ドイツ共産党

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ドイツの旗 ドイツの政党
ドイツ共産党
Kommunistische Partei Deutschlands
Flag of the Communist Party of Germany.svg
党旗
成立年月日 1919年1月1日
解散年月日 1956年
解散理由 連邦憲法裁判所の解散命令
後継政党 ドイツ共産党(DKP)
ドイツ社会主義統一党
左翼党
本部所在地 ベルリン
政治的思想・立場 共産主義
マルクス・レーニン主義
シンボル KPD-logo.svg
党章
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ドイツ共産党(ドイツきょうさんとう、Kommunistische Partei Deutschlands)は、ドイツの政党。略称はKPD(カー・ペー・デー)。主にヴァイマル共和政期のドイツで活躍した政党。しかしヒトラー内閣成立後の1933年に解散させられている。第二次世界大戦後に一時復興したが、ドイツ連邦共和国西ドイツ及び現在の統一ドイツ)においては1956年に連邦憲法裁判所から禁止命令が出されて解散させられた。

党史[編集]

前史[編集]

ドイツ共産党はカール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクドイツ社会民主党(SPD)左派が第一次世界大戦中に創設したスパルタクス団が母体となっている。1917年に戦争に反対する社民党左派が党を割って独立社会民主党を創設するとスパルタクス団もその流れに従って独立社民党へ移った。独立社民党の中でも革命路線をとる極左勢力を糾合して、1919年1月1日に共産党を結成した。当初の党名は「ドイツ共産党・スパルタクス団」であった。

1月蜂起[編集]

出来たばかりの共産党は創立大会で国民議会選挙への棄権を圧倒的多数で可決し、暴力的革命の道を選び始めた。革命的オプロイテドイツ語版などの左派勢力の一部は棄権の取り消し、スパルタクス団の名称削除を要求したが入れられなかったために合流しなかった。この左派勢力の結集を見て、独立社会民主党派の閣僚は内閣から辞職し独自路線を歩もうとした。しかし、独立社会民主党派の一人でベルリンの警視総監エミール・アイヒホルンドイツ語版は辞職せずその地位に留まろうとした。社会民主党の政府は1月4日にアイヒホルンを罷免したが、アイヒホルンはこれを不当としてベルリン警視庁に籠城した。1月5日、共産党とオプロイテはアイヒホルンの罷免を不当であるとして大規模なデモ活動を行った。この成功により、リープクネヒトや独立社会民主党党首ゲオルク・レーデブールドイツ語版は革命の時機が到来したと判断し、社会民主党政府打倒を目的とする革命委員会を設立した。

1月6日、革命委員会は大規模なデモとゼネストを決行した。しかし革命委員会は終日協議を続けるのみであったため、デモは暴動に至ることなく自然解散した。しかし社会民主党機関紙を発行する出版社の建物が占拠されるなど、依然緊張は続いていた。社会民主党政府はグスタフ・ノスケに最高指揮権を与え、ドイツ義勇軍(フライコール)による弾圧を決意した。1月8日、政府は共産党派に対する攻撃を開始し、1月12日に勝負は決した。以後、義勇軍兵士による私刑の形で蜂起参加者達が次々に処刑され、1月15日にはリープクネヒト、ルクセンブルクが惨殺された。

この蜂起はスパルタクス団やオプロイテの総意で行われたものではなく、ルクセンブルクやオプロイテの指導者リヒャルト・ミュラードイツ語版は蜂起に反対していた。しかし両組織の構成員が蜂起に多数参加しており、両組織は壊滅状態となった。また、この鎮圧にあたって生まれた義勇軍は以後のドイツ政治に大きな影響を与えていくことになる。

コミンテルン指揮下[編集]

蜂起失敗後、パウル・レヴィの指導の下で武力闘争路線を修正し、議会選挙に参加した。しかし党内には左派過激派が増加し、レヴィの路線に反発する者が多かった。1920年10月、独立社会民主党が分裂し、左派は共産党と合流することでコミンテルンに加盟した。しかしコミンテルンはドイツ革命の実現を要求し、ラーコシ・マーチャーシュを派遣してコミンテルンの方針への絶対服従を要求した。レヴィは反発したが、結局指導者の地位から降りざるを得なくなった。新たな指導者にはハインリヒ・ブランドラードイツ語版がついた。

1924年のドイツ共産党の活動隊。

コミンテルンはハンガリー革命の指導者クン・ベーラを派遣し、ドイツ共産党に武装蜂起路線をとらせた。1921年にはドイツ中部のマンスフェルトで大規模な蜂起を行い、街を数日間占拠したが、国防軍の手で鎮圧された(中部ドイツ三月蜂起ドイツ語版)。やがてドイツ政府との協調に転換した第3回コミンテルン大会で、この蜂起は厳しく批判されたが、同様に蜂起を批判したレヴィは党から除名されている。コミンテルンの路線転換により、しばらくの間共産党は過激活動を停止した。

1923年の秋、コミンテルンの路線は再び変更され、再度ドイツ革命を目指すようになった。ブランドラーら共産党幹部がザクセン州テューリンゲン州の内閣に入閣し、ここを地盤としてドイツ全土に革命を広めようとした。しかし国防軍に鎮圧され、革命は失敗に終わった。またこの間にハンブルクで共産党の蜂起が起こっているが、これも数日で鎮圧された。この失敗によりフランドラーは解任され、以降ルート・フィッシャーアルカディ・マズロードイツ語版らの後に労働者出身のエルンスト・テールマンが指導者となった。

テールマン時代[編集]

カール・リープクネヒト・ハウスと呼称された党本部(1932年)。戦後、ドイツ社会主義統一党本部を経て左翼党本部

共産党はヴァイマル共和政ヴェルサイユ体制打倒を旗印に、ベルリンハンブルクなど大都市を牙城に勢力を伸ばした。ヒトラー政権成立直前の1932年11月ドイツ国会選挙ではドイツ共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となった[1]1929年に勃発した世界恐慌による不況が深刻化する中で、ドイツではヴァイマル共和政への失望が高まり、共産党は、下層階級を支持基盤に急速に勢力を拡大させ、世界でも有数の共産主義政党に成長した。共産党の宣伝手法、特に壁を埋め尽くすポスターなどのインパクトや整然とした行進を行う警備部隊“赤色戦線戦士同盟”など視覚的なプロパガンダには優れたものがあり、後の国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが賞賛したり、社会民主党の“国旗団”と並んでナチス突撃隊など)が真似したくらいであった[2]

当時、共産党はコミンテルンの指示のもと社会民主主義を敵視する社会ファシズム論へ傾いていたこともあり、社会民主党打倒という点でナチスとは協調路線をとっていた。1932年1月、コミンテルンから派遣されたドミトリー・マヌイルスキーは、「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べ、これを受けて共産党のヘルマン・レンメレドイツ語版は「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べている[3]。このため共産党は議会では法案の提出(例:パーペン不信任案)・反対動議をナチス等と共同で行い、大規模な交通ストライキを協力して組織する等、共闘することも多かった。

この間にナチスは保守層からの支持と資金を有効に使い共産党以上に勢力を伸張させ、1933年1月30日のヒトラー内閣成立へと至った。

ライヒスターク(議会)選挙結果[編集]

選挙日 得票率 獲得議席数(総議席数) 議席占有率 順位
1920年6月6日 2,1% 2議席(459議席) 0.4% 第8党
1924年5月4日 12,6% 62議席(472議席) 13.14% 第4党
1924年12月7日 8,9% 45議席(493議席) 9.13% 第5党
1928年5月20日 10,6% 54議席(491議席) 11% 第4党
1930年9月14日 13,1% 77議席(577議席) 13.35% 第3党
1932年7月31日 14,3% 89議席(608議席) 14.64% 第3党
1932年11月6日 16,9% 100議席(584議席) 17.13% 第3党
1933年3月5日 12,3% 81議席(647議席) 12.52% 第3党

世界大恐慌以降、ドイツ国民の社会的不安を背景に着実に議席を伸ばし、特に首都ベルリンでは強く、ヒトラー政権成立直前の1932年11月の選挙では共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となった[4]。1930年の選挙ではドイツ社会民主党と国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に次ぐ第三党の地位を確立した。以降も第三党で推移した。

ナチス政権下[編集]

ヒトラーは首相に就任すると議会を解散し選挙を行った。選挙期間中の2月27日に国会議事堂放火事件が発生し、共産党の犯行であるとして党は解散させられた。当時の議長だったテールマンは国会議事堂放火事件直後の3月3日にベルリンの自宅で逮捕され、11年間裁判抜きで拘束された後、ブーヘンヴァルト強制収容所1944年8月17日に処刑された。選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、ナチスによって全員が逮捕され、あるいは逃亡・亡命を余儀なくされた。ヒトラーが目論んだ全権委任法成立には総議員の2/3の出席と、出席議員の2/3の賛成を必要としたが、ヒトラー与党は2/3に足りなかった。そこで、ヒトラー政権は議院運営規則を改め、無届けの欠席は出席したものと見なすことができるようにした。その上で共産党議員を全員逮捕することで、「無届けの欠席をした」ことにしたのである。3月23日に全権委任法が成立した後、共産党は3月31日に制定された『諸州と帝国の同一化のための暫定法律ドイツ語版』によって結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された。

指導者たちはフランスソ連等の国外に亡命するかドイツ国内で投獄されることになった。ソ連に亡命した者も大多数がヨシフ・スターリンによる大粛清によって処刑されるか、独ソ不可侵条約締結後にドイツに引き渡された。またナチスによる全権掌握後、ドイツ国内に残った一般党員の多くは弾圧を恐れてナチスに偽装入党するか、あるいは党員歴を隠蔽して一般市民として生活するかの道をとらざるを得なかった。

戦後[編集]

党員集会(1945年12月)

第二次世界大戦が終結しナチ党政権が崩壊すると、早々とベルリンで戦前の活動家が集結し党再建が話し合われた。ここで主導権を握ったのはモスクワに亡命し粛清をも掻い潜ったヴァルター・ウルブリヒトらのグループであり、ソ連占領地区を根城に全国的な党再建を9月までに済ませた。

ソ連占領地区に於いては占領者から庇護された勢力としてドイツ社会民主党を半ば強制的に統合してドイツ社会主義統一党(SED)を結成。東ドイツとしてソ連占領地区が主権を回復すると、その崩壊まで事実上の一党独裁政治を行った。

西部でも、占領中はニーダーザクセン州ブレーメン州で政権与党となることもあり西ドイツ成立直後にも一定の支持と議席を得ていたが、労働組合からの共産党員・支持者の排除や東側指導部からの干渉に伴う内紛から支持率が低下し、東西対立の激化から1956年連邦憲法裁判所によって解散させられた(西ドイツ~統一ドイツは、ヴァイマル共和政時代の反省から「戦う民主主義」を原則としており、自由主義・民主主義を否定する団体の活動は許されていない)。解散年には7万人の党員を擁していた[5]

後継政党[編集]

東ドイツにおいては、ドイツ社会主義統一党(SED)が後継政党であったと言える。

西ドイツ及び現在の統一ドイツでは、ドイツ共産党(KPD)が禁止された後の1968年に結党した合法政党ドイツ共産党Deutsche Kommunistische Partei,略称:DKP)(党名の「ドイツ」の位置が異なる)が一応後継政党と言える。しかしこの党は連邦選挙では0.3%の得票数に留まり議席を獲得できなかった。現在も存在はしているが、多くの支持を得るには至っていない。

一方、ドイツ再統一後は、西ドイツの共産党メンバーの大半が、社会主義統一党からスターリン主義的路線を全面的に放棄し衣替えした民主社会党(PDS)に合流している。その後、ドイツ社会民主党左派と合併して左翼党を構成している。旧東ドイツの選挙区では第二党としての地位を占めることもあり、また旧西ドイツ地域では左翼党となって以降、州議会選挙で議席の獲得に必要な5%以上の得票を得る例も出ている。2005年の連邦議会選挙以降、阻止条項を突破して、連邦議会に議席を得ている。また、欧州議会選挙でも議席を獲得、州議会選挙でも北部を中心に多くの州で議席を獲得し、他党と互角にたたかっている。

脚注[編集]

  1. ^ Wahlen in der Weimarer Republik website”. Gonschior.de. 2009年8月9日閲覧。
  2. ^ ヴィリー・ミュンツェンベルク/著、星乃治彦/訳『武器としての宣伝』(柏書房、1995年)参照
  3. ^ 林健太郎、170-171p
  4. ^ Wahlen in der Weimarer Republik website”. Gonschior.de. 2009年8月9日閲覧。
  5. ^ A. パーネビアンコ著、村上信一郎訳『政党 組織と権力』ミネルヴァ書房、2005年。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]