U-2撃墜事件

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同型の偵察機U-2

U-2撃墜事件(ユーツーげきついじけん)は、1960年メーデーの日にソ連偵察飛行していたアメリカ合衆国偵察機ロッキードU-2が撃墜され、偵察の事実が発覚した事件。予定されていたフランスパリでの米ソ首脳会談が中止されるなど大きな影響があった。

時代背景[編集]

激化していた米ソ冷戦が、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相の訪米などで一時期緩和されていた時期、アメリカはソ連にミサイル・ギャップ(技術格差)をつけられたという認識が高まり、ソ連の戦略ミサイルを徹底的に監視することで安全保障を確保する方針を固め、当時、ロッキード社で開発されたU-2偵察機による高高度偵察飛行によりソ連領内のミサイル配備状況等の動向を探っていた。

撃墜事件[編集]

撃墜成功[編集]

パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズ
撃墜されたU-2の残骸
同型のミサイルS-75

定期的に成層圏飛行で領空侵犯してくるU-2に対し、ソ連防空軍はMiG-19P迎撃戦闘機などで幾度となく迎撃を行っていたが、当時のソ連の戦闘機での迎撃は高度が足らず実質的に不可能であった。

ソ連は新型のSu-9迎撃戦闘機の完成を急ぐと共に新型の地対空ミサイルの開発も進めており、これらは共に実戦配備に就いた。撃墜されず偵察任務を成功させた飛行士の中には、キューバ危機の発端となるキューバミサイル基地を撮影したエリクソン飛行士もおり、彼がパワーズ飛行士を指導した。

そして、パリサミット開催予定の2週間前の1960年5月1日、パキスタンペシャーワルの空軍基地を離陸し、ソ連領内で偵察飛行中のU-2に対し、ソ連側がS-75地対空ミサイルЗРК С-75)をスヴェルドロフスク州の第1ミサイル部隊からボルノフ少佐命令で発射しこれを撃墜することに成功した。なお、この際1機のSu-9迎撃戦闘機も迎撃に上がり、アラル海上空で目視したが、相手が高高度で迎撃に失敗した。

アメリカ軍機の自国領空侵犯の報を受けやきもきしていたフルシチョフ首相は、撃墜成功の報告をモスクワ赤の広場でのメーデーパレードの開始直後に知らされた。

嘘の声明[編集]

パイロットのフランシス・ゲーリー・パワーズは、パラシュートで脱出し、スヴェルドロフスク州コスリノロシア語版に着地し一命を取り留めた(自殺用の硬貨内蔵の毒薬を所持していたがこれを使用しなかった)が、村民に捕らわれ、公開裁判にかけられ、スパイ行為を行っていたことを自白し、アメリカ側のスパイ行為の実態が明るみに出た。

当初アメリカ政府は、「高高度での気象データ収集を行っていた民間機が、与圧設備の故障で操縦不能に陥った」という嘘の声明を発表したものの、パワーズの自白が明らかになると態度を一変し、当時のアメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは、「ソ連に先制・奇襲攻撃されないために、偵察を行うのはアメリカの安全保障にとって当然のことだ。パールハーバーは二度とご免だ」と発言しスパイ飛行の事実を認めた。

釈放[編集]

パワーズは8月19日にスパイ活動で有罪と判決され、禁固10年シベリア送りを宣告された。しかし、ソ連とアメリカは、ソ連側がシスキンKGB西欧本部書記官、アメリカ側が元OSS顧問弁護士のドノバンを通じ、東ベルリンのソ連大使館でスパイを交換釈放することで合意した。

1年9ヶ月後の1962年2月10日、自首し亡命を申し出た別のスパイの供述を元にFBIが逮捕したソ連のスパイ、“マーク”ルドルフ・アベル大佐(中空の硬貨事件)とベルリンのグリーニケ橋で交換された。なおこの橋は東西ドイツの国境であり度々スパイ交換が行われた場所である。

SA-2[編集]

この事件の際有名になったソ連の迎撃ミサイルはS-75NATOコードネーム:SA-2 Guideline)として西側に認知され、ベトナム戦争でも多くのアメリカ軍機を撃墜することとなった。

余波[編集]

米ソ関係悪化[編集]

U-2機の残骸を見学するニキータ・フルシチョフ書記長

ニキータ・フルシチョフ首相はアメリカ政府に対し事件に関する謝罪を要求したので、パリ・サミットは崩壊し、フルシチョフは5月16日に会談を一方的に打ち切った。また、この事件を、「アメリカによる犯罪行為」として大いに反米プロパガンダに利用した。

その後の偵察飛行[編集]

この事件以後、アメリカのミサイル技術も格段に向上し、ミサイルギャップも影を潜めたため、U-2によるソ連領内の高高度偵察飛行が行われることは無くなったが、アメリカと対立する国々へのU-2による高高度偵察飛行は、キューバ危機の際、再びU-2が対空ミサイルで撃墜されるまで頻繁に続けられたほか、中華人民共和国北朝鮮に対するスパイ飛行が行われた。

中華人民共和国に対してのスパイ飛行はアメリカより中華民国空軍に供与された機体で行われていた。アメリカや中華民国側はこの件に関して当然のことながら沈黙を保ったが、中華人民共和国側はソ連より供与されたSA-2により数機を撃墜し、残骸を北京軍事博物館に並べて一般公開している。

黒いジェット機事件[編集]

U-2は故障が多く、この事件が起こる前年にも、アメリカ軍厚木基地所属のU-2がエンジントラブルで藤沢飛行場へ緊急着陸するという事件が起きた。事件当日は飛行場でグライダー大会が行われており、多数の親子連れがU-2を目撃する事態となってしまった。U-2撃墜事件が起こる前の当時、同機は完全に秘密扱いされていたので、厚木からアメリカ軍がU-2を回収しにやって来るまでにU-2を目撃した民間人は、日本領土内に住む日本人であるにも拘らず、アメリカ軍の守秘義務誓約書にサインさせられた[1]

日本人が日本国内で偶然にアメリカ軍の機密を知ってしまった場合には、日本とアメリカとの二国間条約に基づいて制定された日本国の法律によって、機密保持義務を課すことが出来たのである。なお、このアメリカ軍の守秘義務誓約に違反した場合には、刑事特別法の機密等侵害罪により日本で刑事罰の対象となる。ただし、実際に起訴されて有罪判決を受けた事例は無い。

参考[編集]

  • ディスカバリーチャンネル「米ソ冷戦」(2012年)

脚注[編集]

  1. ^ 国籍不明機の日本上空飛行に関する緊急質問 - 第33回国会衆議院本会議会議録

関連項目[編集]