ライト兄弟

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ウィルバー・ライト
オーヴィル・ライト
デイトン市内に保存されている自転車屋

ライト兄弟(-きょうだい)は、飛行機の発明者[1]で世界初の飛行機パイロット。世界最先端のグライダーパイロットでもあった。自転車[2]をしながら兄弟で研究を続け、1903年に世界初の飛行機の発明を果たす。

目次

[編集] 兄弟

二人は牧師の息子として生まれ、二人の兄(ルクラン、ローリン・ライト)と一人の妹(キャサリン)がいた[3]。母は結核により早世している。

兄弟は生涯の大部分をデイトン (オハイオ州)で過ごした。グライダー実験と最初の動力飛行をキルデビルヒルズで済ませたのちの飛行活動は現在ライト・パターソン空軍基地の敷地内にあるハフマンプレーリー(一般見学可能)を中心に行われた。

[編集] 時代

時は十九世紀末、既に陸には車が走り、海や川では蒸気船が幅を利かせ、そして最初の有人飛行をしたモンゴルフィエ兄弟に始まる熱気球から派生した飛行船が既に実用化された時にありながら、空を駆る機械の存在のみだけは皆無でこの分野だけは全く発展途上にあった。
唯一の手掛かりとしてジョージ・ケイリーグライダーを基に研究がオットー・リリエンタールによって進められていた。しかし当時はまだハイラム・マキシム等、実質多くの研究家は正しく飛行のための理論を確立するに至らず依然として暗中模索の時が続いていた時代だった。
1896年のリリエンタールの死後、これを皮切りにライト兄弟は飛行機を完成させる事を考え、
これが史上初の動力飛行成功へ向けてのきっかけとなり、時代を新たに拓く成功への一歩となった。


[編集] 事績

1903年12月17日ノースカロライナ州キティホーク(町)にあるキルデビルヒルズにて12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」によって世界で初の有人動力飛行に成功した。
兄弟が初飛行に成功した時の写真は撮影を兄弟に頼まれた海難救助所員のジョン. T. ダニエルズが撮ったもの。
オーヴィルが写真技術を持っていたため多くの良い記録写真が撮られているが[4]1913年のグレートマイアミ川の洪水でかなりの数の乾板が損傷した。残ったものは米国会図書館ライト兄弟アーカイブ[5]に保管されている。

それまでの飛行の試みの多くが跳躍かその延長のものでしかなかったのに対して、主翼をねじることによって制御された飛行を行い、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初世間はこれを理解せずむしろ冷淡であり、国内では様々な事情から特許権関係の問題を突きつけられたりさえしていた。

1903年12月17日、ノースカロライナ州キティホークのキルデビルヒルズ(Kill Devil Hills)砂丘における初飛行。操縦者はオーヴィル。横にいるのはウィルバーで、離陸滑走の間、地面に触れないように支えていた翼端を離したところ。この時これを見ていた観客はわずか五人しかいなかった。


[編集] 科学的に不可能

ライト兄弟は実験に成功したが、当初社会はこれを信用をしないばかりかこぞって反発さえしていた。 サイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍ジョン・ホプキンス大学の数学と天文学の教授サイモン・ニューカムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞等でライト兄弟の試みに「機械が飛ぶことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。

逆に後年ヘリコプターの実用性が議論されるようになった時期、オーヴィルは1936年の書簡中で「ヘリコプターには根本的な問題がある」、「ヘリコプターの開発には資金がかかりすぎる上に商用性もおぼつかないので誰もとりかかられないだろう」と書いている。

[編集] 成功のポイント

それまで多くの研究者の飛行への挑戦がことごとく失敗を重ねて来たのに対し[6]、ライト兄弟は当時としては極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明し、風洞実験によって得たデータを元に何機かのグライダー試作機を作成し一歩一歩堅実に飛行機の製作を行った。研究の初期には、当時の飛行機開発の最先端を行っていたサミュエル・ラングレー教授から研究資料の提供を受けていたりした。

グライダーによる実験の回数もリリエンタールらに比べてはるかに上回り、多くの実験データを収集すると共に飛行技術を身につけることができた。グライダーを基礎にまず操縦を研究して、自らそのパイロットになってから動力を追加するのが彼らの戦略であり、他のプロジェクトは動力機体の製作しか眼中になかったと本人たちが述べている[7]
飛行記録からするとオーヴィルの方が操縦に長けていたようである[8]。兄弟は実験回数を増やすために「常に強風が吹いている場所」を気象台に問い合わせ、故郷から遠く離れたキティホークをその場所に選んでいた。
また、兄弟は自転車店を経営することで研究に必要な資金を自弁できた[9]上、自転車の技術を活用することも可能であった。例えば二つのプロペラはチェーン駆動であり、回転の向きを逆としてトルクを打ち消すためにチェーンをねじるなどしている。

[編集] ライトフライヤー号の復元

ライト兄弟の初飛行百周年にむけて、ライトフライヤー号を復元する研究がいくつか行われたが、コンピュータシミュレーションでは姿勢が安定しないのでまともに飛べず[10]、完成した復元機に至っては離陸すら出来なかった[11]。ライト兄弟が成功したのは当日の強風のおかげだという見解もある。

[編集] 飛行成功後の苦悩と闘い

「空気よりも重い機械を用いた飛行の実用技術の開発者」と裁判所にも認められたライト兄弟を待ち構えていたものは、必ずしも栄光ではなかった。

兄弟の成功に先立つ1903年10月7日12月8日の2度、兄弟も教えを請うたサミュエル・ラングレー教授の飛行機エアロドロームは飛行テストを実施したが、どちらも機体は飛び立つ事無く川へ転落した。スミソニアン協会会長の地位にあり、アメリカ政府援助のもと主導した実験の失敗はラングレー晩節の評価を地に堕とした。

ライト兄弟の成功と飛行技術に関する特許取得は、飛行機が兵器として注目されていた事もあり、争いや妬みの対象にもなった。特に兄弟にあからさまな敵意を向ける二人の人物がいた。

一人目はチャールズ・ウォルコットである。ラングレーの後を継いでスミソニアン協会会長の地位に就いた彼は民間人であるライト兄弟の偉業を決して認めず、スミソニアン博物館航空史に「ライトフライヤー号」の一切を展示しなかった。

二人目はグレン・カーチスである。腕の良い飛行家だった彼は、航空会社を設立し、何かとライト兄弟と特許に関して係争した。しかし、冒頭の裁判所の判断もあり、ことごとく敗訴していた。カーチスは兄弟のパイオニアたる地位を否定すれば特許について有利な立場になれると考えていた。しかしこの二人が手を結び、ウォルコットの資金援助を得たカーチスは1914年5月と6月にラングレーのエアロドローム再飛行実験を行い成功した。ところが、実はエアロドロームにはカーチスの手により35箇所もの改造が加えられており、もはや全くの別物になっていた。

実験結果を受け、ウォルコットはスミソニアン協会年次報告に「初めて飛べる飛行機を作ったのはラングレー」との声明を発表、ご丁寧に1903年当時の形状に戻したエアロドロームを人間を乗せて飛行可能な世界初の飛行機と表示してワシントン国立博物館に展示した。既に兄を亡くしていた弟オーヴィル・ライトは抗議したが協会は一切無視、それどころか年次報告に執拗なまでに声明文を繰り返し掲載した。お陰で一般にも世界初飛行に成功したのはラングレーだと思い込む者が増えた。

陽の目を見る事なくマサチューセッツ工科大学の倉庫に保管されていたライトフライヤー号に思わぬ申し出が届いた。ロンドンの科学博物館が展示したいとオーヴィル・ライトに希望を寄せてきたのだ。スミソニアン協会名誉総裁へ送ったエアロドローム再飛行実験に対する調査要請の書簡が無視されたのを最後と見定め、オーヴィルはロンドンからの申し入れを受諾。1928年ライトフライヤー号はイギリスに渡った。

イギリス旅行に来たアメリカ人は驚いた。何故ライトフライヤー号がこんな場にあるのか?それはやがて世論となり、スミソニアン協会もいつまでも無視するわけにはいかなくなってきた。ウォルコットの死後1928年に会長職を継いでいたチャールズ・アボットはオーヴィル・ライトと面談しライトフライヤー号をアメリカに戻す様要請した。それに対するオーヴィルの条件はただ“歴史を正しく修正する”事だけだった。

アボットは玉虫色の妥協点を見出そうとしたがオーヴィルは決して譲らず、1942年ついにスミソニアン協会は声明を発表。ライト兄弟の偉業を認め、1914年の実験を否定し、最後の部分では兄弟に陳謝した。これを受け入れ、オーヴィルはライトフライヤー号をアメリカに戻す事に合意した。

その後、第二次世界大戦などの混乱もありライトフライヤー号がアメリカに戻ってワシントン国立博物館に展示されたのは1948年12月17日、初飛行成功45年後の同日だった。盛大な展示除幕式が行われたが、そこにオーヴィル・ライトの姿は無かった。同年1月30日に彼はこの世を去っている。

兄弟とも「妻と飛行機の両方は養えない」との理由で、生涯独身を通した。 オーヴィルは晩年に日本に落とされた原爆について自らの発明が利用された結果と最期まで悔いていたと言う。

[編集] 脚注

  1. ^ ブラジル文部文化省の公式見解では、ライト兄弟に三年遅れて初飛行を果たしたサントス・ドュモンこそが飛行機の発明者であり、これを公式に宣言したフランス航空協会の賞状が存在する。ライト兄弟は秘密実験だったのに対してサントス・ドュモンは公開試験で成功させたとしている。さらにライト兄弟の初飛行は斜面を駆け下り、カタパルトを用いていたとしている。このような説がブラジルでは広く信じられているが、それは史実に反する。45馬力のエンジンを搭載したサントス・デュモンの飛行機は操縦性能などの点ではるかにライト兄弟の初飛行より優れていたが、当然のことながらライト兄弟の飛行機も三年間で大きな進化をしていた。
  2. ^ 兄弟は自転車ショップを何度も移している。一箇所がデイトン市内に史跡として整備されている他、デトロイトのフォード博物館内に移設されたものがある。
  3. ^ 家系図
  4. ^ [1][2]
  5. ^ [3]
  6. ^ 長らく挑戦者の多くが鳥のように羽ばたく機構の飛行機(オーニソプター)を作っていたのも一因と推測される。19世紀に入って近代的な航空機の研究が始まったが、模型飛行機を拡大すればよいとして、操縦特性の研究を軽視する傾向が見られた。
  7. ^ History of Soaring
  8. ^ 1906年頃にはアメリカ合衆国でもグライダーがスポーツとして認知されてきたが、オーヴィルは1911年にグライダーで9分45秒の滞空時間世界記録を作っている(History of Soaring)(1911年のグライダー)。
  9. ^ 他の研究者では、日本の二宮忠八のように資金が得られずに研究が停滞したケースがある。また、ラングレーは軍から資金を受けていたことで、失敗の際に強く非難されることになった。
  10. ^ 飛行機の安定性と運動性は、相反する性格を持つ。ライト兄弟の製作した機体は運動性を最優先するあまり、安定性をかなり犠牲にしていた。ライト兄弟以降の飛行機製作者たちは、運動性と安定性のバランスを取る事に努めている。なお近年はコンピュータ制御によって安定性を保ち、機体自体は安定性を犠牲にして運動性を追求する技術(CCV技術)が確立している。
  11. ^ これ以前にも何度か復元機が制作されているが、その中にはエンジン出力をオリジナルより増して飛ばしたものもあった。NHK1980年に放送した「教育テレビスペシャル・人間は何をつくってきたか 交通博物館の世界」では、エンジン出力までオリジナル通りの復元機をアメリカ人の青年が1978年に3年かけて製作し、キティホークで24mの飛行に成功した模様が収録されている。

[編集] 出典

#飛行成功後の苦悩と闘い出典元

  • 『思い違いの科学史』p115-130「ライト兄弟より先に飛んだ飛行機」市場泰男 著、2002年、朝日文庫 ISBN 4-02-261368-8

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク