ヴォー・グエン・ザップ
| ヴォー・グエン・ザップ Võ Nguyên Giáp |
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| 渾名 | 赤いナポレオン |
| 生誕 | 1911年8月25日(101歳) フランス領インドシナ・クアンビン省 |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1944年 - 1991年 |
| 最終階級 | 大将 |
ヴォー・グエン・ザップ(ベトナム語: Võ Nguyên Giáp, 漢字: 武元甲, 1911年8月25日 - )は、ベトナムの軍人、政治家。ベトナム共産党政治局員。ベトナム人民軍 (QDND) 総司令官。大将。
優れた軍事戦術家であったザップは、フランスの植民地支配からベトナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。その名采配から、「赤いナポレオン」と呼ばれた。
目次 |
経歴 [編集]
独立運動 [編集]
フランスの植民地支配下に置かれていたインドシナのクアンビン省出身。1924年、当時の首都フエの国学(国立アカデミー)に入校した。1926年に学生組織を組織したことで除籍され、3ヶ月間刑務所に入れられた。1930年にインドシナ共産党に加入したことで、2年間刑務所に服役する。出所後、ハノイのアルベール・サロ学校に入り、法学と政治・経済を学んで卒業した。
その後、タンドン学校の歴史教師となった。1930年代、ベトナムの社会・経済情勢、国際問題に関する多数の記事を新聞に寄稿した。同じく共産党員であったチュオン・チンと『農民問題』を共著した。
1939年に、フランス植民地政府によりインドシナ共産党が禁止され、ザップは中華民国内の中国共産党支配地域に亡命した。ザップの妻と従姉妹は、フランス当局により逮捕され獄死した。1940年にザップはホー・チ・ミンと出会い、間もなく彼の側近の1人となった。第二次世界大戦下の1944年に、ベトナム解放軍の前身である武装宣伝旅団を組織し、1945年の八月革命時の権力奪取の際、重要な役割を果たした。
1945年8月、インドシナ共産党中央常務委員会(後の政治局)委員に選出。同年9月、ベトナムの独立宣言とともに、臨時政府の内務大臣に任命[1]。
1946年1月1日、ベトミンと他党派による臨時連合政府が成立すると内務大臣に留任[2]。1946年3月2日、第1期国会第1回会議において、抗戦連合政府の抗戦委員会主席に選出[3]。11月3日、ホー・チ・ミン内閣の国防大臣に任命された[4]。
インドシナ戦争 [編集]
フランスとの戦闘が本格化する1946年11月30日、ザップはベトナム軍総指揮官に任命され、同年12月からの第一次インドシナ戦争において、ゲリラ戦を指揮した。1948年1月20日の政府主席令110号に基づき、同年5月28日、ベトナム軍初の大将に任命[5][6]。1947年から一時、国防大臣職をタ・クァン・ブウ (Tạ Quang Bửu) 次官と交代したが、1948年7月に再び国防大臣に任命された[7]。1949年3月、司令部組織の改称に伴い、ベトナム軍総司令官となる。
1951年2月、ベトナム労働党第2回党大会において党組織が再建されると、党中央委員および政治局員に選出され、党内序列第5位となった[8]。
1954年3月から5月のディエンビエンフーの戦いにおいて、旧態依然の物量に物を言わせたフランス軍の裏をかく名采配を何度となく行い、その結果フランス軍を徹底的に打ち破った。
1955年9月、ファム・ヴァン・ドン内閣の副首相に任命され、国防大臣を兼務[9]。1956年10月、党書記局書記を兼務[10]。
1960年9月の第3回党大会において党政治局員に再選出されるが党書記は退任し、党内序列第6位となる[11][12]。1960年から1963年1月、国家科学委員会主任(閣僚級)も兼務した[13]。
しかしながら、中ソ対立時代が始まり、ベトナムにおいても1963年12月の第3期党中央委員会第9回総会において「現代修正主義」が批判されると、ソ連との結びつきが強いザップの立場は弱まった。ホー・チ・ミンが直接にザップを擁護したため、問題の表面化は阻止されたといわれるが、親ソ派幹部の多くが失脚した[14]。
ベトナム戦争 [編集]
ベトナム戦争が始まった時、ザップは引き続きベトナム人民軍総司令官として北ベトナム軍を指揮し、南ベトナム軍とアメリカ軍と対峙して、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。
戦後 [編集]
1976年のベトナム統一後も、副首相兼国防大臣に留任[15]。同年12月のベトナム共産党第4回党大会において政治局員に再選出された[16][17]。しかし、大会後はヴァン・ティエン・ズン将軍が実質的に国防大臣の役を務めるようになった[18]。
1979年、ザップはカンボジア侵攻に反対した。1980年2月7日、大幅な内閣改造が実施されると、国防大臣を解任され、副首相の専任となった[19]。1982年3月、第5回党大会において党政治局から除籍され、平の中央委員に降格されたが[20]、科学技術発展問題担当副首相のポストは維持した。
1991年6月、第7回党大会で中央委員会からも除籍され、同年8月に副首相職も解任され[21]、全てのポストから外された。
2011年8月25日に満100際の誕生日を迎え、ベトナム国内では記念行事が行われた[22]。足の自由がきかずに病院で寝たきりの生活を送っているが、全体的な健康状態は悪くないと報じられている[22]。
著書 [編集]
脚注 [編集]
- ^ 1945年9月2日に国民同胞に公表された臨時政府 (ベトナム語)
- ^ 臨時連合政府(1946年1月1日設立) (ベトナム語)
- ^ 抗戦連合政府(1946年3月2日設立) (ベトナム語)
- ^ 新政府(1946年11月3日-1955年) (ベトナム語)
- ^ ベトナム民主共和国政府主席令110号 (ベトナム語)
- ^ Nhớ lễ phong tướng 60 năm trước (ベトナム語)
- ^ 新政府(1946年11月3日-1955年) (ベトナム語)
- ^ 第2期党中央執行委員会(1951-1960年) (ベトナム語)
- ^ 拡大政府(第1期国会第5-10回会議) (ベトナム語)
- ^ 第2期党中央執行委員会(1951-1960年) (ベトナム語)
- ^ 第3期政治局(1960-1976年) (ベトナム語)
- ^ 木村(1996年)、40ページ
- ^ 第2期国会期政府(1960-1964年) (ベトナム語)
- ^ 古田(1996年)、159-160ページ
- ^ 第6期国会期政府(1976-1981年) (ベトナム語)
- ^ 第4期党中央執行委員会(1976–1982年) (ベトナム語)
- ^ 木村(1996年)、62ページ
- ^ ティン(1997年)、164ページ
- ^ 木村・竹内(1980年)、205ページ
- ^ 木村・竹内(1982年)、203ページ
- ^ 第8期国会期政府(1987-1992年) (ベトナム語)
- ^ a b ベトナムの英雄、ザップ将軍が100歳に 日本経済新聞2011年8月25日
参考文献 [編集]
- 木村哲三郎、竹内郁雄「混迷を深めるベトナム―1980年のインドシナ」『アジア動向年報』アジア経済研究所、1980年
- 木村哲三郎、竹内郁雄「内外情勢に変化の兆し―1982年のインドシナ」『アジア動向年報』アジア経済研究所、1982年
- 木村哲三郎『ベトナム ― 党官僚国家の新たな挑戦』アジア経済研究所、1996年
- 古田元夫『ホー・チ・ミン - 民族解放とドイモイ』岩波書店、1996年
- タイン・ティン『ベトナム革命の内幕』めこん、1997年
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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