ディエンビエンフーの戦い
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| ディエンビエンフーの戦い | |
|---|---|
ディエンビエンフーに降下するフランス軍落下傘兵 |
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| 戦争:第一次インドシナ戦争 | |
| 年月日:1954年3月13日 - 5月7日 | |
| 場所:ベトナム北西部のディエンビエンフー前進基地 | |
| 結果:ベトナム民主共和国人民軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| ヴォー・グエン・ザップ総司令官 | クリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ大佐 ピエール・ラングレ中佐 マルセル・ビジャール少佐 |
| 戦力 | |
| 4個師団 90,000 |
17個大隊 13,000 |
| 損害 | |
| 戦死 8,000 負傷者15,000 |
戦死 2,200 捕虜 10,000以上 |
ディエンビエンフーの戦い(ベトナム語:Trận Điện Biên Phủ, フランス語:Bataille de Điện Biên Phủ)は、1954年3月から5月にかけてベトナム北西部のディエンビエンフー(ベトナム語:Điện Biên Phủ, 漢字:奠邊府)で起こった、第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。ベトナム軍とフランス軍合わせ約1万人の戦死者を出した。同戦争の大きな転機となり、フランスはベトナム撤退を余儀なくされることになる。
目次 |
[編集] 概要
[編集] いきさつ
フランス軍は劣勢の打開とラオス防衛を目的に、米国の大規模な支援を受けて1953年11月から険しい山々に囲まれたディエンビエンフーの盆地に滑走路および大要塞の構築を開始 [1]、アンリ・ナヴァール(Henri Navarre)将軍指揮下の精鋭外人部隊など、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、1万6千にも及ぶ兵力を投入し、クリスチャン・ド・カストリ(Christian de Castries)大佐を司令官とした。周囲の山岳地帯は険しく、大砲を持ち込むのは労力的に不可能と思われていた。
対するヴォー・グエン・ザップ(武元甲)率いるベトナム民主共和国人民軍はソ連・中華人民共和国から大量の武器・弾薬の援助を受け、昼夜兼行の人海戦術を用いて大砲・ロケット砲・対空火器を山頂に引き上げ、要塞を見下ろす位置に設置、密かに要塞を包囲していった。供与された武器の中には、中国大陸に遺棄された旧日本陸軍の山砲も含まれており、活用されたと言われる。
[編集] 戦闘の経緯
人民軍(ベトミン軍)は3月13日に要塞内、特にフランス側の砲兵陣地や滑走路に対する砲撃を開始し、その後56日間に亘って包囲戦を展開した。
まずベアトリス陣地、続いてガブリエラ陣地がそれぞれ夜間攻撃を受けて陥落。フランス側は反攻を組織し、戦車小隊を含む部隊をそれぞれ送ったが奪回はならなかった。
続いて、ベトナム側は塹壕をフランス側陣地の周囲に巡らし、イザベル陣地とディエンビエンフー本体との間の交通を遮断した。この頃にはアンヌ=マリー陣地からはフランス軍のベトナム人兵士の脱走が相次ぎ、フランス側は止むをえず拠点を放棄して後退。その後はディエンビエンフー本体を見下ろす東側丘陵でもベトナム側が優位に戦いを進めた。フランス側では滑走路が破壊されていたため、物資の補給を空路からのパラシュート投下に依存していたが、ベトナム側の対空砲火や天候不順のためなかなか届かない状況[2]で次第に後退を重ねていった[3]。
過少な投入兵力に悩むフランス軍は低地に小さく全周陣地を作ったため、雨季に入ると腰まで泥水につかる劣悪な環境を忍びつつ懸命に陣地構築に勤めたが、各陣地は決戦に備えて大量に養成されていた人民軍正規部隊の擲弾兵による突撃と機関銃掃射に晒され、滑走路の破壊と喪失に伴う物資の途絶に悩まされ、植民地出身兵士の多くが戦意を喪失し、5月7日に要塞は陥落した。
2万人強のフランス軍部隊のうち、少なくとも2,200人が戦死し、1万人以上が捕虜となった。10万人以上とみられる人民軍のうち、8,000人が戦死し、15,000人が負傷した。 [4]
[編集] 和平会談への影響
この一戦はジュネーヴ和平会談の行方に大きく影響を与え、7月21日のジュネーヴ協定締結とインドシナからのフランスの全面撤退へとつながった[5]。
[編集] 関連項目
[編集] 映画
- インドシナ激戦史1954 ~要塞ディエン・ビエン~ - 2004年ベトナム社会主義共和国
[編集] 脚注
- ^ ディエンビエンフー要塞の建設は、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強めていたアメリカ、特にニクソン副大統領の強力なイニシアチブの下で進められた。要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、ジープで走り回りながら構築状況を確認している姿が記録フィルムに残されている。
- ^ フランス側の補給機はベトナム側の対空砲火を避けるために高空飛行をおこなわねばならず、補給物資が投下目標を外れてベトナム側の陣地内に落ちることもあった。
- ^ ディエンビエンフーの戦いで事実上の当事者であったニクソン副大統領は、ディエンビエンフー要塞が包囲されフランス軍が危機に陥った際に、要塞周囲の山岳地帯に集結したベトミン軍と中華人民共和国とソ連の軍事顧問団に対する原爆の投下をアイゼンハワー大統領に進言するが、冷たく拒絶された事を、自著『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社, 1986年, ISBN:4-06-202446-2)に記している。
- ^ ディエンビエンフーの戦いでは、フランス本国出身者、植民地、外人部隊などの兵士が捕虜となったが、ベトミン側は当初これらの捕虜の存在を秘匿し、フランスとの交渉での取引材料とし、ジュネーヴ協定の交渉過程でフランス政府からの身代金の支払いと引き換えでの送還が実現した。
- ^ 捕虜問題についてのベトミン側の姿勢は、フランス政府に撤退後の南部メコンデルタ地域のフランス人入植者の安全への危惧を呼び起こさせ、かつては反仏的だったカオダイ教やホアハオ教、サイゴンの幇であるビン・スエン派などを援助して私兵団化させ、フランスの利益代弁者として組織した。 これら南部土着諸派の武装勢力は、ゴ・ディン・ジエムを指導者としてサイゴン政権を構成した北部出身のカトリック教徒難民との間での地域文化・言語差から対立するようになり、ゴ・ディン・ジエムとその一族による強権的支配への抵抗を続け、その後の南部の不安定化を招いた。 また、戦争捕虜に対するベトナム人の考え方(その起源は中国古代の捕虜奴隷に遡る)に基づく、国際法を省みない残酷な扱いや身代金の要求といった感覚は、米国が介入した第二次インドシナ戦争において、米国人の家族観に基づく自国兵捕虜に対する強い思いと相乗してMIA問題としてひとり歩きし、米越関係の正常化が大幅に遅れる結果を招いた。

