ヴァルター・ウルブリヒト

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ヴァルター・ウルブリヒト
Walter Ulbricht
Bundesarchiv Bild 183-J1231-1002-002 Walter Ulbricht, Neujahrsansprache.jpg

任期 1960年9月12日1973年8月1日

出生 1893年6月30日
ドイツの旗 ドイツ帝国ライプツィヒ
死去 1973年8月1日(満80歳没)
東ドイツの旗 東ドイツ東ベルリン
政党 ドイツ社会主義統一党
配偶者 ロッテ・キューン

ヴァルター・エルンスト・パウル・ウルブリヒトドイツ語: Walter Ernst Paul Ulbricht1893年6月30日 - 1973年8月1日)はドイツ共産主義者で政治家1950年から1971年までドイツ社会主義統一党第一書記書記長)を1960年から1973年まで国家元首である国家評議会議長を務め、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の建国と初期の発展に中心的な役割を果たした。

来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

ウルブリヒトはライプツィヒで仕立て屋の息子として生まれた。両親ともドイツ社会民主党 (SPD) の熱心な活動家であった。ヴァルターは小学校に通った後、指物師の修行をしつつドイツ社会民主党の活動にも加わった。1915年より1917年まで彼は第一次世界大戦に出征し、ガリツィアおよびバルカン戦線で戦った[1]。戦争に当初より反対していた彼は1917年に部隊から脱走し投獄されたが、ドイツ革命の只中の1918年に出獄した。

戦間期の政治活動[編集]

戦争に出る前の1912年、ウルブリヒトはドイツ社会民主党に加入している。戦後、1920年に彼はドイツ共産党 (KPD) の党員となり、1924年から1925年にかけてモスクワ国際レーニン学校コミンテルンの指導を受けた。1926年、彼はザクセン州の州議会議員に当選、1928年から1933年には国会(ライヒスターク)議員も務めた。

1933年のナチスの政権獲得まで、ドイツではナチスの「突撃隊」や共産党の「赤色戦線戦士同盟」に代表されるような左右の政党の私兵部隊が示威行動を起こし、各地で騒動が頻発していた。双方の行動部隊や支持者、警察が入り乱れての暴力ざたもしばしば起こった。1931年ベルリンの共産党員は警察が共産党のデモ隊員一人を殺すごとに警官を二人殺すことを決定、これを受けてウルブリヒトは同志のハインツ・ノイマン (Heinz Neumann) とハンス・キッペンベルガー (Hans Kippenberger) と共謀して警官二名を殺す計画を立て、エーリッヒ・ミールケら党員に警官殺害を実行させている。社会民主主義を敵視する社会ファシズム論が主流だった1932年、コミンテルンはドイツ共産党に社会民主党の敵であるナチスとの協力を指示し、ウルブリヒトはナチスのプロパガンダ担当者だったヨーゼフ・ゲッベルスと組んでそれぞれの構成員や労働者組織に同時ストライキを起こさせた。ストライキではナチスと共産党の双方の党員が共に行進し示威行動を行ったが、ストは5日で収束した[2]

1933年1月にナチスが政権を握ると、共産党員と社会民主党員の大規模な追放が始まった。共産党指導者エルンスト・テールマン (Ernst Thälmann) が3月3日にゲシュタポに逮捕されると、ウルブリヒトは代わりの指導者となるよう担ぎ上げられた。指導者の座を争う他の有力党員達はすでにソビエト連邦において粛清されており、うちキッペンベルガーの殺害にはウルブリヒトの関与も指摘されている[3]

ウルブリヒトは1933年から1937年までパリプラハに亡命した。ハインリヒ・マンが指揮するパリの反ナチス組織、「ドイツ人民戦線」は、コミンテルン指導下の組織を代わりに置こうとするウルブリヒトが背後で仕掛けたキャンペーンによって崩壊した。ウルブリヒトはパリにいた共産党創始者の一人ヴィリ・ミュンツェンベルク (Willi Münzenberg) にソ連に行くよう勧めたが、ミュンツェンベルクは拒否した。彼がソ連に行けば内務人民委員部 (NKVD) に逮捕粛清される運命が待っている、と両者とも考えていたと思われる[4]。ミュンツェンベルクは1940年10月に森の中で吊るされるという、他殺とも自殺ともつかない謎の死を遂げた。一方ウルブリヒトは1937年から1945年までをソ連で過ごした。

独ソ戦[編集]

1941年のドイツのソ連侵攻後、ウルブリヒトは内務人民委員部監督下のドイツ人共産主義者グループで活動した。彼らはソビエトのプロパガンダ文書をドイツ語に翻訳し、東部戦線のドイツ軍への宣伝放送を行い、捕虜となったドイツ軍士官に対する尋問を行い、後に自由ドイツ国民委員会を組織した。1943年2月、ドイツ第六軍が降伏しスターリングラード攻防戦が終結すると、ウルブリヒトやヴィルヘルム・ピーク(後の東ドイツ初代大統領)らは、ドイツ軍捕虜らが強制的に参加させられたスターリングラード中心部での共産主義集会を指揮した。この間、ソ連の人民委員会議副議長(副首相)ラヴレンチー・ベリヤはウルブリヒトを「かつて見たことのない大馬鹿者」と述べている[5]。陰では実際的な考えを持っていたベリヤに対し、ウルブリヒトは実際的ではなく、心の底からスターリニズムを信じきっていた人物だったからという。

東ドイツ建国[編集]

SED党大会で演説するウルブリヒト書記長(1946年9月)

1945年4月、「ウルブリヒト・グループ」はソ連から占領下のドイツに送られ、正統的スターリン主義に基づいてドイツ共産党の再建を始めた。1946年ソ連占領地区で、ドイツ共産党とドイツ社会民主党が半強制的に合併させられ、スターリン主義政党ドイツ社会主義統一党が誕生した。

1949年10月、ソ連占領地区がドイツ民主共和国となると、ウルブリヒトはドイツ社会主義統一党の中央委員会書記長(後に第一書記)として君臨した。1957年、ソ連の対外活動の顔だった第一副首相アナスタス・ミコヤンが訪独すると、ウルブリヒトは北部(ノルトフォアポンメルン)の Trinwillershagen にあった集団農場に彼を招き、東ドイツの農業集団化の進展を紹介した。1960年大統領ヴィルヘルム・ピークが没すると彼は大統領制を廃止し、国家評議会議長として国家元首も兼任した。

強硬派スターリン主義者[編集]

彼の政権下ではスターリン死後の反ソ暴動(六月十七日事件)など不穏な動きが絶えず、急速な農業集団化や国有化で経済も混乱した。自営農民達の西ドイツへの逃亡[6]や軍需に応えた重工業への傾斜生産などから食糧・日用品の不足を招き、東ドイツの生活水準は急低下した。東西ベルリンを通じた国民の脱出を防ぐため、1961年にはベルリンの壁建設に至っている。彼は取材に対し「西ベルリンを囲う計画などない」と強力に否認したものの、そのわずか2ヵ月後の8月13日から壁の建設が開始されている。彼は1968年チェコスロヴァキアの改革運動「プラハの春」に強い懸念を示し、ワルシャワ条約機構軍による8月の軍事介入とその後のチェコスロヴァキア国内の抑圧に賛同するなど、強硬なスターリン主義者として西側には見られていた。しかしスターリン(および後継者で自身の側近でもあったエーリッヒ・ホーネッカー)とは違い、ウルブリヒトは自身に対する個人崇拝は確立しなかった。

新経済システム導入[編集]

1963年以降、ウルブリヒトとその経済アドバイザー、ウォルフガング・ベルガー (Wolfgang Berger) は「新経済システム」(Neues Ökonomisches System 、略称NÖS)を通じてより効率的な国家経済を作ろうと試みた。これは中央による計画経済のもとで、地方に対し決定権を大幅に移譲しようというものであった。この政策導入の理由は各企業の責任感を大いに刺激するだけでなく、決定権は時には現場が握ったほうがうまくいくことに気がついたからでもあった。ウルブリヒトの原理のひとつは政治や経済の「科学的な」実行であり、時には社会学心理学も応用するものの、自然科学を政治や経済の運営に当たって全面的に活用した。新経済システムは、過去に起こった経済の失敗を訂正し、「壁」による国民流出の低下もあいまって1960年代の東ドイツ経済を効果的に発展させることになる。

しかしながら、この政策は党内では評価はあまり良いものではなく、1965年以降、側近のホーネッカーや彼を支援するソ連指導者レオニード・ブレジネフの指導の下、新経済システムに対する反対派が次第に大きくなってきた。ウルブリヒトの自然科学応用への没頭は、経済の管理権を党指導部から現場の専門家達へと委譲するものであり、イデオロギー上の強硬派からは共産主義理論から離れつつあるとして違和感を持って見られるようになっていった。

晩年[編集]

1971年5月3日、彼は「健康上の理由」でドイツ社会主義統一党第一書記の座を退き、第一書記を(ソ連の信任の厚い)ホーネッカーに譲った。ウルブリヒトは引続き国家元首である国家評議会議長には留まり、また「ドイツ社会主義統一党議長」という名誉職が彼だけのために創設されたが、実権はホーネッカーに移った。彼は1973年8月1日、東ベルリン近郊で死去し、大規模な国葬で見送られたが半旗掲揚はなされなかった。

ドイツ・スポーツ祭で市民と共に(1959年8月15日、ライプツィヒ)
ウルブリヒトと妻ロッテ。左端はシュトフ首相(1967年3月)

私生活[編集]

彼は二度結婚した。1920年にマルタ・シュメリンスキー (Martha Schmellinsky) と結婚し、1953年には党の活動家で部下だったロッテ・ウルブリヒト(Lotte Ulbricht、1903年 - 2002年)と再婚している。ロッテとの間にはソ連からの養子、ベアーテ(Beate、1944年 - 1991年)を迎えていた。ロッテは一時、夫の部下を従わせるほど影響力が強く、「鉄の女」とも呼ばれた。ベルリンの壁崩壊後、NHKは大型企画「社会主義の20世紀」で彼女の取材を試みたが、拒絶された。

その風体から「ヤギひげ」、またその口癖から「ヌー・ヌー」(「同意」を意味するザクセン方言)とあだ名されていた。また国民には隠れてそのライプツィヒ方言の訛りをふざけて真似る者も多かった。

受勲[編集]

1963年6月29日にはソ連邦英雄の称号を受けた。また1965年エジプト訪問[7]の際にはナセル大統領からナイル勲章を受けた。

語録[編集]

  • 東側が強硬措置をという噂が流れ、西側の新聞記者がウルブリヒトに質問したところ「我々の首都の労働者はその全力を主に住宅建築に注いでいる。誰も壁を作ろうなどと思ってはいない」と口を滑らせた(1961年6月15日、記者会見で。それから2ヶ月も経たないうちに「ベルリンの壁」が建設された)。
  • 「我々は西側から来た汚物を本当にコピーしなくてはならないのか?私が思うに、同志たちよ、イェー・イェー・イェー (Je-Je-Je) と繰り返すことは、それが『はい (Ja)』を意味するように、もうやめさせなくてはならない」(1965年、党中央委員会での演説。ビートルズの「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」の流行を受けての発言)

評価[編集]

ウルブリヒトは生涯にわたりレーニン主義スターリン主義に忠誠を誓い、妥協はほとんどしない人物であった。融通が利かず人当たりも良くないため、大衆の愛情や尊敬を集める対象とはならなかった。ウルブリヒトは東ドイツ国民に比較的人気のあった前の大統領ピークと違い全く人気がなかった。しかし彼は、二つ以上の困難な状況に巻き込まれないようにするにはどうすれば良いか理解している、抜け目なく知的な政治家だった。東ドイツの政治経済をある程度安定させて東側の優等生国家としたが、国民の生活水準を西側並みに引き上げることはついにできなかった。

脚注[編集]

  1. ^ Frank, Mario, Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie (Berlin 2001) 52-53ページ
  2. ^ Frank, Mario, Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie (Berlin 2001) 88-89ページ
  3. ^ Frank, Mario, Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie (Berlin 2001) 117-121ページ
  4. ^ Frank, Mario, Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie (Berlin 2001) 124-139ページ
  5. ^ Frank, Mario, Walter Ulbricht. Eine Deutsche Biographie (Berlin 2001) 241ページ
  6. ^ 1949年の建国からベルリンの壁建設までの12年間で、総人口の15%にあたる270万人が西側に脱出した。その中には数多くの専門技術者がおり、東ドイツ経済に大きな打撃となった
  7. ^ 当初エジプトはハルシュタイン原則に沿って西ドイツのみを国家承認していたが、1965年に西ドイツがイスラエルと国交を樹立し武器供与した事に抗議して西ドイツと国交断絶し、東ドイツを承認してそれを見せつける目的でウルブリヒトをエジプトに招待した。

外部リンク[編集]

公職
先代:
ヴィルヘルム・ピーク
(ドイツ民主共和国大統領)
東ドイツの旗 ドイツ民主共和国
国家評議会議長

初代:1960 - 1973
次代:
フリードリヒ・エーベルト
(代行)
党職
先代:
オットー・グローテヴォール
ヴィルヘルム・ピーク
(ドイツ社会主義統一党議長)
ドイツ社会主義統一党書記長
初代:1950 - 1971
次代:
エーリッヒ・ホーネッカー