ヘンリー・アーノルド

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ヘンリー・アーノルド
Henry Harley Arnold
Henry H. Arnold.jpg
渾名 ハップ
生誕 1886年6月25日
ペンシルベニア州 グラッドワイン
死没 1950年1月15日(満63歳没)
カリフォルニア州 ソノマ
所属組織

Seal of the US Department of the Army.svgアメリカ陸軍

Seal of the US Air Force.svgアメリカ空軍
軍歴 1907 - 1946
最終階級 陸軍元帥
空軍元帥
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ヘンリー・ハーレー・アーノルド (Henry Harley Arnold, 1886年6月25日 - 1950年1月15日) はアメリカ軍人。最終階級は陸軍元帥および空軍元帥。アメリカ空軍の父。

生涯[編集]

パイロット[編集]

1886年6月25日アメリカ合衆国ペンシルベニア州グラッドワインのに生まれる[1]1903年陸軍士官学校入学。 在学中の1907年にウェストポイントにいた時から“ハップ” (Hap) の愛称で呼ばれた[2]。ハッピー (happy) に由来する。騎兵科を志したが成績が足りず、1907年に同校を卒業した際には歩兵少尉に任官。

その後2年間はフィリピンで第29歩兵部隊に配属する。1909年帰国、信号兵部隊に配属。1911年4月ライト複葉機の飛行訓練を受けるためにオハイオ州デイトンに帰国する。アーノルドはライト兄弟から2か月間の指導を受ける。1911年6月アーノルドは最初期の飛行パイロットの一人となった[3]1912年には陸軍のパイロット資格も取得し、陸軍のパイロット第1号となった。アーノルドがパイロットの道を進んだのは騎兵科の転属願いを出すも却下され、なんとか歩兵科を脱するためであった。

その後、メリーランド州カレッジパーク信号隊航空学校の飛行士の教官に着任する。後に学校はジョージア州オーガスタに移動。1912年4月アーノルドはカレッジパークに飛行任務のために戻る。1912年6月1日アーノルドはバージェスライト飛行機を操縦して高度6540フィートの新記録を樹立する。また、ニューヨークとコネチカット州の空中演習に参加して様々な記録を残した。1912年10月9日マッキー・トロフィーを受賞[4]。1912年7月に飛行事故を経験している。11月陸軍通信部長副官に着任。

指揮官[編集]

1913年にアーノルドは結婚し、当時独身者のみに許された資格であったパイロットの資格を失う。再びフィリピン勤務となり、ジョージ・C・マーシャルと知り合った。二人はすぐに友人となり、アーノルドは後々までマーシャルをサポートすることになる。1915年大尉任官。ロックウェル基地の操縦術教練部に配属される。再びパイロット資格取得のための訓練を受けた。

1917年2月パナマに着任。1917年5月アメリカの第一次世界大戦の参加が決めるとアーノルドはワシントンに呼び戻された。1917年6月17日少佐に昇格。さらに1917年8月5日大佐に昇格。信号隊の航空部門で情報サービスを担当した。陸軍航空部が創設されると補佐部員( assistant executive officer。1918年2月からはassistant director)として着任。1918年11月アーノルドは終戦時にフランスへ航空活動の視察のため出張する。1919年帰国後にカリフォルニア州コロナドの航空業務監督、サンフランシスコのプレシディオ第9部隊航空将校を務める。1920年6月アーノルドは大尉まで降格したが、翌月少佐まで昇進する。1922年10月カリフォルニア州ロックウェルフィールドの司令に着任。1925年秋ウィリアム・ミッチェルが反抗罪で裁かれた際に軍法会議でミッチェル側で証言した。アーノルドはミッチェルの航空戦略、空軍独立論の信念に共感していた。その後はカンザス州フォートライリーのマーシャルフィールド航空部隊の指揮へ回された[5]1928年オハイオ州フェアフィールド航空基地の操縦術教練部に配属。指揮幕僚大学に入学。1931年中佐昇進。第1航空団の本拠地であるカリフォルニア州マーチ基地に着任。

1934年7月、8月アーノルドはマーティンB-10爆撃機の編隊を組んで率いてワシントンからアラスカ州フェアバンクスまでの往復飛行記録を達成した。この功績から1935年2回目のマッキー・トロフィーを受賞する。1935年2月アーノルドは2つ飛び級で准将に昇進。カリフォルニア州マーチフィールド航空総司令部第一飛行隊の指導を行う。ここでのアーノルドは爆撃男として有名になる。B17、B24の開発を推進し、乗組員の訓練にも励んだ。1936年1月ワシントン航空隊副司令官に着任。1938年9月29日少将昇進。同航空隊司令官に着任[6]

陸軍航空軍司令官[編集]

1941年6月30日アーノルドの所属がアメリカ陸軍航空軍 (Army Air Force)に変更される。12月中将に昇進。1942年3月アメリカ合衆国陸軍省( the War Department General Staff )が組織された際にアーノルドはアメリカ陸軍航空軍司令官に任命された。第二次世界大戦ではドイツと日本に対して航空作戦を指導した。3月大将に昇進[7]。1944年12月21日陸軍元帥に一時的に昇進。

心臓発作[編集]

アーノルドは1943年から1945年までの3年の間に4回もの発作に見舞われ、その都度入院や休暇による静養を余儀なくされた。彼は、いかなる批判を受けようとも自身のプレゼンスが必要とされていると考えていたため、大戦中は会議や部隊・基地の視察などで国内外の各地を飛び回っており、これが大きなストレスの原因と見られている。また、これ以外にもウィリアム・リーヒ海軍大将(のちに元帥)が議長を務める統合参謀本部のメンバーに加わっていたが、当時すでに大きな役割を担い、作戦指揮権も陸軍地上軍から独立していたとはいえ、歴史も浅く組織的にはまだ陸軍の一部に過ぎなかった航空軍の司令官であるアーノルドを、陸軍参謀総長のマーシャル将軍や海軍作戦部長アーネスト・キング提督と同等の参謀総長クラスの将官とみなすことを否定的な者もいたことというストレス原因もあった。最初に発作にみまわれたのは1943年2月28日、アフリカでカサブランカ会談に出席し、さらにその後中国を訪問する日程を終えて帰国した直後のことであった。この時はウォルター・リード陸軍病院に数日間入院し、さらにその後フロリダ州コーラル・ゲイブルズのビルトモア・ホテルで3週間静養した。当時このビルトモア・ホテルは、回復期にある患者向けの病院に転用されていた。この時アーノルドは、陸軍の規定によって一時軍務から離れることを余儀なくされたが、4月になると彼自身が体調の回復を印象づけたことなどもあり、ルーズヴェルト大統領は「毎月大統領に健康状態を報告する。」という条件付きで前述の規定の適用を撤回し、アーノルドを軍務に復帰させた。しかし、回復・復帰してから1ヶ月後の5月10日には再び発作に見舞われ、この時もウォルター・リード陸軍病院に10日間入院したが、この時も無事回復し、復帰する。その後はしばらく発作に見舞われることもなかったが、2度目の発作からちょうど1年後の1944年5月10日、B-29爆撃機に関する問題の対応にあたっていた時期に3度目の発作に見舞われた。この時は1度目や2度目の発作より症状は軽かったものの、同年6月7日にロンドンで開かれる会合に出席するまでのおよそ1ヶ月間、軍務離脱・静養を余儀なくされた。アーノルドが大戦中最後に発作に見舞われたのは1945年1月17日、ちょうど対日作戦などを担当する第21爆撃集団の司令官をヘイウッド・ハンセル准将からカーチス・ルメイ少将に交代させる決断を下した数日後のことであった。この時彼は3日間オフィスに出勤しなかった(出勤できなかった)ため、首席航空医官が官舎内のアーノルドの部屋に彼の健康状態を確認すべく赴いたが、その際アーノルドはその医官の入室を頑なに拒んだ。その後アーノルドは再びフロリダへ向かい、コーラル・ゲイブルズで24時間体制の治療・看護を受けられる環境の下で9日間静養したのち復帰することになるのだが、この入室を拒まれた医官はアーノルドがフロリダへと発った後、アーノルドの個人的な友人である陸軍将官の1人に協力を求め、その陸軍将官に質問することでようやくアーノルドの健康状態を確認することができたという。フロリダでの静養の後、アーノルドは再び軍務に復帰することを許されたが、健康状態は思わしいとは言えず、以前のような激務に耐えられるような状況ではなかった。しかし、彼はヨーロッパ各地の航空基地を視察して回るなど、可能な範囲で精力的に任務にあたった。アーノルドが1945年5月7日から翌8日にかけてのドイツ降伏の知らせを受けたのも、彼がイタリアに本拠を置いていた第456爆撃航空群を訪問していた時のことであった。

日本本土空襲[編集]

1943年8月27日アーノルドは日本敗北のための空戦計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張した。焼夷弾の使用に関しても言及されていた[8]。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と言われていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[9]

アーノルドは第二次世界大戦末期に日本本土爆撃を開始する。終戦をキーワードに空襲を人道的な攻撃として説いていた。国防総省首席研究官ジョン・ヒューストンによれば、アーノルドにとって東京空襲自体は重要なことではなく、空爆がいかに戦争終結に役立ったかを見せつけることが重要で理由は独立空軍の悲願を達成するためにB29の活躍で戦争を終結させたかったからだという[10]ドレスデン爆撃の非人道性が問題になった際にアーノルドは「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と言った[11]

アーノルドは日本本土爆撃を実行する司令に着任したヘイウッド・ハンセル准将に対し「B29の狙いは大量の爆弾を搭載量しはるか遠くに運ぶ能力という攻撃力にある。しかし現時点この爆撃機性能をいかした攻撃が実行できていない。わが軍で最も優れた部隊の1つを君に任せればB29いかして打ちのめすと信じる」と書簡を送った。ハンセルは1944年11月23日から出撃命令を出すが、マリアナ基地の未完と天候に恵まれず戦果を上げることができなかった[12]。 アーノルドはヘイウッド・ハンセル准将の後任にカーチス・ルメイ少将を抜擢する。中国で行ったルメイの高い精度の精密爆撃の腕を買ったためであった。アーノルドは1944年11月13日の時点でルメイの異動は検討していた[13]。1944年12月9日ルメイに対して「B29ならどんな飛行機も成し遂げられなかったすばらしい爆撃を遂行できると思っていたがあなたこそそれを実証できる人間だ」と手紙を送った。アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させると1945年1月20日ルメイを司令官に任命した。戦後ハンセルは自分の罷免は精密爆撃から無差別爆撃への政策転換の結果と話したが、実際はハンセルのころから無差別爆撃の準備を進めており、実験的に実行もしており、無差別爆撃の方針についてルメイは基本的にハンセルの戦術を踏襲している[14]

東京空襲のためにサイパン島でB29に焼夷弾を積む式典でアーノルドは「私からのメッセージとして聞いてくれ。東京を空襲する意義をみんなに伝えたい。第20爆撃集団は中国からすでに東京へ出撃したが、日本との距離が遠すぎてたとえB29とはいえごく一部しか到達できずに苦労している。今君たちは日本に最も近い基地ににいる。もっとたくさんの爆弾を運び北海道から九州まで日本の軍事産業拠点をすべて攻撃できる。君たちが日本を攻撃する時に日本人に伝えてほしいメッセージがある。そのメッセージを爆弾の腹に書いてほしい。日本の兵士たちめ。私たちはパールハーバーを忘れはしない。B29はそれを何度もお前たちに思い知らせるだろう。何度も何度も覚悟しろ」と演説した[15]。ルメイが東京空襲に成功すると3月10日アーノルドは「おめでとう。この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した」とメッセージを送る[16]。またルメイに「空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と賛辞を送った[17]

アーノルドは1945年6月16日の日記に「アメリカでは日本人の蛮行が全く知られていない」「ジャップを生かしておく気など全くない。男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」と書いている。6月17日の日記には「マッカーサーはさらなる日本攻撃にB29を使う我々の計画への理解が足りていなかった。ジャップの30か所の都市部と産業地域を破壊したうえで侵攻地域となる場所には一か月ごとに20万トンの爆弾を投下し侵攻する日には8万トンを投下することをちゃんと説明したらマッカーサーも気に入ったようだ」とある。7月23日には「スターリンとチャーチルに『現在のペースでB29が飛び続ければ東京には何も残っていないことでしょう。そこで会議することになりますね』と言った」とある[18]

戦後アーノルドは、3つの殊勲十字章殊勲飛行十字章、モロッコ、ブラジル、ユーゴスラビア、ペルー、フランス、メキシコ、イギリスから勲章を送られた[19]。1946年3月23日陸軍元帥に恒久的昇進。 その後1946年6月30日退役。1949年退役後、議会はアーノルドを最初で唯一の空軍元帥に昇格する。1950年1月15日カリフォルニア州ソノマの自宅の牧場で死去した[20]

コロラドスプリングスにある空軍士官学校の広場中央には地球儀を持ち日本を指さしているアーノルドの像がある[21]。 テネシー州タラマホのアーノルド技術開発センターは彼に敬意を表して命​​名されたものである[22]

脚注[編集]

  1. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  2. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  3. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  4. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  5. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  6. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  7. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  8. ^ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書108頁
  9. ^ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書133-134頁
  10. ^ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社140-142頁
  11. ^ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書139頁
  12. ^ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社134-135頁
  13. ^ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社136頁
  14. ^ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書128-129頁
  15. ^ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社78-79頁
  16. ^ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社142頁
  17. ^ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書136頁
  18. ^ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社144-145頁
  19. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  20. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧
  21. ^ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社147頁
  22. ^ 米空軍ホームページ「General Henry H. Arnold (official USAF biography)」2013年6月15日閲覧

参考文献[編集]

関連項目[編集]