ドワイト・D・アイゼンハワー
| ドワイト・D・アイゼンハワー Dwight David Eisenhower |
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| 任期: | 1953年1月20日 – 1961年1月20日 |
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| 副大統領: | リチャード・ニクソン |
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| 出生: | 1890年10月14日 |
| 死去: | 1969年3月28日(満78歳没) |
| 政党: | 共和党 |
| 配偶者: | メアリー「マミー」ジュネーブ・ダウド |
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ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower, 1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。第34代大統領及び第二次世界大戦中のヨーロッパの連合軍最高司令官。愛称は「アイク」 (Ike) 。
目次 |
[編集] 生い立ちと家族
アイゼンハワーは、デイヴィッド・ジェイコブとイーダ・エリザベス・ストーバー・アイゼンハワーの7人の息子の3番目として、テキサス州デニソンで生まれた。アイゼンハワー家はスウェーデン人で、父はユダヤ系であるという説が濃厚で、 ウエストポイントの1915年に発刊された卒業年次別名簿には、スエーデン系ユダヤ人と書かれている。また彼の母イーダはエホバの証人ものみの塔協会のメンバーで1898年に洗礼を受ける[1]。 ドイツ系であったが、18世紀以来ずっとアメリカで暮らしていた。家族は1892年にカンザス州アビリーンへ転居した。アイゼンハワーは1909年にアビリーン高校を卒業し、1909年から1911年までベレ・スプリングズ・バター製造所で働いた。 アイゼンハワーは、コロラド州デンバーのマミー・ジュネーブ・ダウド(1896年-1979年)と1916年7月1日に結婚した。彼らはダウド・ドワイト・アイゼンハワー(1917年 - 1921年)及びジョン・シェルドン・ダウド・アイゼンハワー(1922年生)をもうけた。ジョン・アイゼンハワーは陸軍で勤務し、次に作家になり、ベルギー大使を務めた。ジョン・アイゼンハワーの息子、デーヴィッド・アイゼンハワーは、リチャード・ニクソンの娘ジュリーと1968年に結婚した[2]。
[編集] 軍歴
アイゼンハワーは1911年6月に、アメリカ合衆国陸軍士官学校(ニューヨーク州ウェストポイント)に入学し、1915年に卒業した。彼はテキサスとジョージアの様々なキャンプで1918年まで歩兵と共に、また1918年~1922年まではメリーランド州キャンプ・ミード等で戦車隊と共に軍務に就いた。
1917年に大尉、1920年に少佐に昇進し、次いで1922年~1924年の間にパナマ運河地帯でフォックス・コナー将軍の副官の地位にあった。1925年と1926年には、カンザス州フォートレヴェンワースで指揮官および参謀学校に着任し、次に、1927年までジョージア州フォートベニングで大隊指揮官を務めた。
1920年代の終わりから1930年代の初めまで、アイゼンハワーの軍歴は停滞した。アイゼンハワーはアメリカ戦碑委員会に着任、その後ジョン・パーシング将軍によってワシントンD.C.の陸軍戦争大学での奉職を余儀なくされた。そして次に、ジョージ・V・モゼリー将軍(国防副長官、1929年~1933年)の副官を務めた。その後、アイゼンハワーは1935年まで陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサー大将の主任補佐武官を務め、マッカーサーがフィリピン政府の軍事顧問を務めることになった時、これに同行した。その後、1936年に中佐に昇進した。
アイゼンハワーは第二次世界大戦が発生した1939年にアメリカへ戻り、1941年6月にテキサス州フォート・サム・ヒューストンで第3軍の司令官ウォルター・クルーガー将軍の参謀長に任命された。アイゼンハワーは1941年9月に准将に昇進した。アイゼンハワーの管理能力は注目されたが、第二次世界大戦へのアメリカの参戦前夜においては、実戦での指揮経験が全く無く、大きな作戦の司令官となる可能性は極めて薄かった。
1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の後に、アイゼンハワーは1942年6月までワシントンで参謀に着任した。彼は戦争計画部門の主任レナード・ゲロー将軍の元で太平洋防衛の主任代理に指定され、更にゲロー将軍の後任となった。その後、アイゼンハワーは参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の下、首席助手補佐官に指定された。上級司令官の地位へアイゼンハワーを導いたのは、マーシャルとの緊密な関係だった。マーシャルはアイゼンハワーの卓越した管理・統率能力を認識していたのである。
[編集] 戦時指揮官
第二次世界大戦においてまだ枢軸国の勢いが衰えていなかった1942年6月に、アイゼンハワーはロンドンに司令部を置くヨーロッパ戦域司令官に着任した。ここでアイゼンハワーはモロッコとアルジェリアへの連合軍上陸作戦、即ち「トーチ作戦」を計画し実行した。
1942年11月からは北アフリカで連合軍の陸海空3軍の最高司令官になる。1943年12月には「オーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)」の計画、実行に責任を負う連合軍最高司令官に指名された。1944年6月6日のD-デイにおいては連合軍すべてを指揮した。
12月20日、陸軍元帥に昇進。アイゼンハワーは1920年に少佐になってから中佐に昇進するまで16年を要し、第二次世界大戦勃発時には一介の中佐にすぎなかったが、その後わずか5年3ヶ月で元帥に昇進した。(1941年3月大佐昇進、同年9月准将昇進、1942年3月少将昇進、同年11月中将昇進、1944年大将昇進)これはアメリカ陸軍史上、空前の記録であった。1944年末まで、ヨーロッパ戦線における450万人の連合軍全軍の最高司令官であった。
アイゼンハワーはこれらの地位で、リーダーシップと外交の偉大な才能を示した。アイゼンハワーはオマル・ブラッドリー将軍やジョージ・パットン将軍のような前線の指揮官の尊敬を勝ち取り、ウィンストン・チャーチル、バーナード・モントゴメリー元帥およびシャルル・ド・ゴール将軍のような一筋縄ではいかない協力者と巧みに取り引きした。戦略上チャーチルやモントゴメリーとは基本的に相容れないものがあったが、彼らとの関係を転覆することはなかった。
またアイゼンハワーはゲオルギー・ジューコフのようなソ連の司令官や、しばしばヨシフ・スターリンと直接交渉することさえあったが、それはルーズベルト大統領が彼に対して信頼を抱いていたからであった。
1945年5月8日のドイツの降伏後、アイゼンハワーはフランクフルトを本拠に、アメリカによる占領地帯の軍政長官に就任したものの、程無くパットンにこの地位を委任した。彼は1945年11月に陸軍参謀総長に任命された。
大戦終結後の1950年12月には北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官になった。元帥であるアイゼンハワーは終身、現役陸軍軍人に留まる資格を有していたが、選挙に当たって1952年7月陸軍を退役している。
[編集] 大統領選でのアイゼンハワー
アイゼンハワーは1948年7月にコロンビア大学の学長に選ばれ、ニューヨークに居を構えた。1945年以来、大統領候補となる可能性を指摘されてきたが、1936年以来積極的に共和党大統領候補としての指名を求めていたマッカーサーと異なり、政治にほとんど関心がなく、選挙で投票したことも無かったので共和党支持か民主党支持かも知られていなかった。
トルーマン大統領は否定しているが、歴史家の何人かは、1948年の大統領選挙でトルーマンがアイゼンハワーを支持して引退することを申し出たとする。1952年の大統領選では、民主党・共和党の両党から立候補を要請された。アイゼンハワーは出馬を最初拒絶したが、結局説得を受け、共和党の大統領候補として立候補することとなった。共和党の候補となった理由としては、民主党が20年間大統領を輩出し、その変更を国が必要としたので共和党を選んだとアイゼンハワーは語った。オハイオ州選出の上院議員ロバート・タフトを破り、共和党の大統領候補としての指名を得た。
大統領選の序盤には、アイゼンハワーは「非政治家」としてキャンペーンを行い、対立候補であるイリノイ州知事のアドレー・スティーブンソンについて言及しなかった。その代わりに、他の共和党員が、彼の温厚な公のイメージを守りつつも、民主党員を「共産主義に寛大」として非難する冷戦キャンペーンをすることを黙認した。このため、アイゼンハワーはカリフォルニアから選出された若手の上院議員で、反共姿勢で知られたリチャード・ニクソンを副大統領候補に選んだ。アイゼンハワーとニクソンは442人の選挙人の投票を得て、11月の選挙に勝利した。対するスティーブンソンの得票は89だった。
[編集] 大統領としてのアイゼンハワー
1953年1月20日に大統領に就任したアイゼンハワーは、大統領職にある間を通じて人気を保持した。1956年には、1952年に続いてテキサスとテネシーのような伝統的に民主党勢力が強い州の票を維持し、再びスティーブンソンを前回選挙以上の大差をもって破り、1期目の副大統領のニクソンとともに再選された。
[編集] 外交問題
大統領時代は、ソ連を筆頭とする東側諸国とアメリカ合衆国を代表とする資本主義陣営との冷戦の最盛期ともいえる時代であった。ニクソン副大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は、共産主義との戦いを指揮した(ベトナム戦争など)。しかし、共和党の過激な反共主義者の煽動にもかかわらず、ジョージ・ケナンによって提唱された封じ込め主義を受け、平和共存と中道路線を追求した。
就任後には行き詰まった朝鮮戦争を終了すると約束し、停戦は1953年7月に署名された。さらにアジアでの共産主義国による脅威をとどめるために、韓国と米韓相互防衛条約を、中華民国と米華相互防衛条約に署名したほか、東南アジア条約機構を形成した。また、ニクソン副大統領を日本や韓国、オーストラリアやニュージーランドなどの友好国に送り、同盟外交を推進した。
1956年にスエズ運河の管理に関する論争で、イギリスとフランスのエジプトへの軍事介入を強く非難した(スエズ危機)。彼は、エジプトから英仏の手を引かせるのにアメリカの経済支配力を使用した。大統領職2期目中、1957年にレバノンへ軍隊を送り、またシャー・マホメット・レザ・パーレヴィが権力を回復するためのイランでのクーデターを支援して、中東問題にますます没頭するようになった。
アイゼンハワーの下、アメリカは初の世界的核戦力を保持したが、世界は核兵器を含む第三次世界大戦を恐れていた。1953年のスターリンの死後、後継者のニキータ・フルシチョフと核兵器競争の停止の合意に達する可能性を望んだ。同年末に国連総会で行った「平和のための原子力」演説は有名である。ソ連のリーダーと首脳会議を開催するいくつかの試みはなされたが、最後のそのような試みは、1960年にソ連上空でU-2偵察機が撃墜されたこと(U-2撃墜事件)で失敗した。フルシチョフは、自身の回想録音テープの中で「アイゼンハワーは事あるごとにダレスの助言がないと返答出来ない」と見透かし、自国と自身の優位を感じたという。
なお1960年1月に、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」を日本との間で締結したのを受け、6月に首相岸信介の招待で日本を訪問しようと試みたが、安保闘争の最中の6月10日に、訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ(当時の日本における表記は「ハガチー」)大統領報道官が東京国際空港周辺に詰め掛けた訪日反対デモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生した。
さらに6月15日には、警官隊が国会議事堂正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた大学生の樺美智子が圧死するという事件が発生した上、アイゼンハワーの身に危害が加えられる可能性も出てきたため、最終的には訪日をキャンセルした。なおその後、岸は辞職した。
大統領任期の末期において、社会主義革命政府が誕生したキューバに対して国交断絶と経済制裁を行っている。
[編集] 国内問題
多くの共和党大統領と同じく、自由企業経済が自らを発展させるべきだと考え、国内政策に殆ど興味を持たなかった。彼の1952年の圧勝は共和党に上下両院の主導権を与えたが、民主党は国内政策に対する批判で、1954年の中間選挙で主導権を回復した。議会リーダー、特に下院議長サム・レイバーンとの良好な関係を作り上げることで対応した。またアイゼンハワーは多くの実業家を閣僚に任命し国を統治させた。それによって外交問題に専念することができた。
なお、「1950年代に、共産主義および黒人公民権の2つの主な問題において、アイゼンハワーは強いリーダーシップを発揮しなかった」と評価されることもある。しかしながら、1957年に、ブラウン対教育委員会裁判の判決以降も白人しか入学させていなかった、アーカンソー州立リトルロック・セントラル高校への9人の黒人学生の入学を、再選のための白人票稼ぎを目論んだ白人至上主義者のオーヴァル・フォーバス州知事が拒否し、「白人過激派による襲撃事件が起きるという情報があるので学校を閉鎖する」という理由をつけて州兵を召集し学校を閉鎖し、黒人学生の入学を妨害するという事件が起きた。これに対してアイゼンハワーはフォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令したが、この命令が無視されたため、急遽アメリカ陸軍の第101空挺師団を派遣し、入学する黒人学生を護衛させた。このアイゼンハワーの毅然とした対応は、多くの公民権運動家とそれを支持する白人たちを勇気づけることとなった。
また、上院議員ジョセフ・マッカーシーによる反共産主義のキャンペーン(赤狩り)に対して公的に非難する態度をとらなかったことで非難されたが、私的にはマッカーシーを嫌っていた。友人でもある大戦中の同僚で、トルーマンの下の国務長官だったジョージ・マーシャルをマッカーシーが非難していたからである。「私は彼に跪いて落ちぶれるつもりはない」と非公式に言った。
国内で果たした功績として、1956年に承認した連邦補助高速道路法が挙げられる。同法はアメリカ国内41,000マイルの幹線道路網を構築するというアメリカ史上最大の公共工事プログラムだが、これはかつてアイゼンハワーが関与した軍事警護で、アメリカ大陸を横断するのに62日を要した経験が生み出したものであった。
もう1つの成功は、在職中に世帯所得を20%増加させたことであり、大変誇りとしていた。アイゼンハワーは内閣に10番目の省として保健教育福祉省を新設した。また大統領在任中の3ヶ年において、収支の均衡の取れた予算を達成していることも注目される。
[編集] ニクソンとの関係
副大統領のニクソンに対しては複雑な感情を抱いていたと言われる。ニクソンは副大統領としてアイゼンハワーを支え続けた8年間の間、多くの汚れ役を背負い、その仕事を忠実にこなした。これを誇りに感じていたニクソンは、1960年の大統領選挙において、経験に欠けたケネディに対して8年間の副大統領として積んだ実績をキャンペーンした。
しかしアイゼンハワーは、ニクソンが共和党の候補として出馬した際にニクソンを指名するように依頼された時、冗談を意図して「1週間くれ。そうすれば、考えてもよい」と返答し、単なる一共和党候補として不承不承にニクソンを支持した。これはニクソンに対する厳しい打撃だった。ニクソンはケネディに対して歴史上に残る僅差で敗北するとアイゼンハワーを非難した。
[編集] 内閣
| 職名 | 氏名 | 任期 |
| 大統領 | ドワイト・D・アイゼンハワー | 1953 - 1961 |
| 副大統領 | リチャード・ニクソン | 1953 - 1961 |
| 国務長官 | ジョン・フォスター・ダレス | 1953 - 1959 |
| クリスチャン・A・ハーター | 1959 - 1961 | |
| 財務長官 | ジョージ・M・ハンフリー | 1953 - 1957 |
| ロバート・B・アンダーソン | 1957 - 1961 | |
| 国防長官 | チャールズ・E・ウィルソン | 1953 - 1957 |
| ニール・H・マッケロイ | 1957 - 1959 | |
| トーマス・S・ゲイツ | 1959 - 1961 | |
| 司法長官 | ハーバート・ブラウネル・ジュニア | 1953 - 1957 |
| ウィリアム・P・ロジャース | 1957 - 1961 | |
| 郵政長官 | アーサー・E・サマーフィールド | 1953 - 1961 |
| 内務長官 | ダグラス・マッケイ | 1953 - 1956 |
| フレッド・A・シートン | 1956 - 1961 | |
| 農務長官 | エズラ・T・ベンソン | 1953 - 1961 |
| 商務長官 | シンクレア・ウィークス | 1953 - 1958 |
| ルイス・L・ストラウス | 1958 - 1959 | |
| フレデリック・H・ミューラー | 1959 - 1961 | |
| 労働長官 | マーティン・P・ダーキン | 1953 |
| ジェームズ・P・ミッチェル | 1953 - 1961 | |
| 保健教育福祉長官 | オヴェータ・カルプ・ホビー | 1953 - 1955 |
| マリオン・B・フォルサム | 1955 - 1958 | |
| アーサー・S・フレミング | 1958 - 1961 | |
[編集] 死後
アイゼンハワーは戦後の生涯の大半をペンシルベニア州バレーフォージ(Valley Forge)で過ごしたが、アイゼンハワーの記念館は彼が成長したカンザス州アビリーンにある。アイゼンハワーと彼の妻は、瞑想の場所と呼ばれる小さな礼拝堂に埋葬されている。
アイゼンハワーの肖像は1971年から1978年までの1ドル銀貨に使用された。 また、ニミッツ級航空母艦の2番艦にその名が使用された (USS Dwight D. Eisenhower, CVN-69) 。
[編集] 評価
大統領時代は高い支持率を保ち続けたものの、退任すると若く活動的に見えた後継者ジョン・F・ケネディとの対比から、「何もしない大統領だった」と批判され、その評価は下がった(しかしその後暗殺されたケネディも同様の批判を受けた)。
しかし、1960年代および1970年代のリベラルな風潮の中での公民権運動への支援とマッカーシズムへの抵抗により、近年、評価は回復した。歴史家の最近の投票ではアイゼンハワーはすべての大統領の間で11番目と評価された。しかしながら何人かの歴史家は、「アイゼンハワーの最も大きな業績は大戦中の軍司令官時代のものだった」としている。
[編集] その他
- 大統領時代の1958年5月22日に、米NBCの系列局WRC-TVのワシントンD.C.スタジオの開所式典に招かれ、来賓として祝辞を述べている。この模様は生放送されたばかりか、当時出始めの放送用の2インチのカラーVTRでも収録され、その時収録されたビデオテープが現時点に於いて現存が確認されている最古のカラービデオテープであり、又、カラー放送史において非常に貴重な資料の1つとされている。このビデオテープは後でデジタルリマスタリングされて、米NBCのビデオ・アーカイブスは勿論のこと、カンザス州のアイゼンハワー・ライブラリーにも保管されている。[3][4]
- 第二次世界大戦中に着ていたジャケットが愛称を取って「アイクジャケット」(IKE Jacket)と呼ばれ、アメリカ合衆国の警察官や保安官の着ている防寒ジャンパーにその形式(丈は腰まで、両肩に肩章、両腹部にはボタン止めの蓋を持つパッチポケット)を残す。
- 核攻撃を受けた際の連邦議会開催のための核シェルターをウエストバージニア州グリーンブライア郡の高級ホテル地下に構築した。
- クローン病という難病を抱えながら、大統領の激務を勤めた。
[編集] 著作
- 『ヨーロッパ十字軍 最高司令官の大戦手記』(朝日新聞社訳 朝日新聞社、1949年)
- 『アイゼンハワー回顧録』1・2(仲晃、佐々木謙一、渡辺靖(2のみ)共訳 みすず書房、1965年・1968年/新装版、2000年)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 1946年9月12日号ニューヨークタイムズ
- ^ http://www.jewwatch.com/jew-leaders-eisenhower.html
- ^ この映像の一部は、YouTubeにて閲覧可能である(局の演出により、最初は白黒映像で、途中からカラー映像になっている)。http://www.youtube.com/watch?v=QKqHZcXvUAs
- ^ 詳しくはRCA-NBC Firsts in Color Televisionを参照のこと。
[編集] 外部リンク
- プロジェクト・グーテンベルクにおけるDwight D. Eisenhowerの作品
- Eisenhower Chronology World History Database
- The Eisenhower Presidential Library and Museum
- Eisenhower Home and Tomb
- Armigerous American Presidents Series
- White House biography
- Eisenhower Tapes @ University of Virginia's Miller Center of Public Affairs (Oval Office recordings)
- First Inaugural Address
- Second Inaugural Address
- Audio clips of Eisenhower's speeches
- Farewell Address(原文と音声)日本語訳全文
- Essay: Why the Eisenhower administration embraced nuclear weapons (PDF)
- The Dwight D. Eisenhower Memorial Commission
- The Presidential Papers of Dwight David Eisenhower (Searchable Online)
- Dwight David Eisenhower' biography at the Official U.S. Army website
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ハリー・S・トルーマン |
第34代:1953 - 1961 |
次代: ジョン・F・ケネディ |
| 軍職 | ||
| 先代: (創設) |
欧州連合軍最高司令官 初代:1951 - 1952 |
次代: マシュー・リッジウェイ |
| 先代: (創設) |
軍政府長官 初代:1945 |
次代: ジョージ・パットン (代行) |
| 学職 | ||
| 先代: Frank D. Fackenthal (en) (代行) |
コロンビア大学学長 第13代:1948 - 1953 |
次代: Grayson L. Kirk (en) |
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