ヘイウッド・ハンセル

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ヘイウッド・ハンセル
Haywood Shepherd Hansell, Jr.
生誕 1903年9月28日
ヴァージニア州 フォートモンロー
死没 1988年11月14日(満85歳没)
サウスカロライナ州 ヒルトンヘッド
所属組織

Seal of the US Department of the Army.svgアメリカ陸軍

Seal of the US Air Force.svgアメリカ空軍
軍歴 1928–1946
1951–1955
最終階級 空軍少将
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ヘイウッド・ハンセル (Haywood Shepherd Hansell, Jr., 1903年9月28日 - 1988年11月14日) はアメリカ軍人。最終階級は空軍少将。

生涯[編集]

1903年9月28日、ヴァージニア州フォートモンローで父ヘイウッド・ハンセル(Haywood S. Hansell)陸軍大佐(軍医)の息子として生まれる。1924年ジョージア工科学校を卒業。1928年2月23日飛行士官候補生に合格した。カリフォルニア州マーチフィールドで基礎と高等の飛行学校を卒業。[1]

1944年8月サイパンの第21爆撃集団の司令官に着任。 ヘンリー・アーノルド大将は日本本土爆撃を実行する司令官に着任したハンセル准将に対し「B29の狙いは大量の爆弾を搭載しはるか遠くに運ぶ能力という攻撃力にある。しかし現時点この爆撃機の性能をいかした攻撃が実行できていない。わが軍で最も優れた部隊の1つを君に任せれば、B29をいかして打ちのめすと信じる」と書簡を送った。ハンセルは1944年11月23日から出撃命令を出すが、マリアナ基地の未完と天候に恵まれず戦果を上げることができなかった[2]

アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させると、1945年1月20日カーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。戦後ハンセルは「もし自分が指揮を執り続けていたら大規模な地域爆撃(無差別爆撃)を行わなかっただろう。自分の罷免は精密爆撃から地域爆撃への政策転換の結果である」と語ったが、実際はハンセルのころから無差別爆撃の準備を進めており、実験的に実行もしており、無差別爆撃の方針についてルメイは基本的にハンセルの戦術を踏襲している。ハンセルは、東京、名古屋の対する爆撃で主目標を中島飛行機、三菱重工とし、第2目標を市街地の爆撃と命令した。11月29日東京工業地域を第一目標とした最初のレーダー照準による夜間爆撃が行われ、1945年1月3日には名古屋のドッグ地帯と市街地を第一目標とした昼間爆撃を行っている。これらの爆撃でハンセルは焼夷弾による無差別爆撃をテストし、大規模な無差別爆撃を準備していた[3]

脚注[編集]

  1. ^ 米空軍ホームページ「Air Force Link: Major General Haywood S. Hansell, Jr.”. 2012年7月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月19日閲覧。
  2. ^ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社134-135頁
  3. ^ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書128-129頁

参考文献[編集]