
- 1918年 参謀将校として西部戦線に転属。5月3日、第一級鉄十字章受章。この年終戦。
- 1919年 6月、第22軽砲兵連隊中隊長。10月、第21砲兵連隊に転属。
- 1921年 7月、ミュンヘンで参謀教育を受け好成績を収める。第21砲兵連隊に復帰。
- 1923年 10月1日、ベルリンの参謀教育コースの課長に就任。アドルフ・ヒトラーを知る。大尉に昇進。
- 1924年 国防省勤務に転属。10月、第7師団参謀に転属。
- 1927年 10月1日、第7歩兵連隊第5中隊長。
- 1928‐32年 戦術・戦史教官
- 1932年 2月1日、少佐に昇進。6月1日、国防省兵務局作戦課員。
- 1935年 6月20日、国防軍司令部国防局長。8月1日、大佐に昇進。
- 1938年 3月、ブロンベルク罷免事件により設置された国防軍最高司令部の作戦部長に就任。10月1日、第44歩兵師団砲兵指揮官に転出。
- 1939年 4月1日、少将に昇進。ポーランド侵攻作戦のため8月23日に最高司令部作戦部長に復帰。第二次世界大戦勃発。9月3日、ポーランドでの前線視察で初めてヒトラーの個人的面識を得る。
- 1940年 北欧侵攻、西方電撃戦、北アフリカの戦いの作戦を立案。7月19日、二階級特進して大将に昇進。12月18日、ヒトラーの第21号指令を受けバルバロッサ作戦立案に着手。
- 1942年 ヒトラーの意に背いた軍司令官をヨードルが擁護したため、フリードリヒ・パウルスとの交代が計画されたが、スターリングラードの戦いでパウルスがソ連軍に降伏したため沙汰やみとなる。
- 1944年 1月30日、上級大将昇進。4月18日、夫人が死去。7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件で軽傷を負う。
- 1945年 3月7日、前夫人の友人で陸軍総司令部の秘書だった女性と再婚。5月7日、デーニッツ政府代表として降伏文書に署名。降伏文書発効は5月9日。第二次世界大戦終結。5月10日、デーニッツより柏葉付鉄十字章を授与される。5月13日、ヴィルヘルム・カイテルが連合軍に逮捕されたため、陸軍最高司令部部長を引き継ぐ。5月23日、デーニッツらと共に連合軍により逮捕される。
- 1945-46年のニュルンベルク裁判において戦争犯罪人として死刑の判決を受ける。あくまでも軍人として行動していたため、判決をめぐっては連合国内でも意見の相違があった。
- 1946年 10月16日、絞首刑に処せられる。最後の言葉は「さらば、おお汝我がドイツよ」だった。キームゼー湖の島にあるヨードル家の墓に葬られた。
[編集] 外部リンク
- ドイツ歴史博物館略歴紹介(ドイツ語)

