ハンス・フォン・ゼークト

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ゼークトとドレスデン歩兵学校の生徒たち(1925年、テューリンゲン州での演習にて)

ヨハネス・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゼークト(Johannes Friedrich Leopold von Seeckt、1866年4月22日 - 1936年12月27日)はドイツ軍人。通称はハンス・フォン・ゼークト(Hans von Seeckt)。参謀総長や陸軍総司令官を務め、1920年代前半のヴァイマル共和国軍最大の実力者として「国家の中の国家」である軍の権威を確立した[1]。最終階級は上級大将

略歴[編集]

ゼークト(左)とゲスラー前国防相(1930年)

1866年シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州プロイセン軍陸軍将校の息子として生まれる[2]。ゼークトは1885年に陸軍に入隊、ベルリンのアレクサンダー近衛擲弾兵第一連隊に配属される。陸軍大学校卒業後、1899年参謀本部作戦課に勤務する[2]第一次世界大戦勃発時には第3軍団参謀長であったが、戦時中には主に東部戦線に従軍した。1915年3月以降はアウグスト・フォン・マッケンゼン将軍の参謀長として随行した[2]ゴルリッツ=タルノフ攻勢英語版 を勝利に導いたほか[2]、第二次セルビア侵攻作戦の計画を立案し、名を上げた。1916年夏にはガリチアのオーストリア=ハンガリー帝国第7軍参謀長[2]を務め、1917年末にはオスマン帝国軍総参謀長に就任している[2]

軍の最高実力者[編集]

敗戦後の1919年パリ講和会議ではドイツ側の陸軍代表として参加した[2]。またパウル・フォン・ヒンデンブルクの退任後には参謀本部総長を務めたが[2]ヴェルサイユ条約によりドイツは軍備を10万人に制限され、参謀本部も禁止された。しかし参謀本部は兵務局と偽装され、ゼークトはその局長に就任した[2]1920年カップ一揆社民党政治家のノスケ国防大臣の鎮圧命令を「軍は軍を撃たない」と拒否し、軍の独自性を確保した[2]。またヴァルター・ラインハルトとの政治闘争に勝利し、3月には陸軍統帥部長官 (Chef der Heeresleitung der Reichswehr、陸軍総司令官) に就任する[2]。ゼークトは10万人の陸軍をエリート化して将来拡大する国民軍の中核とする構想を抱いており[3]、また革命期のロシア(ソビエト連邦)と提携して再武装を行おうとした[4]。これはラパッロ条約の締結となって実を結び、ヴェルサイユ条約が禁ずる戦車化学兵器航空機などの兵器をロシア奥地で開発研究することにつながった(これは「黒い国防軍」計画と呼ばれる)。

1923年ルール占領にともないドイツは混乱状態に陥った。11月5日、フリードリヒ・エーベルト大統領はヴァイマル憲法48条の非常大権を発動し、ゼークトに一種の軍事独裁権を付与した[1]。ゼークトはザクセン州テュービンゲンの左翼運動には即座に軍による弾圧を加えたものの、ミュンヘン一揆については国防軍の直接介入を避ける形で鎮圧した[1]

1926年、ヴュルテンベルクにおける歩兵連隊の演習にヴィルヘルム・フォン・プロイセン王子(元皇帝ヴィルヘルム2世の孫)を独断で招待したことを、ゲスラー国防相を始めとする政府から非難されて辞職、退役した。

退役後[編集]

その後は軍事評論家として活動を行ったが[1]1930年から1932年まではドイツ人民党(Deutsche Volkspartei)の党員として国会に議席を得た[1]。1931年のハルツブルク戦線にも参加した[1]が、政治的には不遇であった。1932年の大統領選挙では現職のヒンデンブルグに不満を抱く右派によって候補として擁立する動きもあったが[1]、結局テオドール・ディスターベルクが出馬することになった。

中華民国との接触[編集]

1930年、国会に向かうゼークトと妻ドロテー。

一方、中華民国中国国民党政権は、相次ぐ内戦の中で、ドイツの軍事技術と兵器を求めていた[5]。ゼークトは1920年代から中華民国側と交渉において接触しており、中国側もゼークトに信頼感を抱いていた。1931年9月18日の満州事変後、国際連盟が事件の調査団を派遣しようとしていた際には、ドイツ代表としてゼークトが候補の一人となっていたが、蒋介石もドイツ代表としてゼークトを希望するほどだった[6]

またドイツ経済界にとっても中国市場は魅力的であり、中国各地にドイツ系の商社が置かれ、武器の輸出に関与していた[7]広州に本拠を置くペルツ中国商会もそんな企業の一つであり中国にドイツ製武器工場を建設しようとしていた。1931年には同社のアンドレアス・マイアー=マーダー退役大尉がゼークトに接触した[8]。この交渉は妥結しなかったものの、マイアー=マーダーは国民党広西派との間で広州に武器工場を建設するという協定を締結し、1932年7月にはゼークトと再び交渉を行った[9]。ゼークトはマイアー=マーダーにハンス・クラインを紹介し、この計画を支援することを決定した[10]。クラインはやがてペルツ中国商会を交渉の場から引きずり落とし、プロジェクトを独占しようとした[11]が、ゼークトはクラインの動きを完全に支持していた[12]

一方で蒋介石はドイツ大物軍人を中国に招待する希望を持っていた。蒋介石と国防部次長陳儀在華ドイツ軍事顧問団団長ゲオルク・ヴェッツェルと不仲であり、彼らは新たな団長としてゼークトをテストする構想を持っていた[12]。1932年5月には軍を通じてゼークトを中国旅行に招待したが[13]、政治的な動きを行っていたゼークトが中国訪問を決定したのは1933年1月30日のヒトラー内閣成立後だった[14]。1933年4月14日にはマルセイユを出港し、5月6日に香港に到着した[15]。ゼークトは日記に「私は静謐を得たいと考え、中国に来た。なんという皮肉であろう。それはすべて金のためだけなのだ。私はここで何をなすべきなのか。」[16]と記している。ゼークト夫人のドロテーは贅沢好きで知られており[17]、ゼークトが蒋介石の招待に応じたのは金銭が目的であった[18]。一方でドイツ外務省はドイツ軍人が国外で活動することを望んでおらず、また日本との関係を刺激することを怖れていた。外務省は帰途に日本を訪問するよう要請したが、ゼークトは「中国当局を不快にしかねない」と拒絶した[18]。蒋介石はゼークトに3万ライヒスマルクを贈っていたが、5月28日の会談後には1万ライヒスマルクをさらに贈呈した[19]。会談後には蒋介石夫人宋美齢を「夫よりはるかに勝る」と評価している[19]。その後ゼークトは北京に滞在していたが、ヴェッツェルの批判を行うようになり、蒋介石政権に接近しようとしていた。ゼークトの中国旅行にも協力したヴェッツェルはこの背信に怒り、ドイツ大使館に対してゼークトを「この男」呼ばわりする書簡を送っている[20]。一方でクラインおよび新広西派との関係は次第に重荷に感ずるようになっていた[21]。7月14日、ゼークトは帰国の途に就き、8月8日にマルセイユに到着した[20]

中華民国軍事顧問[編集]

ベルリン軍人墓地にあるゼークトの墓

9月29日、蒋介石はゼークトと再会する希望を打電し、9月30日には正式にヴェッツェルの後任として顧問団長就任を要請する書簡を送った[22]。ゼークトからこの報告を受けたコンスタンティン・フォン・ノイラート外務大臣はこの要請を断るように求めた[23]。ゼークトはこれに応じ、代わりに蒋介石の個人顧問としてアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン、軍事問題の再編担当顧問としてヴィルヘルム・ファウペルを推薦することにした[23]。しかし蒋介石は断念せず、ヴェッツェルの倍額の報酬を提示し、正規の外交ルートをも使ってゼークトの就任を要請した。ここにいたって外務省も2、3ヶ月の視察旅行としてのゼークト訪中を許可した[24]。ゼークトは妻ドロテーをともなって1934年3月9日に出発し[25]、4月8日に上海に到着した[25]

5月2日、ゼークトは蒋介石と会談し、国民政府軍の再編を委嘱された。ゼークトは主要な軍幹部と会談する権限を得、さらに蒋介石が不在の際の軍事指揮権をも委任された[26]。ゼークトは早速六個師団の編制を提案し[26]、蒋介石の厚い信任を得た。しかし体調を崩して多病となり、一時は死を危ぶまれるほどであった[26]。一方でゼークトはクラインと広西派のプロジェクト支援にも関与を求められ続けたが、蒋介石の不興を買うこのプロジェクトを忌避するようになっていった[27]。またドイツ本国の国防軍・外務省が広西派との関係強化をはかっていたが、ゼークトはこれらの事実を蒋介石に伝えることを躊躇していた。蒋介石はこれらの事実を察知し、言及しないゼークトに対する不信をかえって強めた。板挟みとなったゼークトは心身をすり減らし、1935年3月1日には顧問辞職の辞表を提出した[28]。蒋介石はこの辞表を受理しなかったものの。3ヶ月の帰国休暇を与えた[28]。そのまま帰国したゼークトは、二度と中国には戻らず、顧問団の役割はファルケンハウゼンに受け継がれた。ゼークトの在任中に上海周辺に構築された防御陣地は「ゼークトライン」と称される。陣地は1937年第二次上海事変の際には有力な防御拠点として期待されたが、それを裏切る格好で日本軍により攻略されている。

1936年4月、第67歩兵連隊(de:Kaiser Alexander Garde-Grenadier-Regiment Nr. 1)の名誉連隊長に叙された。12月17日にベルリンで死去した。

キャリア[編集]

階級[編集]

  • 1913年4月4日、中佐(Oberstleutnant)[29]
  • 1915年1月27日、大佐(Oberst)[29]
  • 1915年6月26日、少将(Generalmajor)[29]
  • 1920年6月18日、中将(Generalleutnant)[29]
  • 1920年12月28日、歩兵大将(General der Infanterie)[29]
  • 1926年1月1日、上級大将(Generaloberst)[29]


業績[編集]

ゼークトは縮小を余儀なくされたドイツ陸軍の再建に貢献した人物として評価されているが、軍事理論家でもあり、また、それを実践した軍人でもあった。これは、作戦指揮とは科学でも技術でもなく、それらが融合したものであるとして考えていたことからも伺える。

ドイツの国防論について特に多くの考察を残しており、ヴェルサイユ条約によって陸上兵力は10万人と規制された制限を尊重しながらも以下のような軍事思想からドイツ軍を再建しようと考えた。

すなわち、ドイツ軍は少数精鋭であること、その錬度や士気は民兵や徴集兵に対して模範となる程度であること、10万人という兵員は将来陸軍の規模が拡大されたときに優秀な幹部・下士官となるような訓練教育を行うことである。また、機動力を重要視しており、教育訓練においても部隊の運動を通じて部隊の質を高めようとした。

ゼークトの組織論[編集]

日本語のインターネット上や日本のビジネス書などでよくゼークトの言葉として引用されているものであるが、今のところこれがゼークトが述べた言葉であるという証拠はない。ゼークトの著書である『一軍人の思想』、『ドイツ国の基本的諸問題』、『モルトケ』などはハウツー本に引用されるような一般向けの言葉で書かれた本ではなく、『組織論』などという著作は存在しない。軍人としてのゼークトの名声を利用した、ゼークトとは関係のない作り話である可能性が高い[30]

同時代のドイツ軍人であるクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトが副官に述べた話であるという説もある。

なお、ハンマーシュタイン=エクヴォルトは士官(すなわち管理職)に関してのみ論じている。

現在のところゼークトの説であることを示す証拠はないが、広く一般にゼークトの提唱した理論として認知されている。

軍人は4つに分類される。

有能な怠け者。これは前線指揮官に向いている。
理由は主に二通りあり、一つは怠け者であるために部下の力を遺憾なく発揮させるため。そして、どうすれば自分が、さらには部隊が楽に勝利できるかを考えるためである。
有能な働き者。これは参謀に向いている。
理由は、勤勉であるために自ら考え、また実行しようとするので、部下を率いるよりは参謀として司令官を補佐する方がよいからである。また、あらゆる下準備を施すためでもある。
無能な怠け者。これは総司令官または連絡将校に向いている、もしくは下級兵士。
理由は自ら考え動こうとしないので参謀の進言や上官の命令どおりに動くためである。
無能な働き者。これは処刑するしかない。
理由は働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、さらなる間違いを引き起こすため。

著書[編集]

訳書は現在のところ大戦中に刊行された3冊のみである。

  • 『ドイツ国の基本的諸問題』 育生社弘道閣、1943年。
  • 『モルトケ』 岩波書店〈軍事文化叢書〉、1943年。
  • 『一軍人の思想』 岩波書店〈岩波新書〉、1940年。

研究書[編集]

  • 清水多吉石津朋之編 『クラウゼヴィッツと「戦争論」』 彩流社、2008年。
    ゼークトの戦略論の考察を含む最新研究。本書第8章、軍事史研究家の小堤盾が、ゼークト、ルーデンドルフ、ベックの軍事戦略思想について詳しく言及している。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 田嶋信雄 2008, pp. 11.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 田嶋信雄 2008, pp. 10.
  3. ^ 黒川康「ドイツ国防軍と「レーム事件」--第1次世界大戦後のドイツ再軍備構想に関する一考察」、『人文科学論集』第5巻、目白大学、1970年、 p19-31、 NAID 120002753885
  4. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 10-11.
  5. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 15.
  6. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 22.
  7. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 15-16.
  8. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 16.
  9. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 17.
  10. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 17-18.
  11. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 19-20.
  12. ^ a b 田嶋信雄 2008, pp. 21.
  13. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 23.
  14. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 24.
  15. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 6.
  16. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 27.
  17. ^ ゼークトは中国滞在中にもしばしば妻の浪費を嘆く記述を日記に記している(田嶋信雄 2008, pp. 39)。
  18. ^ a b 田嶋信雄 2008, pp. 28.
  19. ^ a b 田嶋信雄 2008, pp. 29.
  20. ^ a b 田嶋信雄 2008, pp. 38-39.
  21. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 38.
  22. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 40.
  23. ^ a b 田嶋信雄 2010, pp. 51.
  24. ^ 田嶋信雄 2010, pp. 51-53.
  25. ^ a b 田嶋信雄 2010, pp. 67.
  26. ^ a b c 田嶋信雄 2011, pp. 3.
  27. ^ 田嶋信雄 2011, pp. 15.
  28. ^ a b 田嶋信雄 2011, pp. 28.
  29. ^ a b c d e f Lexikon der Wehrmacht "von Seeckt, Johannes Friedrich Leopold"
  30. ^ ゼークトの著書リストドイツ国立図書館

参考文献[編集]

  • 田嶋信雄「ゼークトの中国訪問 一九三三年 : ドイツ側の政治過程および中国政治への波紋 (横川新先生古稀祝賀記念号)」、『成城法学』第77巻、成城大学、2008年、 5-48頁、 NAID 110006683460
  • 田嶋信雄「ナチス・ドイツと中国国民政府 一九三三-一九三六年(一) : 中独条約成立の政治過程 (井上明先生古稀祝賀記念号)」、『成城法学』79 ,、成城大学、2010年、 45-74頁、 NAID 110007659698
  • 田嶋信雄「ナチス・ドイツと中国国民政府 一九三三-一九三六年(二) : 中独条約成立の政治過程 (井上明先生古稀祝賀記念号)」、『成城法学』第80巻、成城大学、2011年、 1-34頁、 NAID 110008699573
先代:
ヴィルヘルム・グレーナー
陸軍参謀総長
1919年
次代:
(陸軍兵務局に改称)
先代:
陸軍兵務局長
1920年 - 1920年
次代:
ヴィルヘルム・ハイエ
先代:
ヴァルター・ラインハルト
ドイツ陸軍統帥部長
1920年 - 1926年
次代:
ヴィルヘルム・ハイエ