ルドルフ・ヒルファーディング
| マルクス経済学 (社会民主主義) |
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夫人と共に(1928年)
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| 生誕 | 1877年8月10日 |
| 死没 | 1941年2月10日 |
| 実績 | 金融資本の定義 転形問題論争におけるベーム・バヴェルクへの反論 |
ルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding、1877年8月10日 - 1941年2月10日)は、ドイツのマルクス経済学者。ドイツ社会民主党の理論的指導者。ウィーン大学医学部を出た医師であり、医業も生涯行っていた。
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[編集] 経歴
オーストリア・ハンガリー帝国首都ウィーンでユダヤ人豪商のエミール・ヒルファーディングの息子として生まれた。ウィーン大学で医学を学ぶかたわら、社会主義学生同盟のメンバーとなり、社会科学に関心をいだくようになった。1902年、ドイツ社会民主党の理論的指導者カウツキーに同党理論誌『ノイエ・ツァイト』への論文掲載を要求し、以来、同誌へ『保護関税の機能変化(1903)』『貨幣と商品(1911)』など多数の論文を発表した。1904年には『ベーム・バヴェルクのマルクス批判』を発表し、ベーム・バヴェルクによるマルクス批判の反批判を行った。1910年『金融資本論』を著し、銀行資本と産業資本の結合である金融資本が近代資本主義の新しい資本形態として誕生したことを主張した。マルクス経済学の新たな側面を切り開くことに成功したとされる。 ヒルファーデイングの分析が現在資本主義が抱えている問題の幾つかを分析(創業者利潤など)していることから、もっと研究されても良いであろう。因みに経営財務論の面では馬場克三などが資本論・金融資本論を研究し、独自の観点を打ち立てたことは特筆されるべきだろう。
第一次大戦後、ワイマール共和国が成立すると、ドイツ独立社民党をへて、ドイツ合同社民党を結成し、さらにドイツ社民党へ合流、党理論誌『ゲゼルシャフト』の主筆として活躍し、社会主義への過渡期としての意味を持つ「組織資本主義」を主張した。1924年から国会議員。また1923年と1928年の二度にわたって成立した社民党内閣で大蔵大臣をつとめた。
1933年3月アドルフ・ヒトラー内閣が成立すると、ナチス党から逃れるためフランス・パリへと亡命した。しかし1940年6月、フランス軍がドイツ軍に敗れてドイツ占領下におちたため、逃げ場を失い、マルセイユでナチス・ドイツ衛星国フランスヴィシー政府の警察によって逮捕され、ドイツの国家秘密警察(ゲシュタポ)に引き渡された。社会主義者にしてユダヤ人であった彼が助かるはずもなく、1941年2月にはフランスの刑務所で死体となって発見される。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ヒルファディング著、岡崎次郎訳『金融資本論』全二冊 岩波文庫、1982年。上:ISBN 4-00-341391-1・下:ISBN 4-00-341392-X