エルンスト・テールマン

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エルンスト・テールマン
Ernst Thälmann
Bundesarchiv Bild 102-12940, Ernst Thälmann (scrap).jpg
1932年
生年月日 1886年4月16日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国ハンブルク
没年月日 1944年8月18日(満58歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国ブーヘンヴァルト
所属政党 ドイツ共産党

ドイツ国の旗 ドイツ国会議員
当選回数 6回
任期 1924年5月4日 - 1933年2月28日

任期 1925年10月 - 1933年2月28日
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エルンスト・テールマン: Ernst Thälmann1886年4月16日 - 1944年8月18日)は、ワイマール共和期ドイツ政治家ドイツ共産党 (KPD) の党首。テールマン率いるドイツ共産党は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)およびその党首アドルフ・ヒトラーと激しく対立し、選挙や街頭で争っていた。ナチス政権の誕生後にゲシュタポによって逮捕され、後にブーヘンヴァルト強制収容所へ送られて同地で殺害された。

経歴[編集]

ワイマール市に立つテールマン像

ドイツ帝国自由都市ハンブルクの雑貨商人ヨハネス・テールマン (Johannes Thälmann) の息子として生まれる。1900年にハンブルクの小学校を卒業したあと、父の家業を手伝うようになる。1904年からは貨物船の火夫として働いたが、彼はドイツ社会民主党に所属していて当時から労働運動に熱心であったため、1913年にこの仕事を解雇された。1915年1月には第一次世界大戦によりドイツ帝国陸軍に徴兵された。1917年末にドイツ社会民主党から左翼が分離したドイツ独立社会民主党に参加している。ドイツ革命の際には西部戦線にあった。この頃、靴屋の娘のローザ・コッホドイツ語版と出合い結婚、1919年には一人娘イルマドイツ語版が生まれている。

ドイツの敗戦後、ドイツ独立社会民主党はソ連コミンテルンに参加するか否かでさらに党が分裂した。コミンテルン参加派は1920年12月にドイツ共産党 (KPD) に参加し、テールマンもこの流れに属した。合同党大会においてテールマンはすぐに党中央委員に選出されている。またハンブルク地区の委員長となった。1921年夏にはモスクワの第三回コミンテルン会議にドイツ共産党の代表で出席している。ウラジーミル・レーニンと会見を持った。共産党党首ハインリヒ・ブランドラードイツ語版により党中央に配属された。1922年6月には右翼から手りゅう弾を投げつけられたが、生き残っている。1923年10月にはハンブルクで起きた労働者の一揆の組織化を支援した。しかし一揆は失敗し、テールマンはしばらく地下に潜った。レーニン死去の知らせを聞くと再度モスクワを訪れ、ソ連共産党よりレーニンの棺を護衛する任務を与えられた。

東ドイツ政府が建てた、ベルリンプレンツラウアー・ベルクにあるテールマン記念碑

テールマンは共産党内で左派に属し、過激な武力革命を推進した。1924年2月19日のハレでの第4回中央委員会においてテールマンは右派のブランドラー党中央執行部を激しく攻撃。中央委員会は全会一致で指導部の入れ替えを行うことを決議し、左派が党を牛耳った。テールマンは議長代理に就任した。5月には第二回国会議員選挙に出馬して国会(ライヒスターク)議員にも当選。また同年の夏にモスクワで行われた第5回コミンテルン大会ではコミンテルンの執行委員に選出されている。1925年2月にはドイツ共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟 」の議長となった。さらに同年10月にドイツ共産党議長(党首)に就任し、同年末ドイツ大統領選挙に出馬した。第一次世界大戦の総指揮を執った旧帝政軍人で保守主義者のパウル・フォン・ヒンデンブルク社民党カトリックなどリベラル勢力の支持を受けた中央党ヴィルヘルム・マルクスの両名と争ったが、選挙は事実上ヒンデンブルクとマルクスの一騎打ちとなり、僅差でヒンデンブルクが勝利している。テールマンは6.97%の得票率しか得られず問題外の泡沫候補に終わった。

しかしその後、世界大恐慌などによりドイツが社会的・経済的混乱にさらされると極端な右翼と左翼が国民の支持を集めるようになり、極右のナチス党と極左の共産党が大きく躍進することとなった。1930年の国会選挙ではナチスは18.3%の得票を得て一気に第二党となり、共産も13.1%の得票を得て社民とナチスに次ぐ第三党の地位を確立した。ナチス党の戦闘部隊「突撃隊 (SA)」と共産党の戦闘部隊「赤色戦線戦士同盟 (RFB)」の殴り合いがあちこちの都市の街頭で発生するようになり、何百人もの死傷者が発生するようになった。しかしこのような乱闘騒ぎが増えたことも両党の党員数が急増したことを物語っている(一方この時期には労働争議など一定の分野でナチスと共産党に共闘関係が見られることも興味深い。しかしナチス・共産両党は社民党とは絶対に共闘関係を取ろうとしなかった)。

しかしテールマン率いる共産党は財界や保守主義者など富裕層と明確に敵対したうえ、社民党など穏健左派勢力とも敵対していた。共産党は社民党を「社会ファシズム」(これはコミンテルンの方針であった)と呼び、社民党は共産党を「浮浪者によって結成された軍国主義団体」と呼んでお互いに誹謗し合っていた。共産党は完全に孤立した状態となり、まとまった額の資金提供をしてくれるのはソ連共産党ぐらいになっていた。一方ナチス党の方は財界をはじめ保守主義者と協力する余地が十分にあり、上流階級出身のヘルマン・ゲーリングなどの働きにより財界から多額の経済支援を取り付けることに成功した。この差が最初に物を言ったのは1932年2月の大統領選挙であった。

ヴェルダウドイツ語版に立つエルンスト・テールマンの記念碑
東ドイツが発行したテールマンの切手

この選挙では再選を目指すヒンデンブルクのほか、ナチス党のヒトラー、共産党のテールマン、鉄兜団テオドール・ディスターベルクなどが出馬した。共産党は「ヒンデンブルクへの投票はヒトラーへの投票と同じ。ヒトラーへの投票は戦争への投票と同じ。」をスローガンに掲げて選挙活動をおこなったが、テールマンの得票は13.24%と振るわなかった。一方のヒトラーは財界の支援で購入した飛行機を使った遊説などで国民に鮮烈にイメージを残し、また保守主義者の代表格ヒンデンブルクに対しても露骨な批判は避け、「ヒンデンブルクには敬意を。ヒトラーには票を。」をスローガンにして選挙戦を戦った。結果、ナチス党は共産党と大きく差をつける30.12%の得票を獲得し、現役大統領であるヒンデンブルクの得票も49.54%に抑えた。大統領になるには過半数の投票が必要であったのでヒンデンブルク、ヒトラー、テールマンの上位三名による決選投票が行われたが、この選挙でヒトラーはさらに36.77%に得票を伸ばしている。一方の共産党のテールマンは10.16%と一次選挙よりも得票を減らしている。この決選投票自体は53.05%の得票率を得たヒンデンブルクの勝利に終わったが、この選挙結果はナチス党が共産党に大きく差をつけ始めていたことを如実に物語っていた。

さらに同年7月に行われた国会選挙でも共産党が14.5%の得票率にとどまったのに対してナチスは37.4%の得票率で他党を圧倒し、社民党をも抜いて国会第1党となっている(共産党はナチスと社民党に次ぐ第三党)。続く11月の国会選挙では共産党の得票率は16.9%に上昇し、ナチスは得票率を33.1%に落とし、多少は差が縮まったものの、依然としてナチスが第1党の地位を保持し、共産党は社民党に次ぐ第三党に留まった。

1933年1月、二度の国会選挙の結果によりヒンデンブルク大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に任命することとなった。危機意識をもった共産党は社民党に反ナチス共闘を持ちかけるようになった。しかし社民党と共産党は先に述べた経緯で敵対関係にあったため、共闘は拒否された。そして2月にはドイツ国会議事堂放火事件が発生し、ナチス政権はオランダ共産党ドイツ語版員のマリヌス・ファン・デア・ルッベが逮捕されたことを理由に「ドイツ共産党が放火の黒幕」と断定し、共産党を非合法政党とした。共産党の議席は再選挙を行わずそのまま議席ごと抹消され、ナチス党は国会の単独過半数を獲得した。プロイセン州内相となっていたヘルマン・ゲーリングはプロイセン州警察に自らが新設したばかりの政治警察ゲシュタポに共産党員たちの逮捕を急がせた。テールマンも3月3日にゲシュタポにより逮捕された。テールマンには二人の国選弁護士がつけられたが、その二人の弁護士はいずれもナチス党員だった。それでもテールマンは法廷の場でヒトラーを告発しようとしたが、別の共産党員ゲオルギ・ディミトロフに反論を許して有罪にすることに失敗したばかりのナチス政権は、彼に反論の機会を与えぬため、一向に裁判を始めようとはせず、テールマンを11年にもわたって独房で未決拘留し続けた。その間にも尋問と拷問だけは行われ、尻や顔や背中に鞭で打たれた。歯も4本折られた[1]

1944年8月にはブーヘンヴァルト強制収容所へ移送の上、親衛隊 (SS) 隊員により銃殺された。ナチスは元社民党のルドルフ・ブライトシャイトドイツ語版と共に連合軍のブーヘンヴァルト空爆により死亡したと虚偽の発表をした。なお妻ローザと娘イルマは、テールマン殺害に先立ち逮捕され、ラーフェンスブリュック強制収容所及びその付属収容所に送られたが、二人とも生きて終戦を迎えることができた。

戦後、ドイツ共産党の後身ドイツ社会主義統一党が支配する社会主義国東ドイツが成立するとナチスの犠牲となった「共産主義の闘士」[2]であるテールマンは顕彰されるようになり、東ドイツ政府によりブーヘンヴァルトの火葬場の壁に記念額が設置された[3]。またピオネールの名称もエルンスト・テールマン・ピオネールドイツ語版(Pionierorganisation Ernst Thälmann)と命名されたほか、国家人民軍陸軍エルンスト・テールマン陸軍士官学校ドイツ語版ドイツ人民警察のエルンスト・テールマン警察学校(VP-Schule "Ernst Thälmann")、人民公社エルンスト・テールマン車両及び猟銃工場(VEB Fahrzeug- und Jagdwaffenwerk „Ernst Thälmann“)など様々な施設の名称に彼の名が冠されていた。

参考文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』94ページ
  2. ^ 伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』社会評論社、2009年 P146
  3. ^ Ernst ThälmannFind a Grave、2014年4月26日閲覧