バリー・ゴールドウォーター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
バリー・ゴールドウォーター
出身校 アリゾナ大学
現職 実業家, 政治家
所属政党 共和党
配偶者 マーガレット・ジョンソン
(1934–1985)
スーザン・シェファー・ウェクスラー (1992–1998)

アメリカ合衆国上院議員
任期 1969年1月3日 - 1987年1月3日
任期 1953年1月3日 - 1965年1月3日
テンプレートを表示

バリー・モリス・ゴールドウォーターBarry Morris Goldwater, 1909年1月2日 - 1998年5月29日)は、アメリカ合衆国政治家。連邦上院議員(アリゾナ州選出、1953年-1965年,1969年-1987年)。1964年共和党大統領候補。

生い立ち[編集]

1909年、当時未だ準州であったアリゾナのフェニックスで、バロン・ゴールドウォーターとハッティ・ジョセフィン・ウィリアムズ夫妻の間に生まれる。父親はデパートを経営し、元来ユダヤ教徒であったが、結婚を機に監督派(米国聖公会)に改宗した。

家業のデパートは一家を裕福にし、ゴールドウォーターはストーントン陸軍士官学校に学び、続いてアリゾナ大学に入学した。父親のバロンは1930年に死去し、ゴールドウォーターはアリゾナ大学を中退し、家業のデパート経営を引き継いだ。アリゾナ州は民主党の強固な地盤であったため、ゴールドウォーターは民主党の改革派として政治活動をスタートしたが、後に共和党に鞍替えし、ニューディール政策に反対した。1934年にマーガレット「ペギー」ジョンソン(インディアナ州マンシー出身の実業家の娘)と結婚、4人の子供をもうけた。

アメリカ合衆国が第二次世界大戦へ参戦すると、ゴールドウォーターはアメリカ陸軍航空軍の予備役士官として任官する。彼は新たに創設された、世界中の戦場に供給を行う部隊にパイロットとして着任した。軍歴の大半を本国とインド間の飛行に費やし、アゾレス諸島、北アフリカ、南アメリカ、ナイジェリア、中央アフリカにも飛行した。また、国民党軍への補給のためヒマラヤ上空も飛行した。彼は戦後も軍に留まり、最終的には少将として退役した。彼は退役までに165種類の航空機を操縦した。戦後ゴールドウォーターは空軍士官学校の創設に尽力し、士官学校のビジターセンターは彼の名が命名された。

初期の経歴[編集]

1952年、上院議員選挙に立候補する。対立候補は当時民主党上院院内総務であったアーネスト・マクファーランドであった。ゴールドウォーターはマクファーランドを破って当選し、1958年に再選された。上院でゴールドウォーターは共和党内の急進派とみられた。彼はアイゼンハウアー政権の政策の一部が、民主党の政策と類似したニューディール路線を踏襲するものだとして批判した。加えてジョセフ・マッカーシー上院議員と親しい議員の1人として知られ、マッカーシーの譴責決議案に反対した。一方でジョン・F・ケネディ上院議員の親しい友人でもあり、ケネディは大統領となった後も、ゴールドウォーターとしばしば面会した。(ちなみに、ケネディ兄弟、とりわけロバート・ケネディは、同じアイルランド系であることもあって、マッカーシーと親しかったといわれている。)ゴールドウォーターはケネディのあとを継いだジョンソン大統領とは犬猿の仲で、ジョンソンの主要な政敵と看做されてきた。

1964年の大統領選挙[編集]

ゴールドウォーターはネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事との熾烈な指名争いを勝ち抜き、1964年大統領選挙における共和党の大統領候補に指名された。ゴールドウォーターは、ロックフェラーに代表される共和党の主流派及び穏健派が、実際には民主党の政策と類似した、ニューディール路線を踏襲した政策を実行してきたに過ぎず、共和党の独自色を打ち出していないと批判した。そこで、彼は共和党の本来の主張、「小さな政府」、政府の市場経済への介入の限定化、強硬な反共路線、反共主義に基づくNATO加盟国との協調、NATOの強化、ヴェトナムにおけるドラスティックな解決、を直截な言葉で訴え、国民の前に従来より明確な選択肢を提示した。こうした姿勢から、彼は現代アメリカにおける保守主義運動の先導者と看做されることが多い。同時にアメリカ公民権法に反対し、同法に対する不満を抱く南部の白人層を取り込み、共和党の南部への進出を図った。実際彼は選挙戦で極右とのレッテルを貼られ、特にヴェトナムにおいて核兵器の使用も視野に入るとした彼の発言は、彼が大統領に当選すれば核戦争が勃発するとのジョンソン政権のネガティブ・キャンペーンに利用されてしまった。しかし、公民権法を巡る問題以外での彼とロックフェラーら穏健派との相違点は当時言われたほど大きなものではなく、同じ原理原則に基づいていた。ゴールドウォーターがより急進的、ロックフェラーがより慎重かつ穏健というだけの話であった。1975年蒋介石が死去した際、当時副大統領だったロックフェラーとゴールドウォーターは葬儀に向かうため同じ飛行機に乗り合わせた。その際ゴールドウォーターとロックフェラーは、実に多くの問題で両者の見解が一致することに気づいた。

しかし、彼が極右と看做され、良心的な有権者の離反を招いた最大の原因は、公民権法に対する彼の態度であった。彼は共和党員の大半がこれに賛成したにもかかわらず反対した。このことは彼が人種差別主義者であるというイメージを生み出し、ジョンソン政権はうまくこれを利用した。最も甚だしいのは、KKKとゴールドウォーターを結びつけたキャンペーンである。しかし、ゴールドウォーターは決して人種差別主義者ではなく、むしろ人種差別に強く反対した。その証拠に彼は、アリゾナ州におけるNAACP(全米黒人地位向上協会または全国有色人種向上協会)の設立者の一人であり、1950年代から60年代にかけては上院で最も公民権問題、人種差別撤廃に熱心な議員の一人と看做されていた。にもかかわらず、彼が同法に反対したのは、この法案が連邦政府による州の権利の制限を必要以上に認めすぎているという、州の権利を尊重すべきとの信念に基づいた理由があってのことだった。この点でゴールドウォーターは彼を支持した人種差別的な南部の政治家とは異なっていた。

大統領選挙において、ゴールドウォーターは歴史的大敗を喫したが、ディープ・サウスで勝利し、同地域における共和党の勢力伸長の端緒を開いた。

大統領選以後[編集]

バリー・ゴールドウォーター

ゴールドウォーターは、現代アメリカの保守主義運動の象徴にまつりあげられ、その流れはロナルド・レーガンに引き継がれた。さらに、経済的自由を強調し、政府の個人の問題に対する介入に強く反対する姿勢から、彼はリバタリアンの先駆者とも看做されている。またこれ以後、リチャード・ニクソンやロナルド・レーガンといった政治家は、伝統的価値観の尊重を従来より強く打ち出し、白人層全般にアピールした。これにより、共和党は人種差別主義的傾向に陥ることなく、保守的白人層の多い南部に進出することができた。

一方レーガン政権が誕生すると、政権を支える一つの有力勢力として宗教右派などの社会的保守主義者が台頭した。ゴールドウォーターはこれらの新しい右派勢力に強い反発を示した。

上院では情報委員長(1981年 - 1985年)、軍事委員長(1985年 - 1987年)を歴任した。1986年には文民としては最高の栄誉である、大統領自由勲章を授けられた。

ジョン・マケイン上院議員はゴールドウォーター引退後の議席を引き継ぎ、ゴールドウォーターの後継者を自認している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

議会
先代:
アーネスト・マクファーランド (D)
アリゾナ州選出上院議員(第1部)
1953–1965
同職:カール・ヘイデン
次代:
ポール・ファニン (R)
先代:
カール・ヘイデン (D)
アリゾナ州選出上院議員(第3部)
1969–1987
同職:ポール・ファニン, デニス・デコンチーニ
次代:
ジョン・マケイン (R)
公職
先代:
バーチ・ベイ
インディアナ州
上院情報特別委員会委員長
1981–1985
次代:
デヴィッド・ダレンバーガー
ミネソタ州
先代:
ジョン・タワー
テキサス州
上院軍事委員会委員長
1985–1987
次代:
サム・ナン
ジョージア州
党職
先代:
ワード・S・パワーズ
アリゾナ州選出上院議員(第1部) 共和党候補者
1952, 1958
次代:
ポール・ファニン
先代:
スタイルズ・ブリッジス
ニューハンプシャー州
全国共和党上院議員委員会委員長
1955–1957
次代:
エヴァレット・ダークセン
イリノイ州
先代:
アンドリュー・F・スコーペル
カンザス州
全国共和党上院議員委員会委員長
1961–1963
次代:
サルストン・B・モートン
ケンタッキー州
先代:
リチャード・ニクソン
共和党大統領候補
1964
次代:
リチャード・ニクソン
先代:
エヴァン・メカム
アリゾナ州選出上院議員(第3部) 共和党候補者
1958, 1974, 1980
次代:
ジョン・マケイン