二宮忠八

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二宮 忠八(にのみや ちゅうはち、慶応2年6月9日1866年7月20日)- 1936年昭和11年)4月8日)は、明治時代航空機研究者。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)出身。

陸軍従軍中の1889年、「飛行器」を考案。その翌年には、ゴム動力による「模型飛行器」を製作。軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二度行なうも理解されず、以後は独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至らなかった。

なお、「飛行器」とは忠八本人の命名による[注 1]。また、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介している[1]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗し、また2人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八12歳の時に若くして亡くなり家は困窮した。忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したという。この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった。

飛行への着想[編集]

1887年(明治20年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。ある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた(固定翼の着想)。

それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。明治24年(1891年4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。これは無尾翼の複葉機で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦翼面として働く設計だった[2]。烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていたが、動力源については未解決であった。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は退役し、まずは飛行機製作の資金を作ってから独力で研究することにした。

大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて1906年(明治39年)に支社長にまで昇進する。この時期は資金をまかなえず、ほかにスポンサーも現れなかったため飛行器の開発は停滞した。この間、1903年(明治36年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行器への情熱を持ち続けていた。

支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開する。従軍当時に新聞記事でオートバイガソリンエンジンを知り、これを動力に利用できないかと考えていた忠八は、1908年(明治41年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、ついで12馬力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」と同じ出力で)を自作する構想を立てた。その矢先にライト兄弟の飛行機を知る。忠八は、動力源以外完成していた飛行器の開発を取りやめ、製薬の仕事に打ち込むとともに、1909年(明治42年)にマルニを創業。この時の忠八の製作していた機体は、理論的には正しいが、エンジン馬力に対して重量が重過ぎるため、完成しても恐らく飛べなかったと考えられている。

遅かった評価[編集]

大正8年(1919年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)白川義則と懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。

ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。1925年(大正14年)9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、1926年(大正15年)5月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を受章、1927年(昭和2年)勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。すでに陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。

忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した。

世界航空機史上における位置付け[編集]

当時欧米で有人飛行を目指す流れは、

  • 模型飛行機の実験を行い、それを人が乗れる大きさに拡大したものを製作する
  • グライダーによる滑空実験を行い、操縦技術を確立してからグライダーに動力を取り付ける

の2つに大別され、ライト兄弟はこの両方の研究成果を受け継ぎつつ後者の道を選んだ。兄弟は3000回以上の滑空と風洞をはじめとする科学的で綿密な実験結果に基づいて操縦者の意思で飛行する最初の飛行機を制作した。一方、忠八の研究は91年、愛媛県八幡浜市において自筆の設計図を元に実物大の飛行器復元模型が制作され、有人動力飛行実験に成功した事で飛行理論の正しさは証明されたものの[3]、その研究の過程や計画が研究途上で明確な位置付けがまだできず、海外の研究者の着目が少ない。

近年の見解[編集]

日本では近年「日本の航空機の父」という評価が高まりつつあり、その先見性や独創性が一般に知られるに従ってメディアで取り上げられることも多くなった。ライト兄弟の初飛行に先立ち動力付き有人飛行機を着想するも、金銭的事情で研究が進展せず有人飛行を断念したが、黎明期の先駆者としての功績と才能、様々な逸話、人格等、世界的な発見や功績は挙げていないものの、日本航空機史上へ名を刻むに足る人物として認知されつつある。

一方で実際にはゴム動力の模型飛行機はフランス1871年にすでに製作され飛行しているにもかかわらず、「飛行機の真の発明者」「世界で最初に模型飛行機を製作」と報じる等、忠八の研究活動や航空史の流れを全く理解していない例も散見されたり(航空に関する年表も参照)、情報や認識が錯綜している。また忠八の作った航空機は人力航空機で、動力航空機とはかけ離れており過大評価されているとの意見もある。その活動について、安定した評価は形成されていない。

その他[編集]

  • 忠八がカラスを見て飛行の原理を着想したのは、香川県まんのう町追上の樅ノ木峠であったとされる。その故事にちなみ、同地には1966年に二宮飛行公園が、1991年には二宮飛行神社が整備開設された。さらに2006年3月17日、「道の駅空の夢もみの木パーク」の隣接地に「二宮忠八飛行館」が開館した。玉虫形飛行器の複製模型をはじめとした再現模型や書簡などが展示されている。なお、同地への公共交通は平日のみ一日4本の旧仲南町町内巡回バスしかない。
  • ライト兄弟の初飛行はアメリカ国内ですらほとんど報道されなかった。また、その後兄弟が(アイディアの盗用を恐れて)なかなか公開飛行を行わなかったため、広く知られるようになったのは1908~9年頃である(村岡正明『航空事始』(東京書籍、1992年)によれば、日本で初めて報じられたのは、雑誌『科学世界』の明治40年(1907年)11月号だという)。日本の新聞記事等からもこのことは裏付けられ、忠八がライト兄弟の飛行機を知ったのもその時期と考えられる。鈴木真二の著書『飛行機物語』(中公新書、2003年)では、忠八がライト兄弟の飛行機を知ったのは1909年10月3日付の新聞(紙名は記載なし)であると記している。村岡正明は、1907年3月25日の「萬朝報」におけるアルベルト・サントス・デュモンの飛行記事によって、二宮が外国人の初飛行を知ったと推測している。

二宮忠八が登場する作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「飛行機」という用語は森鴎外1901年の日記に使用したのが最初の用例であるとされる。

出典[編集]

  1. ^ ビーバップ!ハイヒール』2012年5月3日放送分「世界を揺るがした! ニッポン天才列伝」より。
  2. ^ 根本智『パイオニア飛行機物語』(オーム社、1996年、ISBN 978-4274023149 )、p66
  3. ^ 「その時歴史が動いた12」(KTC中央出版、NHK取材班著 2002年、ISBN 4-87758-220-7)、p144

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]